教室の掛け時計の針は夕刻を指していた。先生と生徒が談笑している声が廊下に響く。ゆっくりと意識が戻っていく。徐々に声が遠ざかっていくと、あとはぼんやりと聞いていた。長く居すぎてしまったな、と思いながら、教室をぐるりと見渡す。
今日は日直だった。日誌を書くほかに、授業が終る毎と、終礼後に黒板を綺麗にするのも日直当番に与えられた仕事だった。黒板消しで地道でなん往復もして整えていく結構根気のいる作業だ。時間をかけていちばんつるつるにさせた黒板を眺めて満足し、ひと息ついて席に着く。教室を出る前にゆっくりしようかと本を読んでいるうちに、いつの間にか、窓の向こうは茜色に染まっていた。
放課後の誰もいない教室は好きだ。静寂さ独り占めできる感覚になれる。
厳かとまでいかずとも、いまもまだ冷えた空気が足元で漂っている。おかげで覚束ない頭のなかがようやく冴えわたり、思わず身震いした。音楽室なら柳生くんがくれたブランケットがあるのにな。もらった日からはずっと音楽室に置いてある。あの部屋を使ってもいいお許しをもらってから、こんなにも日が経っている。
椅子から腰を上げる。本を閉じようとしたとき、ページの隙間から一枚の紙が落ちた。
青を基調とし、紫や黄いろの花がアクセントに散りばめられた、押し花のしおり。中庭で彼がくれたもの。
指さきで花のうえをゆっくりなぞる。
波の砕ける音。沈んだ紺碧の空。湿った砂の匂い。
あの日から記憶がすこしも褪せていない。この先も、一生涯、そうあってほしいと思う。
*
はりつめた夜。
波がさざめくのを耳の奥でききながら、ガードレール沿いの道を並んで歩いていく。
今夜はあらかじめ彼に会う約束をしていた。
音楽室で彼と過ごす昼休み。教室を出る寸前のことだった。
「また、幸村くんと海に行きたいな」
私から誘うことはほとんどなかった。受け身な性格が顔を覗かせて、忙しそうだからとか、それらしい理由をつけては言わずじまいをいくらか繰り返していた。
それでもこのときだけは、ほんの少し背伸びができた。自分の欲を露わにして任せる気負いがあった。あの夜の海の記憶を、濃く、鮮明に思い出したからかもしれない。懐かしんでいたかったのかもしれない。失ったものを、惨めにでも取り戻そうと誓ったあの日。
「いいよ。今日にでも行こう」
慎重に言ったつもりだったけれど、彼はなんてことなしに即座に反応した。すぐに行わなければいけないといわんばかりの頷きようだったので、思わずたじろいだ。
「無理に今日じゃなくても大丈夫だよ」
私のようすを見て、彼がおかしげに笑う。
「いきなり弱気だね」
決して挑戦的に言ったつもりもなかったのに。
「いつか君から誘ってくれないかなって思ってたんだよ」
「たいした用事じゃないから、わざわざ時間をとるのも…」
いまさらだと思う。けれど、あの日を境に彼を意識してしまうと、同じ行動ひとつをとるにしてもなにかとためらってしまうのだ。
「うれしいんだよ」たまらなくなって俯いていると、上から彼の声が聞こえてくる。「待つのだって辛抱強くないといけないから、ご褒美くらいはすぐにもらっておかないと」
恐る恐る見上げると、いかにもご機嫌なようすの彼がいた。なにかあった?と言いたげに、熱くなった目の下をなめらかでひんやりとした彼の手が撫でた。
「···やっぱり今日は······」
「行かないは、無しだよ」
ぴしゃりと、そして涼やかな声だったので、降参した気持ちできゅっと口を結んだ。結局はこうして彼に主導権を握られるのだ。
「素直なところが君の良さだよ」
「私のは、隠すべきところを隠せていないだけ」
「それがいいのに」
欲張りなのは、私の悪い癖だ。
「終わったら迎えに行くから、ここで待ってて」
ふたり以外誰もいない廊下と、ピアノ以外空っぽな音楽室との境界は曖昧だ。どちらも暗く、しんとしていて、つめたい。
待つのだって、辛抱強くないといけない。
彼の声が、頭のなかにぐわんとうなって再生される。
長い道のりを歩くひとと、その先に待つひととでは、まずどちらのほうが耐えきれなくなるのだろう。どちらかが投げやりになったり、諦めてしまったらお終いだ。ひとのもつ意志にしか委ねることしかできない脆い道程を、私は歩いている。
潮の香りはうすく、波もゆるやかだ。闇の色深さもあのときに比べれば多少は淡くなったが、いまだ引き締まった空気のせいでおぞましさを保っている。自転車がスピードを緩めずに走っていく。ガードレール越しに車のヘッドライトがちかちかと通り過ぎる。
しずかとはいえないが、おだやかな夜だった。
「近くまで行かなくていいのかい」
「夜の海も好きだけど、ちょっとだけ怖くて」
ここを訪れると不思議と包みこまれる感覚になれる。けれどそれも日が明るいうちの話で、夜になると、呑みこまれるような感覚に近かった。黒々とした水面は際限がない。引き摺られてしまいそうで、恐ろしかった。いっそ溺れてしまおうかと思えそうなくらい不思議な魔力がある。
ふたりして錆びかけのガードレールへ腰掛け、暗い向こう側を眺めていた。
放課後は、ほとんど日が傾いた頃合いに彼はふたたびやって来た。
『おかえりなさい』
このときいつも、あいたかったをいっぱいに篭める。
このときだけにしか、いい表せられない。
『ただいま』
彼は安堵していた。とても。
『遅くなったね、待たせてごめんよ』
そんな顔をしなくても私はずっとここにいるのに、と思いながら、遠い記憶をたぐりよせる。
―――――ずっと待ってる
私の世界が音を取り戻すまで、彼は待っていてくれる。思い出せばいつだって泣きそうになるくらい、かけがえのない記憶だ。
はやく辿り着きたいとしつこく思っている。先延ばしにするつもりは微塵もない。本来ならば、いつ叶うかもしれない、目処の立たないことに付き合わせてならないのも嫌というほど理解している。
しかし、時おり想像してしまう。
仮に、もし仮に。いつかきこえるようになって、真っ暗な道から抜け出せたとき、こんな堂々巡りが終わったとき、彼はもう待たなくともよいのだ。
役目を終えたら彼ははなれていく。
彼が私と一緒にいなければいけない理由が消える。
どちらに感情を傾けていいかわからなくなる。
彼のそばから離れなければいけないことと、彼のそばにいたいと願うこと。
曖昧なまま、おかえりなさいに篭めることしかできない。
『ううん、平気』
果てのない道を進めるはずがない。彼にいつか見限られたらと思うだけでおそろしかった。しかし、私が目的を果たせたとしても結果は同じなのかもしれない。
もうひとりで大丈夫。そうやって、手をはなされてしまうのと同じように。
『幸村くんのこと、ずっと待ってられるよ』
『君にしては自信たっぷりだね』
『ほんとうのことだから』
『会いたいと思ってたよ、俺も』
なんてひどいどっちつかずなんだろう。
きこえても、結果きこえなかったとしても、お別れが待っている。どちらの結末になろうと準備はできている。うんざりするほど待ってくれたのだから、それ以上はもういいんだよ。そう彼に告げる準備。
『君がここにいると思うとほっとするんだ』
ずっとここにいるよ。
言えるものなら言いたかった。ほんとうははやく出ていかなくてはいけないのに。
大切なものほど閉じこめておきたいから、彼に想いを告げなくてもいいと思っていた。けれどそれも結局、虚しさを取り繕うための建前でしかない。遅かれはやかれ終りが決まっているなら、彼に伝える意味もほとんどないのだと、あきらめているだけ。
『行こうか』
彼の掌は乾いていた。気配のそばから冬の残り香がする。
届かない。届けられない。
せつなくなって、目を閉じた。
濃い闇色の空には雲がひとつもなかった。澄んだ空気が鼻先を掠める。
「きらきら星みたい」
首を上げてひと言呟くと、隣の彼は口にはしないけれど、そうだね、とこたえるようにそっと微笑んでいた。私と同じように彼も上を見やっていた。
『俺にも教えてほしいな』
なんと言われたのか、はじめはわからなかった。固まっていると、幸村くんが心配そうに『だめかな?』と首を傾げながら伺ってくるので、慌てて首を左右に振った。彼のこの仕草にはとても弱い。
ピアノを弾いてみたいと、突然彼が言ったのだ。多分単なる興味本位なのだろうけど、快く引き受けたかといわれるとそうもいかなかった。
まず、鍵盤の前に置かれた椅子が決して広くないこと。彼が座る隣で、私は立つつもりでいたのに、『もっと近くがいい』などとまんまと彼に手をとられ、やんわりとしかし半ば強引にひとつの椅子を共有することになった。前にも思ったけれど、近すぎる。彼の体温まで感じられそうな距離に胸がそわそわする。
あとは、彼に教えを請われたことそのもの。なんでもできてしまうスーパーマンに一般市民が伝授できる技はあるのだろうか。つまりそういう気分になっていた。彼に教えるというだけで、上からの物言いになっていないか、どこまで口を挟めばいいのかなどと気後れが走り、口先が強ばってしまう。
そんな上手とはいえない教えかたでも、幸村くんは至って素直に飲み込んでくれた。『なかなか難しいね』顎に指を当てて思案する彼をみると、なんでもできてしまいそうなひとのなんともない一部を覗けたようで、ほっと肩の荷が下りた。
『幸村くん、上手だね。覚えるのもはやいから、すぐに完奏できるかも』
『君からしたらあたりまえなんだろうけど、両手で弾けるようになるなんていまからは想像できないな』
彼は謙遜していたが、実際大袈裟ではなく、比較的はやく弾きこなしているほうで、やはり彼は器用なのだと思う。
難しそうにしている彼を見て、ふと、幼い頃に手にとった楽譜に添えられた小話を思い出した。
『好きなひとがいなくても、ひとは生きていけるの?』
私の台詞に彼がきょとんとした。
実はね、と前置きをする。
『ほんとうはね、恋の歌だったんだよ』
当初はお母さんに燃えるような恋愛のゆく末を相談する娘の心情を表した、とある詩から起草されて歌詞がつけられていた。そこからモーツァルトがアレンジを加え変奏曲となり、原詩『星』をもとに現在の子ども向けの歌詞へと変化した曲なのだ。
『どんなひとが作ったのかとか、どんなふうに曲が出来上がったのか知ると、もっととっかかりやすくなるよ』
『へぇ…そうだったんだ。たしかにおもしろいね』
『でも私はお星さまの歌詞のほうが好き』
『どうして?』
『もともとがね、星は迷うことがないように旅人を照らしてくれるっていう、とてもいい詩なの。あとは、愛の詩のほうはちょっと難しかったから···』
あの詩を読んでも、あの娘のお母さんがリアリストなら「なにを言っているの」と言いそうだなぁと、安易な感想しか思い浮かばなかった。
苦笑いをすると、彼はそうだねと頷く。
『好きなひとがいなくても、きっと生きてはいけるんだろうね』
ゆったりと、納得させるような口ぶりだ。私に対して言っているようには思えなかった。
喉の奥がぐっと詰まった。
『でもきっと、好きなひとがいるだけでしあわせだよ。
その分かなしいこととか、うまくいかないこともいっぱいあるかもしれないけど、そんなひとができたら、ずっと…大切にしていきたいな』
ずっと。
こころのなかで、もう一度言った。
話すにつれて、自分の声がほんの少しずつ萎れていくのを聞きながら、考えていた。
たとえばお星さまのようなものでも、彼にそういう存在は不要なのかもしれない。彼は迷ったとしてもすぐに歩む先を見い出せるひとだ。真っ直ぐ、しっかり地面に足をつけて、私とはまるで。
このひとにとってはいらないことも、このひとが隣にいるのにまるで嘘かのように、他人事まがいに自分の感情を話していることも、どちらにも胸がくるしくなった。
なごやかなまなざしを合図に、同意した。
『君が言うとおり、生きてはいけても、きっとそんなひとがいたら毎日見る景色はうんと違う』
でも、と続ける。
『そんなふうにしあわせをくれるひとを、しあわせにしてあげられる方法が、俺にはわからない』
ゆるやかで意志的な声。目下の鍵盤に焦点のあった瞳は、ずっと遠くを捉えている。
どうしてそんなことを、と声を大にして反抗したくなった。まったく根拠がないとひとり勝手に議論をけしかけようとも思った。いまだってこんなにもあり余るほどの幸福をもらっているのに、と。
けれど『俺は器用じゃないから』いっとうやさしく微笑む彼に、一気に気力を削がれた。いまのこのひとになにを言おうとも、それは変わらない事実だと返すに違いないと思った。それほどに揺らぎがないのだ。
おされた私は結局
『そんなことないよ。だれでもどんなひとでも、幸村くんはしあわせにしてあげられるよ』
なるべく笑うよう努めた。うまく笑えていたかは、わからない。
彼の説くところの満足のいく方法を知りたいと思うのに、訊く勇気がなかった。
『つぎは一緒に合わせてみよう?』
『多分、途中でつまづくかもしれないけど』
『幸村くんの思うままに。それがいちばん』
見慣れすぎた鍵盤なのにその上を彼の指が歩いているだけで、まるで違う場所のように感じた。歩幅は狭く限られて歩きかただって拙いものだったけれど、綺麗な歩きかたをしていた。
彼の音に私の音が交わる。のんびりしながら、ちょっとだけちぐはぐに。
『楽しいね』
『俺も』
いつものように笑う彼を見て、とても安心した。
「幸村くんのきらきら星、とっても素敵だった」
満点の星空ではない。ちいさい光の粒がぽつぽつとまばらに広がっている程度だった。目を凝らせばちかちかと煌めいている様がよくわかる。海の近くまで来たのに、地平線ではなく上を見るという行為をしたのは久しぶりだった。
「もう少しましなものにまで出来上がればいいのだけど」
「幸村くん、上手だったよ。きっともっと弾けると思う」
「ああいう感覚は久しぶりだったよ。引っ張られる、っていうのかな」
「引っ張られる」そのままに繰り返す。
「新鮮だった」なつかしむような声色。
確かにあの時間は同じ空間で同じことをしていたのに、私のほうが目線を合わせて屈んでいるような感覚に近かった。そして引っ張る。そう、彼をリードしているようだった。あの瞬間、等しくふたり並んで立って、通い合わせられたような気がした。
「あのときもね、幸村くんの手が好きだなってまた思ってたの」
手袋を脱ぎ、彼の両手を握る。なにも覆われていない裸の手はすこぶるつめたい。
手の甲はさらりとして、掌は少しかさついてる。美しいパーツだけど、外界のなににも触れていないといった感じはしない。生きていて、動いている箇所だと改めて思う。
「君のほうが冷えてしまうよ」
「半分こしたら、ふたりともあったかくなるよ」
体温が奪われるよりも、彼の肌に直に触れないことのほうが、私にとってはいちだいじだった。
彼はそれなら、と困り気味に笑い「じゃあ俺も」彼の口元にまで私の手ごと引き寄せられる。驚く間もなく、はぁ、と長い息を吐きかけられ、白さの混じったぬくもりがじんわりと指先から伝わった。身体の中心が忙しく鳴って、熱くなる。
「大丈夫だよ」そんなにしなくても、と必死に遠慮する。
「半分こを勧めたのは君なのに?」
くすくすしながら、揉みこむような手つきで、彼が両手で丁寧にぎゅうっと私の手を握る。気恥ずかしくなり、視線を逸らした。
「君がそんなふうになるところ、いつ見ても飽きないよ」
「···ずるい」
「好意的に受けとってほしいな」
「私が幸村くんにさわりたかっただけなのに」
言ったあとで、ぎょっとした。彼も目をぱちりとさせていたが、すぐにどこか納得したような、愉快そうな面持ちに変わった。このさきの人生で一生うまい誘い文句は言えなさそう。「君はときどき大胆になるからびっくりするよ」適当な接続詞も言葉に出来ず、もごもごすると、彼が軽快に笑う。どうにかして「幸村くんの手が好きって言いたかったんだよ」
たいした効果のなさそうな、機転のきかない言い訳をすれば「どっちも変わらないだろ」やっぱり効果はない。おかげで彼は上機嫌だ。
「べらべら話しちゃうから、だめだよね」
「俺は好きだけどな。あまり自覚なく言ってしまうところとか、言ったあとで気づいて、恥ずかしがっているところとか」
解答用紙につらつら書くかのように言ってのけるので、とても困る。
「も、もういいよ」
「強いていうなら、ほかのみんなが勘違いしないか心配だけどね」
彼のいう懸念点をよくわからずにいると「でも、そのままでいいよ」と言う程度に留めるだけだった。察してくれても、汲みとってはくれないみたい。
「幸村くんも正直すぎるよ」
そう言えば、彼が少し下の、繋ぎあっている手のほうへ視線を逸らした。
同じ目をしていた。鍵盤を見つめたときの、私の知らない遠くを見ている、あのときの目。
彼の唇が微かに動く。
なにかがくる予感がして、咄嗟に身構えた。
「そんなことはないよ」
彼がそう言い、力が抜けた。
なのに、ほっとできない。
「ありのままでいるのは、難しい」
さびしさを帯びた声。そんな声でひどく美しく微笑っていたから、無性に胸がせつなくなった。
「もっと言うべきことが、いっぱいあるんだろうね」
彼の云う正直なこと。
幸村くんの手が好きだと思ったような、そういうことよりももっと大切なこと。
彼が繕いたいと思うものは、いったいなんなのだろう。
いいや、あるんだ。
しずかで、はっきりときこえた彼の声に、歯がゆさを感じた。
見上げた彼の後ろで星がひとつだけ見えた、ちいさい灯り。けれどどれよりも煌めいている。ここにいるよ、といっているみたいに。
「ぜんぶ言葉にしなくても伝わることもいっぱいあるよ。全部がぜんぶありのままでいなくても、幸村くんが納得する行動で相手に伝えられることもきっとあるだろうから」
繋いでいる手に力がこもった。彼もこたえるように、握り返した。
「そうだね」
もう一度、彼が言ったような気がした。
そんなことはないよ、と。
*
日はあと僅かで完全に落ちるところだった。どこまでも静寂な教室のなか。
窓を見やり、ここを出たあとの闇空を想像した。
光がなければ、行くあてがわからなくなるから。
見上げて、ちいさな煌めきを辿り、歩いてゆく。
太陽の沈んだ真っ暗な道でも、それさえあれば標になる。
「私はしあわせだよ」
しおりにそうっと唇によせる。
瞳を閉じ、祈りを閉じ篭める。
かなしい日が訪れようとも、この想いが続きますように。届かなくても、想うだけならせめて。
お別れのあとも、どこまでもずっと。
*
三年の先輩とのほぼ最後であろう打ち合わせが終わった。
ここ最近は尚早だとは分かっていても、並べられた優勝杯を目に入れると、ほんの少し、気が張りつめる。
今年度のものは部室にあるけど、過去の部誌も読んでみたかった。すぐに見つけられないようすを蓮二が察してくれて、メインの校舎の資料室に保管されていると教えてくれた。
自分の靴が廊下と擦れる音に、渡り廊下から遠く、生徒らの声が紛れる。かと思えばしんとなって、また誰かの声が聞こえる。静寂と微々たる喧騒との間をいったり来たりしている。
沈みかけの長い廊下の向こう。教室から漏れている灯りのせいで、とある一体だけが明るく照らされていた。ゆっくりと、暗闇に紛れ、煌々と冷たく光るあの音楽室が頭のなかに蘇った。あそこに至るまでの道のりととても似ている光景だと、ぼんやりと思う。
後方の扉が開いたままの教室を覗くと、彼女がいた。
蛍光灯に照らされた部屋、ひんやりとした空気、濃紺の窓を背景に、彼女が立っている。
見慣れた教室でも生徒がいないだけでやけに広い空間のように見える。そんな場所でひっそりとひとり佇んでいるからか、鮮明な存在感を放っている。少なくとも、あの音楽室にひとりでいる彼女ではなかった。あそこにいる彼女は遠いまま。いまよりもよほど、遠くて、淡い。
遠目ではあったが、彼女の手元に青い花が僅かに見えた。きっとあれは中庭であげたしおりだ。
ついこの間彼女がある本をおすすめしてくれた折、読みかけのページにあれが挟まれているのが見えた。文庫本にはスピンがあったけど、加えて、ちゃんと目印として添えられているようだった。
『ありがとう、使ってくれて』と言えば、
『お気に入りなの』とても綻んでいた。
たった一枚の端切れをだいじそうに持ちながら。
彼女の周りは常に夢に囲まれている。
一緒に花を見ることや、みんなで寄り道したり写真を撮ること、CDや漫画を交換することも、他にもたくさん溢れている。俺と海に行くときは、しあわせだとも言っていた。
いつだって、あんなふうに笑っていてくれたらと思う。花が咲いたみたいに、はにかんで、かわいらしく。少なくとも、鍵盤の前に座るときとは違う笑顔で過ごしていてくれたらと。
刺すようにつめたかった夜の海。
あれからも彼女は音楽室に足を運んでいる。
彼女とふたりで過ごす時間は定期的に訪れるが、特段そのことに関する話題が出てくることはない。きっと、話すほどの変わりようがないからだろう。変わらないまま、彼女は音を取り戻せていない。
最近あの部屋へ立ち寄ったときも、音は沈んでいた。沈んで、しずかに微笑んでいるさまも変わらない。おおきく悲観してはいないようにみえる。音の消えることが彼女のなかで慣れているのか、受け容れているのか、もはや感覚が磨耗しているのかはわからない。
―――――だれでもどんなひとでも、幸村くんはしあわせにしてあげられるよ
彼女の純粋な言葉に、同意したかった。
あの日もいまも、彼女が救われる方法はあの部屋に存在すると思っている。思っているけど、確証はない。ほんとうにしあわせになれるのかは、誰にもわからない。
こんな曖昧なやり方で、あんな笑いかたをさせている自分が伝えられる想いなんてあるのだろうか。資格さえも。彼女を支えるという理由でほかの誰よりも彼女のそばにいられると思った、邪なこころで俺が彼女にできることなんてあるのだろうか。
届かない。届けてはいけない。
しあわせを願った行動が、正しいことの証明にはならない。
彼女の名前を呼ぶ声が教室にしぃんと響く。
「幸村くん」
驚いたようすで彼女が振り向いた。そうして、おかえりなさいと彼女が言う。やわらかく、安心しきった顔で微笑む。
ただいま、と、返す。
―――――そのはずだった。
息がとまった。
目が離せなかった。
奥のほうから生徒の話し声が聞こえ、こちらに近づいてくる。
彼女も外の気配に気づいて辺りを見渡す。
瞬間、きつく固く静止していた体が反射的に動いた。彼女から視認できないであろう支柱を頼って、立ち尽くしていた。
あれはいったい。どうして。
しばらくしたら、来た方向とは逆戻りに歩いていった。考えるのはいったんやめようと思いながら黙々と歩いていたが、こんなふうに考えている時点で、結局考えてしまっているようなものだなと、頭のなかは目まぐるしく回っていた。
階段を下り、ひとしきり歩いたところで足を止める。息をたんまり吸い込んでは吐いた。
自分の都合のいいように解釈しているだけ。そんなわけがないと、短い間隔でなん回も言い聞かせようとした。
それでも、頭のなかに焼きついて離れられない。
やさしく口づけをしていた、彼女の横顔が。
託すように、おもいを篭めるみたいに、瞳を閉じていた。
零れ落ちないよう、掬いあげるように、宝もののように持っていた。
「·········まずいな」
いまにも沸きそうな熱をどうにか抑えようと、手の甲を額に押しつけた。深いため息を吐く。
些細なことでもとびきり喜ぶ彼女のことだから、慎重に持っていただけ。ただ持っていただけなのに、自分の立つ角度からだと偶然そんなふうにみえてしまっただけ。けれど、もしかしたら。そんなふうに思い直す自分に呆れた。
妄想だと笑われるかもしれない。決して叶わないだろうけど、できることなら訊ねたかった。
あの瞬間、なにをおもっていたのか。
瞳を閉じたさきには、誰がいたのか。
暗がりの廊下と、壁につたう冷気。風の音もしない静かな校舎。
鳴りやまない胸の音をきく。目をとじて思い出す。
かき消そうとしても幾度も現れる、綺麗だと思ってしまった、彼女の横顔。