あかいろ

あたたかな陽気と、ひんやりとした風に包まれながら新しい節目を迎える季節。

期待と不安が入り混じるこの感覚は毎年迎えることなのになかなか慣れない。
けれど、高揚感までもが込み上げてくるのは今年がはじめてかもしれない。

きっと大丈夫。
鞄の肩紐を強く握りしめながら、大勢が群がる掲示板の前へと潜り込む。羅列された文字の集合体に目を向け、あちこちに巡らせる。そうしてようやく、名前を見つけたなら、これ以上ないくらいに頬が緩んだ。

よかった、大丈夫だった。
このさき一年間はずっと_____









「世界終わったみたいな顔すんなって」

「だ、だって······!ゔぅ······っ!」

と、うまくはいかないのが世の常だ。


ずびずび泣いている私の横で丸井くんがさらりと言いのける。

「クラス替えくらいどうってことないだろぃ」

「どうってことあるよ。すっっごく重要だよ。だって運命が決る審判の日なんだよ!?」

ない。まるでない。いくら探そうともない。掲示板の前でどれくらい硬直していただろう。私の顔は青ざめていたに違いない。頭がくらくらして生きた心地がしなかったなりに、自分の席にはきちんと座れていたことはぜひ褒めてあげたい。どうやって教室へ辿り着いたのか記憶が定かじゃないけれど、とにかく困惑していた。私のクラス表だけ印字ミスなのでは、と抗議したくなったが、配られたプリントの出席番号もふりがな順に整列されていたあたり間違いではないみたいだ。
目の前には絶望の二文字。全私が泣いた。

「みんなと誰ひとり被らないなんて···!」

総勢七名も友達がいるのだから、ひとりくらい同じクラスになったっていいのに。
それくらいの運は授けてくれてもいいでしょう、と天のうえの誰かさんを非難したくなる。

「こんなのむごすぎます」
「でた、いきなり敬語になるやつ」
「苗字は極度の興奮状態になると敬語で話す傾向がある」
「一年間ずっとさみしさに耐えなきゃいけないなんて···!」
「まぁいっても七人とか、んな多くねぇし、確率的にスルーしちまうこともあるだろぃ?」
「で、でも! 柳君に聞いたら、誰かと一緒のクラスになれる確率はゼロではありませんでした!」
「確率は起こりうるあらゆる事象・予測を加味判断したうえで割り出されるものだが、まず前提として絶対的ではない」
「で、でもね、神社でちゃんとお願いもしましたし、お賽銭も出したし」
「積んだ金が少なかったんじゃあ、神様とやらも振り向かんぜよ」
「こら仁王君。わざわざ追い打ちをかけてはいけませんよ」
「···た、確かにちょっとだけだけど。それでもいつもよりは多めにしたんです!」
「祈願で結果が好転したというデータ自体、根拠に基づいて立証された実例が極端に少ない。それは計算外にしている」
「········!!·········っ!!」
「『そんなにも無慈悲なことがあるものですか』と、お前は言う」
「お、落ち着け苗字!」
「良ければもう一枚ハンカチをお貸ししますが···」
「うぅ···ありがとう。でも、使ったら柳生君のびしょ濡れになっちゃうから···」

タオル地ではない皺のない整えられた、所謂ちゃんとしたハンカチーフを差し出してくれたけれど丁重にお断りした。「泣きすぎだろぃ」と丸井くんに呆れられるくらい涙腺がゆるすぎる私に備えて用意してくれているのだ。彼曰く一枚だけでは足りなさそうに思えて気がかりらしい。
泣きじゃくる私を宥める桑原君、気遣う柳生君、呆れ気味な丸井くん、そして多分、面白がっている仁王君。いつものくだりでいつもの光景だ。

「······この先一年間どうしたら······」
「卒業というわけでもないしね。いつでも会おうと思えば会えるだろ」
某神の子は至ってにこやかだ。ああ、無常。
「も、もしかしたらあんまり話さなくなるかもだよ。そのうち年賀状だけのやり取りで終わっちゃうかもしれないよ···!?」
「妙にリアルですね」

ふと、背後からただならぬ気配を察知した。腕を組んでこちらを睨む強烈な視線に、思わずびくっと身震いした。鬼のような形相はどうかやめてほしいが、言われそうな台詞はだいたい予想がつく。

「いつまで泣いている!! たるんどるぞ!!」
「すすすすみません!」
「これしきのことで挫けるなど情けないにも程がある!!」
「分かってます、分かってますけど···!」

「俺達の友情がその程度で崩れるわけがなかろう!!!」
「······さなだぐん!! あなたというひとは······っ!!」

「真田、声が大きいよ」
「わたじ、みんなと友達でよかったでず···!」
「よく分からねぇが···一件落着なのか?」
「なんか知んねぇけど、記念に奢ってやるぜぃ。···ジャッカルが!」
「って俺かよ!!」

脆くなっていた感情が徐々に修復されていく。真田君が語ってくれた熱い友情に乾杯したい。ひとしきり泣いたのもあるからか多少はすっきりした。それでもやはり、落ち込むものは落ち込む。

「あまり深く考えないほうがいいよ」

「···うん」

「現にいまもこうして一緒に帰ってるわけだしね」

「······そっか。確かに言われてみるとそう、だね」

「これからも苗字さんが思うような心配はなにもないと思うよ」

「うん···そうだよね」

ほらね、と言いたげな幸村くんの言葉を飲み込むようにして頷く。諭すような彼の口調につられ、私もようやく笑うことができた。鼻水を啜りながら、しかも泣き腫らしたあとなので、彼の綺麗な微笑みと違ってとんでもない顔だけど。

「ついでに言うと、もしかしたらひとり増えそうだしね」

「増える?」

「面白いやつが入ってきたんだ」

もっとにぎやかになるかもしれない、と、彼は向こうを眺めていた。
木々のゆらめく音がさんざめく。桜の花びらが散るなかに映る彼の横顔は、遠いどこかへと期待を馳せているようだった。


*


よくわからないやつ。
第一印象がそれ。そんでもって、いまになっても変わらないまま。
仁王先輩みたいになに考えてるのかよくわからないって意味じゃない。なんでここにいるのかわからないっていう、そういう意味で。

名前と顔を合致させるのは苦手だ。覚えるのが遅いほうだっていう自覚はある。けど、放課後にはなぜか俺たちのなかに居座っているのに、部活中に顔を見た覚えが一切ないことにはわりとはやく気づけた。もしかしてサボりなのかと先輩に聞いてみたけど、あっけらかんと否定された。

「えっ? マネじゃないんすか?」
「ん」
「じゃあ···なんなんすか」
「なにって、苗字」

いや、下の名前はどうでもいいんだけど。
聞いた感じ、女テニというわけでもないらしい。なら、実は誰かの彼女だとかそっちなんじゃないかと問い詰めても、それもあっさり。ますますわからなくなってきた。

どうしてこんなやつがここにいるのだろう。
しかも、女子。

「やっぱり甘いもの食べてるときがいちばんしあわせだね」
「そう言って、苗字さんはどんなときでもいちばんをつけるね」
「そうかな···えへへ」

おだやかに微笑む神の子に、へらっと笑う並の女子。やや離れた位置から眺める。部活終わりにみんなで軽く寄り道なんてのはときどきあって、そんなときはなんでか知らないけどあいつもいる。不思議で、変だ。
うちのマネージャーでもああまで親しげに話しているやつはいない。なんなら先輩達を遠巻きにみているやつさえいるくらいなのに、あいつは人間離れしたあのひととごく普通に会話ができている。対ひとりの男子生徒として。
そう、あいつがいま話しているのは化け物めいた人物なのだ(他二名含む)。テニスを抜きにしても、普通のやつとはなんか違うって直感的に感じる人間。遠のけるのとは反対に、アイドルみたいに思って近づくやつもいるけど、あんなふうに等身大で関われるようなやつは滅多に見かけない。

____よ、よろしくお願いします。切原君

ぺこりとお辞儀する系のがちがちの自己紹介を受けて、思ったこと。
第一はわからないやつ。その次には、きょどる。おとなしい。おとなしいというか、ぱっと見地味寄り。

どうして教室の隅っこにいそうなやつが先輩達とあんなに親しげにできているのか。丸井先輩みたいなひと当たりの良さがあるなら理解できたと思う。でも、言ってはあれだけど、お世辞にもそうは見えない。先輩とあいつではスクールカースト的な立ち位置がまるで違うようにみえる。

もういちど見てみる。
にこにこ。ほんとにうれしそうにあいつはよく笑う。
会話を聞く限り、お喋りっていうほどのコミュ力はなさそうだ。先輩達が話したり騒いでる隣でくすくす笑っているだけの日もある。あとはたまにやたらとはしゃいで、なんにでもうれしそうにする。つまり普通で、なんてことないやつ。

「赤也、そっちの味もらってい?」

ぼうっとしていたときだった。丸井先輩の視線は俺が手に持つアイスに向けられていた。

「とか言って丸井先輩、めっちゃ食うつもりですよね?」
「ちょっとだけだって! 俺のもあげるからよ」
「ほんとすか?······って、ほんとにちょっとしかねぇし」

先輩の持つカップの中身は溶けかけ程度の量がかろうじて残っていた。仁王先輩にも気をつけろと注意された通り、丸井先輩のひと口ちょうだいは一般的なひと口サイズとは言えない。

「んなら苗字のも食ったらちょうどいいだろぃ」
「はい?」
「赤也がお裾分けするからって、苗字もあげてやれよぃ」
「え、私?」

彼女が振り返って、視線が交わる。彼女は戸惑いつつも、こちらへ近寄ってきた。
「切原君の···もらってもいい?」遠慮がちな声。
ここまで来ると「どうぞ」と、差し出す以外ない。お裾分けする云々は当事者同士で決めるものだと思うけど。
ひとつスプーンですくって、口へと運ばれる。たっぷりのしあわせを詰め込んだみたいに、彼女の頬がゆるゆるになっていく。
ほかに思いつく印象といえば、スイーツ好き。帰宅部。ピアノを練習してるっぽい。というかこれはただのプロフィールか。

「あの」
恐る恐る、俺のようすを伺う。
「切原君も食べる?」

先輩達がどうしてこいつに絡んでやってるのか、わからない。

「俺はいいっすよ」

でも先輩達も、彼女がこの場にいることを仕方なしといった感じで受け入れているようにも見えない。輪のなかにいるのをあたりまえのものだって認識しているみたいだ。

「ごちそーさまでした」
ひとり呟いて、ごみ箱へぽんと放り投げる。

「今日もサンキューな! ジャッカル」
「月初めだからってそうなん回もできねぇぞ」
「今度俺にもなんか奢ってくださいよ、ジャッカル先輩!」
「これ以上は俺の家計が···!」
「んじゃ、ビッグ3のうちひとりにでもワンゲーム取れたらっていうのはどうすか?」
「赤也。貴様ほんとうに俺達に勝てると思っているのか?」
「舐められたものだね」
「じ、冗談っすよ!······多分」

視界の端で、やさしく微笑む彼女が映った。


*


「ねぇ、幸村先輩ってどんなひとがタイプなの?」

この手の類の質問やら絡みやらは絶えない。暇なのか? と言いたくなるし、言ったこともある。

「知るかよ」

そろそろ飽きてほしい。つうか、本人に聞け。
新入生歓迎会からそう経たないうちからこんなやり取りが続いている。他の一年に比べて先輩と関わる時間が増えたせいかますます酷くなった。

「そこを調べてって言ってんの!」
「なんで俺がしなきゃなんねぇんだよ」
「だって私たちマネージャーにすらなれなかったんだよ? 倍率高すぎて。知りようないじゃん」
「聞いたところでまともに返してくれなさそうだし···あ、あれだ。花とか絵が好きですとか言っとけばなんとかなるだろ」

そう返せば女子からの大ブーイングが殺到する。適当だ、もっと協力してくれとか、そういうあれ。俺ですら興味のない質問をわざわざする義理はないし、そういうのは後々面倒ごとになるに決まっている。実際、先輩に手紙を渡して欲しいと頼まれたから渡してみたこともあったけど、「なら私も」「これはどうか」「ついでに私も」ありとあらゆるしようもないお願いが次々と来てしまったのだ。
いろいろ知りたいなら直接テニ部のマネージャーに聞けよって言ってみたけど、グループ内のなんたらとかがあって教えてもらえないらしく、なにかとややこしいのだとか。女子ってめんどくせぇ。

やさしくて度がつくイケメン。きらきらした王子様みたい。テニスのときと普段とのギャップが凄い。女子が話すあのひとの印象はこんなところで、だいたい似たりよったりだ。

耳にする度、俺には随分遠い世界の話のように思う。

確かにお花畑が似合うような綺麗な顔立ちをしているし、立ち振る舞いのすべてがおだやかだ。間違ってはいない。けど、否定したくなる。
ギャップなんて言葉で表現できるほど、生やさしいものじゃない。コートで対面した途端、まるで違うなにかが目の前にいるのだから。
あれはあのひとの前でしか生まれ得ない。身体の端に至るまで逆流する。あの瞬間がいちばん、いきているって、実感できる。そうやって巡っていたかと思えば、なんの前触れもなく、凍りついたあとのようなしずけさが襲う。
全身の血が沸るほどの高揚感。どこまでも暗い闇に嵌るおそろしさ。慈悲もなければ、こちらの意思など欠片も掬われず、容赦なく奪われる。
あれを、何度でも味わえたら_____

「本人が無理なら、あの女子の先輩は?」

だからって、反論する気はない。
所詮大多数の奴らにとってのあのひとはアイドルみたいなものでしかない。そう思うなら勝手に外野で騒いでくれたらいい。
聞いてる? と、顔を覗き込まれていたのにようやく気づいた。

「どいつのことだよ」
「マネージャーじゃないんだよね?あの先輩」
ぴんときた。
「一緒にいるのよく見るし、丸井先輩ともいつもお昼一緒だから、どうやってお近づきになれたのかなって」

考えてはみる。けど、結局口から出たのは「知らねぇ」のひと言だけ。また文句を垂れ流されたけど、つっても知らないもんは知らない。なんてことないやつが、俺らのなかにいられる理由。

「なんで知らないの?」
「なんでって」
言い淀む。
的確な表現がみつけられない。自分のことなのに、自分がいちばん当てにならない。

「あんたも一緒にいるんじゃないの?放課後とか。喋ったりするでしょ」
「ほとんど話さねぇからな」
「ふーん。でもあれなのかな。あのひと、ぶりっ子みたいな感じとか?」

もういちど、ぴんときた。変に。

「そう、なのか?」
「わかんないけどね。噂でちょっと聞いただけ」

チャイムが鳴り、教室が騒がしくなる。じゃあまた、と言って女子は教室から出て行った。またはもういらないけど。

日直の号令がかかる。立ちあがって、席に着く。授業中、先生の声を遠くのほうで耳にしながら、頭のなかではさっきの会話をじんわり思い起こしていた。

思わなかったわけじゃない。
あいつもほんとのところは、ミーハー的な憧れを抱いて近づいているんじゃないか、って。
自分だって決してあのひと達のすべてを知っているとは思っていない。知る必要もないだろうし、知ったところでなんだって話だ。なのにそう思うわりには、表面的にしか、所謂色目でみているようなやつには飽き飽きしていた。きっと嫌悪感にも近い、さっきみたいなお願いごとのめんどくささの延長線上にある感情だ。
はじめて会ったときから、こころのどこかで勘ぐっていた。あいつだって、やさしく構ってもらえていることに甘えて、そのうちいま以上の関係に漬けこもうとしていたら。
邪な目的を持って俺のもとへ来る女子はいくらでもいる。現にうちの部のマネージャーのなかにも多分そうなんだろうと思うやつもいる。部活に入る動機は自由で、そんなことは分かったうえで、俺が勝手に毛嫌いしているだけの話。

上澄みだけをさらっているようなやつが身近にいても、なにもおかしくない。
清々しくはならないけど、多少なりとも落とし込めたような気がした。


*


部活終わり。
宿題出すの忘れてたって話を丸井先輩とかに話していたら、たまたま真田先輩に聞かれてすげぇ怒られた。プリント一枚くらいなら見るって柳先輩が言ってくれて、部室のなかで猛ダッシュで終わらせた。
職員室の扉を閉めて、ため息をひとつ。あの先生厳しいし、提出遅れたらどうせ内申点貰えなさそうと思ってスルーするつもりだったのにあえなく失敗した。勉学もちゃんとしねぇとたるんどるとかなんとかめっちゃ説教されたけど、あれは柳先輩が間に入ってくれなかったら永遠に続いていたと思う。

今日もどこか寄ろうという話になったけど、どこになるんだろう。あくびをしながら廊下を歩いていく。
曲がり角のすんでのところだった。

「あ、あのね。誰にも言わないでほしいんだけど」

ぎこちなくて、ようすを伺う喋りかた。俺と向き合っているときの、あの姿が瞬時に頭に浮かんだ。
本能的なものなのか意識的なものなのか、ぴたりと足が止まる。角の向こう側で沈黙が流れる。なかなか話がはじまらないのが気にかかったけど「その、」単にまごついているだけらしい。さっさと言えばいいのに。もどかしさと、ちょっとした苛立ちが募りはじめたときだった。

「切原君、私のこと好きじゃないと思うの」

心臓がひとつ、大きく跳ねた。
縫いつけられたみたいに、固まった。

「そんなことないだろ」ジャッカル先輩の声だ。「まだ知り合ったばかりで赤也も慣れてないだけだと思うけどな。お互いにノリとか性格を掴もうとしているからこそ、弾まないのもあるだろ?」

そうだね気のせいだね、なんて、親身な回答に対して気の利いた返事はないようだ。ふたたび沈黙が訪れる。
しずかなのが、こうも居心地悪く感じたことがあっただろうか。ほんの少しの間でさえも胸がざわつく。

「切原君のはどっちかというと···意識的に避けてるような気がするの」

「考えすぎかな」壁の向こうでへらりと笑う彼女を頭に浮かべた。
きっといつもみたいに笑っていない。ただの想像でしかないけど、きっと、もの寂しそうに。

「まぁ、まだ懐いてるようには見えないけどな···赤也の態度でそう思う部分があるってことか?」

ジャッカル先輩が理由を訊ねる。
懐くって、俺、犬じゃねぇんだけど。

「私、はじめのほうはいつも緊張しちゃってうまく話せないんだけどね。それだけならまだしも、慣れないひとだと余計に吃るから、切原君がちょっといらいらしてるような気がして······はっきり喋れない私が悪いんだけどね。それに、みんなと話してるときは楽しそうだけど、私といるときだと全然で、その、むしろ」

躊躇いを含んだ声がみるみるうちに萎んでいく。ぐっと唾を飲み込むような音が聴こえた気がした。
「私が遠慮しちゃうから、ますますそうなるんだよね」
途端、あからさまに明るくなった。


俺のせいだって、言えばいいのに。
そう無性に文句を言いたくなった。
こころの隅をつつかれる。胸のなかにじわじわ染みが滲んでいく感覚。
どうしてぜんぶ、あいつはあいつのことを主体にして話を進めているのだろう。自分のせいで俺が寄りつかないっていう、そういう言いっぷりだ。こっちは普通に振舞っているのに一方的に避けられているとか、なんだか知らないけど毛嫌いされているとか、理由なんかいくらでも付け足せるのに。
と、こんなふうに考えている俺も結局どうしたいのか。彼女を肯定したいのか、否定したいのか、俺自身を棚に上げたいだけなのか。

「赤也は壁をつくるほうでもねぇが···どう関わっていいのかわからないだけかもしれないな。案外、苗字のことは気にしているようにみえるぜ」

「そうだったらいいな」

「そうかな」ではなく、「そうだったらいいな」なのだ。
周りがしつこくそんなことはないと助言しようと、当人同士でしか感じ取れない空気感がある。
俺がそう思うように、あいつだってそう思っている。
俺が興味をそそられることなんか限られている。ゲームと、テニスと、テニスが強いやつ。それ以外はどうでもよくて、弱いやつなんかもっとどうでもいい。
彼女も例外じゃない。
そう思って、納得するつもりだった。それでよかったのに。

「なんにも気に留められないのと、嫌われるのと、どっちのほうがかなしくないのかな」

彼女は気づいている。
俺にとっての彼女は俺の意識の外でしか存在しないこと。けど、意識から完全に隔離しきれていないことも。

「ごめんね、いきなりこんな話」

「これくらいいつでも。でも···たいしたアドバイスはできなかったけどな」

「ううん。すっきりしたから、聞いてくれてありがとう。
いつかね、切原君になにか奢ってあげるとかやってみたくって···先輩らしいこと、してみたいというか」

「···なんというか、純粋なお前が羨ましいぜ······」

「その···さっきのこと丸井くんには言わないでね?」

「あぁ」

「ほんとのほんとにだよ?」

「ほんとだよ」

「切原君とは、仲よくなりたいなぁ」

別れの言葉を交わして、あいつは行った。
足が固まったまま、動けない。いまからどんな顔をしてこの先の角を曲がればいいのか。胸の奥にまで行き渡ったもやは簡単に取れなさそうで、鬱陶しい。

「コミュニケーションというのは難しいものですね」

心臓が飛び出そうだった。勢いよく振り返った真後ろには、眼鏡のフレームを上げる、例の先輩が立っていた。

「なんでここに、」

「どうしてもなにも、ちょうどその先で集合となっていましたからね」

「······いつからっすか」

「大方は把握できました」

安心感と居た堪れなさがない混ぜになる。なんと言えばいいのかわからないけど、少なくとも、落ち着き払ったようすでいてくれているのはいまの自分にはありがたい。

「なんか言わないんすか」

「なんと言って欲しいのですか?」

押し黙ることしかできない。口を噤む俺に「もう少し愛想は良くしたほうがいいですよ、などでしょうか?」先輩が続ける。台詞のわりには嫌味ったらしくも、かといって鋭い物言いでもない。
「そういうんじゃ、ないですけど」なら、俺はなんと言われたかったのだろう。砂を噛んだような雑味が広がる。

どちらが悪いというものではありませんが、と添えられる。丁重に、やさしく。

「みたままではわからないものは、きっとたくさんあります。それを放っておくのも、歩み寄るのも、切原君の自由ですから」

だから、どうしたらいいのか。もっと気分は晴れるものかと思っていたのに、案外そうでもない。肩を落とした。いっそのこと『こうしろ』と命令に近いアドバイスを貰ったほうが楽だったのかもしれない。

なにも言えずにいる俺の前で先輩はというと、やれやれと言いたげな面持ちで微笑んでいた。




それから、展開が進むわけでもなかった。
先輩達と交えて彼女と同じ場に滞在する時間はいくらかあったけど、これまでと同じだ。俺と彼女の隙間は空いたまま、なにごともなく会話は進む。

(なんか俺だけ気まずくね···?)

平常を装っているものの、内心はうだうだしていた。あんな本音を聞いたあとでいつも通りでいるのが難しい。らしくないと、自分でも思う。
そう。いつも通りでいいのになんで気にしてんだ俺? だんだん苛々してきた。こっちはこんなにいろいろ考えているのに、あっちはにこにこしたままなのもなんかむかつく。当てつけなのはわかってるけど、でもあいつはすっきりしたのに俺だけこんな悩んでるのってフェアじゃねぇし。
似通った愚痴を繰り返し頭に巡らせながら視線を向けると、ばっちり目が合った。そして、瞬時に逸らす。目が合うといつもこうだ。前まで意識しなかったことが無性に気になり始めるっていうのは、かなりめんどくさい。そんな当然のことをしみじみと実感する。
もういちど見てみる。やっぱりなにも変わらない。やわらかい雰囲気を纏って、照れくさそうにしている。

そんなあいつも、ほんとうはなにを思っているんだろう。
そう考えて、また逸らした。




まぁ強いていうなら、あれはいままでに比べれば多少ましな会話だったかもしれない。
廊下で偶然すれ違ったときだった。存在には気づいてたけど、素通りするつもりでいた。なのに、ちょこちょここっちに近づいてきたではないか。なんだと思えば「切原君」真正面に立ってくるのでぎょっとする。まるでとおせんぼみたいだ。
きつく手を握りながら唇をきゅっと締めるようすに、思わず身構える。なにがまはじまるのか。いや、そもそもどうして俺まで戦闘態勢をとっているんだか。
待ってみたものの「あ、あの」もごもごして一向に始まらない。ちらちら目もあっちこっち行ったり来たり。

「で、なんすか?」

自然とため息がこぼれる。

「あ···ごめんね」

トーンダウンし、しょげているのを見て、妙な気まずさを覚えた。あ、と無意識に声が出そうになる。
多分、こういうのがだめなんだよな。
「なんつーか、その···」と、言いかけたときだった。

「切原君、ゲーム、好きなんだよね?」

「え?」

ひと言挟もうと口を開きかけたのに、おかしな、いやおかしくもないけど、とにかく唐突な質問のせいで遮られる。どうしていまそんな話題を出したのか、流れが掴めない。

「まぁ、好きですけど」としか言いようがない。

「そうだよね···うん」

これでいいんだって、自分に言い聞かせているみたいだ。なにをそんなに慎重になってんのかよくわからない。ゲームが好きだっていうのは、きっと先輩達と俺との会話を耳に入れて知ったんだろう。彼女には話したことがない。

ふいに、俯いていた顔がぱっとこちらへ向き直される。微かに揺れていたけど、意思のある瞳だった。ほんの一瞬、胸が詰まった。

切原君。
俺の名前を呼ぶ。
彼女はいつもたったこれだけの単語を大切そうに発音する。はっきりきこえる。
そういえば、俺は一度も名前を呼んだためしがない。
どうして知らないのか。
理由は当たり前で、単純だ。
知らないわけじゃない。知ろうとしていないから。こんなふうに名前を呼ばれていることさえも、やっと気づくくらいには。

「やぁ」

背後から爽やかな声が降ってきた。振り向けば、案の定だ。


「幸村先輩」
「こんなところでどうしたんだい」
「えっとまぁ···次、移動なんで」
「レポートはちゃんと終わらせたのかい?この前、なにを書けばいいのかさっぱりだって言ってたけど」
「柳先輩に助けてもらったんでばっちりすよ!」
「赤也をみてるといまから次の中間考査が心配になるよ」
「気にしすぎですって」

予鈴が鳴る。あたりでは教室への出入りがやや騒がしくなり、各々が次の準備をし始めていた。
そろそろ俺も行こうかと思ってすぐ、はっと気づく。急いで彼女のほうへ向き直す。

「そういや、さっきのって」

そう言いかけたところで、彼女は明るく笑いながら手を横になん回も振った。

「ううん、なんでもない。引き止めてごめんね」

ひっかかった。けど、それ以上どう追求していいのかも分からない。
間を置いて、そうですか、とだけ相槌を打つ。先輩にも軽く挨拶をして、彼女の横を通り過ぎた。

いったい、なにを言いたかったんだろうか。
廊下を歩いている間、つっかえが残ったような感覚が胸から離れなかった。





「ゆ、幸村くん。さっきのはいくら幸村くんでもだめですっ。世の中タイミングというものが存在しまして···!」
「えぇっ、なにかいけなかったかな?」
「いやその、ほんとのところ幸村くんは悪くないんだけど、ただ私がうまくできなかった当てつけなのも分かってるんです···! でも···!」
「俺は苗字さんと話したかっただけなんだけどな」
「···へっ?」
「ごめんよ、もう少し分をまきわえて「だだだだ大歓迎だよ! 全然! 全然です! その、幸村くんがお好きなときに来てくれたら、すごくうれしいから、えっと···」
「ふふ、ならよかったよ」
「(そんな残念そうに言われちゃったら…!単純すぎるよ私···!)」


*


これといった進展がないまま日は流れていく。
俺から話しかけようかと思ったときもあったけど、どんな第一声からはじめていいのか、そんな初歩的な位置でたじろいでいる。

『切原君とは、仲よくなりたいなぁ』

やわらかくて、さみしげな声。記憶の奥からよみがえる。壁の向こうにいた彼女がどんな顔をしていたのかは、知りようもない。
別に放っておけばいいのに。頭に浮かんでは消える台詞は彼女に言ってやりたいようで、自分を納得させるための暗示になりつつある。

部活中。
序盤のウォーミングアップが終わり、さぁ本格的な練習だといったタイミングでのことだった。

「切原君、なにかだいじなことを忘れていませんか?」

どこかの映画でありそうなフレーズだ。
「は?」と、素で聞き返しても、柳生先輩はなんの意も介さず凛として眼鏡の真ん中を抑えている。正直、思い当る節がない。今日は担任から呼び出しをくらっていないはずだし、宿題だってちゃんと出した。授業中、寝てはいたけど。

「なんかありましたっけ?」

「今日は課外教室の清掃当番だったはずですが」

「はっ!? なんすかそれ!?」

「切原君には二号館の音楽室が割り振られていましたが···忘れてしまったのですね」

「えぇ? ほんっとに記憶ないんすけど、てか、いつそんな話ありましたっけ? ミーティングとかすか?」

全っっ然覚えがない。マジでない。そんな当番の存在自体が初耳だ。周りの同学年でもそんなことしてるやついたっけ。
と、思ったけど『赤也。お前はもう少しひとの話をよく聞いたほうがいい』脳内の柳先輩に注意されてしまう。よく言われる台詞なのだ。ほんとに忘れていたってのもあり得なくはない。

「さぁはやく行かないと遅刻してしまいますよ。あ、場所はご存知ですか? ちょうどあちらの校舎のあの辺りにありまして」

「んーでももう部活始まっちまったし、よくないすか? ···つか、ほんとに俺当番でしたっけ? 」

「切原君が是非ともと言って立候補したではありませんか」

あれ、だんだん怪しくなってきたぞ。

「······なんか、捏造してません?俺がんなこと絶対ぇ言わねぇし」

「あの日真っ先に挙手した切原君の姿には胸に込み上げるものがありました。君にもそんな奉仕の精神があったのかと···」

「いやいや待ってくださいよ。空見上げて感動してるフリとかしてる場合じゃないですって。絶対嘘っすよね」

「はやく行ったほうがいいんじゃねぇのか。でないと練習時間もどんどん減っちまうぞ。今日も幸村と試合、するんだろ?」

「ジャッカル先輩までなに言ってんすか!」

「ん?赤也なんかサボってんのか?」

「丸井先輩!違いますって!」

どうしてジャッカル先輩までノッてくるのか意味不明。丸井先輩はノッてんのかマジで知らないのかも分かんねぇ。先輩らに囲まれながらやいやい抗っていたら、真田先輩が顔を顰めてこちらへやって来た。

「部活中だぞ! なにを騒いでる」

「ちょっと聞いてくださいよ真田先輩! さっき「今日は切原君が課外教室の掃除当番だったのですが、忘れていたようでして。一時部活を抜け出させて、先に清掃へ向かわせて問題ないでしょうか?」

「なるほど、それはやむを得んな」

このひとなら断じて許さんとか言ってくれると信じていたのに、と思ったけど、こういうひとだったな、とも思う。

「はっ!? え、ちょ···!」

「よかったですね!切原君!」

「よくねぇし! 真田先輩!部活中途半端に放り出すほうが問題ですよね!?」

「己の役目を務めずして部活動も全うにできるとは思えん。自ら手を挙げたなら尚更行くべきだ」

「···いやー、ほんとーーに違ぇんだけど······」

「さっさと行かんか!」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってこい赤也」
「なんかわかんねぇけど頑張れよー」
「俺も手伝おうかのぅ」
「君はどさくさに紛れてサボろうとしないで下さい」
「プピーナ」

「あーもー!分かりましたよ!行けばいいんでしょ!行けば!」

時間の無駄になる予感がして、これ以上の抵抗は断念した。柳生先輩なんかは選挙活動みたいに手を軽やかに振って送り出す始末。
躍起な気持ちが昂って、校舎まで目掛けて走って行った。


*


階段を上る途中で高等部の生徒とぱらぱらすれ違ったものの、それも上にあがるごとに人気が徐々にうすれていく。内装も古びていく。廊下に並ぶ教室はどれも使われてはいなさそうで閑散としていた。こんなとこに例の音楽室があるんだろうか、と思って歩いていたら、ほんとうにあった。
柳生先輩に教えられた通り、見上げた先には『音楽室A』の表札が掲げられていた。壁の質感でも、匂いのひとつでも、長い年月をくぐりぬけているのがよくわかる。
こんな場所わざわざ掃除しなくても、がまず浮かんだ感想だった。だからこそ、適当に終わらせてやろうって意気込みはかろうじて出てきたかもしれない。

扉を横へ引く。木製特有のうるさいがらがらした音が鳴る。

茶色い木の床。だだっ広い空間に構える黒いピアノ。そして、ぽつんと立つ女生徒。

教室のまんなかに、彼女がいた。
俯きがちな顔が上げられる。窓から差し込む光の線が髪に当たって、微かに反射する。伏せられた瞳と交わる。連写されたカメラのフィルムを切りとったみたいに、ひとつひとつの動きが鮮明に、こまやかに描写される。胸が波立った。

「切原君?」

彼女の声がしんと響く。細長い手でほうきを握っている。ほとんど空っぽの部屋は天井が高く見える。

「どうしたの?」

彼女はそう言って、こくりと首を傾げる仕草をしながら近づいてきた。ぎょっとして、身構える。
「いや、その」
だから、どうして俺が警戒するんだ。無理やり頭を働かせて口を開く。

「ここ、俺が掃除しなきゃいけないみたいなんで」

「切原君が?」

「なんか、俺が掃除したいって言い出したっつうか」

どうして他人事みたいに話してるんだろう。とはいえそういうことになってるのだからこんな説明しかできない。腑に落ちない俺に反して、彼女の表情はぱあっと明るくなった。

「ほ、ほんとのほんとに?」

「ほんとじゃねぇけど···まぁ、めんどいんでそういうことにしとく。あんたも当番なのか?」

「当番?」

「掃除当番とかあるんだろ?」

「当番···は、ないかな?」

は?と俺が聞き返せば、彼女はふっと笑った。

「ここは私のわがままで自由に使わせてもらってるだけ。そろそろ掃除しようとは思ってたんだけど結局できてなかったから···柳生君が生徒会に掛け合ってくれてね、今日ちょうど掃除用具も揃ったばかりなの。でも、切原君もここ、知ってたんだね?」

彼女の後ろにいる、グランドピアノへ焦点が合う。
そういえばときどき、今日はなんの曲を弾いていたのかとか、彼女と先輩がそんな会話をしていた気がする。なにかしら練習をしているんだろうと想像はしていたけど、こんな辺鄙な場所にあるとは思わなかった。
反対に、それ以外の使用用途はなさそうにも見える。最低限のものしかない、たったひとりのための、弾くためだけの部屋。

「じゃあ、当番とか···ねぇの?」

「そもそも私とテニス部のみんなしかここのことは知らないからね。私も今日はじめて掃除するくらいで放ったらかしにしちゃってたから······誰かに言われたの?」

「·········そういうことかよ」

いくら吐いたか分からないため息を盛大に吐く。項垂れる俺に対して「ど、どうしたの?」彼女は顔を覗き込もうとしながら、おろおろ焦っている。

つまり、嵌められたらしい。
良く言えば、お節介。あの雰囲気からするとジャッカル先輩もグルだろう。真田先輩は真に受けて掃除に行けって言っただけだろうけど。
こんな方法にしなくても、最初から言えばいいのに。
内心で愚痴をこぼしている傍ら、テンションが急激に下がっていく。

顔を上げたすぐ目の前には、眉尻を下げて不安げに見つめる彼女がいた。
やっぱり帰ります。そう言ってしまえば、彼女はなんて思うだろう。

「······で、どこやったらいいんすか」

言ってしまってもよかったのかもしれない。たかだか一緒に掃除をしたところで特別変わるとも思えない。
だけど、この状況を全く望んでいなかったといえば、嘘になる。
もしいつか、ふたりきりになったら。
あてのない想像を巡らすだけで、どうすべきか答えを見つけられないまま放置していた。

「ありがとう」

多分俺は、吃る喋りかたとかよくわからない立ち位置にいるとかそんなことよりも、ほんとうにうれしそうに笑う彼女特有のこの笑顔が苦手なのかもしれない。悪意や雑念を微塵も疑いもしない、ひとの善意だけをまるごと飲み込んだみたいな、安心しきった顔。
彼女が笑うのをこうして真正面から見るのはいまがはじめてだ。先輩達にとっては普通の景色だろうけど、俺は当分慣れそうにない。
こんなふうに笑われる度、うずくまったうしろめたさをさらけ出された心地になる。

彼女から布巾とスプレー缶を手渡される。清潔感のある布切れと重みのある缶は新調されたばかりみたいだ。
「お願いね」
どうやら窓拭き掃除を任命されたらしい。






泡の洗剤が吹かれた跡に布巾がガラスの表面を往復する。自分の家でもこんな真面目に窓拭きなんかしたことない。

背後に視線を寄越せば、彼女はしずかにほうきを動かしていた。しゃんとして、俺よりも丁寧に。ほうきが床を擦れる音。ガラスのうえで布巾が滑る音。少しの音しか鳴らない音楽室。なにひとつ言葉を交わさず、黙々と作業が進む。
気まずい。と、最初こそ思っていたが、それもいくらか経てば、もはや飽きてきた。
手を往復する作業に疲れてきたところで、ぼんやりと窓の外を眺める。

ここからは、テニスコートは見えない。自分の顔がうっすらとガラスに反射する向こう側に、校舎裏特有の殺風景な地面や塀が見える。視線をさらに遠く向こうへ逸らしても、見慣れた住宅街だけが広がっている。

「切原君?」

咄嗟に振り返ると、不思議そうにこちらを伺う彼女が立っていた。

「大丈夫?」

「···なんもないっす」

窓へと向き直せば、背中越しに「うん」ほっとしたような頷きが聴こえる。ほんの少し、むず痒い。
たかだか掃除を手伝いに来たくらいで好意的に捉えているのだとしたら、それはポジティブすぎるだろうと忠告したくなる。なんて、言えないけど。これまでお世辞にも良いとはいえない態度で彼女に接していたのに、些細な行動ひとつで簡単に俺を信じてしまうのならあんまりにも能天気だ。

「なんにもないって、思った?」

どきりと、心臓が跳ねた。反動で後ろを振り返れば、さっきと変わらない、おだやかな面持ちで立っている。

「いや、」

返事に詰まる。こんなの、イエスと言っているようなものだ。

「ピアノしかないもんね」

俺に深く同意するような口ぶりだった。ゆっくりと彼女の視線がピアノへ向けられる。なつかしむようなまなざし。ずっと、遥か遠くに存在していると勘違いしているんじゃないかと思っていそうなほど、遠い目をしている。少し足を動かせば、ふれられる近さにあるのに。
ここにはそれしかない。それ以外は、なにもない。


_____遠くからだけどね

あのひとの声がきこえる。


手元からすっと離れていく感覚がした。持っていた布切れはいつのまにか彼女のもとで、端と端とをそろえられ、丁寧に畳まれていた。掌にはまだ僅かに湿った感触が残っている。

「部活、抜けてくれてたんだよね? ごめんね。みんなも待ってるから、はやく戻らなくちゃ」

意識の片隅に彼女の横顔の残像が浮び上がる。おぼつかないまま、咄嗟に答えた。

「えっと、別に。どっちでもいいと思いますよ」

はやく戻ったら戻ったで真田先輩に「ほんとうにしっかり掃除をしたのか」とか言われて怒られそうだし。
でも、ほんとうは俺も。

「そんなことないよ」
なごやかに断ち切られる。
床に落ちた陽ざしがふたりの足もとへ侵入している。

「みんな、切原君のこと待ってたよ」

揺るがしようのない常識を説明するみたいに、おだやかに微笑みながら。
わからない。
訊ねたら、困ったように笑っていた。

「切原君、よく、『いつか勝ってやりますから』ってあの三人に言ってるよね」

「まぁ」

「凄いなって思うよ」

「言ってるだけで、勝ってないっすよ」

「だから凄いの」

「え?」

「越えられるって思えないと、あんなこと言えないもの」

一瞬、古びた木の匂いが濃くなる。

「ほとんどのひとは相手が圧倒的すぎる存在だってわかった瞬間、自分と比べることも、妬んだりもしなくなるから。手が届かないことがあたりまえで、無意識に敬遠して、視界にさえ入れなくなる。
でも、切原君は違うよね」

そう言って、俺を見つめ直す。「貴重なことだよ」断言しているみたいだ。

「生意気なやつって思われてるだけですよ」

俺のように無遠慮に向かってくるやつを頼もしいと感じるときが、果たしてあるのだろうか。いまのところ余興程度に扱われているとしか思えない。実際、入部した初日は痛い目を見たのだ。

「切原君みたいなひとがいないとつまらないよ」
うっすら微笑み返した。
「切原君には勝って欲しいな」

向こうのほうで、艷めく黒い天板がぴかりと光る。思ってもいないことを、とは思わなかった。彼女の表情にも声にも確かな説得力があった。だから、尋ねてみたくなる。

「それ、ほんとに思ってます?」

「ほんとうだよ」

「あんたのことだから先輩のほうに肩入れしてると思ってたんですけど」

やわらかくなって、一瞬だった。

「切原君のぎらぎらした顔が好きなの。闘いたくて、仕方ないって顔」
ととのった唇が動く。綺麗で、ぞっとする。
「きっとみんなもそう」

この瞳の深さをどこかで知っている。
一度嵌れば、戻られない危うさをともなった瞳。
あのひとと一緒だ。知らない誰かと向き合っている、この感覚。

「負けるつもりでいねぇけど、でも、到底敵わないっすよ」

言葉にすると情けないと思うけど、事実だ。いまの状況はシーソーゲームにすらなっていない。毎日浴びるように歴然の差を思い知らされる。よく飽きないなと周りから言われる通り、他のやつならとっくに音を上げている頃合いなのかもしれない。

「全然、全然届かねぇ」

窓の外側で、あるはずのないコートが視える。蜃気楼に包まれたかのように曖昧で、不透明な。
どれだけ足掻こうとも届かない。測ろうにも、どれほど離れているのか検討もつかないほどの距離。唯一解るのは、積み上げるための必要量も時間も計り知れないが、到達するまでに果てしなく長いということだけ。

ほんとうだね、と、彼女が言う。

「どうしてもっと上手くならないんだろうって、いつも思う」

独白に近い響きだった。やんわりと、部屋じゅうに広がっていく。捉えた先には黒い鍵盤がいた。

「ほんとうに、全然足りないね。こんなにしてるのに一生かけても届かない気がする」
瞼が伏せられる。
「でも不思議。くるしいのに、あの感覚、嫌いじゃない」

きっと、飢えている。
俺と同じだ。
手を伸ばしたくらいでは容易く届かない先を求めている。凝りもせず、執念深く、辿り着けば満たされるのかも不確かなまま、幾度も繰り返す。
もしかしたら、永遠に渇いたままかもしれないのに。




もういちど声がきこえる。
今度は景色と一緒に、意識の奥からほのかによみがえる。

俺の向こう先で彼女が歩いている。先輩達の端っこのほうでほがらかに笑っている。

「赤也は苗字さんのこと、不思議そうに見るよね」

隣から声がして、ぎくりとした。
「ちょ、いきなりなんすか!」
「そんなに驚かなくても」
きょとんとするこのひとは、コートで向かい合うあれと同一人物だとは到底思えない。あのハチマキには人格を変える魔法があるんじゃないかって、本気で思う。

「不思議そうって、なんすかそれ」

意味不明だってふうに返したみたけど、言いたいことはまぁ分かる。例のジャッカル先輩との会話を聞いてから、そう経ってない。

「というよりは、理解できないっていうほうが正しいのかな」

さも愉快そうに言ってのけるこのひとの思考回路はときどきわからなくなる。胸の隅っこで隠していた染みに指をさされたみたいで、気分が優れない。

「気になる子ほど声をかけられないって感じなのかな」

「そんなんじゃねぇっす」

「むきにならなくてもいいのに」

「なに話したらいいかわかんねぇし、つうか別に話すこともねぇし。俺は幸村先輩みたいなフランクさ、ないんで」

「赤也はコミュ障なのかい?」

「······あのね、あんたさっきから」

「あ、もしかして俺達が楽しそうに話してるの見て嫉妬して「だーかーら、違いますって!」

「わかってるよ」

絶対わかってないだろ、と言ってやりたい。言えないけど。うふふと笑うこのひとはそこらの女子よりよほど綺麗に笑うが、あいにくそんなので許せるほど自分の器は大きくない。
気になる子ほど声をかけられない。言われてみるとド典型の思春期かって思うけど、実際自分がそうなりかけているのもうんざりな話だ。

校門を出れば、潮の匂いが鼻先を掠める。ガードレールのさらに向こう。ゆったりと波がはじける音。きらきらひかる水面と紫いろの空。

「なにがいいんすか」

狭まることもなければ、広がることもない。一定の間隔を空けて、俺達と彼女は歩いていく。華奢な背中と潮風に揺れる髪。

「みんな、思うことは違うと思うけど」
「あんたは、どうなんすか。別に興味なさそうじゃないすか」
「そうかい」

どうかな、なんて顔をしているけど、現実離れして、ひと好きしそうな空気をただよわせているくせして、ほんとうは現実的で、淡白だったりするのだ。誰よりも。
彼が前を捉えた。


「彼女はよく、みているよ」


_____遠くからだけどね


つられて、前を見る。
無邪気さを含んだなごやかな横顔。思い返せばあのときの彼女は、いまのように、あんなにも遠い目はしていなかった。

「それ、よくっていうんですか」

「彼女なりの身のほどのわきまえかたなんだろうね」

整然と話す彼の隣で、ふと思う。
俺が感じていた違和感のいちばんの理解者は、彼女自身なのだろうか。
輪のなかに入ろうとも、少し離れたところから。図々しくないように、慎重に。いつしか俺をおだやかに見ていたときのような、ひっそり見守る位置に、彼女はたいてい立っている。
わきまえ方。周囲が思うよりも以前から彼女は知っていたのに、俺が見向きもしなかっただけだとしたら。

「それに、約束があるから」

そう言って一瞬、海のほうを見やった。藍色の髪がふわりと揺れる。
なんの約束なのか尋ねてみたけど、答えてくれなかった。
代わりに
「約束があるから、そばにいられる」
それだけ。
風が吹いていたら消し去っていたかもしれない、ちいさな声で。
うまく解釈できなかった。なければ、いったいどうなるのだろう。そばにはいられないんだろうか。それだけが砦だとでも言いたげに話す理由も、主語はふたりのうちのどちらなのかもわからない。
追いつかない俺をよそにつづけられる。

「あとは、おかえりって言ってくれるからかな」と、得意げに言う。

「誰でも言えるじゃないすか」すかさず返してみる。

「それもそうだね」いかにも納得した口ぶりで頷いた。あやすように。
それでも、と、そうっと付け足して、とびきりやさしく微笑む。

「彼女じゃないと嫌なんだ」

ふたり揃って、わからないやつ同士だ。






オレンジ色の光が彼女の肌にとけていく。どんな陽ざしもこの空間に入れば、すべてが淡く、脆くなる。

「切原君はどうやって神話を壊すのかな」

きっとこの瞳は知っている。
しずかで、どうしようもなく煮え立つはげしさを。奥に潜めた執着心と闘争心を。その身に纏ううつくしさに現を抜かせばどれほど危険なのかを。
ほんとうはあのなかに、確実に仕留めるけものが隠れているのに。
清らかさと欲深さは共存できるのかもしれない。


彼女の手からぱっと布巾を奪う。
彼女ははてなを頭に浮かべて、なにか言おうとしていたが、構わず口を挟んだ。

「苗字先輩がそこまで言うなら、やってやりますよ」

ぱちぱちと瞬きをして、静止したかと思えば
「いま、名前······」
やっと頭が追いついたのか口をぽかんと開いていた。
そんなくらいで大袈裟だとは思うのに、気恥ずかしくなる。

「まだ拭いてないとこあるんで、さっさと終わらせます」

「その、」

「せっかく掃除してやったんだから、今度なんか奢ってくださいよ」

言ってやれば、彼女の目が大きく見開いた。

「い、いいの? ほんとのほんとに?」

「んなテンションあがらなくても」

「だって、夢···だったから」

「普通、奢るのでそんな喜ぶやついねぇっすよ」

さっきとは打って変わって、へらっとした笑いかたで「そうかなぁ」とこぼしていた。ほうきを握る力を込めて、ほんとうにうれしそうに。

やっぱり、わからないやつ。

「これからもよろしくね、切原君」

ほんのり染まって、はにかんでいた。
誰だかわからなくなるのは、あのひとだけでよかったのに。

「こっちもよろしくお願いします」

















「ここ、あんた以外に誰か来るんですか」
そう訊けば
「聴きにきてくれるひとはいるよ」
と言うので
「そんならもう一個くらい椅子、用意してもいいんじゃないすか」
助言してみたけど
「隣に座るから、いらないんだって」
そう話していた。
あのときの彼女の顔を、いまでも忘れられない。

  

神さまの通り道

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