暗い足音2

本を拾った。
ぐちゃぐちゃでびしょびしょの本。

素通りしようとしたところで、足を止めた。
湿った土の匂い。じめじめした空気が肌に絡まるいまの季節は身体が一段と重たいかんじがする。雨は嫌いではないが。
コートから比較的近い距離にある、地面の大半が影で覆われているこのあたりは多少湿ってはいるぶんひんやりとしている。しずかで誰もいないことと、おまけに涼しいという好立地条件を見つけるのは案外難しい。蒸し暑さのせいで気だるくなった身体を休めるにはここはちょうどよかった。彼女とはじめて出会ったのもちょうどここだった。
雨あがりのせいで乾ききっていない、窪んだ地面にできた水たまりに本は沈みかけていた。親指とひと差し指でつまんで、持ち上げてみる(しっかり持つのは抵抗があった)。本の端からぽたぽた滴る濁った水をながめながら、思い出していた。
彼女が休み時間に読んでいた本だから表紙には見覚えがある(よく読書中に彼女の後ろ髪をちょこちょこ引っ張ったりしていた。彼女は文句を言いながらもなんだかんだ付き合ってくれる)。しかし、それも最近は見かけていない。教室を訪ねようとするタイミングで、きまって彼女は席にいなかった。昼休みもそう。彼女と丸井がふたりで過ごしているのも何日も見かけていない。

本の隙間からしおりが落ちた。
ぐちゃぐちゃでぐにゃぐにゃのしおり。

「ずっと探してたの。ほんとうにありがとう」

一瞬のことだった。
やわらかく綻んだかと思えば唐突にだった。
水の入ったグラスに氷をいれたときのような、ぴきりと締まって、われた、はりつめた表情。
めざといのは、自分の長所だと思う。いい意味でも悪い意味でも。

「落としもん、か」

呟きは廊下の喧騒に紛れて消えた。
教室へ戻っていく彼女の背中が随分と華奢に見えた。








「いじめ?」

赤也が反芻した言葉がやけに頭に響いた。聞きたいことは山ほどあるはずなのに言葉も感情も喉の奥にひっついたみたいに吐き出せない。
だから、神経を必要以上に研ぎ澄ませながら仁王の説明を聞いていた。教科書でも私物でも見せたがらないうえ、貸すのはもっとも避けたがること。落としものと呼ぶには無理がある場所で苗字の本が落ちていたこと。なによりは、女子が後ろを通り過ぎたときの苗字がほんの数秒の隙に見せた顔。

「まぁ、これだけで決めつけるのも気が早いっちゅうたらそれまでじゃが」

考えるような仕草で首の後ろに手をやった。同時に、目を僅かに細めた。

「もっとあるんじゃろ。ほんとうは」

もっとあるはずの、苗字の身の回りで起きている違和感。仁王はほとんど断定的な口調だった。たとえちょっとした変化だったとしても積み重なっていけば、いつしからしくないと思うほどの違和感へとふくらんでいく。ひとによっては気に留めるか気に留めないか程度の境界線をつついてくる。

静寂がながれる。
このしずけさを頼りにみんなが思い思いに考えているに違いない。でも、俺みたいに頭のなかを整理をするだけでもせいいっぱいのやつはいるんだろうか。苗字の顔も姿もはっきり思い浮かべられるのに。畳みかけるようにうねる波の動きは冷静に捉えられるのに、抗えない、足がもつれるような感覚に近い。思っているよりも、動揺しているのかもしれない。

「ここ最近の苗字、忘れものが多くねぇか?」

まず沈黙を破ったのはジャッカルだった。

「苗字って真面目で基本前もって準備していくタイプだろ? でもあいつにしては貸してほしいって言われることが増えた気がして…」

「まぁ忘れもんって誰でもあるっちゃありますけど。俺もたまに忘れますし」

「お前さんと同じにしちゃいかんぜよ」

「それどういう意味っすか」

「そういえば私も何度か苗字さんにお貸ししましたね。それこそ珍しいとは思いましたが、ときにはそんなこともあるだろうかと気にしていなかったのですが…」

「俺のところにも来たことがあるな」

「えっ、真田先輩んとこにもっすか?…すげぇな。俺なら絶対ぇ借りねぇけど」

「なにか言ったか赤也!」

「な、なんもないっす!」

「精市は?」

「俺にはなにも」

「俺も同じく、だ。お前もないだろう?」

「プリッ」

「なるべく不特定多数にしているようだが、それでも相手を選んでいるんだろう」

違和感にまず勘づきそうなやつをまっさきに除外したとすれば、そうなる人選だ。俺のもとへは体操服を借りに来たけど、それっきりだ。体操服でないにしてももしあれからほかにも教科書やノートをお願いされていたらもっとはやい段階でうたがっていたかもしれない。
苗字はそうなることを見越して、俺を避けていたとしたら。なんともない姿を装うために、どんなやつにどれくらいの頻度で、どれくらいの比重で頼るかを考えていたとしたら。

「俺は購買部で苗字を見かけたことがある」

「購買?」

「英語の教科書を買っていた。ジュースでよごしたから、とは言っていたが」

「なんの教科は忘れたが俺も借りようとしたらそう言われたぜよ」

「…仁王くん、よもや君は少々苗字さんに借りすぎでは?宿題はご自身でされていますよね?」

「ケロケロ」

「俺が苗字に貸したのもちょうど英語の教科書だった。そのときは忘れていたと言っていたぞ」

「柳先輩にはジュースこぼしたって言って、真田先輩には忘れたって言ってるってことっすか?」

「重なっただけかもしれない。だが…いま聞く限りだと偶然というにはかなり頻発しているな」

本の落としもの。購買部でわざわざ教科書を買い直していること。頻繁にみんなから借りものをしていること。その人選も慎重にしていること。少しずつだけど、繋がっていく。

「そういや、苗字先輩んとこにやたら来てるあれも変っすよね」

「あれ?」

「ほら、手紙」

赤也の返事に誰も手ごたえのない反応だった。赤也が意外そうな顔をする。

「あれ…知らないんすか?」

俺も知らない。そう言いかけたところで、思いなおした。

―――――靴箱に手紙入れるのって、流行ってたりするのかな

そういえば、前に苗字はそんなことを俺に訊ねてきた。

「苗字先輩のロッカーに手紙が入ってるんすよ。多分、ほぼ毎朝。なに書かれてんのか全然教えてくれねぇし、ただの悪戯だってそれしか言わねぇ。だから気になって読もうとしたら、苗字先輩すげぇ怒って。…いつもみたいなノリでもなくて…マジだったっていうか、なんかおかしくて、あのひとらしくねぇっていうか」

「なんでそんなこと、」

そこまで言って言葉に詰まった。赤也の気落ちした顔を見て、なにも言えなくなった。俺が責めてもいい資格は、どこにもない。
赤也が目を伏せる。

「すんません。らくがきとかじゃなくて、手紙がほんとにマジの内容……告白的なあれだったら苗字先輩がああなるのも普通かもって。大袈裟にすんのもあれかと思って…言ったほうがいいか、迷ったんですけど」

気まずさの滲んだ声が部室のなかにとおる。
ああなる。赤也のいう苗字のようすは俺にも想像できないくらいの変わりようだったんだろう。

「どことなくですが、最近の苗字さんはぼうっとされているような気もします」

「あぁ、話しかけてもどっか上の空っていうか。でも…声にはやたら反応してるよな」

「声?」

「この前でかい声にかなり驚いてたんだよな」

「苗字先輩ってもともと耳いいっすよね?」

「にしては過剰に、というわけか」

「あぁ。気になるのを通り越して警戒してるっていうか」

「特に女子の声に敏感な気はしたがの」

「女子、か」

「笑い声っちゅうんかの。こわがっとるように見えた。じゃが単に驚いただけかもしれんし、なんとも」

「そこは適当なのかよ」

「意外にも絶妙なんじゃ」

俺の横やりに対して、仁王はそう言われましても、と言いたげに肩をすくめた。
苗字はいつだって喜怒哀楽がわかりやすいし馬鹿正直だ。こっちが気恥ずかしくなるようなことでもありのままに沸き起こったうれしさを全面に表現する。なのにいまは、それこそ苗字にまつわる話題なのに全員が曖昧なニュアンスで話している。なんとなく。どことなく。そういえば。そんな気がする。思うことはあっても確信まではできない。こいつの言うとおり、苗字はあからさまにみえて、実は巧みに隠せる器用さを持ち合わせていたのかもしれない。

―――――なんともないから

けど、それももう限界だったんだろう。

「苗字本人になにがあったのか聞くべきでは?」
「そういっても手紙のことも聞いてもこたえてくんねぇし…つか、苗字先輩、最近付き合い悪いじゃないすか。あのときも俺とあんま関わりたくねぇからあんなに怒ったのかもしんねぇし」

真田の問いかけにこたえる赤也の声のトーンが徐々に落ちていくのを聞きながら、ぴんと頭のなかに糸が張るのを感じた。
付き合いが悪い。
苗字にまつわるなかでまっさきに思いつく変化。みんなの反応を見てみても、揃って納得しているようだった。

「お父さんがはやく帰ってくるからって言ってたな」

「にしても急に増えてません?」

「嘘をついとるっちゅうわけか」

「わかりませんけど、でもなんか怪しくないすか? いろいろ」

「家の事情って言われたらそれまでだけどな…でも丸井くん。お前、苗字と最近昼飯も食ってないよな?」

ジャッカルに促されて、俺はひと言、肯定だけした。
家のことだけならまだしも放課後以外の時間ですら俺たちを避ける意味があるのかどうか。ジャッカルが引っかかる部分は俺も同じように思っていた。ピアノを弾きたいからって苗字は言ってたけど、コンクールに出るわけでもないのにしきりに通うのも違和感があった。なにがあったのか。なにを考えているのか。ほんとうは、なにか隠してるんじゃないか。いくらか尋ねてみてもきまって苗字は困ったように笑った。苗字がうやむやにこたえると、俺は自然と質問責めになっていくし、そうなれば苗字はしゅんとする。そんなあいつを見ると俺も気が引けるから、深入りできない。なにも汲みとれないまま終わる。
なにも、できなかった。
そのうちいつかきっと話してくれる。少し距離を置いたら、きっと。そう信じたかった。信じるしかなかった。そういう淡い期待と散らばった苛立ちが、いまの結果だ。遠慮もやさしさもぜんぶ取り除いて苗字にもっと訊くべきだったんだろうか。それがたとえ苗字を追いつめることになったとしても、無理やりにでも。
あのときとるべき最善がもっとあったんじゃないか。いまさらだってわかってるのに、嫌でも考えてしまう。
空気がふたたび張りつめる。

「仁王のいう、その女子とやらが関係していそうだな」

「あきらか怪しそうすけどね」

「ならば「『ほんとうに奴らがやっているのかどうか面と向かって問いただせばいい』、と言いたいのだろう。弦一郎」

「どういうことだ、蓮二」

真田が釈然としない顔をした。

「確かにそれが単純且つ明解だ。だが、俺たちのもとめるこたえがすんなり返ってくるとは思えない」

柳の話を聞いて、ふと思う。世の中にいる犯人みんなが自白してくれたら世界はどれだけ楽になるんだろうか。本人達に訊いたところでしらばっくれられたら手のつけようがない。苗字が絶妙だったように、あいつを取り巻くやつだって当然絶妙なはずだ。

「手紙とか本とかいろいろ言えるじゃないすか」

「誰が靴箱に入れたのかは、現状わからない『ことになっている』。もし問い詰めたとしても本のことでさえも見覚えがないと言われたらそれまでだ」

「まぁ俺も入れられてる瞬間は見てねぇけど、さっきの話のながれだとほとんど誰か特定できてるじゃないっすか」

「俺たちはいま恐らく…といった仮定で進めている。仁王の話を聞けばほとんど黒に近いのかもしれないが、それはあくまで俺たちの独断だ。それらしい表情や雰囲気などという表現は特に第三者からしたら曖昧な判断材料でしかない。証拠は見つけられてはじめて証拠になる」

「…うたがってかかってるにしても、相応の準備は必要というわけですね」

食ってかかってもしまちがっていたとしたら、ごめんなさいじゃ済まされないかもしれない。そもそもいままで話した内容ぜんぶが俺たちの気のせいだっていう可能性もある。

「そんなの考えてらんねぇだろぃ」

わかっていても、抑えられなかった。
指さきの血が止まりそうなくらい自然と手を握りしめていた。感情が爆ぜそうな一歩手前だった。

「あいつは、今日も無理して笑ってた。
明日だってどうせなんでもねぇわけないのに、なんでもねぇって言って笑うんだ。
たいしたことなかったってなるかもしんねぇけど、でも、手遅れになるくらいならはやく動いたほうが絶対いいだろ。なんかあったらぜんぶ俺のせいにしてもいい。俺がしろって言ったって言えばいい」

―――――大丈夫だよ

苗字の顔が滲んでゆく。輪郭がぼやけた苗字の表情。

「あいつがあんな顔するくらいとこなんか、もう、見たくねぇんだよ」

ほんとうに聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。そんなふうに笑わなくてもいいから、いっそのこと、泣いてほしかった。
なにかしなくちゃ気が済まない。そんな感情だけが最優先で、慎重さも思慮深さもない単純な思考で出来上がった台詞を吐いている自覚はあったけど、すんでのところで沸き出しそうなのを止められそうになかった。
息をする音さえ聞きとれそうなくらい、部室はしずけさを増していく。

「丸井の言う通りだ」

俺以上になにも話さなかった幸村くんが、ようやく口を開いた。みんなの視線をいっせいに浴びながら。眉間に皺を寄せた幸村くんからは凄みがあらわになっていた。テニスをしているときの厳かな立ち振る舞い―――普段のようすとあまりにかけはなれている、誰ともわからない姿―――とも似ているようで、まるで違った。

「いまこうしているあいだも彼女が泣いているかもしれないんだ」

幸村くんの声はもともと重たかった空気にいっそう重しをのせる効果があった。幸村くんの膝の上に乗った手はかたく組まれていた。いま、幸村くんの腹のなかはどんなふうにうごめいているのだろう。俺らが想像するよりもずっとはかり知れないのかもしれない。きっと、怒りだけじゃない。ひと言で片付けられないいくつもの感情が幸村くんに絡みついている。なんとなく、そんな気がする。
ふわふわ笑う苗字の横顔。そばにはいつも、幸村くんがいる。


柳が顎に手を添えながら、しばらく考え込む素振りをした。いくらかの沈黙のあと、仁王を見やった。

「顔は覚えているな?」

念押しするかのように柳が促す。仁王は喋りも頷きもせず、視線だけでこたえた。前々から不思議に思うけどこのふたりは妙なところで波長が合う。

「手荒になるが、策ならある」

柳のひと言がさらに俺たちの気を引き締めさせた。


*


きっと、彼は屋上庭園で待っていてくれた。

いつでも彼はもしよかったらおいで、と委ねるような言いかたをした。そして私はかならず彼のもとへ訪ねていた。彼も、私が来ることをわかっていたと思う。それが私たちの約束だった。
今日ははじめて約束を破った。嘘をついた。荒んだ感情を彼にぶつけた。彼が謝る必要なんてどこにもなかった。
寝つく間際も頭を過ぎった幸村くんの表情、声、目。あの目は、私を哀れんでいた。

「ごめんなさい」

滲む目を押しつけるように枕へ顔を埋めた。







朝日を浴びてもぐったりとした重さが拭えない。お弁当をつくる。掃除をする。制服を着る。髪をととのえる。そういうひとつひとつの作業が億劫に思える。

鞄を持ち上げる。玄関扉のドアノブに触れたときだった。
胸からお腹にかけてのいったいがぐるぐる疼きはじめた。最近はなるべく教科書も辞書も持ち帰るようにしているせいでずっしりと重たいけれど、鞄の重量以上の負荷が身体にのしかかっている気がする。

(どうしよう……)

学校に着く。ロッカーを開くと手紙が入っている。机のなかから消えている私物がないか確認する。ノートならまだやり過ごせられる。教科書なら、今度はどうしたらいいか考える。観察されているような視線にもこそこそ話す声にも気づかないふりをする。笑い声にも怯えながら強引に意識をとじる。休み時間のあいだもずっと耐えて。
なにも変わらない。今日になったところで好転するわけがない。これから巡ってくる一日を考えるだけで、気持ち悪い。
スマホを取り出し、ディスプレイに表示された時刻と日付を読む。今日は金曜日だ。
行かないほうが、いいのかな。今日だけならずる休みをしてもいいのかな。
一日くらいならきっとお父さんにはばれない。今日休めば、土曜日と日曜日もあるからゆっくりできる。それくらい日を挟めば気分も変わって学校にも行ける。きっと大丈夫。
そう思って、連絡網のアプリを開いたときだった。学校名が目に入った途端、画面を滑っていた指が静止した。

けれど、もしもそれでも。
月曜日を迎えたとしても胃から迫り上がる息苦しさをもう一度味わうはめになったら。
もう二度と、ここから動けなくなったら。

扉の前で立ち尽くしていたときだった。
ぱっと画面に表示されたのは見慣れたアイコンと名前、そして『着信』の文字だった。
丸井くんからだ。
日頃からお父さんとでもやり取りはメッセージが主で急ぎの要件以外はあまり通話はしない。電話といえば緊急時のイメージが先行して、反射的に画面をタップした。

「…もしもし?」

<おっ、出た!>

はつらつとした彼の声。
後ろからは男子生徒の声とざわついた物音が聴こえる。朝練終わりの部室のなかだろうか。

<おはよう苗字!わりぃけどさ、メロンパン買って来てくんね!?>

矢継ぎ早な挨拶に「へっ?」なんて素っ頓狂な声がぽろりと出る。おはよう、を言う隙もなくこちらが状況を理解しないまま彼が立て続けに喋りまくる。

<ほら、学校近くのいつものパン屋あるだろぃ? あれたまにしか出ねぇしすぐ売れちまうからさ、この前いつ買えるかおばさんに聞いたら今日だったら並ぶって言ってたのに寄る時間なかったんだよな。あ、普通のじゃなくてホイップ挟まったやつな?>

「ほ、ほいっぷ」

<ホイップメロンパン。たまに買ってるし、あ、てかお前も食べたことあるだろぃ? 好きなんだよなー、あれすげぇ美味くね?>

「え? えっと…私も、好きだけど…」

<だよな!つーか喋ってたら余計腹減ってきた。んでさ、いまから学校出てまた戻るとギリになっちまうからよ、買ってきてほしいんだって>

「えっ、私が?」

<苗字、いまからだろぃ?>

「それはそうだけど」

<ついでに苗字も昼飯買っちまえばちょうどいいわけだし?>

「私は別に…」

<ま、頼んだぜぃ!>

「え? そんなっ、ちょっと!」

<んー二個、いや、やっぱ三個で!じゃあシクヨロ!>

最後の台詞に自然と☆マークがつきそうな軽快さを残して、通話が終わった。玄関は一気にしずけさを取り戻した。
『音声通話 1:31』トーク画面に残った履歴を見返す。
いまのはなんだったんだろう。切羽詰まった口調からするに買ってきてほしいというのは所謂マジなお願いなのだろう。
それからも画面をじっと見つめていた。画面が暗くなったあとも、しばらく見つめつづけていた。

「いってきます」

メロンパン、買わなくちゃ。

玄関の床に向かってちいさく呟いた。
扉を開けば、とびきりまぶしい陽ざしが迎えていた。


*


もう後がない。
正門を越えてからそう思うようになったのは、いつからだろう。靴箱の前にたどり着くと脈拍は最高潮に達した。ここに立つといつも、これからはじまるのだと誰からか告げられているような感覚がする。肩にかけた鞄の紐をきつく握りしめる。

今日はなにが書かれているんだろう。そしてそれを読んだあとに、どれくらいかなしくなって、つらくなって、来たことを後悔するんだろう。

おそるおそる戸を開く。
ぐっと唾を呑み込んだ。

(あれ……)

なにも、入っていない。
手を広げて中をあちこちぺたぺたふれてみるけれど、どこにもない。実は上履きのなかに…とも思って念のため覗き込んだけれど、やはりない。ゆるやかに肩の力が抜けていく。
気まぐれだろうか。もしくは飽きてくれたか。ほっとしかけて、すぐ、気が落ちた。多分、一時の気休めだ。そんな気がする。これから教室に入れば嘲笑混じりの声が聴こえるのは変わらない。なくしものに脅えるのも、休み時間が異様に長く思うのもなにも変わらない。この前まではなにもないことがあたりまえで、たった一枚の紙にこんなにも揺さぶられるなんて思いもしなかったのに。
隣のロッカーの列の前で立ち止まった。切原くんとはあの一件以来会っていない。毎朝テストの調子が悪いとか真田先輩がいろいろ言ってくるとか柳先輩と幸村先輩もどうだとかあのゲームがいいとか、よくある世間話を教室で別れるぎりぎりまで喋っていた。

登校時間をわざとずらしたのは私のほうだ。

―――――ま、昨日の試合も普通に先輩に負けましたけど
―――――拗ねてるの?
―――――拗ねてねぇし
―――――ふふ、切原くん頑張ってね

さみしいと思ってしまうなんて、都合がよすぎる話だ。

重い足取りで階段を昇って行った。


*


届けに行こうと廊下を歩いていたら、丸井くんとばったり廊下で会えた。

「これすげぇほしかったんだよなっ。サンキュ!」

それはもう最大限に顔を綻ばせながら彼がパンを受けとった。ホイップメロンパン自体あまり見かけないうえ、あったとしてもこのパン屋さんのクリームの量には敵わないらしく彼曰くメロンパン部門のなかでは堂々の優勝らしい。もちろんここで買う普通のメロンパンのほうも美味しい。皮はさくさく、生地はふわふわしているから私もお気に入りだった。あそこのパン屋さんはときどき丸井くんと帰り際に寄り道していた。お小遣いに余裕がある日はあそこで買ったカヌレをよく分け合いっこしたんだっけ。そんな放課後が、なつかしい。

「いくらだった?」
「えっと…」

ちゃりん。彼から三個ぶんのお金を受けとる。甘党の私でも胸焼けする量だけれど、彼ならお昼のうちにぺろりとたいらげてしまうのだろう。しかもこれとは別に購買で買ったパンも一緒に食べるのだからそろそろ本格的に糖質制限をはじめたほうがいいと思う。
と、そんな軽口も添えようかと思って、やめた。
こうしてテニス部のみんなと関わっている瞬間がなにより目立ちやすい。彼らと話すぶんだけ尖った視線が身に降りかかることをまず想像してしまうからどうしても落ち着けない。

「じゃあね」

その場を去ろうとしたときだった。

「ん」
「?」
「やるよ」

ずいっと目の前に寄越されたのは、いま渡したばかりのメロンパンだ。

「? でも、これは」

「いいから食えって。あげるから」

「私はもう自分のぶん買ったよ」

「どうせサンドイッチ一個だけとかだろぃ?」

「コッペパンだもん」

「変わんねぇだろぃ」

丸井くんが呆れたようにため息をついた。即座に反抗してみたけれど、言われた通りほぼ違いないので黙るしかない。サンドイッチとコッペパンは同じじゃないと思うんだけどな。とはいえ、たしかに今朝買ったのはたまごコッペパン一個だけ。いつもの私ならもうひとつ菓子パンやらを買っていたことを彼は把握済だ。
断ろうとしても丸井くんはいっこうに手を引く気配がないので、しぶしぶ受けとった。ならばと思ってお金を返そうとしてもそれも頑なだった。

「ちゃんと食わねぇと元気出ねぇだろぃ」

な?、と軽く、しかしきっぱりと言った。いつもの調子で会話は進んでいる。昨日のことが嘘みたいに。

「丸井くん」

呼べば、「ん?」彼はすぐに反応した。
丸井くんになら。そう思って、何度も諦めた。

「ううん、なんでもない」

今日もとじこめることしかできない。いつもと変わらない。彼は真正面から向き合おうとしてくれているのにこたえられなくて、逃げてばかりだ。うしろめたさが胸を覆った。
俯きがちな私を彼はじっと見つめた。私の頭にぽんと手を置いた。ふっと、彼が息をととのえた音がきこえたような気がした。

「またあとでな」

彼はからっと言いのけて、背中を向けた。
またあとで。
ほんの少しの約束でさえも、沈んでいく。






教室に向かおうと階段の角を曲がったところだった。
掲示板の壁に張り巡らされた絵。大きなアーチに巡らされた白くてちいさな花。石畳の通り道を囲むように花々が連なっている。繊細でうつくしい筆づかい。いつだって幸村くんの絵はすぐに見つけられる。こうしてじっくりとながめるのはいつぶりだろう。

―――――君にも見てほしいんだ

水曜日の昼休み。美術室の扉を開く瞬間はそわそわして、幸村くんがこちらに気づいてふりむくととても安心した。毎度のことなのに、いつもそうだった。彼が誘ってくれるとあんなにもうれしかったのに。
昨日の彼の表情を思い出す。あんな八つ当たりした私を、彼はどう思っているだろう。
もしかしたら、もう―――――



「それ、おいしそうだね」

首をぐるりと捻ると、すぐ後ろには興味津々に覗き込むあの幸村くん。

「おはよう」

数秒経ってから、おはよう、と返す。とびきりさわやかな彼とは正反対に私の挨拶はひと昔前のロボットみたいにかなりぎこちない。
どうしよう。まさか、もう会うなんて思ってなかったから。
驚きすぎて心臓がばくばくうるさい。冷静になろうと息をととのえていると、ふと、彼がじぃっと一直線に視線をこちらへ向けているのに気づいた。
なにもできなかった。

「朝ごはんかい?」

「へっ?」

彼の視線をたどっていくと、私の手もとにあるメロンパン。
「苗字さんが好きそうだね」
彼がくすりと笑った途端、冷や汗が湧いたかと思えば顔が火照るやらで寒いのか暑いのかわけがわからない。

「ぇっと、これは、その、丸井くんがくれて…」

よほど意識がぼんやりしていたのかメロンパンを手に持ったまま廊下を歩いていたらしい。メロンパンを持ったまま。なんならついでに絵画鑑賞までしていたらしい。メロンパンを持ったまま。客観的に自分の姿を頭に浮かべてみるとますます顔が熱くなってどうとやら。即座に鞄へしまい、ぎゅんっと勢いよくチャックを閉めた。なんでいつもこう変なところばかり彼に見られるんだろう。

「前に教えてくれたパン屋のだよね?」

「う、うん。そんなにお店に並ばないからたまにしか買えないけど、でも、おいしくて…」

「へぇ…俺もまだ食べたことないから、今度いつ出そうか教えてくれるかい」

頷いてはみたものの、はたして彼のお口に合うのだろうか。幸村くんとホイップメロンパン。いまいち想像できない。彼がそんな甘々菓子パンを食べているシチュエーションなんてレア中のレアな気がするのでぜひその瞬間を拝見したい。
ふと顔をあげると、彼と目が合った。彼は私を見て、そっと口元をゆるめた。

「つい似たような景色を選びがちなんだけど、やっぱりここの庭がいちばん好きなんだ」

馳せるようにそう言った彼は視線を絵に向けた。ならって、私も同じ方向を見つめた。
幸村くんの家の庭。お祖母さんと一緒にお世話をしているのだと話してくれた。腰を屈めて、軍手もして、ズボンにつく土も構わず草花に向き合っている屋上庭園でのあの姿のまま、ここに描かれた庭のなかでも彼がいるのがすぐに想像できる。いきいきと説明してくれる幸村くんを見るのが好きだった。あの時間がいつも待ち遠しかった。ほんとうに、好きだった。

「海」

彼がひと言、そう言った。ぱりっとした響きだった。

「ひさしぶりに、海に行こうよ。俺もしばらく行けてないんだ」

私もそうだと断言しているかのようだった。いつもなら私の意志を尋ねる彼にしては有無を言わせない潔さがあった。
実際、そうだった。
しばらく海をながめていない。通学路であたりまえのように見ているはずなのに、いまでは脇目に存在している程度の遠い景色になっていた。潮の香りもさざ波の音もあんなにもすぐそばにあるのに。終礼が終わると同時にまっさきに学校を出るようにしているせいで、水平線に夕焼けが沈む頃合を待つ習慣もなくなった。潮風で髪が軋む感覚も忘れかけている。隣に彼がいる景色も、もう。

「わたしは…」

喉が握りつぶされたみたいだ。昨日の彼を思い出すだけで泣きそうになるくらい悔やんでいるくせになにも言葉にできない。そんな自分がなさけない。私の態度に呆れてつめたく振舞ってほうが楽だったのかもしれない。彼のやさしさはいまの私にとっての痛いところをついてくる。
彼の唇が開きかけたのが見えた瞬間、無性に耐えきれなくなった。

「ごめんなさい」

彼のそばを逃げるように通り過ぎた。彼がこちらを見ていたような気がした。
私は最後まで振り返らなかった。


*


今朝買ったパンはほとんど喉を通らなかった。
両手を身体の前で組んで、かたく握りしめる。場所が場所だから昼休みにはしては周囲の喧騒があまり聴こえない。そのせいか速度を増す心臓の音がやけにうるさく、全身に響いている。こうしてからどれくらい経つだろう。
四限がはじまる直前のことだった。

「昼休み、ちょっといい?」

席で授業の準備をしていると、グループの中心の子に唐突に声をかけられた。
行きたくない。そんな意志とは離反して反射的に首は縦に動いていた。
集合場所は校舎裏。お呼び出しには最適だ。

「あ、いたいた」

聞き慣れた声に気づいて顔を上げると、例の子たちが揃ってやって来た。私を見つめる笑顔には微塵も純粋な好意は含まれていない。

「なんで呼ばれたかわかってる?」

頷くことも、声を出すこともできない。

「こっちはあれだけわからそうとしてんのにさ、いつまで付き纏ってんの?」

息が詰まる。なにからなにまでお腹の底から逆流しそうな感覚がじっとり這い上がる。沈黙を埋めるように「すごい図太いよね」ほかの子も倣って嘲笑する。

「ストーカーみたいに追いかけられてテニ部もかわいそう。テニ部もしかたなく付き合ってあげてるっていい加減わかんないの? 見てるこっちがうざいくらいなんだからさ。前から思ってたけど最近特に媚び売りすぎ。見てても態度とか話し方とか声もだし全般きもくていちいち鬱陶しいんだよね。多少あたりきつくてしてもさ、テニ部に慰めてもらえるとか思ってほんとはよろこんでるんじゃないの?」

「周りの反感買ってまで絡みに行くとか軽蔑通りこして尊敬する」

いつもなら無理やり考えごとをして聴こえないふりをしていた冷笑もいまは直接耳に捻りこんでくる。握りあう手が小刻みにふるえる。

「きもいの自覚してないんだって」

「ほんとにね。男子に甘えとけばなんとかなるって思ってるんじゃない、どうせ。朝の手紙もちゃんと読んでる? あれ一応女子の声代弁してあげてるんだよ」

「まぁテニ部もたいがいだよね。こんなのにかまってあげてるとか暇なのかな? ぶりっ子にへらへらしててわりと幻滅ものだし」

「わかる。あっちもあっちで目覚ましたほうがいいっていうか」

「やめて」

私の声に、彼女たちがいっせいに反応した。
「は?」
口のなかが渇いていく。息を吸うだけでもおかしくなりそうだ。視界が歪む。じとりと睨みつける目からすぐにでも逃げたい。

でも、どうしてもこれだけは。
ふるえていた唇をぎゅっと引き締めた。

「私のことはなんでも言っていい。どんなことでも聞くようにする。でも、テニス部のみんなは関係ない。みんなのこと、悪く言うのだけはゆるさない」

彼女たちの会話にはときどき彼らの陰口も含まれていた。聴こえる度、胸が痛んだ。
私といるとみんなが蔑まれる。みんなが非難されることなんてなにひとつないのに、私がいるから。
私なんていないほうが―――――
現実をまざまざと見せつけられた気がした。みんなの価値を低めているような自分も、保身を優先して彼女たちになにも言い返せない自分も、ぜんぶ嫌いだった。

「みんなはすごくやさしくて、私がこんなのでも友達になってくれて、」

みんなと過ごす時間が大好きだった。こんなにもあたたかくてやさしい場所があるんだって知った。ほんとうに大切で、夢みたいな時間。ずっとここにいたかった。
でももう、みんなが悪く言われるくらいなら居場所なんていらない。私が耐えてさえいれば、それで。

「みんなの悪口だけは、絶対に言わないで」

やっと、言えた。
もっと言いたかったのにこれが限界だ。いまにも泣きそうでちっともこわくないだろうけれど、私にしては頑張れたのかな。そういえば、もっと思っていることは口にしたほうがいいって真田くんが怒ってくれたんだ。

「いきなり語り出してなに?」
「説教とかうざ」
「ねぇ、ちょっとは自覚あるなら自分で言ってみてよ。『私はブスでビッチです』って」
「動画撮っといて」
「最初から撮ってる」

スマホのカメラが私へ向けられていた。
逃げ出したい。消えてなくなりたい。そう思うのに、重力に縛りつけられたみたいにひとつも身動きがとれない。

「ほらはやく。言って」

抵抗すればさらにむごい行為を呈示しそうな物言いだった。見下すような視線。高い笑い声。苦痛で埋め尽くされた頭のなかで必死に言い聞かせた。
この昼休みさえやり過ごせたら、きっと大丈夫。いつもそうやって耐えてきた。

「……わたし、は」

きっと大丈夫。
大丈夫。いつかきっと大丈夫。
ほんとうに?
ほんとうに大丈夫なの?
いつになったら『大丈夫』になるのかな。
この場を乗り越えたとしてもなにが変わるんだろう。今日も逃げるように学校を出て帰るだけ。沈んだ夜を過ごして、澱んだ感情を誤魔化しながら朝を迎える。あと何日これを我慢したら大丈夫だって、誰が教えてくれるんだろう。
これ以上つづけても、なにが―――――



「なんで、」

彼女たちの騒然とした声が聴こえる。意識を引き戻され、顔を上げた。自分の目が大きく見開くのが自分でもわかった。信じられなかった。

「仁王。もういいよ」

幸村くん。彼の名を呼んだのは、彼女たちのほうだった。
空気が一変する。
私は硬直したまま、呆然とながめていた。


*


幸村くんの声に、俺達も倣って壁際から身を現した。
女子は俺達の登場に目を大きく見開いていた。苗字もおんなじような顔だったけど、顔色の悪さなら苗字がダントツだった。

「成功、ちゅうことでええんかのぅ」

ずるりとウィッグが外れると、女子特有のさらさらの長い髪が尖った銀色の髪に変貌する。得体の知れない物体を見たような目つきで凝視する女子を仁王は気にも留めず、乱れたウィッグをささっと手ぐしでととのえていた。

「どういうこと? なんで? だってさっきまで、」
「まさか…いままでずっと…」
「ケロケロ」
「さっきから全然喋んないと思ってたら、」
「証拠を掴まんとどうにもならんと、うちの参謀が言うからのぅ」

女子の友達(仮)兼仁王が持っていたスマホからカシャ、とカメラの音が鳴る。べ、と仁王がからかうように舌を出している向こうで、女子の顔色はみるみる青ざめていく。

「さっき言ってた手紙ってのも、これのことっすよね?」

赤也が見せつけた紙切れを前に、せめてのもの抵抗なのか女子は必死で首を横に振っていた。

「そ、そんなの知らない」

「俺、あんたが入れてるとこ見たっての。つーか、こんなしようもないことよく続けられるよな」

「…適当なこと言って、」

「いつでも見せれるけど?」

ポケットからスマホを取り出す赤也を見て、女子たちは目を泳がせた。もう逃げ場がないと諦めているのかもしれない。口を開いて、言葉らしい言葉を出すのもやっとのようすだ。

「違う、私はただ」「こんな、こんなのひどい」

こっちも、沸きあがる憤りを抑えるのがやっとだった。この場にいたのが自分ひとりだけだったらいま頃どう振舞っていたんだろう。少なくとも冷静にはいられなかっただろうな、と想像してみる。救いようがなくて、哀れ。そう思い込ませることで感情に乗っ取られないよう頭を冷やしていた。
苗字をさえぎるようにして、幸村くんが女子たちの前に立ち塞がった。
女子は息絶えそうなぎりぎりの状態で、立っているだけで限界みたいだ。命乞いをしている人間っていうのはああいう姿をしているのかもしれない。

「二度と近づかないでほしい」

氷みたいにつめたい声。冗談抜きで、ひとを殺めてしまえそうだと思う。
苗字からは幸村くんの顔が見えなくてよかったかもしれない。目の前の幸村くんはこわいなんて形容詞だけじゃ言い足りなかった。誰もが知っている温厚な彼は微塵の欠片も残っていない。身長差で必然的に幸村くんが見下ろす立ち位置にいるのもおそろしさに拍車をかけていた。
女子たちはほとんど声になってない声で、でも多分ごめんなさいとかそういうのを言いながら去って行った。
青いを通り越して真っ白になった顔を見て、ああなるのもしかたないな、と、ようやく同情できた。きっと俺だってあんなふうに言われたらどうにかなる。証拠を出さなくてもあの一声だけでじゅうぶんだったんじゃないか。

「仁王くんの変装をもろに見られてしまいましたが大丈夫でしょうか」

「弦一郎に任せている。問題ない」

逃げたさきには「他言無用だ」とか言ってそうな威圧感たっぷりの真田の睨みが待っているんだろう。それにもまぁ、同情できる。証拠がなくても幸村くんがいなくても実は真田の一喝だけでも事足りていたかもしれない。

「ほんとは手紙入れた瞬間なんて撮ってねぇけど別にいいんすよね?」

「あの様子だと仁王が撮影した動画だけで充分だろう。それも今後使うことはないと思うが」

「苗字先輩ターゲットにしてたのもただのやっかみってところですかね」

完全にあいつらの姿が見えなくなったところで、幸村くんの纏う空気がふっとやわらかくなる。「苗字さん」苗字のほうへ振り向いて、話しかけようとしたときだった。

「苗字さん?」

幸村くんの不思議そうな声が気になって、俺もふたりを見やる。
「…………そんな」
と、そこには顔面蒼白の苗字。

「にににに仁王くんは女の子だったんですか!?」

あ。
全員が呟く。

「そんなの全然…全然気づきませんでした! てっきり男の子だと思ってたからいままで無意識に失礼なことしてたんじゃ…! あれ? でも、男子トイレに入ってるところ見たことあるし、体育も更衣室は男子側のほうだったはずで…で、でも、いまの仁王くんスカート履いてる?こころは女の子? でも顔も声もぜんぶ変わってたからほんとうに女の子?どうしよう…もうなにもわからないです、私はこれからどうしたらいいのか…··!!」

天変地異でも起きたみたいに苗字はわなわなふるえながら頭を抱えていた。
思わぬ緊急事態が発生したみたいだ。

「お、落ち着きたまえ!苗字君!」

「苗字先輩ってイリュージョンのこと知らないんすか?」

「そういや苗字はまだ試合観てなかったよな…忘れてたぜ」

「多少は困惑するだろうと予想していたが、まさかここまでとは想定外だった。立海テニス部の常識は一般的には通用しないことを加味しなかった俺のミスだ」

「俺ら素通りしてっけどまぁ普通に考えたらやべぇよな、あれ」

「お前さん、その『やべぇ』は褒めとらんじゃろ。悪意しか見えん」

「てかその女子制服、誰のなんすか。…すぐ用意できたってことは前から持ってたんすよね?」

「想像にお任せするダニ」

「想像したくねぇっすよ!」

「にしても女性にも成れるとは私も知りませんでしたよ」

「声もろくに出せんかったし、まだ完成しちょらんがのぅ。ただ、化けるやつが貧乳なら楽っちゅうことはよぅ分かった」

「最低かよ」

「さっき見たのは幻…さっき見たのは幻…私の目がおかしかったんだよね…!」

「これしきのことで騒ぐな!たるんどるぞ!」

「あ、真田先輩戻ってきた」

「これしきのことで済ませられる俺達のほうがどうかしてるんじゃないか?」

「どうしよう、蓮二。苗字さんが混乱してる。視覚を奪ってあげたほうがいいかい? いや……·いっそ聴覚も一緒のほうがいいのかな?」

「やめておくんだ、精市。状況が悪化する確率200%だ。仁王、ひとまずお前は早急に着替えろ」

「なんで俺が悪者扱いされるんじゃ」

ひとまず、苗字を落ち着かせるのが最優先みたいだ。


*


どうにか状況を理解しようと必死で思考を働かせているうちにいつのまにか中庭のベンチに座らされていた。みんなになだめられるままやっとのことで冷静になれば、私の知る、男子制服を着たいつもの仁王くんを認識できた。みんなの解説によると私が見た仁王くんは仁王くんではなかったらしい。

「お、女の子が突然仁王くんに変わってたような気がするんだけど、その、気のせいかな」

いくら尋ねても、

「んなわけねぇだろぃ」

「きっと疲れているのでしょう。あとでリラックス効果に抜群の紅茶をお渡ししますね」

「苗字さんはなにも見ていないんだよ。いいね?」

揃いも揃って、なんのことだかさっぱりといった反応をされた。

「ほんとのほんとに仁王くんは男の子なんだよね?」

「さぁ、どうかのぅ」

「仁王」

「…正真正銘、男じゃ」

さきほどから幸村くんからほのかな圧を感じる気がしなくもないけれど、彼の言う通りきっと気のせいなのだろう。

「大丈夫か?」

「な、なんとか」

「仁王のことじゃなく、だ」

「え?」

「早々に特定するためとはいえ……つらい思いをさせたな」
柳君の声と表情は、堅くて重い。
「すまない」

彼の台詞の意味にはっと気づく。思わず立ち上がった。

「柳くんが謝ることなんかないよ。むしろ、」

言葉に詰まった。一瞬、頭が真っ白になった。

「私が……もっと……」

もっと、どうしたらよかったんだろう。どこからいけなかったんだろう。

「なぜ俺たちに言わなかった」

真田くんが口を開いた。彼の目はいつも以上に険しい。

「迷惑を被らないようにとお前は思ったのかもしれないが、今回ばかりは言うべきだったはずだ。俺たちが関わっているのなら、なおさら隠すようなことではない」

「真田、」桑原くんが遠慮がちに彼を制する。

目の奥が痛くなる。唇がふるえる。最低限の起伏で抑えこんでいた精神の糸が急激な速度でたるんでいく。ほつれてしまって、戻せない。

「ごめんなさい。丸井くんにだけでも言おうと思ったけど、どうしても言えなくて」

みんなのなかにいても違和感のない自分になれなかった。きらきらしたみんなのなかにいるから自分もそうなれるわけじゃない。空っぽな自分は、空っぽなまま。どうしてもっとうまく立ち回れないんだろう。

「みんなといるのもこわくなってもうはなれたほうがいいのかなって思ってた。でも結局中途半端にしかできなかった。せっかくみんなと友達になったのに、さびしくなって。私、最低だから、みんなといるからこうなるのかなって思ったときもあったけど、それもみんなのせいにしてるみたいで、そんな自分が嫌になって、でもこれ以上なにをしたらましになるのかも全然わからなくて」

支離滅裂だ。ときどきえずくように声が詰まるから聞けたものじゃない。

「どうしていいか、わからなかったの」

こわかった。つらかった。かなしかった。押し潰されそうなたくさんのことがあったはずなのに単調な言葉でしか説明できない。
沈黙がながれるうちに、ぐっと息を抑えて目を瞑る。感情をこれ以上波立たせないためだった。これ以上みんなを困らせたくない。もう遅いだろうけれど、せめてめんどうだと思われるよりは―――――



「あーあ、苗字先輩泣いちまったじゃないですか」

切原くんの一声だった。はっと慌ててさらに強く目を擦る。

「泣いたな」
「泣いたね」
「あぁ、泣いたな」
「泣きましたね」
「泣いたの」
「まぁ、泣いたな」

「へっ? あ、あの、みんな」

「な…! 俺はただ、」

「素直に心配だったって言えばいいだろぃ。な、苗字?」

フォローを入れようとするも、丸井くんが私の頭を遠慮なく撫でるのでそれもさえぎられる。あぁ、また髪がぐしゃぐしゃになるな。でも、ひさしぶりの感覚だ。

「……それは、だな」みんなのジト目攻撃に気まずそうな表情をする真田くん。

「あの、真田くんは悪くなくて、その、」

「どうぞこちらも使ってくださいね」

「え、えっと、大丈夫。柳生くんのハンカチよごれちゃうから…」

「苗字、ちょっとは落ち着いたか?」

「は、はい」

「ま、最初から言ってほしかったってのは俺もありますけど」

「……切原くん、あのときは…」

「そういうのはいいんで、またゲームしてくれません? 素材集めんのふたりでしたほうが効率いいんすよ」

もうすぐ試験が近いのにと真田くんが怒った。柳くんが呆れたように笑って、仁王くんが切原くんにちょっかいをかけた。丸井くんもそれにのると切原くんが怒って、桑原くんがなだめていた。
いつものみんなだ。ずっとずっと大切にしておこうって決めた場所。手放すのがこわくなるくらい大好きな場所。こんなにもあたたかいんだ。

ふわりと手が握られる感触がした。涙を拭ったあとの濡れた手だったから引っ込めようとしても彼は厭わなかった。そうして幸村くんの手とふれた瞬間、どこかの機能がこわれたみたいにぽたぽた溢れだした。

彼は笑っていた。なにも言わずに笑っていた。私はもっと泣いた。どうしたって止められなかった。

  

神さまの通り道

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