ふたりだけのハッピーエンド

「先輩たち、部活来ないんすか?」

素っ頓狂な声が列のなかにぽんと響いた。
はてなを浮かべる切原君に、柳君がおやおやと眉を顰める。

「来週の金曜日は校外学習があると月初めのミーティングで共有したばかりだ」
「あれ、そうでしたっけ?」
「赤也も確かにその場にいたはずだが」
「…んー、言ってたような」

紫色と桜色が混ざった淡い雲がうすくのびている。空と海の境界線は曖昧だ。

「学年も上がったばかりですし、年度初めのレクリエーションのようなものでしょう」
「そういや俺も先週行ってましたね」
「赤也がいない部活はやけに落ち着いていたよ」
「んじゃその日は先輩と試合できないんすね〜、つまんね」
「俺達がいないからといって鍛錬を怠るなど許さんぞ、赤也!」
「ちょ、違いますって!」
「そーいや、昼休憩って好きなとこ行っていいんだよな?」
「班の課題学習さえこなせば、あとは自由行動してもいいって言ってたな」
「せっかくだしさ、昼はみんなで食うってのもありじゃね?」
「自然公園ともあってきっと空気もいいでしょうし、部活とは関係ない時間でこのメンバーで過ごすというのも新鮮かもしれませんね」
「若干一名、そもそも校外学習に参加しそうか怪しい部員もいるがな」
「ピヨっ」
「なーんか先輩達楽しそうでいいっすね」

「苗字も来るよな?」

ワンテンポ遅れて「へっ」と情けない声が出る。ぱちぱちとまばたきをすると、くりっとした薄紫の目と焦点が合う。

「おーい、聞いてなかったのかよ?」

「校外学習の昼休憩はみんなで集まろうってこと?」

「って、聞こえてたのかよ」

「………」

「………」

「行く!!」

「遅!!」

「聴覚では確かに捉えていたが、意識的な処理が追いついていなかったようだな」

「ご一緒したいです!私でよければ、その、ぜひ…!」

「おし、決まりだな」

「もうすぐだよねっ。みんなと一緒…楽しみだねっ」

「おやつってなん円までだっけ?」

「丸井くんは聞いといて金額守るタチじゃねぇだろ」

「………あ、」

「ん?」

「行けません!!」

「はぁ!?」

「ご、ごめんね…私ってば、つい浮かれて…!」

「苗字さんは喜怒哀楽がはげしくて、見てて楽しいね」

うふふと幸村くんが優雅に笑う傍で、私はというとひとりテンションが急降下したままうろたえていた。彼のように同年代らしからぬ余裕さを持ち合わせたいと常日頃思っているけれど、なん年経っても到達できない気がする。
丸井くんがいかにも訝しげな表情で詰め寄ってくる。

「行けねぇってどういう意味だよ?」

行かない、ではないのだ。



*


あれからの昼休み。
二年への上級と同時に丸井くんとクラスは離れてしまったあとも変わらずお昼は一緒に食べている。互いのどちらかの教室か、ごくまれに音楽室Aだったりもするけれど、雨さえ降っていなければたいていは中庭で過ごしていた。
今朝は目覚めがはやかったので、奮発してサンドイッチにしてみた。たまごとハムを挟んだものを彼にあげたら「うっま」もぐもぐ美味しそうに食べてくれる。とんでもなくすばらしい料理を作った気分になれるが、多分、それなりのものが彼の口に入ればほとんどのものは美味しいと賞賛されそうだ。と、以前そういう類の台詞を言ったなら「お前のがいーんだよ」ときっぱり訂正されたことがある。彼のことだからもっと料理上手な子からいろいろもらってると思うんだけどな。

「丸井くんはなんでも美味しいって言ってくれるね」
「だってほんとにうめぇし」
「私も卵焼き欲しいな」
「ほい」
「ついでにウィンナーも!」
「もらいすぎだろぃ」
「いいの。私はいっぱい丸井くんにお裾分けしてるから」
「このまえ十円奢ったろぃ」
「十円で威張られてもなぁ」
「十円を舐めるやつは十円に泣くぜ」
「その理論でいうと桑原君はとてつもなく泣いてるんじゃないかな…」
「ほどほどにしてるって」

そういえば、と彼が声をあげる。

「校外学習、どうなんだよ」

実際は、そういえば、ではないのかもしれない。彼のことだからおそらくもっと前から切り出す機会を伺っていたのだろう。あの放課後の次の日、彼からまっさきに尋ねられた。
彼は知っている。彼にあの日のことを話したのは、いまよりさらに暑い真夏の昼休みだった。

「思ってたより、難しくなってるかも」

今日は気前がいいのか、丸井くんから弁当箱ごと差し出され、もう一個卵焼きを取るよう促された。お言葉に甘えてちょうだいした。

「こればっかりはしかたないかな」

「あんまりさ、無理すんなよ」

「大丈夫」

「お前って遠慮もするけど、無理もするからよ」

「正反対だね」

「言っとくけど、真面目に言ってんだかんな」

「うん、わかるよ」

彼の言葉にふかく頷いた。彼は大真面目にきびしいことをさらりと言ってのけるのが巧くて、少し苦手だ。

「おやつ買いに行かなくちゃね。買うものリストとか作る?」

「絶対ぇあとから意味なくなるけどな」

「パーティーパックのほうがいっぱい食べられるしみんなにも配れるよね」

「しょっぱい系と甘い系のお菓子のバランスがだいじなんだよな」

「せっかくだから丸井くんの手作りも食べてみたいな」

予算度外視でおやつの話がとんとん進んでいく。
「こんなふうに考えてる時間も好き」そう言えば、「俺も」丸井くんも笑ってくれた。

ほんとうに行けるのだろうか。
あれもこれもと言い合いながら頭の片隅では、そう考えている自分がいた。










「バスに乗れない?」

バスに乗れない。
頭のなかで復唱してみる。単純明快で、しようもないフレーズだ。

「車酔いが酷いんかのぅ」思いつく理由に挙げられそうだが、「えっと」つづきを濁してしまう。そういうわけでもない。

「車全般に乗ること自体がだめというか、禁止というか…」

「禁止?」柳生君の目が丸くなる。そこまでか、といった反応だ。

「お父さんから、万が一事故にでも遭ったら危険だから絶対に乗らないように言われてるの」

うちには言いつけられた決まりごとがたくさん存在している。
たとえば、お菓子は食べすぎないとか、リビングで寝てはいけないとか、日が落ちる前に帰ってくるとか、ひとりの外出は禁止だとか、そういういろいろ。だいたいは世間のごく一般的な家庭にもあるような規律だらけだ。納得できるものもあれば、当然腑に落ちないものだってある。いまもこうして部活終わりのみんなと帰っているのも、ほんとうはあまりよく思われていない。授業が終ったあとはまっすぐ帰ってくるよう押し切りたいのがお父さんの本音で、実際いくらか注意もされた。とはいえこちらとしてもなんでも受け入れるわけにもいかず、家よりも学校のほうが宿題やら勉強やらその他諸々がはかどるからとそれらしい理由で粘り強く説得した結果、渋々折れてもらっている。お咎めにならない頻度で居残るのが重要だ。

そういった数多くあるルールのなかにも、必ず守らなければいけない最優先事項があった。
_____『車に乗ってはいけない』

なぜかというと、とにかく危険だから。これまた単純な理由だ。

「確かに交通事故に遭う確率は決して低くはないが、にしても…」

「極端に心配性なんだよね」

「心配性っていうか、過保護すぎじゃないっすか? そんなのどこにも行けないじゃないすか」

切原君の台詞に苦笑いで返すほかない。私も同意見だ。

「しおり見せて、移動手段がバスって分かった途端、反対されちゃった」

「ひとり娘は可愛いとは聞くが」

「ここまでくると頑固だけどね···いくらお願いしてもだめの一点張りだもの。でも私もクラスだとひとりだし、もう校外学習くらいいいかな···なんて、」

「なにを言うか!校外学習とて立派な勉学のひとつだ!サボるなどたるんどるぞ!」

「ごごごごめんなさい!そ、そうですよね!やっぱりしっかり参加すべきですよね、あはは···」

「そうならねぇように昼飯くらい一緒に食おうって言ってるわけだし?」

校外学習も歴とした学習の一環で行かないとしたら欠席扱いになるが、それも承知のうえで大反対されている。サボりをごり押しされている家庭も珍しいだろう。

「みんなと公園でお昼ってピクニックみたいだよね。行けたらいいんだけどなぁ」

「授業受けるより絶対楽っすよね。うらやまし」

「寂しがんなって、赤也!」

「そーいうんじゃないっすよ。あ、なんかお土産買ってきてくださいよ」

「自然公園で土産っつってもな…」

「どんぐりとかでええじゃろ」

「うーん、あいにくいまはまだ落ちてないんじゃないのかな」

「いまのは仁王のジョークだ、精市」

「あんたら俺の扱い雑っすよね!?」

「いまさらナリ」

みんなの会話を笑って聞いているうちに、ふっと気が抜けた。あともう少しでため息をつきそうになっていた。いまはだめだ、と堪えてみる。思っている以上に疲れているのだろうか。
このさきを思うと楽しくて、ふわふわして舞い上がって、けれど億劫で、ふれたくない。どの感情をいちばんに持ってきたらいいのか、わからなくなる。


*


掃除当番のなかだと校舎外の水道場は特にお気に入りかもしれない。たわしでごしごし擦る作業はぼんやり考えごとをするのにも、無心になるのにもぴったりだった。冬場には辛いけれど、春から夏にかけては手にかかる水がひんやりしていて気持ちがいい。遠くからは運動部の活きのいいかけ声が聴こえてくる。

「まだかかりそうかい」

彼から声がかかった通り、だいたいの生徒は清掃を済ませている頃合いだった。彼もいまから部活に向かうのだろう。

「ここの掃除好きだから、つい時間かけちゃって。家でもそうだけど水周りが綺麗だと気持ちいいから」

「苗字さんは美化委員に向いてそうだね」

「そうかな? うーん、最初は入ろうかなって迷ってたんだけど、」

「ほんとうかい!?」

「へっ!?(すごい前のめり···!)」

「あぁっ、いや。いきなりごめん。······その、苗字さんなら真面目に取り組んでくれるだろうから安心できるし適任だと思うんだ。興味があるなら、来学期は立候補してみてもいいんじゃないかな?」

「そんな、私にはとてもじゃないけど恐れ多いよ」

「そんなことないよ。なにより、俺と一緒ならいろいろ教えられるから、」

「·········それがいちばん恐れ多いといいますか、」

「え?」

「ううん、なんでもないよ! 美化委員楽しそうだよね!あはは···」

彼のはてなを浮かべた表情を見る限り、今年度の美化委員の倍率が歴代最高に凄まじい数値をたたき出されていた事実を知らないらしい。とある小春日和に「美化委員、やってみようかな」彼がさりげなく漏らしたひと言に全女子がざわついたのだ。私も委員会に興味はあったし、もし入るならば美化委員も候補にあげていたけれど、彼が入るかもしれないという噂を聞いて早々に諦めた。立候補したかった理由に下心がまったくなかったかと言われると否定しきれず、幸村くんと活動できている子が正直うらやましい。
「君といつかできたら俺もうれしいな」
しかしいくら彼の隣の席を勝ち取るためとはいえ、あの鬼気迫る戦場に身を置く気概はとうてい持ち得そうにない。彼のぱあっとした純粋な笑顔に私は苦笑いで答えるしかなかった。

「今日はこれからは?」

「まっすぐ帰ろうかな。ご機嫌とりじゃないけど、遅くなったらお父さんにお願いごともしにくいから」

一瞬、彼の顔が固まった。

「それは、校外学習のことかい?」

目線だけで、相槌を打った。

「なかなかね、難航してるの。こうしてたらお父さんが納得してくれそうないい理由が思い浮かぶかなって思ったけど、あんまりみたい」

すっかり汚れの染みついた雑巾で洗い場の水滴を拭きとる私の横で、彼はしばらく逡巡していた。慎重に次にかける言葉を選んでいるようだった。

「少し気になったんだけど」

「うん」

「苗字さんのお父さんは、どうしてそこまで反対してるんだい。苗字さんのことが心配でしかたがないからだとは思うけど、気のせいじゃないならなにか特別に強いこだわりがあるようにみえるから」

親ばかな父なのだと、明快な理由で済ませられたらよかった。反抗期のふりを装って堂々と言いつけを無視してしまおうかと考えたこともある。
でも、どうしてもできない。遠い記憶をさわがしては無意識の底にまで侵入し、縛りつけられる。実は自己中心的に生きることはたいそう難しいことなのかもしれない。
水道の栓をかたく閉めた。

「私のお母さんはね、交通事故で亡くなったの」

幸村くんはしずかに、そして分かりやすくおどろいた顔をした。同時に、すべてを察したようでもあった。

わめく蝉の声。まっしろなシーツ。ひえた部屋。うなだれた背中。駆けつけた頃にはもう、お母さんはつめたい大きなかたまりになって横たわっていた。死因はアクセルとブレーキの踏み違いによる、衝突事故だった。ニュースの端にも載らないようなありふれた事故だ。
それからお父さんは家の車を売り払った。ハンドルを握らなくなった。遠出でも借りようとはせず、バスやタクシーでさえも乗ろうとはしなかった。日常から車にまつわるすべてを省こうとした。あらゆる手段を使って、徹底的に、だ。あのひとにとって車はこの世でもっとも許しがたい存在になり変わった。

「車に関係すること、なんでもぜんぶ拒絶するようになったの。
いまも説得してるけど、もちろん譲ってくれるわけもないし、私もむきになるから余計に神経質になってね。
そんなに極端にならなくてもいいのにって思うけど、でも、お父さん、ほんとうにお母さんのことが大好きだったから。そうなっちゃう気持ちも痛いほどわかるから、お父さんのこと無下にもできないの」

こわいのね、きっと。
ちいさなつぶやきがふたりのあいだにしんとただよう。

「いちばん傷ついたのはお父さんで、なんにも悪くないのに、私が責めるように言い返すから···そういうの、下手なんだよね。うまくいかないなぁ」

さも気の抜けた声を出して、強ばっていた肩の力を発散させた。現状を切り抜けられる方法はどこを探しても見つからない。案外インターネットもあてにならない。
臆病になってたじろいでしまうことは立派な防衛本能で、決して悪いことじゃない。即座に前を向いていられる人間のほうが希少なのだ、きっと。

「ごめんよ」

俯きがちに彼がそう答えた。複雑さを帯びた声と表情が、彼らしかった。

「聞いてほしかったのは、私のほうだから」

首を横に振る。
感情が溢れかえってしまわないかと身構えていたのに、ゆるやかに打ち返す波のように胸のうちはおだやかだった。晴れた空のもと、のどかな時間が流れてゆく。

「いまじゃなくてもいいのかもしれない。私が大人になった頃にはお父さんも変わってるかもしれない。毎日喧嘩するくらいなら、ここで引いたほうがいいのかなって考えるんだけどね。
でも、このままじゃいけない気がする。とじこめたままにしないでおこうって思ったの。たとえバスに乗ったからってかならずしもいい方向に変わるとは思えないけど、『そんな気がしただけ』でもいいから、ほんとうにちょっとでも前に進めたんだって、そういう記憶が残ればいいなって。
それにね、みんなと一緒にいられる時間もどうしても捨てきれなくてほんとうに大切だから。みんなで揃ってどこかに出かけたりするのも夢だったから、叶えたいな」

つらつら話していれば、幾分彼の表情がやわらいだ。私はずいぶんほっとした。
「俺も」彼のひと言に耳をすませた。やや詰まったあとで、ゆっくりと彼の口が開いた。

「俺も、君と行けたらいいなって、そう思うよ」

こころからそう思っているひとの顔だった。いつになく感情がのった、やさしくて、さびしい響き。
ひとしおかなしくなった。
彼はいまごろ、私がその場にいる未来も、いない未来も両方を想定しているのだろう。もしかしなくてもいないほうに傾いているのかもしれない。いまの彼から伝えられる最大限に配慮した言葉だ。なにもみはなされたわけではない。彼だって願ってくれている。
解っていても、無性にかなしくなる。もう、ひとりじゃないはずなのに。

「もうちょっとだけ、頑張ってみる」

「あまり抱え込まないでね」

「そんなに心配そうな顔しなくても、大丈夫だよ」

「俺でよければ話だけでも聞くから」

「幸村くんの気持ちがうれしいよ」

ありふれた悲劇のあとも、私ができることなんてこんなにもちっぽけだ。








ひどくしずまりかえった夜。
お父さんに話を持ちかけたなら、いつものように険しい表情を見せた。最近の私がこんなふうにさせている。このひとが必死にひた隠しにしているものを、私は強引に抉っているのかもしれない。

テーブルに置かれたマグからコーヒーの匂いがする。リビングのソファに座るお父さんと、そばに立つ自分とのあいだに重い空気が立ち篭める。冷蔵庫の唸る音が聴こえる。

「名前、わかるだろう」
「わからないよ。このさき一生乗らないなんて、できるわけないじゃない」

少なくともいまの学校で事故は起きてない。人生でいっさい車に乗らないことは不可能だ。もしかしたらを言い出したらきりがない。あの日のことと校外学習はまるで別問題だ。
毎日似たような問答の繰り返しだ。私の言い分に対して無理くりな反論もあったけれど、苦し紛れに口にしているのを痛感できたから、揚げ足を取ろうという気力も起きなかった。

私は『普通』になりたい。みんなと同じことができるようになりたい。
いつしか言い放った台詞に、お父さんはなにも返さなかった。返せなかった。

「ずっと、このままなの?」

私の声がむなしくリビングに響く。お父さんはテーブルを見つめたまま黙考している。見えないおもりが乗っているかのように微動だにしなかった。そうやってお父さんなりに訴えているのだと思った。どうかお願いだからと、全身から訴えている。
ソファから立ち上がり、私を見つめた。直に目が合ったならなにも言えなくなって、俯くだけでせいいっぱいだった。リビングの扉が閉まった。
こうして夜が終わる。

自分の部屋へ戻り、ベッドの上でうずくまった。
丸井くんとお菓子を買う約束の日まで、あと少しだ。


*


俺たちが部活動をしているあいだ、彼女は家事に勤しんでいるようすで、家周りのほとんどは彼女がこなしているのは普段の会話からもよくわかった。そう、彼女の話にはいつも『お母さん』の単語はめったに出てこない。出たとしても、なつかしんで回想するような口ぶりだった。
きっと複雑な事情があるのだろう。かんたんに明かせない事柄を抱えている家はいくらでもある。いつもならその程度でしか気に留めなかったけど、いざ直に彼女から聞いたなら、多少なりとも胸が波立った。


今日は三者面談の日だった。
込み入った話もない、ほとんど挨拶に近い親と先生の顔合わせのようなものだ。自分は当たり障りなく平穏無事に終わった。彼女は、どうだろう。
ついこの前、三者面談で校外学習の話を持ちかけてみるのだと彼女は意気込んでいた。先生も交えてお願いしてみたら変わってくれるかもしれないからと、そう話していた。

あれからも彼女はふわふわ笑って過ごしている。ようにみえる。
内心では、なにを考えているのだろう。
気にはなるけど、この話題を振ったところで気落ちさせるだけだと思うと訊くのをためらった。お父さんからゆるしてもらえたのなら、尋ねなくとも彼女からよろこんでいまにも泣きそうな顔で報告してくるはずだ。いま話しかけたとしても、困り気味に笑うことはあっても、憂いた表情はいっさい見せずに、どうなるかなぁとのんびり答えるのだろう。懸命に平然をよそおっているようには見えない。だからこそ、痛々しくも見える。

また機会はやってくるよ。ほかにも思い出はたくさんつくればいい。なにもこれで終わりじゃないから。彼女にかける適当な言葉がみあたらないまま過ぎていく。気休めになるのかも、そもそも気休めにさせることがふさわしい行動なのかも、わからない。

もしも。もしもほんとうに彼女が残るのだとしたら、彼女はいってらっしゃい、と、言って自分たちを見送るのだろうか。


そんな考えごとをしながら階段を下りていくと、聞き慣れない男性の声が徐々に耳に入ってきた。遅れて、女子生徒の声も聴こえた瞬間、頭が急激に冴え渡った。彼女の声だった。

ふとあの音楽室が頭を過ぎった。淡くて脆い光景。鍵盤の前に座る彼女の姿。消えてはうまれる旋律をしんしんと弾いている。
おかえりなさい。
彼女が弦から顔を上げれば、やわらかく細められた目と合う。
そうだ、とじこめられているんだ。あの空間から抜け出せないまま、儚く遠い向こうがわで、こわれそうに綺麗な姿をしている。

母さんとはその場で別れて、声のするほうへ極力音を立てず足を進めた。階段付近の支柱のそばに身を隠し、耳をそばだてる。
顔だけを少し乗り出してみると、女子生徒の後ろ姿が見えた。やっぱり、彼女だった。なら向かい合っているあのひとは彼女のお父さんだろう。面談終わりなのか、教室からややはなれた廊下の端で話し込んでいるみたいだ。幸いにいま隠れているここはふたりの会話が聞き取れる位置だ。盗み聞きはよくないか、と思ういっぽうで、そうも言ってられない、とも思う。

「先生も言ってたでしょう? いままで事故は起こしてないから、安全だって」

「それはいままでの話だろう」

「これからの話もだいじだよ」

「いまは父さんと名前の問題だ」

「お父さんも、ほんとうはわかってるんだよね」

ふたりとも冷静だったけど、彼女のほうは特に落ち着きはらっていた。彼女のさとすような声のあと、長い沈黙が下りる。

「名前になにかあったらと思うと、気が気じゃないんだ」

不安になるほどのしずけさのなかで、絞り出された声が物語っていた。
彼女の意思を尊重しなければいけないともっとも解っているのは彼女でもほかの誰でもなく、彼なのだ。嫌というほど理解はしても、納得できない。彼女のためを思う行動が彼女を自由にさせない。きっと、はざまに立つ当人にしかわからない葛藤だ。

「大丈夫だよ」

もう大丈夫。
やわらかく、彼女が繰り返す。

「私たち、あんなにつらい思いしたんだもの。だからもう、これ以上うしなうものなんてなにもないよ」

まじりけのない、純粋でやさしい声。
あまりにもやさしいから、どうしようもなく胸が痛んだ。
どうして、そんなにも。
できることなら、すぐにでも駆けつけたかった。彼女のそばに行って、手を引いて、ほんとうにできることなら、抱きしめたかった。せめていまだけは笑わなくていいんだと言いながら。こんなにももどかしくなるなんて、知らなかった。
壁の向こうがわにいる彼女の顔が鮮明に頭じゅうにしみ渡るように映し出された。

_____またきこえなかった。

いまごろきっと、空間も音もすべて一体となってとけこませた表情___あのあかるくてさびしい笑顔___をとびきりひどくさせているに違いなかった。

彼女の話を聞いているあいだ、ずっと不思議に思っていた。語られる過去のなかに彼女は登場しているはずなのに、彼女のことはいつもおきざりにされていた。もっともつらく、かなしさに明け暮れて悩んだのはまぎれもなくお父さんなのだというのが彼女の主張だった。当然で、曲げられない正解だと言いたげだった。
彼女がそう語っているそばで、俺は腑に落ちなかった。くらべるものではないのかもしれないけど考えずにはいられなかった。
彼女だって。いいや、彼女のほうがもしかしたら。どうして自分のことをなおざりにするのだろう。もっと甘えてしまえばいいのに。お父さんにくらべたら自分はなんともないとでも言いかたなんかしなくていいのに、どうして。

あの日海に向かってがらがらになりながら叫んでいた、ひとりの女の子。おだやかな身の内に莫大な量のはちきれそうな感情を秘めて過ごしている姿の象徴そのものだった。
あれを目にしたからこそ、確信できた。打ちひしがれていないわけがないのだ。彼女もきっと、想像をはるかに超えた絶望も悲愴も味わったはずだった。

_____こわいのね、きっと

その日、痛感したのかもしれない。
世界はかけがえのないものでみちている。それでも儚く消えてしまうものが無限に存在している真実も、本人の意思とはかけはなれて否応なしにたやすく終わる日々も。あの音楽室で、幾度となく味わっている。

いまの彼女に、俺からできることなんかちっぽけかもしれない。

「すみません、」

身体が勝手に動いていた。柱から姿を晒せば、ふたりの視線をいっせいに浴びた。彼女は目をまん丸にさせて突然のことに戸惑っていた。彼女のお父さんはおどろいてはいたものの、すぐに冷静な佇まいに変わった。身長差のせいで自然と見下ろされる距離感になる。視線が然とまじわれば、瞬時に身が引き締まった。

咄嗟に出てはみたものの、頭のなかはいまいち整理できていない。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、ありすぎて結果よくわからなくなりそうで、授業でも部活でもめったにならないような状態だった。多分、真正面で向き合った彼の表情が揺らいでいたからかもしれない。強固な意思を懸命に保とうとしている目でこちらに向き合っていた。
想像できうる範囲で思い描く彼の苦悩なんて、ほんの少ししか共感できないだろう。そもそも外野にいる自分が入ってはいけない話なのかもしれない。

それでも、彼女の願うしあわせのためになにができるのだろうと、なんどでも考えてしまうのだ。


「苗字さんは食べることが好きなんです」


ふたりはまったく同じタイミングできょとんとした。彼女にいたってはぱちぱちとまばたきを繰り返していた。

「甘いものは特に大好きで、校外学習のために友達とおやつを買いに行くのもずっと前から楽しみにしているくらいで、きっと限度額も超えて買いだめすると思います」

「え、いや、その」

「当日お弁当は配られるけど、別でおかずも手作りしてみんなと分けそうです。予測が得意な友達にも聞いてみたら唐揚げを持参する確率は80%くらいだと言ってました」

「ち、ちょっと幸村くん!?そんな分析いります!?ほんとにそのつもりだったけども···!」

彼女の顔は汗だらだらで真っ赤になっていた。
大丈夫、話したいことは合ってる。そう言い聞かせながら話す自分の声がめずらしく、いつもならそうはならないのに、ほんの少しだけ必死になっているのにおどろいた。

「あとは、写真もいっぱい撮ると思います。苗字さん、放課後もときどき俺たちの写真を撮って見返しているんです。俺に見せてくれるときも『あのとき食べたこれが美味しかったね』とか『みんな面白かったよね』とか、絶対に忘れないって誓うみたいに、だいじそうに話してくれるんです。きっと苗字さんなら、校外学習のあともそうします。そういうことにもすごく一生懸命なんです。
俺は、そんな苗字さんをこれからもずっと見たいと思ってます。こんなこともあったんだって一緒に確めながら、また行けたらいいねって話して、そうやって彼女と過ごせたら、それで」

そこまで言って、喉が詰まった。眉間に皺を寄せた彼のやるせない表情に、一瞬、どうしたらいいのか分からなくなった。
あぁ、そうか。きっと彼女もこんな気持ちだったんだ。
だからこそ、止めてはいけないんだ。

「苗字さんが好きなこと···友達と美味しいものを食べたり、寄り道したり、なにもなく過ごすあたりまえのことは傍から見たらたいしたものじゃないかもしれません。校外学習なんて人生でいちばん大切なことじゃないと思います。でもそれだけでも、苗字さんはたくさん笑ってくれるんです。
俺は、そういう苗字さんを見るのがいつも好きで、とびきりの夢が叶ったみたいにうれしそうに笑ってくれる度ほんとうによかったなって、そう思えるんです。
なにが起こるかは、俺にも、誰にもわかりません。絶対になにごともなく終わるはずだなんて言いきれません。もしかしたら想像していたよりもずっと最悪な未来だってありえる。
でも反対に、これでよかったんだって、踏み出してよかったって思える未来もかならずあるはずです。そんな未来なんかないだろうって、最初から決めつけたくない。
しあわせそうに笑ってる苗字さんを見られる可能性がゼロじゃないなら、諦めたくない」

_____幸村くんはわがままだね
甘い声が遠い記憶の向こうでまぼろしのように消えていく。

「どんな明日になったとしても、俺は彼女の隣にいたいです」

せつなく瞳を揺らがせる彼女を捉える。

「待ってるよ」

ひとつ会釈をして、背中を向けた。






幸村くんの後ろ姿はすぐに見えなくなった。それでもずっと彼の残像を辿るように目を離せなかった。
ゆるんだ目もとをぎゅっと閉じる。ようやく、お父さんに向き合った。


「お父さん、」

「······さっきのは···」
「? お父さん?」
「さっきの子は誰だ!!??」
「へっ!?」
「友達なのか!?ま、まさか···彼氏だなんてことは、」
「とっ、友達だよ! ほら、幸村くんだよ。話したことあったでしょう?植物が好きでテニスもすごく強くてつぎの部長は確実だって言ってた、あの幸む「あんな聡明な男子中学生がこの世に存在するとでもいうのか!?」
「ま、まぁ確かに中学生離れしている面は多々あるけど、でも幸村くんも普通の男の子なところもいっぱいあってね、」
「しかもさっきのあれはなんだ!?『隣にいたい』だなんてあんな直接的な···もはやプロポーズみたいなものじゃないか!?」
「ぷ!!?? そんなわけないよ!プロポーズなんて···そんなこと······」
「·········ちょっとなんだその顔は」
「えっ?」
「まさかそういうことなのか!?そうなのか!?」
「ちちち違うよ!もう、なに想像してるの?お父さんはすぐ変なことに結びつけるんだからっ」
「お父さん違う意味でも校外学習が心配になってきたぞ···あぁ、どうしたら···!」
「さっきの幸村くんの話聞いてたんだよね!?」





「(喧嘩してるのかな···大丈夫かな)」

やいやい言い合う声が階段を下りていた彼のもとにまで響いていたらしく、翌日、幸村くんからはかなり心配されてしまった。幸いにも会話の内容までは聞こえていなかったらしく、ほんとうによかった。



*


景色はこれでもかとあざやかに目に入ってくるのに感覚がおぼつかない。朝からずっとこんな調子だ。とびこんできそうな青い空。甘い緑の空気がすうっと身体のなかに入り込んでくる。
朝家を出て、駅まで集合して、バスに乗って、たどり着く。ついさっきまでしていたことが途方もなく遠い記憶になりそうだ。

「苗字さん」

「幸村くん」

ひとだかりから外れた草原で座っていると、幸村くんがそばにいた。ここでも彼は私を見つけるのが得意みたいだ。
もう昼休憩の時間ははじまっていた。みんなで集合する頃合いになっても、幸村くんが来ても、私は立つ気になれずにいた。遠くから子どもたちのはしゃぐ声が聴こえてくる。
彼は黙って、私の隣に座った。

「もう来られないと思ってたから、こうしてここにいるのがなんだか不思議。ここに来ることも、こんなふうに幸村くんが隣に座ってることもずっと向こうがわの話みたいだったから」

さらさらと草が揺すられるのと同時に、彼の髪も靡いた。

「朝、君の姿が見えてほっとしたよ。直前までは正直俺も落ち着けなかったかな。君のお父さんにとやかく言いすぎてしまったのもあるしね」

「ううん、そんなことないよ。お父さんもあれからすごく考え直してくれたから。幸村くんがああして話してくれなかったら、きっとあのままだったと思う」

このままお礼を言って、さぁ遅れるからはやく行こうか、と言えたらよかったのに。

「苗字さん?」

空っぽな自分なりに一歩踏み出した証拠が欲しかった。自分の意思で、自分の足だけで振り向かずに歩けたのだと堂々と言いたかった。

「私、ひどいこと考えてる。あんなにも幸村くんが救けてくれたのに、やっぱり行かないほうがよかったのかなって、そんなこと、」

ぐっと喉を掴まれたみたいに、息苦しくなる。
揺れるバスのなかで幾度も思い返していた。
いってきます。そう言ったあとの、お父さんの顔。
やっぱりここに残るよ。すんでのところで、言いそうになった。
目のうら側にまで映り込んで、忘れられない。

「結局、私も変わってなかった。前に進むために必要だと思って、後悔しないよう選んだつもりだった。なのにいまも自分のしたことは結果的に傷つけただけで、自分のわがままでしかなかったんじゃないかって、そんなことばっかり考えてる」

押し切った選択でなにもかも解決できるはずがないと頭の片隅では分かっていたつもりだった。微塵の後悔もなく事が進むわけがないと予想していたつもりだった。
的中していた。そして、あっけなく揺らいだ。素直によろこべない自分のよわさを恨んだ。自分の決意はこんなにも脆かったのかと情けなくなった。
もっと、つよいひとになりたかった。

「なら、なおさら存分に楽しまないといけないね」

俯いたさきに映るスカートの上に置いた自分の手もとが歪みはじめる。こぼれ落ちそうなところで、幸村くんの手が私の手の甲を覆った。

「今日帰ってからお父さんが君を見たとき、君がそんな顔をしていたらそれこそ見送ったことを後悔すると思うんだ。
君が笑っていることが、いちばんなんだよ。それは俺にとっても例外なくね」

幸村くんはせつなげに、おだやかに綴る。彼の手はじんわりとあたたかい。

「君だけの意思でどうこうなる問題じゃないってわかったから、俺からはなにも、ただ待つことくらいしかできないと思ってた。でもあのとき君の声を聞きながら、思い出したんだ。
君が望んでいるもの、なによりそういうものに俺も君の隣でふれたかったこと。
救けたなんてたいそうなことはなにもしていなくて、君がいてくれたらそれでよかった。俺はわがままな選択をしただけだった」

彼が思う以上に、彼がしてくれたことはたいそうなことだ。多分、あのときの幸村くんはちょっと緊張していた。見ず知らずの大人に向かって、相手の言い分もお構いなしに思うことをまっすぐに伝えた。物腰おだやかで必要ならば身を引く術も知っているはずの彼の、知らない姿だった。それでも変わらなかったのは、そのあいだもずっと彼は私を見ていてくれたこと。

「私の選んだことは、間違っていないのかな」

「もしほんとうに間違っていたとしても、きっとただしくできるよ。これからただしいものにしていける。一緒に、俺も手伝うよ」

彼の声には固い意思が伴っていた。あの海でも、音楽室でも、昨日も今日も、いつも彼は待っていてくれる。

「今日はかならずいい日になるよ。
いっぱい食べて、しようもないことで笑って騒ぐだろうし、でもなんにも考えずにのんびり過ごすのもいいかもしれないね。君らしく、終わりにはあぁよかったって泣いてもいいんじゃないかな。君が帰っているあいだじゅうも満たしてくれるような写真も撮りすぎるほど撮って、そしたらあとで俺にも見せてほしいな。そうだ、今日は赤也はいないけど、どこかの日曜日にでもこういう場所でほんとうにみんなで揃って出かけようか。
今日の終わりには俺も、俺が君ともういちどここで過ごしたいって思える日にしてみせるよ。大袈裟なことは俺にもできないけど、でも、ふたりでならできるはずだから」

私の好きな、透明な声。このひとはいつも私のこころを掬ってくれる。

「私のしたいこと、なんでもわかってるね」

「君は遠慮なく欲ばりだろ」

「幸村くんといると余計にそうなっちゃうのかな」

「それでいいんだよ」

「でも、身内の前であれこれ言い当てられるのは恥ずかしかったな」

「苗字さんらしさを表現できたんじゃないかな」

「なんだかお腹空いてきちゃった」

「あ、ほらやっぱり」

たくさんのいとおしさを込めて彼を見つめたなら、こたえるように彼のまなざしが降ってくる。あいかわらず泣きそうになってしまって、視界はぼやけていたけれど、うんとやさしく笑っているのがよくわかった。

「いまここに君がいて、ほんとうによかった」

「私も、幸村くんがいてくれてしあわせだよ」

ちっぽけなことひとつでも、幸福のありかは見つけられる。私がいる世界でも彼のいる世界でもそうあってほしいと、こころからそう思った。






「はい、これは幸村くんの」

「なつかしいな。俺もちいさいときはよく作っていたよ」

あたりに咲いていたシロツメクサを編み込んで、彼の手首にブレスレットをくぐらせた。細長くてけれど無骨な手の甲にかわいらしい花かざりは不思議と映えていた。

「幸村くんならこういうのも似合うね」

彼の指をひとつとって、くるりと指輪を巻つけた。すっと伸びた指に白い花がちょうど素敵な飾りになっている。彼がじっと指輪を見つめていたので、虫とか変なものでもついていたのかな、と思ったけれどらしいものが見つからない。「幸村くん?」呼びかけると我に返ったように彼が顔を上げた。彼にしてはめずらしい反応だが、なにを考えこんでいたのだろう。

「いや、なんだか」
「?」
「さりげなくて、なかなかいいね。参考になるよ」
「え?」
「いいプロポーズだと思って」

彼の発言の意図が掴めず、きょとんとしてしまう。ふたたび彼の手もとを見やると、じわじわとその意味を理解しはじめた。
私が嵌めたのは、彼の左手の薬指なのだ。左手の薬指。よりにもよってその指を選ぶだなんて、もしかして私は無意識にそういうことを考えているのだろうか。

「ご、ごめんなさい」

「どうして謝るんだい?」

「だって、それは······とにかく外さないと、」

「嫌だ」

「そ、そんなっ」

子どもみたいにぴしゃりと断られてしまった。私が真っ赤になってあたふたしながら草の輪を解こうとしても、「もったいないだろ」手を後ろへ引っ込められてしまった。
もったいないとかじゃなくてと言い返したかったのに、それどころか「ほら、君も」なんて促されるまま、彼の手を掴もうとした私の手のほうがあっさりとられてしまった。

「俺からもいいかい」

無口になった私におかまいなしに、彼がそっと私の手を持ち上げる。左手の薬指にふわふわ白い、大ぶりな指輪が嵌められた。一連の動作が繊細でなめらかなものだから、自分の手はなによりも特別なオブジェになったのではないかと錯覚しそうになる。胸のなかが忙しなく鳴りっぱなしだ。

「そんなに困ったような顔しなくても」

「そんなわけじゃ、ないけど」

「もしかして、先約済みだったかな?」

「···そんなわけじゃないけど」

「お気に召さないとか?」

「そんなわけじゃなくて、むしろその、かわいい指輪だから······」

おかしげに笑う幸村くんの前で、私は赤らんで俯くことしかできなかった。だって、こんなのまるで。なんてことない流れからそうなっただけで考えすぎちゃだめだ。繰り返し頭で否定しようにも、指輪を目にした途端にどうしたって意識してしまう。

「綺麗だよ」

やわらかいまなざしがまっすぐ射抜いてくる。この瞳から逃れられたらずいぶんと楽になれるのに、と、ときどき思う。

「すぐ切れたりしないか心配だね」

「その、幸村くんは、はやく外したほうがいいと思うよ」

「まさか。最後までだいじにとっておくよ」

「確かに花は綺麗だけど、」

幸村くんは、ずるいひとだ。

「だって君がくれたんだから」


そうしていたら、遠くのほうから私たちを呼ぶおおきな真田君の声が耳に入った。ふたりで急いで声のするほうへ向かうともちろんみんな勢揃いで、特に丸井くんからはお腹が空いたと大ブーイングを受けた。でもそのあと、私が作ってきた唐揚げをあげたら一気に機嫌がよくなっていたけれど。

それからはみんなでお昼を食べて、丸井くんと持ち寄ったいっぱいのお菓子もみんなでたんまりと分け合った。仁王君はしゃぼん玉をぷかぷか吹いていたので、私もひとつもらって途中からはどちらがおおきいしゃぼん玉を作れるか勝負していた。四つ葉のクローバーを探すのに夢中になっていると柳生君も親切に手伝ってくれた。優雅に読書をしていた柳君を私がこっそり撮っていたら「盗撮はよくないな」後ろに目がついているのかと思うくらいの気配の感づきようにびっくりした。幸村くんは真田君のために花冠を作ってあげたらしく、真田君の頭にのせたなら、丸井くんと桑原君が大笑いしていた。当然盛大に怒られていた。

「おいでよ」

あたたかくて、あかるい景色をめいっぱいに浴びた。


帰りのバスに乗る手前。
少し遠くのほうで、真田君が、幸村くんがつけていた花のブレスレットを不思議そうに尋ねているのが見えた。幸村くんは指輪にも目線を配らせて説明しているようだったけど、なにを話していたのかまでは聞こえなかった。

私は帰ってから、彼がくれた指輪を押し花にした。
あれから彼はどうしたのか、私は知らない。

  

神さまの通り道

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