あいつとこいつはたいていセットだと思ってる。はじめは正反対なタイプだと思ってたのに、いまじゃなんにも違和感がないのが不思議だ。
「あれ、仁王は?いねぇの?」
「ですから、いつでもなんでも一緒というわけではありませんよ」
「はい、これ」
「おぉ···ありがとうございます! 大変助かりました。では、こちらとトレードですね」
ヒロシに赤い戦士のカード、俺に黄色い戦士のカード。
毎週日曜日の朝に放送されている戦隊ものに弟がはまってて、最近発売されたグミについてるカードを集めてるらしい。俺がコンビニでグミを買ってるのを隣で見たヒロシがやけに前のめりで語りはじめたのがきっかけだった。
「ダブってちょうどよかったろぃ」
「これはなかなかレアなんですよ」
そう言って眼鏡を持ち上げながらうれしそうに眺めている。カードを手に高々と上げる姿は演劇部と掛け持ちでもしたらいいんじゃないかってくらい大袈裟で、いい意味で様になる。うちの部のやつらは意外なやつが意外なのを趣味にしたり好きだったりしてたまによくわからないな、と思う。もちろんいかにもそれっぽいって納得できることもあって、幸村くんとか赤也なんかは見たまんまってかんじですごく分かりやすいな、とも思う。
「今日もどこか行かれるのですか?」
「どうすっかなぁ。あんま金ねぇんだよなーこのあたりになると」
「月末ですからね。苗字さんが貯金もダイエットも一向に進まないと嘆いてましたよ」
「大丈夫だろぃ。この前うまい棒一本でもすげぇ美味そうに食ってたぜぃ」
「とりあえずなにか食わせとけばいいなんて言いかたはおやめなさい」
コンビニで買えるアイスでも小洒落たカフェのスイーツでも苗字は同じくらいよろこぶ。甘いものが好きなのはそうだけど、俺といる時間そのものを純粋に受けとめて、ふかく味わっているんだと思った。俺はすごいことをしてるんじゃないかって勘違いしそうになるくらい、あいつはしあわせそうに笑う。
「苗字さんはどちらに?」
「今日は音楽室だってさ」
「迎えに行かなくていいのですか。丸井くんが行かないと出ていい頃合いもわからないでしょう」
「いいよ。あいつが好きなだけ弾かせたほうがいいし」
「幸村くんは、帰りましたよ」
見たこともないのになぜか鮮明に頭に思い浮かぶ。
あの音楽室であいつの隣に幸村くんがいる、あの光景。顔まではわからない。毎回背中だったり、俺のいる位置からじゃ見えないどこかからだったりする。笑っているのか、かなしんでいるのか、どうなのか。苗字をみている幸村くんの表情もおぼつかない。
冬休み。
苗字を誘って、都市部寄りの広場で開催されていたイルミネーションを見に行った。ちかちか光る細長い木、あったかい食べものの匂い、ぱりっとしたつめたい空気。
歩いていると、通りすがりのガラス張りのビルに貼られていたポスターに苗字の目が留まった。俺もさきに駅近くのカフェの看板のそばにそのポスターが掛けられているのを見かけていた。駅から歩いて数分のところに美術館があるらしく、そこで催されている企画展の広告だった。
「気になんの?」
訊くと、苗字は否定とも肯定ともいえない相槌をした。それから苗字はしっかりと、もう一度ポスターを見つめ直した。
「幸村くんの好きそうな絵だなって」
前から予感はあった。ふたりが音楽室に通っているのもそうだけど、でもそれ以上にふたりが同じ空間にいなくても、ときどき幸村くんのことを話す苗字の表情やちょっとした仕草が胸をざわつかせた。それでも確証がもてなかったのは、苗字が隠すのがうまいことも、俺が気づかないようにしていたのも、両方あったんだと思う。
でもこの瞬間、すぐにわかった。
目も、口もとも、声も、横顔も、すべて物語っていた。誰も、俺も知らない時間のなかでふたりになにかあったんだって。
「幸村くん、誘えばいいだろぃ」
「ううん、そういうわけじゃないの」
そうっと笑う苗字を見て一瞬、身体の内側があつくなった。
ポスターを見る。やさしい筆使いで描かれた淡い女の子の絵。黄色いターバンに白いワンピースみたいな服。手に鳥をのせながらこちらに向かってかわいらしく微笑んでいる。確かに、幸村くんが好きそうだった。
あ、と苗字が声をあげる。
「見て。あそこも綺麗」
俺のコートの端っこを引っ張る苗字の、分厚く巻かれたマフラーからはほんのり赤い頬っぺたが覗いていた。
それからの夜はふたりともめいいっぱい楽しんだ。いっぱい食べて、いっぱい写真を撮った。くすぐったそうに笑う苗字はかわいかった。
ひとがいよいよ多くなるぞという頃合いで俺たちは駅に戻った。夜とはいっても俺たちはまだ中学生で、あんまり遅くなると苗字のお父さんが心配するからだ。帰りの電車で苗字はちょっと名残惜しそうだったけど、それでも心底満足そうだった。
笑ってる苗字の隣は、俺じゃないと嫌だった。
合間にできる沈黙の隙をみてはなんどもそう思った。苗字の横顔越しにあんなに突きつけられたのに、性懲りもなく。
「また来年も行こうね」
苗字の目はきらきらしていた。夜風で乱れた苗字の前髪を撫でるみたいにととのえてやると、やっぱりあいつは、くすぐったそうに笑っていた。
「ときどき考えるのです。あのとき、行かせてもよかったのか」
苗字は前よりも積極的に音楽室に通っている。そうなったのはコンクールが終わった冬休みのあとのことで、そのコンクールに出ることになったのは、あの海原祭がきっかけだ。あの日強引に鍵盤の前に座ろうとした苗字のうしろにはヒロシがいた。緊急時だったからやむを得ずではあったけど、苗字にあの場で弾くように促したからいっさい無関係だとは言い切れない。多少なりともいまの苗字がうまれる後押しをしたともいえる。彼もまたあの日、とても近い距離で苗字___知っているようで知りようもなかった姿___を見ていたからこそ思い直すのかもしれない。
あの日、苗字は泣いていた。
「お前がどうしても、あいつは変わらなかったと思う」
きっとあいつはなにがあっても何回でもあそこに行く。ほとんど絶対に、そうだと思う。絶対はないってあいつはよく言うからほとんどをつけてみたけど、まぁ絶対。
真っ暗な舞台のうえでまぶしい照明を浴びるひとつのピアノ。すいこまれそうに近づく苗字を止めようとしたあの瞬間、掴んだ手首はびっくりするくらい細くて、骨のかんじがした。
_____あっけなく終わるのって、むなしいんだよ
苗字は、ひどくさみしそうに微笑っていた。
「自分がしたことって、自分が思う以上にだれにとってもなんにとっても実はたいしたことなかったりするんだよな」
全部がぜんぶそうじゃねぇけど、と、最後につけ足すと、ヒロシは隣で考える素振りをした。
「確かに私の行動が誰かに影響を与えたと思うこと自体、傲慢ともいえるかもしれませんね」
「そこまでは言わねぇけどさ、でも、あんま気にすんなよってこと」
「にしても、丸井くんは達観していますね。少々ご自身を過小評価しすぎなような気もしますが」
「どうしようもねぇことって考えてもどうしようもねぇだろぃ」
できることならなんでもしてやりたいと思っていても、できることなんて限られている。多分それは幸村くんでも、だ。
「苗字さんからスコーンを頂いたので帰ってからおやつにするのが楽しみです」
「え、俺知らねぇ」
「今日の話ですから。ちなみに手作りです」
「そこ強調すんな。んで俺にくれ」
「ええ、もちろん丁重にお断りします」
「五人揃ったスーパーレアカードと取引だな」
「なっ、なんと……!お持ちなのですか……!?」
「マジで食いつきすぎだろぃ」
眼鏡の真ん中に指を添えて「これは失礼しました」と戸惑うヒロシの弱点がわかった気がした。だからってつけ込む気はないけど。
「あ、そうそう。本のレビューを簡潔にしたいのですがどうも長くなってしまいまして。柳くんがノートにまとめて互いに読み返せばいいのではないかと提案してくださったのですが、苗字さんも加えて問題なさそうでしょうか?」
「交換ノートみてぇだな」
「そうたとえられると少々気恥ずかしいですね」
「いいじゃん、あいつすげぇよろこぶぜぃ。多分テンション上がりすぎて全然関係ねぇことまで書きそうだけど」
「それではほんとうに交換ノートになってしまいます」
そう言いながらもノートを手に眺めているヒロシの表情はゆるんでいた。
そういえばいつかの日、ヒロシもバイオリンを弾くことがあるらしいのだと苗字が話していた。意外だとは思わなかったし、彼らしいとも思ったけど、いまなになってそれが趣味だとはじめて知るとは思わなかった。どうやら苗字曰く、そのときに立ち会える日はこの先めったにないらしい。
「もうちょっと聴いてみたかったな」
「ヒロシに言ったら弾いてくれんじゃねぇの?」
「そうかんたんな話でもないみたい」
苗字は愉快げに笑って、そう言った。
「あまり遅くなってはいけませんよ」
「苗字は、もうすぐ来るよ」
いまはもう、あの音楽室の匂いを忘れかけている。
毎朝タイミングが鉢合わせすると、彼とは一階のロッカーでよく出会う。私と彼のロッカーの位置がちょうど一年生と二年生の境目あたりだった。
「はよーございます、苗字先輩」
制汗剤の涼やかな香りがほんのりと鼻を掠める。けれど、すっきりとした香りを纏っているのに似つかわしくないほど彼はいかにも仏頂面だ。いつもなら快活に愛嬌のある笑顔で挨拶をくれるのでどうしたものかと心配になる。朝練で真田くんに怒られたのだろうか。
「おはよう、切原くん。···どうしたの?なにかあった?」
「ありましたよ。つーか、あんたのせいですからね」
「私!?」
彼がぶすっと睨むので思わず怯んでしまう。そんなにも機嫌を損ねることをしてしまったのか最近の行動を振り返るも、思いあたる節がない。頭を捻る私のようすに耐えかねたのか「あのねぇ」彼が深くため息を吐いた。
「この前一緒にファミレス行ったこと、先輩らに話したんすよね?」
「う、うん」
「奢ってくれたのは感謝しますけど、だからって奢ったどうこうを周りに喋らないでくださいよ!」
ぎくり。という効果音の意味がここいちばんにわかった気がする。
「昨日そのことで先輩に怒られたんすからね!」
「ほんとのほんとに? 私も昨日怒られたんだよ!」
「なにうれしそうに共感してんすか!そこよろこぶとこじゃねぇし! ···って、え? 苗字先輩も?」
目を丸くする彼は、私がみんなに話した内容の詳細までは知らないらしい。
切原くんとの親睦会ということで(私が勝手にそう捉えている)彼とふたりでファミレスに行った翌日のこと。はしゃいでいた気分の冷めないまま、みんなに思い出の共有としてつい昨日話したばかりだった。
トップバッターは言わずもがな例の三人。そう、これがよくなかった。
『昨日やっとね、切原くんと一緒にご飯食べに行ったの···!』
『へぇ、そうなんだ』
『はじめはお互いぎこちないように見えたが、すぐに解れたようでなによりだ』
えへへと気が抜けたようにゆるんでいる私のそばで、幸村くんと柳くんもおだやかに笑っていた。
『仲良くなった記念ついでに、後輩が出来たらなにか奢ってあげる、みたいなのやってみたくて···結構奮発しちゃった』
『赤也のことだから、調子に乗ってなかったかい?なんでもほどほどにね』
『ハンバーグセットライス大盛りに、サイドにグリルチキンとサラダバーもつけて、あとはビッグピーチパフェにホイップとバニラアイスもトッピングでさらに足してね、切原くんいっぱい食べてくれたよっ』
と、この瞬間、空気は一転してしまった。
さきほどまでやさしくうんうんと相槌を打ってくれた幸村くんの表情は『ほんとうに全額苗字さんが払ったのかい?』たちまち険しくなる。真田くんの眉間の皺はこれでもかと濃いし、柳くんは心無しかどん引きしているではないか。
『あ、あの、みんな、どうしたの?』
『苗字、いま一度金銭の扱い方を見直したほうがいい。いや、見直すんだ』
『で、でも私は特に後悔はしていなくって、』
『なら、なおさら問題だ』
『赤也は遠慮がなさすぎるけど苗字さんもたいがいだね』
『サラダバーは私も食べたいから足しただけで、その、もちろん切原くんと同意のうえでして、』
『重要視しているのはサラダバーではないのだが』
『赤也め···男子たる者、女性にたかるなど許されんぞ!』
『たかってないですっ、私が勝手にしたことでして···!それに現代は男女平等の社会ですから男のひとが払うべきというわけでもないですし···!』
『苗字さんが将来ちょっとしたことで大量に貢いだりしないかとても心配だよ』
三人に追い詰められて冷や汗が止まらない。各々指摘したい箇所は少しずつ違っているようだけれど、ひとまず私のお金の振る舞いかたがよろしくないという意見は一致していた。
『気前がいいのはいいことだけど自分の許容範囲は超えてはいけないよ。俺たちはまだ中学生だしね』
『······はい』
私と年の変わらない中学生男子にこうも指導されると耳が痛い。このあと真田くんにもたるんでいると一喝入れられてしまい、肩がおおきく跳ねてしまった。
そのあと、柳生くんは私と切原くんの仲を気にかけていてくれていたのもあって『昨日は楽しく過ごせましたか?』あちらから尋ねてくれた。隠せない性分が勝って、三人のときと同じくありのままを話したら
『それはやりすぎですよ、苗字くん!』
『く、くん!?』
彼もまた仰天していた。
桑原くんには『それ以上は絶対するなよ!?』顔を真っ青にしてかなり心配されたのも記憶にあたらしい。彼はいったいなにに恐れているのだろうか。
「そんなのいちいち話しまくる話題じゃないんすよ」
「いつか後輩ができたら、先輩らしく奢ったりするのが夢だったから···してみたくない?」
「ねぇっす。金なくなるだけだし」
「···そうですか」
「もっと謙虚になれって先輩に言われましたけど、俺あん時一応遠慮しましたからね!······けど、苗字先輩がどんどん食えって、あんなうれしそうに言われるとつい気がのっちまったつうか···」
「ご、ごめんね」
「それも言ったら言い訳だって怒られましたけど。しかも丸井先輩の誘い、断ったんすか?」
「新作のパンケーキ食べに誘ってくれたけど、お小遣いほとんどなくなっちゃったから···」
「『俺が苗字と食いに行けねぇだろぃ!』ってやつあたりされたんすけど。それまで俺のせいなんすか!?」
「えぇっ、それは丸井くんの怒る観点が違うんだと思うよ···!」
「もうあんたと飯食いに行くのは勘弁です」
「そそそそんな···っ!私まだ切原くんと仲よくなりたいのに···!」
はやくも私たちの仲に亀裂が入ってしまうのは勘弁願いたい。げんなりした顔のまま去ろうとする背中を急いで追いかけようと、さっとロッカーを開けたときだった。
上履きの手前に寄りかかるようにして白い封筒が一通入っていた。取り出して裏おもて両方を確認するが、宛名も送り元も書かれていない。厚みもなく、無地で変わり映えのないごく普通の封筒だ。
「どうかしたんすか?」
背後から覗き込むように切原くんが声をかけてきた。(わざわざ戻って、引き返してくれるあたりがやさしいなと思う)
手紙らしいものが入っていたと説明すると「えっ、ラブレター?」そこそこ興味を持たれた。
「そういうのじゃないと思うよ」それは短絡的ではないかと否定したみたけれど、いざ指摘されると余計な考えが邪魔をしてくる。
「いま読んでみてくださいよ」
「それは、ちょっと」
抵抗を示すと、切原くんが「それくらいいいじゃないすか」焦れったそうにした。内容はどうあれ、手紙は手紙だし。
「でもほんとにラブレターだとしたら結構古臭いっすよね」
靴箱にラブレター。典型的で王道にも見えるが、最近は漫画でも見かけないシチュエーションだ。巡り巡って、こういう告白が流行っていたりするのかな。そこまで考えたところで、はっと気づいて慌てて脳内の思考をかき消した。いつのまにか手紙の内容がラブレターという前提で考えているではないか。そういう類のものじゃないと言ったわりには、そういう類を意識しているのだ。
「なんて書かれてたのかまた教えてくださいよ」
「気が向いたらね」
それから迎えた昼休み。
丸井くんが食堂に行く日はたいていひとり教室でお弁当を食べている。
今日もそうだった。チャイムの鳴り止んだ頃、巾着袋を取り出そうと鞄を開く。
鞄のなかでまっさきに目に入ったのは、文庫本のページの隙間からはみ出している白い封筒。今朝ロッカーに投函されていたあの手紙はとりあえずとして本に挟んでいたのを思い出した。
取り出して、じっと眺める。
こういうのは帰ってから読んだほうがいいのかな。いや、そもそも恋文だという保証がないのに、まして私にくる可能性がまずありえないのにそこまで気にする必要があるのか。やっぱり自意識過剰だ。でも、万が一にもしかしたら。ぐるぐる。もやもや。疑い半分期待半分。複雑に感情が入り交じっている。
あぁ、もう。こんなに考えるくらいなら。
教室内を軽く見渡す。生徒がまばらなのを確認して手紙を両手で持つ。念の為、机の下へ忍ばせる。
封を開けて、なかの薄い紙を取り出す。
そっと開いてみる。
『ブス』
(やっぱりそうですよね······!)
あぁそうですか。そういうことでしたか。
盛大に声に出したかったけれど、ぐっと堪える。なにをこんなに悩んでたんだろう。ほんとのほんとに自意識過剰だった。
念のためもう一度綺麗に折りたたまれた紙を開いてみる。が、紛うことなき殴り書きされたたった二文字に変化なし。字面を眺める度に気が落ちる。きっと書いた本人に大それた意図はないのだろう。素通りすればいいのだろうけれどどうしても引っかかってしまう。いったい、誰が書いたんだろう。
ため息をついたところで、ひとの気配がした。反射的に膝元から顔を上げると、跳ねっけのある銀髪が目に映る。手紙は瞬時に机のなかへしまった。
無言のまま、彼は私の前の席へ座った。気だるそうに。
進級してからテニス部のみんなとは誰ひとりとして同じクラスにはなれなかったけれど、それでも友達のなかで物理的な距離でもっとも接点があるのは、彼だった。彼のクラスと私のクラスは隣同士なのだ。
彼の周りにひとはいない。
部活を除いては、彼のあたりは境界も曖昧な形容し難い空間がうまれる。幸村くんの纏うオーラのようなものとも違う。丸井くんほどの愛嬌があるとはいえないけれど、ときどき変なちょっかいを仕掛けるあたり極端に愛想がないわけでもない。もちろん威圧的でもない。それでも周囲はむやみやたらに近づこうとはしない。色めいた顔つきに、掴みどころのない言動、一見すると落ち着きはらった佇まいが、彼を自然と遠巻きにさせている。孤高と呼ぶのも孤独とも呼ぶのもどちらの表現も仰々しい。しかし、彼はひとりだ。
「どうしたの?」
特には。なんとなく。あたりさわりのないこたえ。もしくは無言。返事(と呼んでいいのかもわからないのもある)はおおむねきまっているけれどとりあえずは尋ねてみる。
週に何度か、たいていは昼休みに彼は私の席の前後どちらかを訪れる。右と左にはやって来ない。
「マイナスイオンが出とるから」
いつもの定型文ではなかったものの結局理解不能なことには変わりない。聞き返しても「うまく言えんが癖になるんじゃ」やっぱりわからない。私の机に片肘をのせ、頬杖をついている。すんとした横顔。はりのある銀の髪の毛。
「お昼は?」
「食べた」
「えっ、もう?」
昼休みがはじまってから少ししか経ってない。
「朝起きるのが遅くなってしまっての。コンビニでかろうじて残っとったもんを買えたくらいぜよ」
そう言って彼がふわ、とあくびをする。
「なに食べたの?」
「ソーセージパン」
「···それだけ?」
「それだけなり」
「それだけ!?」
「そんなにおどろくことか?」
「仁王くん、部活もあるのにそれだけだと倒れちゃうよっ。丸井くんなんかもっともっといっぱい食べてるのに」
「あいつはむしろ糖質制限すべきじゃと思うが。まぁ、腹は減るがしかたないかの」
一般的な男の子らしくたんまり食べている印象が彼にはない。とはいえ彼には数時間後、世にも有名なあの過酷な部活動が待ち受けているのだ。(噂によるとさぼりはかなり減ったと聞いているのでおそらく部活にはしっかり出るはず)
「これ、食べる?」
蓋を開いて、彼の目前に差し出す。窓の向こうをぼんやり眺めていた彼の目もとがようやく動いた。
「お前さんのじゃろ」
「もともとは丸井くんのだよ。毎日丸井くん用に別に作ってるんだけどね」
「お前さんは丸井の母ちゃんか」
「今日は丸井くん、学食みたいだからちょうど余るの」
どう?と、唐揚げが詰められた別の容器を彼に差し出す。彼はじっと見つめたのち、唐揚げに刺してあったピックを持ち上げた。そのまま口へ運ぶと「美味い」と言ってすぐ「これ、まだ食ってもええかの?」ちょっとだけ前のめりになった。ぜんぶ食べていいよと勧めると、彼はお言葉に甘えてぱくぱく食べ進めた。結構、お腹空いてたんだ。
「ありがとさん。美味かった」
「よかった···でも、足りないよね?卵焼きもいる?」
「もうじゅうぶんぜよ」
「ええっ、私より食べてないよ。なんとなくだけど、仁王くん、朝ごはん食べなさそうだよね」
「よぅわかったの」
「なんとなくね」
「忘れるし、めんどくさいし、そもそも朝から食べる気にもなれんのじゃ」
「えっ、忘れるなんてあるの? 私、朝からお腹空くからなにがなんでも食べるよ。今日の朝はあんずジャムトーストにゆで玉子にヨーグルト(はちみつたっぷりトッピング付き)だったよ!」
「結構食うんじゃな」
「あ、和食のほうが好き? 昨日の朝ごはんは納豆ごはんにお味噌汁にきゅうりの漬物でね」
「···········」
「······すみませんでした」
「なにが言いたいんかわからんくなったちゅうところか」
つまり朝ごはんは大切だと説明したかったはずなのに。私の朝ごはんのメニューなんかものすごくどうでもいいことだ。苦し紛れに「私より痩せたらだめだからね」忠告はしておいた。
「もしかして朝から食べ過ぎかな?だから痩せないのかな···」
「昨日の朝飯まで覚えとるんは大したもんぜよ」
仁王くんがそう言ってからかい気味に笑うので、私はいたたまれなくなった。丸井くんより食欲はちょっとはましなほうだと思ったのにな。
食べ終わったあと、本を読んでいる私のそばで彼は動くことなく、ぼうっと窓の向こうがわを眺めていた。頬杖をつきながら、しずかに。ときどきあくびもしていた。なにを思っているのだろう。少なくとも今日の晩ごはんのことは考えていなさそう。
私が宿題なり読書なり黙々と過ごしていると、彼は気がむくままにやって来る。話しかけてくることもあれば、だんまりのときもある。いたずらをされる日もあれば、うたた寝しているだけの日もある。かと思えば、すぐに去ってしまう日だってある。
「仁王くんって猫みたいだね」
と言えば、
「にゃあ」
かわいらしくはない声で鳴いていた。目も合わせず、気だるげに。
翌朝。
ロッカーを開いたなら、昨日とまるっきり同じ光景だった。
上履きよりもまず、白い封筒を取り出す。裏返してみてもやはり差出人の苗字はない。投函した人物は昨日と同じなのだろうか。
「はよーっす、苗字先輩。あれ? それ昨日もありませんでしたっけ?」
切原くんに不思議そうに覗き込まれる。もともとひとに見せるのは気が進まないし、昨日と似たような内容ならなおさらだ。
「そういやあれ結局ラブレターだったんすか? てか今日も?」
「やっぱりただのいたずらだったよ。今日のもそうなんじゃないかな」
「えー、おもんね」
「···私のところには縁ないもん、そんなの」
「拗ねないでくださいよ。まぁでも確かに苗字先輩んとこには来なさそうっすよね···っいでで!ちょっ、いてぇ!」
「じ、事実だけどあえて言わないでよねっ」
切原くんの白い頬っぺたを思いっきりつねってみる。放すと、すんませんでした、としぶしぶ謝った彼はちょっとは反省してくれたようだ。彼らに比べたら私に降りかかる恋愛の気配なんてミジンコ以下なのはとっくに知っているのでわざわざ言葉にしないでほしい。
今日の英語の小テストがやばいらしいとか(いつも聞いている気がする)昨日と変わらず日常的な会話をして彼と別れたあとも、頭の隅に手紙がちらついた。
昼休み。
中庭に来る前、鞄のなかを整理するふりをよそおってあの手紙を読んだ。
『キモイ』
教室や廊下で耳にする雑談にも出てくる単語ではあるが、聞き慣れたつもりでもいざ自分へ向けられると、どうしても落ち込む。実際はほんとうにただのいたずらでしかなくて無作為に選ばれたターゲットが偶然私だっただけかもしれない。今朝だって切原くんに見せたらきっと小馬鹿にされる程度の話題なのだろうけれど、私自身、この手のいたずらの耐性がないのもあって気になってしまう。
「靴箱に手紙入れるのって、流行ってたりするのかな」
「手紙?」
丸井くんがちゅーっとストローを吸う。今日はフルーツオレのようだ。
「その、呪いの手紙みたいな」
「読んだら回さねぇと死ぬ的なやつだっけ?あったよなーそういうの。いきなりどうしたんだよ?」
「クラスの子が、それっぽいのが入ってたって話してたの。ちょっと隣で聞こえただけだからくわしくはわからないんだけどね」
実際は、そんな噂話は耳にしていない。
あの手紙が意図して私に向けられたものなのか、適当にそれこそほんとうにただのからかいでロッカーへ入れられたものなのかだけでも知れたら···と思っていた。もし後者だとして、しかも校内で流行中の遊びならほかにも手紙をもらったひとがいるかもしれない。交友関係の広い彼からそれとなく聞き出せないかと、思いついた作り話だった。
「んー···周りで聞いたことねぇけどな。暇つぶしに書かれただけじゃね?」
少なくとも、あちこちに投函されてはいなさそうだ。
「苗字、本気にしてんのかよ?そんなビビらなくてもいいだろぃ」
「信じてるとかじゃないけど、ちょっと気になっただけ。まぁそういう手紙はいらないけど、ラブレターみたいなのは一回くらい経験してみたいなぁ」
「···ほしいのかよ?」
「なんかこう、どんなかんじなのかなって」
「普通だよ、普通」
「それって···丸井くんはもらったことあるの?」
「バレンタインんときとかは靴箱にチョコと一緒に入ってることもあったな。名前書かれてねぇのもあるから返事できねぇやつもあったけど」
「えっ、すごいね」
「そうか? 多分普通にもらってるんじゃねぇの。ほら、幸村くんとかも」
「丸井くんの周りは全然参考にならないよ」
「なんだよそれ」
「丸井くんのいう普通は普通じゃないの。にしても切原くんひどいんだよ? 私のところには来なさそうだって言ってね、確かにそれはそうなんだけど···」
「別にいいだろぃ、お前んとこに来なくても。つうか来んな。むしろ来んな」
「な、なにそれ。丸井くんまでそんなこと言うのっ?」
「だって俺がむかつくだろぃ!」
「なんで!?」
「なんでも!」
「理不尽だよそんなの···!」
「もし来たら俺にも見せろよ」
「やだよっ」
ふと向かい側のベンチで女の子たちがひそひそと話しているのが見えた。視線はちらちらとこちらに向けられている。
ただのいたずら。そう素直に呑み込めない理由も、確かにあった。
「今年もね、いっしょにかき氷食べに行かない?」
「トーゼン!行くし食う!」
じっとりとした目つきに、知らないふりをした。
*
クラスのなかでは各教科ごとに当番が振り分けられ、出席番号順に回している。授業前の準備や整理整頓をする、所謂先生の雑務を手伝う役割だ。今週私は社会の当番で、今日は課題ノートを集めなければいけなかった。
休み時間のチャイムが鳴る。教卓を見ると、ノートがたくさん積み上げられている。ひとりで運ぶには少々重い量だ。丸ごと抱え込もうとすると支えきれずに落としそうになるし、実際落としてしまったこともあった。
当番は各教科に二名体制だ。もうひとりの当番の子を見ると、友達と談笑しているようだ。唾を飲み込み、その子のそばにまで近寄っていく。こんなにも短い距離なのに足取りがぐんと重たい。
机のそばまで行き、「ぁ、あの」声を発した途端、しぃんとなっていっせいに視線がこちらへ集中する。私が輪に入ると急にしずかになる独特の空気感はいつになっても慣れない。
「いきなり、ごめんなさい。その、ノート持っていくの手伝ってほしくて、その···」
どんどん声が萎んでいき、最後にはとうとう消えてしまった。しかし仮にこのまま話しつづけたとしても、こちらの意図を汲み取る気はないということは彼女達の目を見ればすぐに分かった。
沈黙に耐えきれず、視線を落とす。ぐっと両手同士を握る。
頬杖をつく彼女がようやく口を開いた。
「つぎあったら年表取りに行くからそれでよくない? 私も忙しいし。あれ、そんなに運ぶの大変?」
準備室に彼女が来てくれたことはこれまで一度もない。鬱陶しいと言いたげな話しぶりと、私の挙動を観察するような彼女の友達の視線に、喉が詰まった。
「ううん···大丈夫」
あまりにもか細く聞きとりにくい自分の声が嫌になる。でも、いま発せるせいいっぱいの声量だった。
ゆったり背中を向けると「てかさ」声がして、前へ出しかけた足が静止する。
「そんなに言うなら、テニ部の男子に手伝ってもらったら?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「言いすぎだって」
「でもみんな思ってるじゃん」
嘲笑まじりの声と視線。じわじわと胸のなかが重たくなって、それからようやく状況を呑み込めた。
なにも言えなかった。俯いたまま、教卓へ向かうことしかできなかった。
職員室の扉を閉める。
「(あともう一往復···)」
ふぅ、とため息をつく。
そういえば、前は真田くんが一緒に運んでくれたんだ。それこそ手っ取り早く運ぼうとノートを抱え込んでいたところ、よろけそうな私を見かねて彼が手伝ってくれたのだ。
『その量は重いだろう。俺も手伝おう』
『えっ、でも』
『当番はもうひとりいるはずだろう? どうしたのだ?』
『えっと、その子、外に遊びに行っちゃったから』
『なんだと?』
『え?』
『けしからん···なぜさぼるのだ!たるんどるぞ!』
『おおお落ち着いてください···!そんなに怒らなくても、いつものことだから』
『いつものこと?』
『···あ』
『まさか毎度のように押しつけられているのか?』
『そ、それは、えっと』
『なおさらけしからん!お前が言えないなら俺が言おう。正すべきだ、誰だそいつは!?』
『ほんとのほんとに大丈夫です! なんともないんです!穏便にいきましょうここは! むしろ私が筋力つけますから筋トレの指導してくださいませんかそれで終わりにしましょうどうかどうかお願いですから、どうか··········っ!!』
光線が飛び出しそうな険しい目つきと禍々しいオーラに泣くしかない。袖を最大限引っ張って懇願したら、納得はしていなさそうではあったが渋々身を引いてくれた。
ただ、それでもお叱りとして受けたのは
『思うことがあれば言うべきだ。我慢すればどうにかなるというのは、その場しのぎでしかならん』
それはいつしか必ず自分が自分のことをくるしめることになってしまう、ということだ。
言われたそのときはおびえるあまり平謝りしかできなかったけれど冷静になれば彼の本意が呑み込めた。
彼の言葉は、ほんとうにその通りだと思った。そしてそれは私のことを思って怒っているのだと思うと、純粋にうれしかった。
そんなことがあったのがきっかけで、かなり微々たるものだけれど、友達以外のほかのひとにも自分の意思を示せるようになった。さっきの場面でも以前の私ならなにもせずにやりすごしていただろう。それがあたりまえだと思っていた。というより、あたりまえだと思い込ませていた。そうしていけば何事も円満に解決できていた。ほんとうは、内心もやもやしていても。
そう、これがいけないんだ。
自分の意思をつたえる。何遍頭のなかで練習してみても、いざ言葉にするとどもったり緊張したりだとかで、なかなかうまくいかないことのほうがずっと多い。それどころか実行さえできずに終わる瞬間はいまでもあって、真田くんに見られたなら怒られてしまうだろう。
それでも、少しずつ変わっていけたら。
あの子に正直に言ったことに後悔はない。大丈夫、頑張ったよ。そう自分で自分をほめても、前向きでいられるのは一瞬だけだ。残りのノートを取りに教室に戻ると、彼女たちの姿を見たらあっというまに落ち込んでしまう。彼女の言葉がちくちく胸をつつく。考えすぎてもしかたないのにな。
ふたたびノートを抱えて教室を出る。廊下を歩き、つきあたりの階段を下りようとしたときだった。
「苗字さん」
ひゅっと息が止まる。
ぼうっと眺めていたノートから頭を上げると、目の前には幸村くんが立っていた。癖のある髪がふわりと揺れる。
「手伝おうか」
「えっ」
「職員室でいいのかな?」
「あの、」
抱えていた三分の二の量はごっそり彼が持っていった。急な展開に「大丈夫だよ」と何度も断ろうとするも、彼はそんなのおかまいなしに「結構重いね」譲る気はないらしい。毎日厳しい練習をこなす彼からしたら重くもなんともないだろうけれど、でも。
「その、すぐ終わるから平気だよ」
「さっきも君が持って行くのが見えたから、気になって」
「え?」
「これで最後かい? まだあるならつぎも手伝うよ」
いつのまに見られていたのだろう。幸村くんが廊下で歩いていたらすぐさま気づくのに(なんて本人にも誰にもとても言えないが)、いちばん上に置いてあるノートをぼんやりと眺めながら歩いていたせいで気づけなかったのだろう。
こうして、幸村くんのおかげですぐに仕事は終わった。職員室の扉を閉めて、ひとつお辞儀をする。
「ごめんね、せっかくの休み時間なのに···」
「なんともないよ。ひとりで運ぶには大変そうに見えたから」
_____そんなに言うなら、テニ部の男子に手伝ってもらったら?
結果、あの子たちが言った通りになっている。
そう思いかけて、ふっと沈みかける感情を必死に追い払った。いまここで幸村くんの厚意を純粋に受けとめられないのは、よくない。
「どうかしたかい?」
彼が顔を覗き込むようにして、こちらを伺う。はっとした。
「ううんっ。その、なんというか」
「うん」
「あの、えっと···」
「?」
幸村くんがものすごく興味深そうに私の顔を見る。が、それがプレッシャーになっている。こうもじっと見られるとどうしていいかわからなくなる。
いや、ほんとのほんとに全然大した内容じゃないんです。どうしよう。なんて切り抜けたらいいのかな。せっかく聞こうとしてくれてるんだからなにか、なにか話さないと···!
「き、きき筋トレとか頑張らなきゃだめだよね!」
「えっ?」
幸村くんがひとつ大きくまばたきをした。
「ついでに体幹?とかも鍛えたほうがいいのかな? こんなので手伝ってもらうのもあれだし、ひとりでもなんでもできるようにしたいし、私ってたよりないから。あはは···」
べらべら喋る私の隣で幸村くんはしばらくじっと考えるような素振りをした。なにか変なことを言ってしまったかな、と彼のようすをながめていたときだった。
「俺、そんなにひ弱そうにみえるかな?」
「へっ?」
「周りからは意外と力はあるほうだって言われるんだよ。でも苗字さんからしたらそんなになら···もっと鍛えたほうがいいのかな?」
幸村くんはそう言ってじーっと自分の腕を観察した。
「苗字さんが遠慮なんてしないように練習方法も変えようかな」
いまの彼の声のトーンや表情からして冗談で話しているようには見えない。あれ? そういうことじゃないのに···!
「あ、あのっ」
「? 」
「幸村くんはなにも問題なくて、けっしてたよりないとかそんな意味ではなく、むしろ幸村くんは凄くたよりがいがあって、その、なんというか私のほうが甘えてばっかりで·······私がもっと、しっかりしないといけなくて」
いつも考えている。
みんなの、幸村くんのそばにいてもなんの違和感もないくらい完璧な存在なら、なにも思われなかったのだろうか。
そばにいるのが、私だから____
「そういえば、」
思いついたような彼の声に反応して、顔を上げた。
「このあいだ手をつけたばかりの絵があるんだけど」
「···?」
「先生に相談したら美術室も使っていいって言ってくれたから、最近は学校で描くようにしてるんだ」
「そうなんだ···?」
「職員室まで運ぶのにちょっと疲れたからひと息がてら寄ろうと思うんだけど」
「···! それはもちろんっ、ごめんね、手伝わせて···」
「『お互い』大変だったから、君もどう?」
私がきょとんとしている前で、幸村くんはそっと手をうしろに組んだ。
「まだ誰にも教えてないから意外と穴場なんだよ。あの音楽室ほどじゃないけど、しずかだし、ゆっくりするにはぴったりなんだ」
「···それって、」彼の言葉の意味を呑み込もうとしている私のそばで「あ、お茶までは用意できてないけど」彼は愉しげにこっそり耳打ちをした。
「いまの絵もはじめて描くような景色だから難しくて。よかったら君にも見てほしいな」
「······お邪魔して、いいの?」
「もちろん」
「私は幸村くんの絵が見られるのはうれしいけど、幸村くんより絵がへたなのに言えることなんてないと思うけど···大丈夫?」
「この際苗字さんのセンスに全信頼を寄せてみるのもありかなって」
「それは無責任なのでは···!?」
焦る私を面白おかしく幸村くんが笑う。
「·······なんでもできる苗字さんもいいけど、」
「?」
「君だけじゃ難しいときくらいは無理せずたよってほしいな。でないと、いまみたいにどさくさにまぎれて誘えなくなるしね」
そう言って、幸村くんはふっと笑った。
「君のことだから気を遣っているんだろうけど、俺は時間をとられたとも迷惑だとも思ってないよ。むしろもっとたよってほしいし···用がなくてももっと話しかけてほしいな」
さっきまでの鬱屈した気持ちもこんな些細な会話で吹き飛んでいくなんて私はなんて単純なんだろう。
「誘える機会は多いに越したことはないしね」
彼はそう言って、いたずらをするみたいにはにかんで笑った。
「あの、どさくさどころか、いつでもどんなときでも誘ってくれていいよ」
「そうかい?」
「美術室でも音楽室でもどこでも、幸村くんといっぱい話せるのはうれしいし、その···好きだから」
好きって、言っちゃった。
あれほど正直になってはいけないと決めたばかりなのに。蚊みたいにちいさい声だったからほとんど聴こえてないかもしれないけれど。俯いてやり場のない気持ちを落ち着かせようと両手をもじもじ握っていたら
「俺もだよ」
やっぱり、聴こえてたんだ。うふふ、なんて彼がとても満足げに笑うのでますます鼓動がはやくなった。彼の上品さに劣らないよううふふ、と笑い返したいけどいまのふ抜けた状態の私がしたら不気味な笑みにしかならない。そもそも笑える余裕もない。
高ぶった熱を抑えるためにぺちぺち頬を叩いていたら「余計に赤くなるんじゃないかな」彼がおかしげに笑うから、また恥ずかしくなった。
「あとちょっとだけ当番の仕事残ってるから、それだけ済ませたらすぐ行くね」
「うん、待ってるよ」
彼のやさしく見下ろす瞳に、もう一度胸がきゅっと鳴った。
「幸村、ちょうどいいところに。つぎの部内ミーティングだが······おい、なんて顔をしている。たるんどるぞ!」
「いまの俺はすばらしく機嫌がいいんだ。邪魔しないでくれるかい。ね、苗字さん?」
「え、あの、ミーティングならきっと重要なお話なのでは、」
「お前はもっと空気を読んだほうがいいと思うよ」
「(幸村くんのお前呼び···!)」
「弦一郎、それには俺も同意だ」
「む、蓮二までなんだ!!」
「わわわ私は退散しますね···!」
*
翌朝も、靴箱には手紙が入っていた。
切原くんと会う前にすぐに鞄に入れたので彼には知られていない。
『ビッチ』
たったの二文字。
やっぱり、そういうことなのかもしれない。
「あ、苗字!」
教室の外から声を掛けられ、扉まで寄っていく。真っ赤な髪はとことん見つけやすい。彼がこれからなにを言ってくるか、なんというか、なんとなくわかる。察せるようになったあたり結構な仲になったんだな、と思う。
「どうしたの?」
「一限、数学なんだよな」
「そうなんだね」
「つぎ当てられそうなんだよな」
「そうなんだね」
「ジャッカルにはこの前も頼んだしさ」
「そうなんだね」
「······なんとなくわかるだろぃ!」
「もうっ、また宿題してないの?」
「なんか数学になると頭働かねぇんだよ」
「あれだけお菓子食べてるんだから糖分はたんまり脳にたどり着いてると思うよ」
「俺のコレクションから好きなやつあげるから、な? この通り!」
そう言って彼は両手をぱんっと合わせ、顔の前でお願いのポーズをした。こうされるとなんだか断る気になれないのが不思議だ。はいはいと言って、ノートを取りに机に戻る。渡すと「マジ助かるぜぃ」深いため息をしながら受けとっていた。ここ最近桑原くんにお願いをしている頻度が多すぎるためにたのみにくいそうで、たまに私のもとにやって来るのだ。彼はこれまで桑原くんに何度一生のお願いごとをしたのだろう。
「選び放題だぜぃ」
丸井くんは見せつけるようにして鞄をがばっと開いた。借りをつくっておいてどうしてそうも自信満々げなのか、というツッコミは今回控えておく。たんまり詰められたお菓子コレクションのなかからポッキーを箱ごと抜き取る。ポッキーといっても一本一本が太いビスケットタイプでチョコもたっぷりコーティングされたちょっといいやつだ。「げっ、それ高いやつ」なんて顔を顰められたけれど、これくらいはもらっていいはず。
「あと二回つづいたらアイスだからね」
「ガリガリ君?」
「ハーゲンダッツ」
「高ぇし! スーパーカップくらいにしてくんね?」
「安いよっ」
「わかったって。んじゃ、ありがとな!」
「わぁっ、!」
恒例の『頭ぐしゃぐしゃ攻撃』が唐突に襲ってきた。(彼は撫でているつもりらしいけど、こっちはびっくりするしセットが大変なのでそう命名している)
これから一限目がはじまるところなのにもう前髪が崩れちゃったと文句を言っても、笑うだけで軽快に去っていった。前髪を手ぐしで整えてポッキーを見つめる。
ノートが返ってきたら、丸井くんと半分こしようかな。
自然と口もとがゆるんだときだった。
「また媚び売ってる」
背中越しに聴こえるささやき声。振り向かなくとも、誰が言っているのかも、そしてそれが私に向けられている言葉だということも、わかっていた。
やっぱり、そういうことなんだ。
*
あれだけに限ったことじゃない。
一年生の、それこそ丸井くんと友達になってからだ。付き合っているのか?なんてうわさが浮上した時期もあったけれど、それもほんの一瞬だった。丸井くんの彼女が私なんてことはまずありえない。それが周囲の見解で、誰から見てもそうとしか映らなかった。
やっかまれるような視線ははじめこそあったものの徐々に薄れてきて、しかし、幸村くんを含めテニス部のみんなと友達になったあたりからはふたたび懐疑的な視線を向けられる頻度にさらに拍車がかかった。教室の隅でひとりで過ごしていたような女子が、ましてマネージャーでもなんでもない存在がテニス部の輪のなかにいるのは違和感でしかなかった。みんなと親交を深めるのに比例して、周囲からは遠巻きに見られるようになっていた。
——あの子、男子としか仲よくしないよね
まったく落ち込まないといえば、嘘になる。でも、そんなふうに見られてしまうのも当然だとも思っていた。友達をつくりそびれたまま踏み込もうともせず、ただ毎日を過ごしていた自分のせいだ。結局、なにも行動をおこさなかった。このままでもいいかもしれないと安心しきっていたのだ。
手紙も然り、最近は刺々しい態度を直接浴びる頻度が多くなった気がする。包み隠すでもなく、あからさまに。いままではあまり気にしないふりをしていたけれど、こうして明確に表立ってくると、私の性格上それも難しい。
どうやって折り合いをつけたらいいのだろう。
「苗字先輩?」
切原くんが不思議そうな顔で伺ってくる。
「大丈夫すか?」
大丈夫、とこたえる。沈みかけた気持ちを振り切って、笑いかけた。
「苗字先輩って天然なのかただぼーっとしてんのか微妙っすよね」
「···えっと、私はどう反応したらいいのかな?」
「とりあえずお前さんはディスられとる」
「へっ? そうなの?」
「こら赤也、苗字さんのことを悪く言っちゃだめだよ」
「ほ、ほら。幸村くんも言ってるよっ」
「幸村先輩を盾にすんのはずりぃっすよ! まぁでも実際、幸村先輩が部長になったら絶対逆らえなくなりそうっすけど」
「俺はなにも独裁政治をするつもりはないんだけどな」
「いまから部長って呼ぶ練習したほうがいいっすかね」
「部長?」
私のま抜けた声に、丸井くんが「あぁ、言ってなかったっけ?」察した表情を見せた。
「幸村くん、部長になるんだぜぃ」
ぽかんとしている私の向こうで、みんなはうんうんと頷いていた。どうやら、周知の事実らしい。
幸村くんが、部長。頭のなかで繰り返す。
「部長···!? そんな、いきなり?」
「去年の全国が終わった頃から話は出ていたが、ようやくほぼ確定事項として正式にきまった。部内で発表されるのはもうすこしさきの話だが」
「苗字さんならもうご存知かと思っていましたが、話されてなかったのですね」
「わざわざ改まって言うことでもないかと思って。今年の全国が終わったあとの話だしね」
「幸村くんさらっと言ってるけど、すっごくだいじな話だよ!」
「ちなみに弦一郎も副部長になる」
「真田くんも!?」
「···真田先輩が副部長とか絶対やべぇっすよね」
「なにか言ったか赤也!」
「な、なんもないっすよ!」
「真田くんもおめでとう!あ、ちゃんとお祝いしなくちゃだね」
大注目のニュースだと思うのに「そう言ってくれるだけでじゅうぶんだよ」当の本人はごく普通の日常の一部かのように言ってのける。本来なら二年生になったばかりで確定しているなんてそうないことだろう。
「赤也はさっそくレギュラー入りだから、それこそ祝ってもらっていいかもしれないね」
「切原くんすごいね···! 一緒におめでとう会したいね」
「んじゃ焼肉とかありじゃないすか?」
「新入生歓迎会で行ったばかりですので予算的に厳しいかと…」
「ま、俺らも赤也ほどじゃねぇけどそろそろ試合に出られそうだしな」
仁王くんと柳生くんも大きな大会ではないにしても、近々ダブルスで試合に出るみたいだ。柳くん曰く、滞りなくいけばこの場にいるメンバー全員がレギュラー入りになるのもそう遅くはないらしい。
切原くんの得意げな顔、そんな彼にちょっかいをかけたり、厳しく諌めたり、微笑ましくも困ったように笑う彼らをぼんやりと眺める。
彼らの後ろ姿を見ながら、ふと思う。
そういえば、みんなと話しているときの顔を見上げる位置はいつからか少しだけ、高くなった。体つきも男の子らしく、たくましくなっている。ほんの少しだけ声変わりもした。
二年生になってから彼らの注目度は何段階にも跳ね上がった。私が知っているのは黄色い声を浴びている彼らだけだが、おそらく部活のなかでは尊敬はもちろん、それも飛び越えて畏怖の念も抱かれているのかもしれない。
「みんな······すごいね」
——ぱっと見、釣り合わないし
丸井くんと友達になってから言われた言葉。あの日からもいくらか耳にしたことがある。
これから聴こえたとしても、もう大丈夫だと思っていたのに。
「苗字さん」
ぽんぽん肩を叩かれる。俯いていた顔を上げると、ぶにっと頬に指が食い込まれる感触がした。
「へっ?!」
「あ、引っかかった」
「?? あ、あの?」
「よく丸井が赤也にしてるから一回してみたかったんだよね」
幸村くんの人差し指が私の頬からはなれてから、いったいなにが起きたのかやっと理解できた。呆ける私をよそに「苗字さんの頬っぺた、もちもちだね」などとにこにこしながら彼が言うので、恥ずかしいやらなんやらでどうしたものかわからない。まさか彼が小学生並みのいたずらをするなんて思わなかった。それに引っかかった私も私だけれど。
「い、いきなりびっくりしたよ」
「ごめんよ」
軽やかに笑う彼の隣でそわそわしながら頬をさする。ちょっとしたからかいとはいえ、彼にさわられるのは心臓に悪い。ほっとひと息ついたときだった。
「余計なこと、考えてないかい?」
そう訊ねた彼と視線がまじわった途端、身構えるようにして鞄を持つ手に自然と力がこもった。おだやかで、しかしかならず捕えてくる不思議な引力を含んでいる。
ひとつ息をおいて「その」ひと言だけ発した。こうなるとつぎに言葉を出すまで長いのが私の悪い癖を、彼は待ってくれる。
「みんな···ほんとうにすごいなって思って。いままで積み重ねてきたものを確実に自分のものにするのはかんたんなことじゃないのに、それを実現できているから。同じ土俵に立てるはずもないし、そもそもみんなと比べるなんて見当違いなのもわかってるんだけど、」
それでも、考えてしまうのだ。
「このままで、いいのかなって」
みんなは着実に成長している。前を向いて、確かに歩いている。
私はどうだろう。あの音楽室に足繁く通っているが、いまだに口にするほどの成果は残せていない。
きこえないまま音は消えていく。
空っぽなまま、なにも生み出せていない現実はなにひとつとして変わっていない。
「俺たちはテニスが恋人なんだって」
彼は言った。
一瞬、私の頭が固まった。
恋人。
予想もしていない単語に、え?と声をあげる。
「言われてみたらそうかもしれないよね」彼はそう言いながら納得した素振りまで見せるので「そう、なのかな?」疑問形で返すほかない。
彼の台詞の経緯はわからないが、誰かしらに揶揄されたのだろうか。そう言われてみると、部活に付きっきりの彼らに対してその表現はふさわしいような気もした。彼らのエネルギーのおおよそはあのコートに注がれている。
たとえば、もしほんとうにたとえばの話。この場にいるみんな各々に告白したとして『いまは部活に集中したいから』そんな返事であっさり撃沈しても納得できる。事実、私が知らないだけで、すぐ近くにはそうして実らなかった恋がたくさん存在するのだろう。
「みんな、テニスが好きだもんね」
「もう、あたりまえにあったものだから」
好きかどうかとかそういう次元からも乖離しているのかもしれない。息をするのに酸素が必要なのと同じで、存在しなくてはいけないもの。彼の空を仰ぐようなまなざしを見て、そう思った。
「そんなふうに言われるくらいにはテニスばっかりだけど。でも、それだって俺たちにとってはほんの一部分でしかないから」
そう言って、彼が前を向いた。
「君が一番、よく知ってるんじゃないかな」
彼の視線をたどっていけば、みんなの背中が目に映った。
ふざけあったり、寄り道したり、とりとめもないことを話して終わる平凡な日々はみんなのもとへながれてくる。朝も昼も夜もひとしく訪れる。
それは私のもとへも、同じように。
「ここにいること、なにも不安に思わなくていいよ」
彼らとのあいだに線引きする必要はどこにもない。本来ならば、そうなのかもしれない。彼の澄んだ表情に、私は少しくるしくなった。
「ごめんね」
「なにがだい?」
「幸村くんは引っぱってくれるのに、私はいつも考えすぎるから」
あの空間もそう、居場所をつくってくれたのは彼だった。あの椅子に座ってはいけないと罪悪感に苛まれていた私のそばで彼は見守っている。彼もまた、むなしいまま変わらない現実を粛々と受け容れている。そうまでしてくれても、疎外感まで言わずとも近しい感覚を覚えそうになる自分はどこまでも欲張りだ。
「特別なことをしているつもりはないんだ。ここにいて欲しいから、君のままでいて欲しいから俺の好きでやってるだけ。君がいないと困ることもたくさんあるからね」
首を傾げると、彼が得意げに言った。
「たとえば、『おかえりなさい』って君が迎えてくれることとか」
「でも、それしかできないよ」
「等身大でいられる瞬間はだいじにしたいんだ」
味わうように彼が言った。
ほのかに、なつかしさが込みあげる。
——なにより隣にいたいのは、変わらない気がする
いつしか彼が言ってくれた言葉。
昼下がりの明るい音楽室。つやつやの鍵盤。木のこもった匂い。
「みんなと会ってからね、いっぱい夢が叶ってるの」
「きっとこれからもたくさん見つかるよ」
「幸村くんも一緒に探してくれる?」
「はじめからそのつもりだよ」
淡い潮の香りが心地よく身体を包みこむ。いとおしくて、どこよりもまぶしい海。
真田くんの声が後方にいた私たちにまで聴こえた。切原くんがなにかふざけていたようで叱っているらしい。彼の周りも便乗してやいやいとちょっかいを出していた。幸村くんはしかたないなと言いたげに、微笑ましそうにながめていた。
アスファルトの地面が茜色に染まっていく。
*
今朝も手紙は入っていた。
なかには『ぶりっこ』とだけ書かれていた。文字の癖からして毎日同じ人物が書いているのだろう。わざわざ読んでも意味がないと思うのに、どうしても気になって毎朝封を開いてしまう。
それだけならまだよかった。落ちこんでも、少しずつ慣れてきているし、格別に嫌なことでもない。いつかは飽きてくれるだろうと、そう思っていた。
授業がはじまってすぐのことだった。
教科書を開いた瞬間、はげしい胸騒ぎが襲った。
黒く塗りつぶされた、一面のページ。
文字が印字されている箇所がきっちりサインペンのようなもので塗りつぶされている。めくってみてもしばらくはそんなページが続いている。
どうして?誰が?そんな言葉が頭のなかをひたすら駆け巡った。
苗字さん、と先生から指名を受ける。国語の授業はまず音読からはじまるが、どうしていまに限って、と思わずにいられない。立ち上がるだけの動作が酷く重い。「その、」いっこうに読みはじめない私を先生が不思議に思って、気分が悪いのかと聞かれる。
「教科書が、よごれて、読めなくて…」
なけなしに発声できた。まちがってはいない。心臓がばくばくして、気持ち悪い。
私の返答にも多少不思議がっていたものの、先生の指示を受けて隣の席の子に借りることでその場はしのいだ。
読み終わって、席につく。
ふたつ向こうの前後の席同士ではひそかに話しこんでいた。斜めうしろからはくすくす笑い声が聴こえる。
授業の内容はまるで頭に入らなかった。
休み時間。
チャイムが鳴った途端、身体の力が抜けきった。
さっき起きたことを、思い出す。
宿題もなかったから教科書は昨日から机のなかに置いていた。塗り潰されたのはおそらく私が帰ったあとだろう。ちょうど授業で進行中の箇所が塗りつぶされていた。
隣を見やる。私の視線に気づいた彼女は談笑を中断して、なにを言いたいのかと言いたげにこちらを睨んだ。無言の圧力に耐えきれず瞬時に目を逸らした。握りしめた両手から汗が滲み出る。たった十分の休み時間をこうもはやく過ぎてほしいと思ったことがない。
重たい胸のうちでぐるぐる考えていると、ふらりとひとの気配がした。
顔を上げたさきに、いつもの彼がいた。
「物思いに浸っちょったようじゃが」
「···仁王くん」
「国語の教科書、貸してくれんかのぅ」
ときどき彼はこうして教科書やら辞書なんかを借りに訪れる。一年生の頃はそうでもなかったが、隣のクラス同士になったいまは結構交流が盛んになっている。彼にとっては便利らしく「お前さんが一番頼みやすいんじゃ」とも言われたことがある。
どうして、よりにもよって国語だなんて。真っ黒な一面がよみがえる。さっきの景色が殴り込むかのように頭のなかに広がった。
「ごめんね、今日は貸せないかな…昨日ジュースこぼしちゃって汚いから」
「そんなに気にせんが」
「でも、べたべたしてるしよくないよ」
じっと見つめる彼の目。探っているのか、不思議がっているのか、わからない目。いつもならそうは思わないのに、いまに至っては心地悪く思えた。ここで逸らしたらまずいだろうか。私もただ見つめていたら、彼がポケットからすっとなにかを取り出した。手の動きを追っていくと『ブツ』の姿が見えて、「へっ!?」二段階くらい肩が跳ねる。
「ちょ、ちょっと…!」
「おとなしく貸しんしゃい。さもないと命の保証はないぜよ」
「すすすみません!」
「ばーん」
「もう撃つんですか!?」
トリガーに指を引っ掛け、くるりと回しながら「まぁ落ち着きんしゃい」彼は口の端を上げた。落ち着くもなにも、突然銃を向けられた挙句、命乞いをしている最中に慈悲なく射撃された身にもなってほしい。
「な、なんでそんなの持ってるの」
「交渉にはもってこいなり」
「交渉を通り越して脅迫だよ、だめだよそんなの」
「真面目に反応してくれるあたり赤也よりいじりがいがあるのぅ」
「それは···よろこんでいいの?」
「プリッ」
「仁王くん、なんでも持ってるね。この前のひよこのおもちゃもそうだけど」
そういえばと思い出し、鞄から取り出して見せてみる。あれからなんとなく鞄のなかに入れっぱなしにしている。
「かわいいもん持っとるの」
「仁王くんがくれたんだよ」
「そうじゃったか」
「そうだよ」
「ちなみにそいつはあひるさんじゃき」
「···おぼえてるんだね」
ゴム製の素材でできたあひるさんが彼によってぷにぷに潰されている。ぐんと骨張った手に、尖った瞳、整った白い顔。そしてひよこ。…じゃなくて、あひる。摩訶不思議な光景だ。
戯れている姿をぼんやり眺めていたら、ふと、彼の細長い指が、とん、とおでこにあてられた。
「ばーん」
無感情に洩らした声で、彼が言った。
前髪がさらりと揺れる。思わず目を閉じると、おでこのあたりにひんやりとした肌の感触が掠めた。
「顔色が悪い」
と言い、手をはなしたあとは
「疲れとるなら、無理はいかんぜよ」
とも言った。
彼の台詞に、燻っていた不安が煽られた。そして直感でわかった。明日からも同じようなことが起こって、その度にどうにか隠して、誤魔化かさなければいけない。勘づかれてはいけない。どれほど苦痛が待っていても。
彼は諦めたのか、ふらりと教室を出て行った。
耐えるように膝の上で手を握りしめる。チャイムが鳴るまでがひたすら長く感じた。
*
「あ、あの真田くん」
「どうした」
「…英語の教科書をお借りしてもよろしいでしょうか。大変申し訳ございませんが、忘れちゃって、その」
「たるんどる!!」
「ででですよね!それは重々承知のうえでしてほんとごめんなさい!」
「前日にしっかり時間割を把握せんとは何事か!」
「はい!ほんとうに誠にほんとうに申し訳ございません···!」
「だが···苗字が忘れるのもめずらしいな。以後気をつければいい」
「···うん、ありがとう」
深く腰を曲げて、英語の教科書を受け取る。いたたまれないけれどこればかりはしかたがない。なるべく目立たない努力をしつつ、ざわつく教室を抜け出して行った。
「完全に人選ミスだろぃ」
ということがあったのだと話せば、呆れ混じりの台詞で一蹴されてしまった。
「なんで真田に借りようと思ったんだよ」
「だってあんまり話してない子に借りるのはちょっと···真田くんは友達だから」
「ほかにいるだろぃ。ほかに」
「で、でも、真田くんも友達だよ?」
「そりゃそうだけどよ。俺ならまずまっさきにそういうリストから除外するよな」
「そう?」
「変なとこで度胸あるよな、苗字って」
チョココロネをぱくりと食べながら「幸村くんもやさしいけど、何回も借りんのは申し訳ねぇし」と話していた。わからなくもない。が、幸村くんと私との間に待遇の差があるような気がしてならない。この前二回と言ったけれど、あと一回でアイスをもらっておこう。
「でも苗字が忘れんのってめずらしいよな」
そうかな、と返事をしながら思い出していた。
誰にも話していないけれど、昨日も別の科目では桑原くんからも教科書を借りていた。昨日も今日も気づいたときには教科書がなくなっていた。
今日は移動教室の前に確かにあったはずなのに教室に戻ると消えていた。前回は探しても見つからなかったので購買でどうにか買った。今回も見つからなければ、買うしかない。
教科書をすべて家に持ち帰るのは無理があると思ったけれど、教科書を買うにしても崩せるお小遣いにも限界があるから、そうするしかないだろうか。休み時間のうちに盗られているのなら極力教室からもはなれられない。同じひとに毎回借りると勘繰られてしまいそうだからなるべく分散させているが、それもいつまで誤魔化せるだろうか。
ぼうっとしながら、おかずを口に運ぶ。
(美味しくない···)
最近お弁当でもお気に入りのお菓子でもなにを食べても味がぼんやりする。空腹感はあってもいざご飯を目の前にしてみると気が進まない。食べることは好きだったのに、いまは口に運ぶ作業みたいだ。
「おーい、苗字?」
丸井くんの声ではっと気づく。
「ごめんね、どうしたの?」
「そーいやさ、最近弁当の量、少なくね?」
「そうかな?」
「そんなんじゃ足りねぇだろぃ」
「季節的に蒸し蒸しするからかな?最近食欲がなくて···でもほら、太った気もするからちょうどダイエットにいいかも」
「そうか? 太くねぇと思うけどな」
「そんなことないよ。ほら、お腹つまんでみる?ぶよぶよだよ」
「し、しねぇよ!」
「やばっ。ウケるんだけど!」
高い笑い声に肩が跳ね上がる。ぐるりと声のするほうへ首を向けると、女の子たちがスマホを見ながら笑い合っていた。私の知らないひとだ。
胸を撫でおろす。脱力感が襲ったあとは、ぼんやりと意識が遠のいていく。
「苗字?」
慌てて振り向いた。
「どうした?」
不思議そうな表情で私を見ている丸井くんに首を振る。口もとを上げるのに必死だった。
「ううん、なんでもない」
『テニ部に泣きついたらうざいよね』
『あーあり得そう』
『でも証拠とかないじゃん』
彼女たちとすれ違いざまに聞こえた声が、頭のなかで木霊した。
朝一番。
柳くんのいる教室に訪れていた。彼から借りていた本を返すためだ。朝練が終わる時間は毎日ほとんど変わらないので、ちょうどその頃合いを見計らっていた。
「わざわざ朝からすまないな」
「今日もすぐ帰るつもりだから、はやく返そうと思って」
「俺もそろそろ読み終えそうだ」
「あの、」
「?」
「お父さんがはやく帰ってくるようになって、しばらく家のことで忙しくなりそうで、ゆっくり本も読めないかもしれないの」
だから、とつづける手前、彼は頷いた。
「まとまった時間がないと難しいだろう」
頷いた後「ごめんね」と言えば、友人の話に相槌をうつ調子で「気にしなくていい」と言うだけだった。一限前に彼のもとへ訪ねたのもどこかの休み時間で鞄から抜き取られてしまったら取り返しがつかないと思ったからだった。私の本ならどうとでもなるけれど、柳くんの本ともなると大問題だ。今後のためにも本の交換はやめたほうがいい。勘の鋭い柳くんに深入りはされなくて、ひとまずほっとした。
「ところで苗字」
彼が思案するような素振りをする。息を呑んだ。
「また食事の量を減らしていないか?」
「え?」
「少々痩せたような気がするが」
彼はこちらをじっと伺って、顎元に手を添えた。
「···減らしたのは最近だから、そんなに変わってないと思ったんだけど」
「最近は丸井の体重管理もはじめたからか、多少の増減にも気がつくようになってしまってな。また前回のように無理をしていないか気になるが、なにかあったか?」
「増減······増···増」
「苗字?」
「それはつまり、太ったこともすぐ気づいてしまわれるのですか!?」
柳くんの声が詰まり、眉が顰められる。
「···いや、それは」
「切原くんとファミレスで食べ過ぎちゃってからしばらく体重がとんでもなかったんだけど、もしかしてあのときも!? 丸井くんと連日買い食いしてたときも実はまん丸になってましたか!?」
「その、だな」
「柳くんのことだからなんグラム増えてるかまで当然推測可能なんですよね!?」
彼の表情が険しくなるが、負けじと凝視する。ここで退けたら真実は闇のままだ。
「柳くん。実際どうなんですか」
「それは」
「······」
「(ほんとうは解る。グラム単位で解る。ほとんどだいたい限りなく当たる。が、ここで言ってしまえば確実に今後の関係に支障をきたす)」
「遠慮なんていらないから、お願いだからほんとうのことを言ってほし「残念だが、そこまで把握はできていない」
「···へっ?」
「外見から把握出来る···といっても、まだまだ誤差があるのが実際のところだ。実体重と予測を比べてはみるが互いの数値の整合性は低い。あくまで参考までに、といった程度だ」
「ほ、ほんとのほんとに?」
「あぁ、事実だ」
ぜぇはぁ息を切らせている私に対して、柳くんが若干引いてなくもないような。
「すまない。ひとの体型に、まして女性の体重など指摘すべきではなかった。失礼なことをした」
「でも、もし太ってたりしたらちゃんと言ってね? 即効でダイエットしなくちゃだからっ」
「あぁ、そうだな(今後いっさい触れないようにしよう)」
そう頷いた彼の表情は決意にみちあふれていた。立海テニス部には素晴らしいパーソナルトレーナーがいるようで、丸井くんにとっても非常にたのもしい存在だろう。
「にしても、どうしてまた制限を?」
「ダイエットしようとは前から思ってたんだけど、最近暑くなってきたせいかな。食べる量が自然と減っちゃって、いつのまにかダイエットになってる、みたいな···」
「それはそれで気がかりだな」
「でも前みたいに栄養バー生活とかにはなってないよ? ただ、ちょっとご飯の量が減っただけで」
「ほどほどにするんだぞ。また精市も心配するに違いない」
彼の苗字が出て、ぎょっとした。柳くんは当然ながら察して「『精市にはなにも言わないでほしい』、か?」と、私の言わんとしている台詞を先読みしていた。こくこく頷くと、困りがちに彼が微笑んだ。了承してくれたようだ。
「苗字先輩じゃないっすか」
背後の声に振り向くと、切原くんが英語のテキストを片手に立っていた。
「柳くんは二年生だから宿題は写せないと思うよ?」
「写しじゃねぇっすよっ。なんか素で言ってんのがいらっとするんすけど!」
「ご、ごめんなさい···」
「おおかた二限の小テストの山はりを頼みにきたところか」
「おっ、よくわかりましたね!」
「この時期に来たあたり、成績が極端に芳しくないんだろう」
「···なんでばれたんすか」
「そもそもお前の性格上、事前にこんな準備はしないからな。内申や点数以上に別の動機があるはずだ」
うっ、と切原くんが渋い顔をする。
「真田先輩に怒られるのは勘弁なんすよ」
やれやれといったようすで柳くんが眉尻を下げる。
小テストの点数はおおきく成績を左右するものでもないはずだけれど、それさえも落とせないということは余程まずいのだろうか。彼の部活動に影響しないかちょっと心配だ。
「そういや」
切原くんが思いついた声をあげる。
「最近あそこのアイス屋、新フレーバー出たって言ってましたよ」
「看板立ってたの、私も見たよ。美味しそうだよねっ」
「丸井先輩とか今度食いに行くかって言ってましたけど、苗字先輩も来ます?」
いつもならば、即答していただろう。
「えっと···」
「ん?」
「ごめんね。ちょっと、行けないかな」
「えー、またっすか?」
「お父さんが最近帰るのはやくなってるから、ご飯とかほかの家事もはやく済ませないといけなくて···でも、誘ってくれてありがとう」
切原くんが「最近付き合い悪いっすよ」ぶすっとしながら言った。耳の痛いフレーズだ。「また落ち着いたら行きたいな」また、が、いつやって来るのかはわからない。
「苗字先輩って意外と暇じゃないんすね」
「赤也、お前もたいがい素で失言をしているぞ」
ふたりとはそこで別れて教室を出ていった。
自分の教室へ向かいながら、ぼんやりと考える。
日に日にご飯が喉を通らなくなっている。お弁当もいつもの量だと残してしまうのもあって減らすようにしている。丸井くんからも勘繰られているけれど、夏バテに似たものだと言って適当にながしている。家に帰ってからも食べる気にもなれず、少しつまむだけで済ませていた。
お父さんがはやく帰ってきているのも、嘘だった。帰宅時間は変わっていないし、お父さんが帰ってくる頃には最低限の家事も片づけている。放課後はなるべく居残らないようにする、それらしい理由になると思った。みんなとはなれても不自然にみえない理由。みんなのいない帰り道は、いつもしずかだ。
『付き纏うなって感じ』
みんなとはなれたら、きっとこんなこともなくなるはず。
*
「明日からはお昼ご飯、一緒に食べられないの」
もぐもぐコッペパンを食べている丸井くんが目を丸くした。昼休みのいつもの光景だ。
「おぅ、まぁいいけど···なんかあったっけ?」
「しばらくは音楽室で過ごしたい気分というか。ひさしぶりに···弾いてみたい曲があるから」
「えっ、コンクール出んの?···つうかまた栄養バーで済ますのかよ!?」
「それはないよっ。ほんとに、それはないから」
「ほんとかよ?」
「コンクールもなにも関係なくて···ただの気分なんだけど、じっくり、ゆっくり弾きたいなぁって」
「ふーん···いーけど」
「そ、そんなジト目で見なくても」
「まーた昼抜きにすんなよ?」
ひとさし指でつんっと額を突かれてしまい、「あうっ」なんて変な声が出てしまった。私が額をすりすりしているのを丸井くんはからっと笑っていた。
「引きこもりっぱなしになんなよ」
「前みたいにはならないよ。丸井くんはおかずの心配しかしてないでしょ」
「苗字の唐揚げ、しばらくお預けになるのはさみしいよな」
「ほら、やっぱり」
「違ぇって。苗字と一緒じゃねぇと食うもんも美味くねぇだろぃ」
丸井くんがそう言って笑ったから、私も笑った。
あったかくて、かなしくなった。
ほんとうにこれでいいのか、わからない。
昼休みは作業的にお昼を口に運んで、さっさと教室を出ていったあとは二号館の音楽室の前にまで行った。そして、引き返した。
これも丸井くんとはなれるための、それらしい嘘だ。彼に言った通りほんとうに音楽室に引きこもろうかとも考えたが、どうしても弾く気にはなれなかった。
そうして丸井くんとのお昼を断ってからはひとりで過ごすようにした。はじめのうちは図書室も通っていたけれど、ときどき柳くんに会うから、いまの私にとってはあまりいい場所じゃなかった。人気の少ない廊下で外をながめているか、校舎裏の壁沿いで立ち尽くして時間が過ぎるのを待つか、たいていはその二通りだ。
どの休み時間もいまはとても長くて、重たくかんじる。
「——···苗字、苗字?」
「!」
「大丈夫か?」
慌てて顔を上げると不思議そうに見つめる桑原くんがいた。まったく気配に気づけなかった。
「ごめんね、気づかなくて···」
「あぁ、いや。別にこれって用はないんだけどよ」
ほかの休み時間は教室に籠るようにはしているけれど、移動教室で廊下を歩いているとときどきテニス部のみんなが声をかけてくれる。桑原くんはなかでもよく気にかけてくれて、丸井くんとまじえて三人でお昼を一緒に食べていたのもあるからか突然昼休みに私と丸井くんを見かけなくなったのは、実はふたりが仲違いをしたからじゃないかと心配していたらしい。そんな桑原くんのやさしさが、うれしかった。
「この前おすすめしてくれたコーヒー豆で淹れたらね、お父さん美味しいって言ってくれたよ」
「お、手挽きでやったのか?」
「家にハンドミルがあったの知らなくて戸棚から引っぱりだしてやってみたんだけど、香りがすごくいいって言って···私も牛乳と砂糖入れたらすっごく美味しかったよっ」
「······それ、豆の良さ台無しにしてねぇか?」
「へっ?·····で、でも、コク?はインスタントのコーヒーで作ったときよりもあったよ?た、多分。たまにはちょっとだけ苦めにすることもあるんだよ」
「一緒に食べるスイーツのためにだろ?」
「ばれた···!」
「苗字はお子様舌だよな」
「こう見えても紅茶はストレートも飲めるんだよ」
むきになって弁明をする私に桑原くんがからかうように笑った。私もつられて笑っていると、ふと、視界の端にあの子たちが映った。こちらを見ながら、潜めいてなにかを言っている。身体全体に重りがのった感覚が襲った。
「···苗字?」
「えっ?」
「どうかしたか?」
胸騒ぎが止まない。不思議そうな顔をする桑原くんに「寝不足なのかも」首を振って、苦笑いで返した。
どう思われているんだろう。このあとはなにをされるんだろう。またなにかなくなったら、どうやってやり過ごせばいいんだろう。
みんなが話しかけてくれても、こんな考えばかりが思い浮かんで会話に集中できない。なるべくあの子たちに目をつけられないためにも不自然にならない程度にはやく話を終わらせないといけない。そうやって考えること自体、疲れてきた。学校のなかでも一日中神経をはりめぐらせているような日がずっとつづいている。
大それたことを望んでいるつもりはない。みんなと話して、笑って、そういう日常を純粋に楽しみたいだけなのに。
そして案の定、降りかかった。
でも、テニス部のみんなと話していようがいまいが、どちらにせよ起こっていたのかもしれない。
体操着を取り出そうと鞄のなかを開いたときだった。
頭がまっしろになった。
今朝まであったはずの体操着がない。
いつ? さっきの休み時間は別で用事があって教室を出たけれどすぐに戻ったからそうはなれていないはず。あの一瞬で? でもなくなるとしたらそこしか考えられない。
最近は教科書やノート破られたり盗まれるのも減っていたから気が緩みかけていたとはいえ、衣服までが対象にされるのは想定外だった。
体操服。借りたら済む話だけれど、教科書やノートよりもぐんとハードルが高くなる。
忘れたから休ませてほしいと先生に言ってしまいたい。しかしきっと、ほかの子に借りなさいと言われてしまうだろう。だからといってほかのクラスを訪ねて顔見知り程度の女の子にいきなり頼み込む度胸はない。
身長差があまりなくて、いちばん声をかけやすい友達。まっさきに思い浮かんだ。気は重いけれど、こうして迷っているうちに休み時間も終わってしまう。
早足で別の教室へと向かっていった。
「体操服?」
目を大きく見開いた彼の口もとで、風船ガムがぱちんと割れる。
「苗字がそんなの忘れるって···前もなんか忘れたとか言ってなかったか?」
「あはは···そろそろお祓いとか行ったほうがいいのかな?」
申し訳なくて、気まずくて、なさけない。あらゆる負の感情が駆け巡る。これがほんとうにただの忘れものならよかったのに。女の子の友達がいたら変わっていたのだろうか。
ぐるぐる考えそうになりかけたのを強引に振り切った。とにかくいまは頭を空っぽにしないとだめだ。
「苗字のあとって···体育、俺だよな」
慎重に考えなおすように、ぽつりと彼が呟く。
「そういえば、丸井くんの時間割はそうだったね」
「·········だよな」
気まずい面持ちで考える素振りをする彼を見て、ようやく気づいた。
「···あっ。ひとが着たあとのなんかさすがにいやだよね。まして体育なのにごめんねっ。やっぱり先生に言って、」
「いや、そうじゃなくてよ! あー、なんつったらいいんだか」
「?」
「······なんでもねぇ。 なんつうか、俺の問題」
彼は深いため息を吐いたあと、思いを振り切るようにして机にまで体操服を取りに行ってくれた。
「んな気にしなくていいからな」と言ってくれたものの、なやましい顔を見るとどうも不安が拭えない。
「ほとんど汗かかないように頑張るね」
「汚いとかそういうんじゃなくてさ···ま、いいや。ほら、はやく着替えねぇと遅れるだろぃ」
気がかりに思う私を気遣ってからか、彼はあっさり教室へ引き返した。ほんとうに借りてよかったのかは気になるけれど、ここまで来たら彼の厚意に甘えてしまおう。
私も急いで更衣室へ移動した。
今日の体育はさほど動きまわるような運動はしなかったので、安心した。
体操服に貼られたゼッケンを見て、あの子たちがまたなにか噂をしていた。嘲笑と嫌悪がまじった視線にお腹がきりきり痛くなった。
着替えを手早く済ませて、丸井くんのいる教室へと歩いていく。
ちょうど丸井くんは廊下にいて、そばには仁王くんもいた。丸井くんが気づいたように手をあげて合図をした。
「大丈夫だったか?」
「すごく助かったから···ほんとうにありがとう」
「俺もいろいろ貸しあるしな」
「今度またお礼するね」
「これでお礼とかいったら俺ジャッカルにやべぇくらいお返ししないといけねぇんだけど」
「そ、そんなに桑原くんに貸しつくってるの? 」
「これくらい気にすんなって。ま、強いて言うならなんか手作りのお菓子とかほしいけど?」
「やっぱりほしいんだね」
クッキーならかんたんに作れるかな。家にまだバターあったかな?
そんなことを考えながら丸井くんのもとへ体操服を返すと、隣にいる仁王くんがじっと丸井くんを見つめていた。口の端を上げながら、探るように。
「それ、お前さんが着たんか?」
「? そうだけど···忘れたから丸井くんに借りたの」
「ほぅ」
「······んだよ、仁王」
「よかったのぅ。棚ぼたか、はたまた策士かのぅ?」
「はぁ!?」
「浮かれて授業中にヘマでもせんか心配ぜよ」
「お前な···!あとで絶対ぇなんかすっからな!」
「なんかってなんじゃ」
「なんかだよ」
「大目にみてくれんかのぅ。なに、この前のひと口ちょうだいのお返しじゃき」
「ひと口はひと口だろぃ!」
「け、喧嘩はよくないよっ」
意地悪く笑う仁王くんに、きゃんきゃん噛みつく丸井くん。ひとまずなだめてみるけれど、丸井くんの怒る理由がいまいちわからない。このふたりって仲いいのかな。悪くはないんだろうけれど。
あれから探し回った結果、体操服はトイレにあった。水が溜まったバケツに詰め込まれていた。
どうすれば、終わりにできるんだろう。
考えちゃだめだ。そう思い込ませて、無理やり頭のなかを空っぽにした。水気を含んだ体操服を詰め込んだ鞄は一段と重かった。
家に帰ってからも最低限の家事しかする気になれなかった。広く、しずかなリビングに響く環境音がさびしさに追い打ちをかけるような気がして、最低限の用を済ませたあとはすぐに自分の部屋に閉じこもった。
お風呂上がりの濡れた髪のままベッドへ横になる。携帯を手にした。トーク画面を開くと、いつか行ってみたいねと互いにカフェのSNSを共有したのが最後だった。
丸井くんになら言えるかもしれない。そう思ったことはいくらでもある。そして、いつもそこで止まる。なんて相談いいんだろう。
体操服を借りたほんとうの理由なんて——
文字を打つ手は今日も止まった。
逡巡してしばらく画面を見つめたあとは、携帯ごとぱたりとシーツへ埋もれた。
いまは不自然にみえても、そのうちいつかきっと誰も気にしなくなる。少しずつ距離をとっていけば、比例してみんなの記憶からうすれていつかは消えてなくなるだろうから。もう少しだけ我慢したらこんなことも終わるはず。
「大丈夫」
ちいさく呟いた声が目の前の真っ白な壁に吸収されたようだった。うとうと瞼を閉じる。
朝は滞りなく訪れる。がらりと世界が変わるわけでもなく、淡々と。それでも、少しでも変わると信じて毎晩同じ言葉を唱えている。
明日はきっと、大丈夫。
*
靴箱の前に立つだけでも身体がどんより重くなる。毎朝開けば、昨日と同じ光景が待っている。無機質な白い封筒。見なくていい。見てもいいことなんてないからそのまま捨てたらいいのに。自分に言い聞かせても時間が経てばどこかのタイミングでかならず中を確認している。こわいもの見たさなのか。いっそ自分に刷り込ませたいのだろうか。わからない。この便りが来るようになってから、どれくらい経ったんだろう。
「それ、またっすか?」
背後から声が聞こえて、肩が跳ねる。
「切原くん」
「おはよーっす」
「おはよう」
「結構ひさしぶりっすね。起きるの遅くなったんすか?」
彼が不思議そうに封筒を覗き込む。最近は切原くんも避けるためにわざと時間をずらして登校していた。いつもならこの時間に会うことはないのに今日は朝練が長引いたのだろうか。確かに彼と話すことも、鉢合うこともひさしぶりだ。
「ひさしぶり。テストは大丈夫そう?」
「······まぁまぁいけるんじゃないすか。まぁまぁ」
「······結構な間があったけど、大丈夫だよね?」
「つまり赤点取らなきゃいいってことっすよね」
「そ、そんなレベルなの?あんまりひどいと部活動停止とかになるんじゃ、」
「い、いーからほっといてくださいよ!なんとかなりますから!」
「は、はい」
「てかそれ、まだ来てたんすね。暇っていうかしつこいっていうか、じつはラブレターとかじゃないんすか?」
切原くんの視線が手もとに移る。一瞬、自分の顔の筋肉が停止したのがわかった。
「変ならくがきだけだよ」
「そんな何回も入れてどうするんですかね。一回返事とかしてみてくださいよ」
「送り主がわからないからね···単に暇なだけだとは思うけど」
苦笑しながらそれとなく返す。手紙を鞄へ仕舞おうとしたとき、ぱっと手もとから消えた。
「なに書かれてんすか? これ」
封を開けようとする彼の手を見て、全身が硬直した。
どんなこと、書かれてたんだっけ。この前もその前の日も似たような言葉だった気がする。視界に入れても、なんともないように感情を誤魔化していたからうまく思い出せない。
昨日は、なんて——
『死ね』
背筋が凍りついた。
「だめ!!」
瞬発的に伸びた手が彼から強引に封筒を取り上げた。持つ、を通り越して、ほとんど握りつぶされた手紙は皺くちゃになっていた。尋常じゃなく心臓が鳴っている。息切れ手前の感覚が襲う。ゆっくり呼吸をととのえようと顔を上げたとき、はっとした。彼が大きく目を見開き、唖然として私を見つめていた。しまった、と思った。
なんてことをしたんだろう。
なにから話せばいいのか、ひとり困惑しているあいだに重たい沈黙がながれる。
「すみません」
さきに口を開いたのは彼だった。
「ごめんね。その、いきなり大きい声出して···びっくりしたよね」
「いや······俺もすみません、でした。勝手に読もうとして」罰が悪そうな表情で、ぎこちなく彼が言う。
「ほんとうになんでもないんだよ? ただ、変なこと書かれてるの読まれたら、恥ずかしいから」
釈然としない彼を見て、自分の言動をおおいに責めた。どうしてもっと器用に立ち回られないんだろう。どうしてもっとやさしくできないんだろう。しかしそんな罪悪感よりも、彼に勘づかれてしまっていないかと、そちらの心配のほうが思考の大半を占めていた。目の前の友達に気を回すことさえできなくなっている自分に嫌気がさす。
戸惑いを隠せない彼に声をかけようとしたら、向こうのほうで笑い声が聴こえた。急に耳鳴りがして、真上から氷水をかけられたみたいに全身がひえていく。つめたい汗が滲み出る。
「苗字先輩?」
彼の声をたよりに動揺を振り切った。へらっと笑いかけた。いつも通りをなんとか演じるんだ。
「なんでもない」
「ほんとに、大丈夫すか?」
伺うような言葉遣いと視線を向ける彼に手を左右に往復させてなんでもないようにこたえる。
「大丈夫。ごめんね」
彼とはそこで別れた。
階段を登る最中も教室の席に座ってからも、しばらくは感覚がおぼつかなかった。
*
休み時間。
席で本を読んでいると、目の前の椅子が引かれる音がした。視線を上げると、ガムを口から膨らませたまま丸井くんが椅子にどかりと座った。最近は風船ガムがマイブームらしく、彼曰く『しっくり来る』らしい。
「よっ」
「私、今日は数学ない日だよ」
「宿題じゃねぇっての。そういやこの前のジャンプ読んだ?」
「この前って···どの前?」
「ほら、お前の好きなやつが死にかけそうになったとこ」
「···あ、読んでない、かも。仁王くんにまだ借りてなくて」
「はやく読めよ!あれマジでビビった展開でさ、」
「ま、待って!ネタバレ禁止だよっ。つぎの話すっごく楽しみにしてたんだから」
「レンタル料50円くらいあるだろぃ?まさか俺抜きでひとりで買い食いしてんのかよ」
「そんなことは、ないんだけど」
そんなことはない。けれど、ほかのみんな同様仁王くんにも極力話しかけないようにしている。私が別校舎へ移動して時間を潰しているせいか昼休みに彼がふらりと私のもとへ来る頻度は以前よりも減っている。仁王くんとも、みんなとも、会話らしい会話をずっとしていない。こうして丸井くんとも面と向かって話すのもいつぶりだろう。
「ひさしぶりにさ、なんか食いに行かねぇ?」
なにも気にせず楽しめたらいいのに、うしろの子たちの視線を想像しただけで気分が澱む。
「·······その···、今日もはやく帰らないといけなくて、」
そこまで話すと、彼が考えつめるような表情を見せた。「それって」彼は慎重に言葉を選んでいた。
「ほんとに、なんだよな?」
念押しする彼の表情に喉の奥がぐっと締まる。
「···って、悪ぃ。こんなふうに聞かれても困るよな」
彼の罰の悪そうな表情に胸が痛んだ。彼がうたがうのも、無理はない。
「苗字、最近疲れてね?ひとりで家のことやってんの大変だろうし、俺がどうこう言えるもんでもねぇけどさ···もっと話したいこととかあるならぜんぶ聞くし。家のことじゃなくても、ほかのことでも」
彼の口ぶりはやさしさともどかしさの狭間を行ったり来たりしていた。頻発する私の忘れものにも、なにかあったんじゃないかと勘ぐっているのだろう。実際はもっと言いたいことがあるに違いないが、きっと最大限に配慮してくれている。今朝、切原くんに声を荒らげてしまったのも、こうして丸井くんに心配されているのも、限界が露呈しはじめている証拠なのかもしれない。
このまま甘えてしまいたい。でも、できない。精神がなだれ落ちそうになるのをどうにか堪えるしかない。
「ありがとう。でも、なんともないから」
私の言葉にはなんの説得力もないのは、彼の表情を見ればわかった。
大丈夫。なんでもない。ずっとそんな嘘ばかりついている。
「また来る」
彼はそう言って、席を立った。去っていく背中を目で追うと、彼が教室から出ていく間際、扉のそばでグループのひとりの子が彼に話しかけているのが見えた。挨拶ついでにふたりは軽く談笑してから彼は出て行った。たったそれだけのことが、つらかった。
本へ視線を戻した。活字をながめるだけのただの作業だった。
読みかけの文庫本がなくなっていたのに気づいたのは、その日の放課後のことだった。
標的になるのはノートや教科書、辞書など授業で使うものばかりだったから、私物が狙われるとは思っていなかった。しかし考えてみれば、教科書が盗られた時点でなにがあってもおかしくないのだ。気をゆるめていたというよりも、警戒する行為自体に疲れていた。
トイレには捨てられていない。準備室にもない。ごみは既に掃除当番が下のごみ置き場へ運んでいる。どこまで探せるだろうか。
可能性を思いつく度にさぁっと顔から血の気が引いていく。
ただの本ならまた買えばいいと諦められた。
けれどあの本には、幸村くんがくれたしおりを挟まされていた。青い花を囲むようにきいろい花びらが散りばめられた綺麗なしおり。
彼にとっては特別な思いはないと知っていたけれど、私にとってはほんとうにうれしくて、大切な一枚だった。思い出がひとつずつ薄れていくような日々でこれだけは唯一このさきずっと形として残せられると思っていた。見ているだけで、泣きたくなるほどやすらいだ。
思いあたる場所すべてを探し回った。可能性は低いとわかっていても高学年しか出入りしない校舎棟も探してみた。テニス部のみんなに知られないようだめもとで部室棟にも入ってみた。それでも、見つけられなかった。ほんとうになくしたんだと実感した瞬間、疲労感と喪失感とが同時にのしかかった。
これ以上、なにを失うんだろう。
帰り道を歩く足取りは重たかった。目に映る景色すべてが、どれも暗く、鬱屈として見えた。
*
翌朝。
ロッカーに入れられた封筒を鞄にしまう。もう、習慣になっている。
廊下を歩き教室へ入ろうとすると、すっとひと影が目の前をさえぎる。顔を上げたさきには、仁王くんがいた。教室の扉に寄りかかるようにして立っている。私を視線で捉えた後、凭れていた身体を起こした。
「のぅ、ちょうどよかった」
「?」
「これ、お前さんのか? 前から読んどった気がしたんじゃが」
さっと掲げた彼の手もとにあるものを見て、自分の目が大きく見開いていくのがわかった。
探していた本だった。
あんなにも求めていたのに頭はずいぶんと冷静だった。おそるおそる手を伸ばし、彼から受けとる。本にふれた箇所から微かにざらついた感触が掌全体に伝わる。表紙は砂や泥でまみれた跡が広がっていた。
ページをめくると、しおりが目に入った。ぐしゃりと折れ曲がって、茶色の染みがついている。一瞬、息ができなくなった。歪んだしおりが、持ちこたえそうにないいまの状況と重なった。
まだ、あったんだ。どんな形になってもいいから戻ってほしいと思っていたけれど、まさかこんなふうになるなんて。
視界が徐々に滲んでいく。
「苗字」
はっとして顔を上げる。
彼には日頃、お前さんと呼ばれているからか、名前で呼ばれると新鮮な響きにきこえた。不思議と平静を保てる手立てになった。彼の表情は読みとれない。
騒ぐ心臓を抑えて、息をふっと整える。
「ありがとう、仁王くん。ずっと探してたけど全然見つけられなかったから···ほんとうにありがとう」
手もとに返ってきたでも奇跡的なのに、ここで気を落とすのは彼に対してあまりに失礼だ。
「なるべく払うようにはしたんじゃが、そこまで汚れは取れんかった。乾かせば多少ましになるとは思うがの」
「ごめんね、大変だったよね…ここまで綺麗にしてくれてくれてありがとう」
「じゃが、どうしてあんなところにあったき?」
どこに隠されていたのか、私は知らない。むしろどこにあったのか尋ね返したいくらいだ。しかしそんな質問をしたらそれこそ違和感でしかない。落としものに対して、どうしてそんなところに落としたのか、とわざわざ問いたくなるくらいにはありえない場所に放置されていたのだろう。
湿って波打つページと砂でよごれた外見を手がかりにするなら、少なくとも校舎外のどこかしらで拾ったことを前提に話すしかない。
「この前、盛大に転んじゃったときかな? 鞄のなかに入ってたのもぜんぶばらけちゃって···急いで帰ったから拾いきれてなかったみたい」
「ドジっ子全開じゃな」
「最近なにかとついてないんだよね。神社にお参りに行ったらましになるのかな?」
「ひとつ真田に喝でもいれてもらったらどうじゃ。そこらの厄祓いよりも断然効果はあるじゃろ」
「···それはちょっと、その」
「その反応、どういう意味か教えてほしいのぅ」
「えっと、なにも真田くんがこわいとかおそろしいとか恐怖とかそういうことじゃなくてね···!」
「そうも本音が出るといっそ清々しいぜよ」
彼はいつもの調子で私の話を聞いていた。どうにか取り繕ってみてはいるが、内心はどう思っているのだろう。このまま話しつづけるとぼろが出そうでひやひやする。彼は危険だ。柳くんと遜色がないくらい、彼もひとの感情を察する能力に特別長けているのだ。極力深入りされないためにもどうにか話題を逸らしたい。
脳内を忙しく回転させていると、彼がぱっとうしろに隠していた左手を私の目と鼻の先に差し出した。まばたきすると、眼鏡をかけたかわいらしい男の子の人形。ちいさな両手をぱたぱた動かして軽快に動いている。つまりは、パペット人形だった。よくよく目を凝らすと、見たおぼえのある成り立ちだ。
「···これ、柳生くん?」
「プリッ」
「仁王くんが作ったの?」
「ジャッカルにも手伝ってもらったなり」
「すごい…桑原くん、裁縫得意だもんね」
人形は顔から身体まで彼の特徴をよく捉えていた。丁寧に制服まで身につけ、ネクタイのボーダー模様まで作りこまれている。布でできた手を握ってみると、握手をするみたいに両手でぎゅっと指を握り返してくれた。
「えへへ…かわいいね」
愛らしい動きにほっと癒される。そうやって戯れていると、唐突に『彼』が前髪をわさわさ掻き分けて乱してきた。
「ち、ちょっと。柳生くんはこんなことしないでしょっ」
「落ち着きたまえ、苗字くん」
「···へっ!?」
「ほれ、正真正銘柳生ぜよ」
「…仁王くん、なんだよね?さっきの声、ものまねなんて通り越して柳生くんそのものだったよ」
「イリュージョンをこなすにはこれくらいせんといかんからのぅ」
「いりゅーじょん?」
「このまんまお前さんの口にちゅーしてもええんじゃが」
「!?そ、それはいくら人形でも複雑というか、立派な公然わいせつ罪というか、リアル柳生くんも知ったらショックなんじゃないかな…!」
「案外満更でもないじゃろ」
「なに言ってるのっ」
ずいずい口もとに向かってパペットが接近してくるので、こちらも負けじと手で懸命に押し返す。そんな押し問答をしていれば、飽きたのかなんなのか彼はすっと降参した。
「残念じゃのぅ、柳生」
パペット柳生くんに向かってぼやいていた。なにが残念なのかさっぱりわからない。
「もう、そういうおふざけはだめだよ」
「ほかにも作ってみるかのぅ」
「さっきされたこと柳生くんに言うからね」
「……すまんかった」
苦々しい顔をした彼を見て、思わず吹き出してしまった。風みたいにどこからともなくやって来て、好き勝手気ままに過ごす彼にもちゃんと弱点はあるらしい。
おかしくってずっと笑っていると「笑いすぎじゃ」眉尻を下げて彼も笑っていた。
「うわ、またじゃん」
「キモ」
喧騒に紛れて、つぶやかれた声。背後であの子たちが通り過ぎたのが、直接見なくともわかった。
あぁ、まただ。頭のなかに真っ黒のペンキがざっと塗られたみたいに、なにも考えられなくなる。指さきからつま先までつめたくなる。蒸し暑いはずなのに、冷や汗が滲む。徐々に笑い声が遠ざかっていく。気持ち悪くて、胃からなにかこみあげてきそうだった。
お願いだからなにがなんでも我慢して。崩れかける手前の精神状態で、自分自身を諌めた。
「見つけてくれてほんとうにありがとう」
そう言ってすぐ、チャイムの音が響いた。仁王くんは、どういたしまして、とだけ返した。それからちいさな柳生くんともバイバイと手を振って離れた。
教室に入ると、女の子たちが話しているのが目に入った。横目でじっと見つめてくる視線と合って、すぐに俯いた。笑い声が聴こえれば、身体が萎縮した。
なにも会話の内容すべてが私のことを言っているわけではないはずだと分かっていても、どうしようもなくこわかった。関係のない子の笑い声でさえも私に向けられている気がして、塞ぎたくなって、逃げたくなる。
皺の入ったしおりをもういちど見た。
目の奥が痛くなるのを堪えるようにして、唇を噛んだ。
*
体育の授業後、体育館から移動していると、二号館の近くにある花壇に目が留まった。
そういえばずいぶん長いあいだ、ここに立ち寄っていない。放課後あの音楽室でひと通り弾き終わったあとは毎回この前を通り過ぎるのが習慣だった。しばらく音楽室に通っていないせいで必然的に遠のいていた。
色彩ゆたかな花たちが陽を浴びて、身を寄せながら咲いている。大勢に気に留められ、生徒が憩いの場として通う屋上庭園よりも素朴ではあるけれど、幸村くんはここの花壇も気にかけて頻繁に手入れをしている。今月の掲示板で美化委員が載せていた写真のうち一枚はここのクチナシだった。あれはきっと、幸村くんが撮った写真だ。
あれから、彼とは顔を合わせていない。廊下ですれ違っているのかもしれないが、誰とも目を合わせないようにしているから実際はわからない。
「おーい、変なとこ飛ばすなって!」
「ごめんって!」
肩が跳ねる。瞬時に振り返った。地面の上を走るボールを追って、男の子たちがはしゃぎながら取り合っている。どくどく鳴る心臓を抑えるように両手を胸の前で強く握った。忙しない鼓動に反して、意識は判然としない。
大丈夫。あの子たちの声じゃない。こわがらなくていい。大丈夫だから。
目を瞑って、息をととのえる。あと少しでおさまるはず。でも、こんなにひどかったかな。いつからこんなふうになっちゃったんだろう。
「苗字さん?」
ゆったりと顔を上げる。
「大丈夫? 俺の声が聞こえるかい?」
あぁ、幸村くんだ。そうぼんやりと徐々に状況を理解できた頃には脈打つ胸も落ち着きを取り戻していた。目の前の彼は識別できるいっぽうで、精神と自分の身体とが離脱したような浮遊感が意識のなかをただよう。
「どうして···」
独り言にも近いつぶやきを彼は聞き逃さなかった。
「さきに水やりを済ませてしまおうかと思って来ただけなんだけど···苗字さんは? 気持ち悪いところとか、ない?」
チャイムが鳴る。校舎から漏れる生徒たちの声が徐々に騒がしくなる。もう昼休みがはじまったみたいだ。彼は気がかりな面持ちで私の顔を覗いていた。
「うん···大丈夫」
いまの時期特有の湿気と陽ざしも強くなってきているせいか、暑さが苦手な私にとってはかなり体力を消耗させられる。でも、べっとり張りつく汗はなにも天気のせいだけじゃないだろう。なるべく笑ってこたえたつもりだが、彼はますます顔を顰めた。
「体育の途中でもしっかり水分はとってるかい?」
「うん。ほどほどに」
「顔が赤いけどもしかして熱中症なんじゃ、」
「もともと火照りやすいからいつもこんなかんじで···あ、あの。汗で汚いからさわっちゃだめだよっ」
「さっきよりも赤くなった気がするけど」
「(それは幸村くんが近いから···!) か、顔が、そそその」
「はやく保冷剤を当てたほうが···やっぱり保健室まで付き添うよ」
「大丈夫っ。ほんとのほんとになんでもないし、多分教室で涼んだらよくなると思うし」
「もし歩くのも大変なら俺が運ぶよ」
「へっ!?」
「ほら、俺の肩に手を回していいから」
「えっ、あの、ゆ、幸村くん落ち着いて」
「もしかして苗字さんの場合は甘いものをたくさんあげたほうが回復するのかな?」
「···すごく真剣に考えてくれてるのはうれしいけど、どういう理屈なのかな?」
甘党の私にはとりあえず糖分をあたえておけばいいなんていう短絡的な思考になっていないだろうか。と、つっこみたいところだけれど幸村くんは至ってまじめに私を労わろうとしてくれているのか悶々と考え込んでいる。
「あの、幸村くん」
「?」
「屋上庭園も好きだけど、私はここも好きだなぁってながめてただけなの。最近、寄ってなかったらひさしぶりに見に来たんだけど···やっぱり、かわいいね」
花壇を見やって、そう言った。
「だから大丈夫だよ、幸村くん」
そうしてもう一度彼を見つめてそう言えば、彼の表情はやわらかくなって
「よかった」
とだけ言った。
「ひとまずは熱中症じゃなそうで安心したよ」
「······最初からそう言ってたような?」
「······そうだったかな?」
いまいち思いあたる節がないらしい。きょとんとした彼の表情をしばらく見ていると口もとがゆるんでしまって、ついには吹き出してしまった。
「幸村くん、変なの」
強ばっていた身体の力が抜け落ちていく。こんな感覚、ひさしぶりだ。くすくす笑う私を見て、困ったように彼が笑った。
「柳くんも言ってたけど、幸村くん、心配性なんだね。ちょっと意外」
「···いつもはこんなふうにはならないんだけどな」
ふたりで笑っていた。
それが、無性にせつなかった。あらためて知らされた。こんなにもやすらげる時間を無条件で享受できていたこれまでがとてつもなく贅沢だったことを。
彼と面と向かって話すのは、いや、そもそも顔を合わせるのもいつぶりだろう。テニス部のみんなのなかだと一番会話らしい会話なんてほとんどしていない。
私にとって彼はもっとも警戒しなければいけないひとだった。部活動でももちろん校内中で飛び抜けて人気の彼だから、彼にかかわるとあの子たちにまっさきに目をつけられるのが嫌でもわかった。最優先で避けなければならなかった。
「大丈夫かい?」
「うん。あとでゆっくり休むね」
「いまじゃなくても、最近でも」
「え?」
「家のことで忙しいとは聞いてたんだけど···最近、無理してないかい?」
彼との関係を断ち切る行動がもっとも自分を守る術になるなんて、思いもしなかった。
この光景をいまも誰かに見られているんじゃないか。その考えだけが頭を占領していく。
「音楽室を覗いても君の姿が見えないから心配になって」
彼は何度あの音楽室に訪れたのだろう。何度私をさがしてくれたのだろう。
『幸村くんもなんであんなのに構ってんだろうね』
嘲笑まじりの声。塗りつぶされた教科書。ぼろぼろのノート。バケツに捨てられた体操服。砂にまみれたしおり。記憶の断片が散らばっていく。
こころが、一気に澱んだ。
「はやく帰らないといけないからそんなに残れなくなって······ごめんね、もっと前から言えばよかったね」
彼は「うん」と言って、なんともいえない返事をした。怒っているようには見えないが、笑ってもいない。彼の口が開く気配がない。私はじっと待っていた。この『間』が突発的なものなのか、いままでも起こっていたものか、わからない。少なくとも、いまの私では受けながせない。
「なにか、あった?」
彼の口調は訊ねているようで、ほとんど確信めいていた。
「なにかって?」
訊き返すと、彼は真剣に考えこむような表情をした。その沈黙が苦痛だった。そして彼は、意を決したように口を開いた。
「最近、ひとりでいるのはどうして?」
彼にだけは知られたくなかった。
「そんなことないよ」
「君が『ほんとうに』意識的にそうしてるならなにも思わないけど、でも、そうとは思えない。ほんとうのことを話してほしいんだ」
「ほんとうもなにも、ないんだよ」
「でも、」
「幸村くん」
彼の言葉をさえぎった。
「しばらく、音楽室に来なくて大丈夫だから」
扉の開く音がする。音が止む。ピアノを挟んだ向こうに見える彼の姿。彼はいつも、どうしてか、ほっとしたような表情で私の存在を確認する。ここまでの記憶はよみがえる。なのに、いつも私の手をとってくれる彼の掌の感触は、もう思い出せない。
「それでも、行くって言ったら?」
彼は言った。
「そう言えば······来てくれるかい」
彼はせつなく、微かに目を細めた。彼の表情を見て、声がふるえそうになるのを必死に堪えた。
さびしい海の中心で差し伸べてくれた手。波のくだける音。日が落ちるにつれて呑み込まれそうにダークな色に染まった水平線。
「そんなの、ずるいよ」
馬鹿げたことだと笑いたかった。でも、できなかった。拒もうとしている私のほうがおかしいのかと錯覚してしまいそうなくらい、彼は真剣だった。目が潤んでしまいそうになるのを耐え忍ぶだけでせいいっぱいだった。
「隣にいたいのは変わらない。でもそれはなにも、君が笑っているときだけの話じゃない」
——ずっと、待ってる
これ以上あの日のことを思い出したら、きっと目も当てられないほど弱くなる。
「私、いつでも弾きたいわけじゃないよ。行くのが嫌になる日だってある。いくら弾いても、いつも、いつもきこえなくなるってわかってるから」
沈黙が下りる。
「ごめん」
そう言って、伏せられた彼の表情が強烈に私の目に刷り込まれた。そこでようやく自分の言ったことを理解できた。もう、遅かった。
「部活が終わったら屋上庭園に寄るつもりなんだ。よかったら···おいでよ。ひさしぶりに、君とゆっくり話したいな」
さっきまでの瞳がまるで嘘みたいに彼はもと通りに戻った。それでも声だけは、慎重そうにきこえた。
幸村くんと過ごす時間が大好きだった。隣にいるだけで心地よかった。部活のこと、家族のこと、授業のこと、家族のこと、最近読んだ本や見た景色の話。ささいなことばかりをとりとめもなく語って、なごやかな時間。彼が笑いかけてくれるだけで胸が鳴って、大げさだと自分でも思うけれど、でもほんとうにその日一日は浮ついた気分になるくらいしあわせだった。ずっとつづいてほしいと、そう思っていた。
「うん」
それだけの返事しかできなかった。彼の顔をうまく見られないまま、その場を去った。彼も私も、なにも言わなかった。
「苗字」
声に反応して顔を上げると、丸井くんがこちらに向かって歩いていた。赤い髪が風に吹かれてさわさわ揺れている。ここからテニスコートまではすぐの距離だ。顔の筋肉を上げようと気合いを入れた。
「もう部活だよね」
「ん」
「いってらっしゃい。頑張ってね」
いつもなら笑ってこたえるはずの彼の表情は固まったままだった。
「放課後、時間とれねぇ?」
嫌な予感があたった。
口を噤む私に、耐えかねるように彼がつづけた。
「ほんとにさ、今日も無理なのかよ?」
「·······それは、」
「俺らのこと、避けてね?」
口のなかが乾いていく。
「お前も忙しいときくらいあるだろうし、ひとりになりたいときだってあるだろうし、しつこく言うもんでもねぇって思ってた。けど、やっぱり変なんじゃないかってどうしても考えちまうんだよ。苗字、なんかあったんだろ?」
「それは、」
「気のせいじゃねぇだろぃ」
語調を強めて言う彼には、茶化すのは否が応でも許さないといった凄みがあった。たじろいでいることを悟られないよう、必死に口の端を上げる。
「一緒に帰れなくなったからって考えすぎだよ」
「俺、お前と全然昼飯食えてねぇけど」
「そんな···お昼くらい、」
「なんともなくなんかねぇよ」
間髪入れずに言った彼の眉間には皺が刻まれていた。
「お前の言うなんともないなんか、信じねぇ。
昼飯一緒に食うとか、買い食いして帰るとか、休み時間に駄弁るとか、そういうなんでもないの、お前がいちばん好きだったくせになんでなんもなかったみたいに言うんだよ。
ひとりでいたいって言うならそれでいい。けど、お前の云うひとりってそういうことじゃねぇだろぃ、多分。
苗字の卵焼きとか唐揚げ、そろそろ食わねぇと、味、忘れるのに」
悔しそうに顔を歪めて、彼が言った。最後のほうはほとんど独白に近かった。
彼の好意を踏みにじって、的外れな非難をしたくなった。どうして、どうでもいいって思ってくれないんだろう。夕暮れ時でもいまだに陽ざしが、私の考えることも、ひた隠しにしてきた傷もそういうすべてを晒け出すような疎ましい存在に思える。
「言ってくれねぇとわかんねぇよ」
「なんにもないよ」
「俺のこと、嫌いになったなら正直に言ってほしい。知らないうちにお前に嫌なことしてたってなら、」
彼の言葉に胸が詰まる。
「そんなわけない。そんなの、あるわけない」
ほんとうに違うから。
そうやって絞り出した声にはもう説得力がなかった。
そうだ。
あからさまに嫌われるような態度をとればよかったのだ。
素っ気なく、徹底的に冷然と振る舞えばみんなのほうから避けてくれたかもしれない。わかっていたのに、しなかった。なにもかも中途半端だった。
——これだから一緒にいてもいいとかだめとか、そんなの関係ないだろぃ。お前がどうしたいかにぜんぶ任せろよ。
あの雨の日に彼が言ってくれた言葉。自分の希望を叶えることが、自分の首を絞めることになるなら、どうしたらいいのだろう。
「幸村くんも、心配してた」
掠れた声。頭のなかがぴんと張りつめた。
「どうしてそこで幸村くんが出てくるの?」
尋ねたら、彼は苦い表情を見せた。なにもこたえなかった。彼の台詞の真の意図は理解できない。でも、胸をさわがせるのにはそうとうな効果があることには違いなかった。
「心配してくれてありがとう」
「苗字」
「もう行かなくちゃ」
退ける私を阻むように彼がぐっと近づいた。
「こんなのでもお前のこと、ずっとみてたんだよ」
俺だって。
ちいさな声で、そう言った。
俺だって。いったい彼は『誰』と『俺』を比べているのだろう。いまの彼は私の想像をはるかに超えた複雑な感情を孕んでいるのかもしれない。そう思わせるほど、ひどくせつなげに顔を歪ませていた。こんなにも込み上げてくるのに、どうすべきなのかわからない。
彼が口を開こうとしたときだった。
つんざくような怒号がふたりのあいだをさえぎった。
「丸井ー!!」
真田くんの声だ。重苦しい空気を断ち切るにはぴったりだった。丸井くんの肩が跳ねる。
「いつまでそこでさぼっている!部活がもうはじまるぞ!さっさと着替えんか!」
「わりぃ!すぐ行く!···苗字、今度さ」
「ほら、はやく行かないと真田くんに怒られるよ?」
催促するよう「遅れたらグラウンド五十周だぞ!」お構いなしに真田くんの声が響く。くるし紛れに、なにか言いたげに振り向こうとした丸井くんに「私は大丈夫だから」やんわりと釘を刺した。そう、なにも変わらない。これでいいんだ。そんな私を見る丸井くんはもどかしそうで、言葉にしないだけで苛立ってもいるのだと思った。
苗字、と、彼が呼ぶ。
手がぽんと私の頭のうえに置かれた。くしゃりと僅かに力が込められた。
「また、来るからな」
険しくて、まっすぐな瞳。息ができなくなった。情けなくなって、なにも言いようのないまま、地面に顔を背けた。きっと彼は私を見ていたのに。お互いにもっと、伝えたいことがあったのに。
彼が私の横を通り過ぎる。
鉛のように重い足のせいで、ただ立ち尽くしていた。
まだまだ青くて、あかるい空。
地面に溶けこむ茜色の光があんなにも遠い記憶のように思える。
みんなと帰りながら、会話のほんの少しの合間に眺めるあの瞬間が、大好きだった。
私はどんな景色を見ていただろう。うつくしかったものが曖昧で、恋焦がれたものも歪んでみえて、すべてが不鮮明だ。いつのまにかすべてに黒い液体がたれていく。
滲んで染みになっていく。
「ごめんね」
視界が滲む手前、瞼を固く閉じた。
*
ほんのりただよう制汗剤の匂い。がやついていた部室内は声が聞き分けられるくらいにはしずかになっていた。考えごとをするならこれくらいの雑談がBGMになってちょうどいい。シャツのボタンを閉めながら、ふつふつと思い起こしていく。
いつのまにか、ほぼ毎日毎時間、苗字は教室でひとりで過ごすようになっていた。一年のときの、はじめの頃のあいつに逆戻りしているみたいに。誰ともかかわらないようにひっそりと、透明な壁をつくりながら。
なんとなく引っかかる。けど、気のせいかもしれない。最初はその程度だったのに、日が経つにつれて明確な違和感に変わっていった。
昼飯や放課後に誘ってみると、きまって困った表情をした。強引めに誘ってみたこともあったけど、苗字がしゅんとするから、抵抗感が芽生えて押し切れなかった。家のことがあるからと言えばそれまでだけど、それにしても断る回数が増えるうえ、話している節々で疲れているようにもみえなくない。微妙で、はっきり気づけないくらいの、些細な違い。
ほかにも違和感はあって、そういう違和感のかけらがちいさく散りばめられていて見逃せない塊になっている。なんとなくそうは思うのに、これといった正体がわからない。
ロッカーを閉める音がやけにおおきく聴こえた。
スマホを手にしてアプリを開いた。メッセージを送っても、たとえば電話をしたとしても、同じ返事がくるのかもしれない。
きっと、いつもみたいに大丈夫って言って、笑うんだ。
「ちっとばっかし、話がある」
空気が静止した。みんながほとんど同時にあいつを見た。あいつの目が特別鋭かったからかもしれない。
胸のなかがしずかに、そして嫌な音で、波打った。