黒髪が潮にのる

海は好きだ。

ここに引っ越してからは何度も訪ねている。
波の音も、砂のざらつきも、やわらかさも、陽ざしの強烈さも、まどろみも、呑み込むようなおそろしさも、なにもかもがいとおしい。
学校に残るか海岸へ寄り道するか商店街へ買い物に行くか、放課後はだいたいそうやって過ごしている。

強烈な陽ざしがきらきらと波を照らしている。空と海が一体になったこの景色を全身で浴びられないのは勿体無い気がして、今日は久しぶりに日傘を閉じることにした。夏は嫌いだけれど、海を見るにはぴったりな季節だ。

鞄を置いて、靴下も脱いだ。今日の砂は乾燥していて、足の裏に張り付きにくい。
なんの罰ゲームでもないのにおそるおそる、ゆっくりと波打ち際へ歩いていく。つま先に波がかかるとひやっとして、くるぶしにまでつかると解放感でみたされた。ほとんど一定な波の動きがときどきばしゃんっと勢いを立て、緩急をつけて打ち寄せる。









「ここの景色、綺麗だよね」

波がうねる音に紛れて透明な声がきこえる。
癖のかかった髪。潮風でふきつけられるのを片手で抑えている。シャツが陽ざしに反射しているせいなのか、シルエットが一段と白く光ってみえる。
首を捻ったさきに、彼が立っていた。


得体の知れないうつくしさにゾッとした。この世のものじゃない。そんな気が唐突に襲ったのだ。

「なんで、」

「、その――――」

彼の口が開くと同時にこちらへ歩みはじめた。
どうしてこんなところでまた会うんだろう。学校のなかじゃ話しかけられないから油断していた。もう、来なくたっていいのに。
一歩、二歩と、少しずつ後ずさりしていく。くるぶしまで浸かっていた波は脛が浸かる位置にまで来ていた。そして、ぐわっと押し寄せる波のうねりに圧されて大きく足がもつれた。それは全身にもぐらりと巡ってきて、とうとう後ろへとよろけてしまった。彼の姿がぐんと遠くなる。

あぁ、落ちるんだ。
これから起こる未来を想像して、反射的に目を瞑った。


「危ない!」


水の弾ける音が耳の奥で響く。身体ががくんと揺れる感覚と、手首と腰に伝わるひとの体温。
そっと瞼をひらくと、皺ひとつない真っ白なシャツとストライプのネクタイ。清廉な花の香りが鼻を掠める。
「よかった」安堵のため息が混じった声が上からきこえる。
「大丈夫かい?」眉根をやや下げながら彼が私のようすを伺った。やれやれと呆れているのかもしれないし、ほんとうに安心しているのかもしれないし、彼の表情はなんにでも読みとれる。それか、私がまだなにもわかっていないだけかもしれない。
そんなことを思いながら、波の砕ける音をBGMにいま起きている現象を咀嚼しようとしていた。彼の左腕によって腰は支えられ、彼の右手によって私の手首は掴まれている。とにかく、彼と距離が近い。さっきいい匂いするとか思ってしまったけれど、それがわかるくらいには近いんだ。男の子とこんなに近くで、ましてや幸村くんとなんて。
熱のかたまりを顔に投げられたみたいだ。

「あの、その、ごめんなさい」

「俺はなんともないよ」

近いし、こわいし、恥ずかしいし、なにがなんだかわからない。

「あ、あの」

そんなことよりも、まずはありがとうって言えるようになるんだ。
こくんと唾を飲みこむ。
彼がまっすぐ私を見つめている。そういえば、保健室のときもそうだ。いつも彼は待ってくれた。苛立っているようすはない。だからといって、さぁいつはじまるのかと気負うこともない。ただそこにいて待ってくれる。
いつでもいいよ。
勘違いかもしれないけれど、彼にそう言われているような気がした。

ふとわずかに顔を俯かせたときだった。それが、いけなかった。下なんか見なければよかった。異常に冷えた氷水が頭上からざぁーっとながれ落ちてきた気がした。いっそほんとうにここの海水をバケツに汲んで私の全身に盛大にかけてほしい。どうか、これは悪夢だと言ってほしい。

「あ、あ、あ、」

「大丈夫?あ、もしかして痛かったかな」彼は手首を掴む力を緩めた。

「い、いえ全然そのようなことはなくて。そんなことより、そ、その、く、靴が」

「あぁ、濡れちゃったね」

「い、い、い、いやーーーーーー!!」

「わぁ、すごい大きな声」

感心する彼にそこじゃないよとつっこみたいけれど生憎そんな余裕がない。
濡れているどころか、彼の靴は完全に海に浸かっていた。なんならスラックスの裾もとまでどっぷり浸かっている。

ありがとうと言えるように決心しましたが、やはりできませんでした。もはや誠心誠意の深いお詫びの念しか湧き起こりません。というかそれしか私には生き残る道がございません。あぁ神様。私はこの御方にとんでもない無礼を犯してしまいました。神の子が許してくれなくても、神様が許してくれたならオールオッケーという理屈を通してくれませんか。

「ごめんなさい全力で謝りますごめんなさい靴もズボンも弁償しますもうほんとにすみません平伏します」

「弁償なんて大袈裟だよ。この時期ならきっとすぐ乾くだろうし」

「靴ですらやばいのにあまつさえズボンも濡らすとか人間失格です申し訳ございません」

「これくらいどうってことないけどなぁ」

「···もう土下座させてください!!というかします!!!」

「させないよ」

さらりと彼が笑って、私の腕を強引めに引き寄せた。彼の外見らしからぬ力強さに驚いたが、あとはやさしく引かれるままに連れられるといつの間にか浜に上がっていた。砂のあたたかさがじんわりと冷えた足を包む。

「はい。これで俺ももう大丈夫」

「だ、だ、大丈夫じゃないです」

「君のさっきの勢いだとほんとうにあの場で土下座しそうだったからね」

「あ、いいいいまここでします!」

「そんなつもりで言ってないよ」

彼はあいかわらずちいさく笑っている。こちらはまるで面白くないしいまにも泣きそうなのですが。お返しの愛想笑いもできず、ただただ居た堪れなさでいっぱいだ。

「ほんとうに···ほんとうにごめんなさい」

「あっちで足、洗おうか」

「え?」

手首から温もりが消えたかと思えば、彼はごく自然な動作で私の鞄を手に持った。背中を向けて颯爽と歩いて行く。それにもひやっとして慌てて彼の後を追いかけて鞄に手を伸ばしてみるけれど、渡すつもりは毛頭ないのか振り向いてくれない。そうすることで私を誘導しているようだった。
あぁ、彼に荷物持ちまでさせてしまっている。どうしようどうしようと焦っているうちにいつのまにやら水洗い場の前にいた。彼は「こっちに置いておくね」丁寧に断りを入れて私の鞄を置いた。彼がきゅっと蛇口を捻ると一本の水がまっすぐ落ち、彼の足にあたってびちゃびちゃ跳ねる。そんな光景を固まってながめていたら「ほら君も」彼に促された。私はそこでようやくおそるおそるコンクリートの地面に足をつけて、黙々と洗いはじめた。幸村くんの足も私の足も大きさはそう変わらない。白くて綺麗な足だな、と、混乱しているわりには余計なことを考えてしまう自分がいる。余裕があるわけじゃない。そうでもしないと平静を取り繕えないからだ。

「タオルはあるかい?」

「えっと、ハンカチが···」

「はい、これ使いなよ」

彼がさっと鞄からとりだしたのはあ部活用のものだろうか、立派なロングタオルだった。

「えっ、そんな、大丈夫ですっ」

「いいよ。予備で持ってきただけだし。あ、まだ使ってないから安心してね」

「そ、そこはなんともなくて。というか、その、こ、これ以上は申し訳なさすぎて」

「···俺がふいてあげようか?」

「めめめめっそうもございません自分でします」

「そうだよね」

満面の笑みを向ける幸村くんに背中が震えた。彼に足を拭かせるとか何様にも程がある。これ以上彼の手を煩わせてしまうわけにはいかない。素直に受けとるのが最善手だろう。一瞬かがんだ彼の姿勢が本気ではないかと思わせた。冗談なのだろうけれど(冗談だったと信じたい)。

いそいそと拭き終わったあとは、彼はタオルを返すようさらっと促したが流石に洗濯はさせて欲しいと懇願したら、にこにこしながら了承してくれた。
どうしても砂場のここでは立ったままの姿勢で靴下を履くしかない。体幹のないせいでぐらぐらする私を見かねて、彼が「肩、持っていいよ」と貸してくれた。内心はそれもお断りしたかったが、丁寧そうに見えてどこか有無を言わさない佇まいがノーとは言わせてくれない。軽く掴んだ彼の肩は男の子にしては薄い。顔つきは中性的で、体つきもその通りの印象だった。不可抗力とはいえ彼に触れているところを彼のファンに見られたら刺されそうだ。どうか明日まで生きていますように。
色が濃くなった彼のスラックスの端が視界に入る度、胸がどんより沈む。

「あの…な、なんで、私のこと、気づいたんですか? その、ついて来てるとか…そういうこととかあったりするのでしょうか」

そう訊くと、

「……それは」

若干彼の口調が歯切れが悪くなる。


心臓がゆっくりと、そしてひとつひとつ大きく跳ねる。いまこの瞬間、真実を暴くかもしれないのだ。

「千里眼をお持ちなのですか!?」

拳をつくり、まさしく手に汗握る私を、幸村くんがぱちぱちまばたきをして見つめている。
そうして彼は満面の笑みでこたえるのだ。

「千里眼はないよ」

つまり、そういうことらしい。

「ないんですか!?」

「うん、ない」

あまりにもあっさりと彼が頷くので、私はよろけそうになった。

「千里眼ってこの前はじめて知ったんだ。苗字さん、物知りなんだね」優雅に笑う幸村くんの周りには華やかな空気がただよっている。

千里眼を持っていないのはまぁ当然といえば当然なのだけれど、じゃあなんなのだろう。考えこむ私に気づいたのか、彼が言った。

「美術の課題でテーマを決めるために来ていただけなんだけど君が見えたからなんとなく、ね。音楽室のこともあったから」

彼の回答に安堵した。同時に、不安が胸を掠めた。音楽室のこと。彼は、あの日の私を見てなにを思ったんだろう。

ふと、水洗い場の隣に置いていた私の鞄がぱたりと倒れる。その反動で、ファイルや文庫本やらが飛び出してしまった。チャックを開けっぱなしにしていたらしい。幸村くんが瞬時に気づき、私よりもすばやく屈んで中身を拾ってくれる。ごめんね、と添えて私もしゃがみ、教科書を入れ直していると、彼の動きが静止したのに気づいた。

「へぇ、いろいろあるんだね」

いま目の前で、彼がクリアファイルを手にじっくり読み込んでいるではないか。

「あ、あのっ」

「苗字さんはここのスーパーが近いの?」

「い、行くけど、えっと」

「俺の家は三丁目のほうのスーパーによく行くんだ」

「は、はぁ…私もたまに行くけど…って、そ、そうじゃなくて…!」

「あ、この惣菜屋さん、たまに母さんも買ってくるよ。結構おいしいよね」

「ああああ、み、見ないで···!」

彼は、私の商店街情報収集チラシおよびクーポンコレクションに興味をもったらしく、とうとう中身まで開いてチラシを読み込みはじめだした。彼が感心しながらまじまじと見ている目前の光景に思わず目を塞ぎたくなる。個人情報というほどの仰々しさはないけれど、プライバシーを一部覗かれてしまった羞恥心に駆られてしまう。「へぇ…北海道展か」今度はショッピングモールのチラシをながめる幸村くんとしては、いたって真面目に読んでいるらしい。コメントもこと細かく入れなくていいのですが、ものすごく食いつきがいい。そこはスルーしてもいいんじゃないかな···! せめてクリアタイプにするんじゃなかった。帰ったらファイルを変えよう、早急に。展覧会で買ったクリアファイルなら中身バレしないはずだ。身体が冷えたかと思えば熱くなったり、体温の乱降下で明日は寝込みそうだ。


「ぁ、あの、そろそろ」

「あ、ごめんね。苗字さん、なんでも集めて熱心なんだね」

あまりふれないでほしいのだけれど、彼からは嫌味もからかいも微塵も見えないどころか尊重の念まで伝わってくる。それはそれでとても恥ずかしい。

「さっき見えたんだけど」あぁ、つぎはどんなコメントが来るのかな。「そこの焼鳥屋、君も行くの?」

焼鳥屋。立海めしロードにあるあの店のことだろう。放課後はよく生徒たちが買い食いに来ているのはもちろん、親子連れや高齢の方まで年代問わず立ち寄っているのは毎日見かける光景だ。特段行列が並ぶというんけでもなく、ぽつぽつと一定のペースでお客さんが絶えない、地元に昔から馴染んでいるお店という印象だ。『国産地鶏週間!』と謳っているチラシをとりあえずファイリングしていたのを、幸村くんの質問でふと思い出した。いつかは…とは思っていながらもいまだに買いそびれてはいた。首を横に振ると、彼がそっか、と返した。

「行ってみないかい? 一緒に」

彼が然と私の目を見て、言った。

「俺、ここの焼き鳥屋、結構好きなんだ。···君がよかったらだけど」

突然のお誘いに、頭がうまくついていけない。なんせ彼との距離感がさっぱりわからない。

「濡れたのもあって、ちょっと身体が冷えるんだよね」

「え」

いともやさしく微笑んでいる彼を見れば見るほど、私の頭頂部からだらだら冷や汗がながれてくる。今日ほど日傘がいらない夏があっただろうか。

「なんだか疲れたからゆっくりしたいし、あったかいものが食べたいなぁ。ひとりだと入りにくいし…家まで我慢したら体調不良になりそうだし、そうなると部活にまで支障をきたすから「行きます!私もぜひ行かせていただきます!もちろん行くに決まってるじゃないですかそれはもう世界の理に決まっていますなんでもあげます」

神の子の心身に悪影響を及ぼすなどあってはならないのです。私の生命線は焼鳥屋にかかっていると過言でもない。

「ほんとかい?」彼の目がぱぁっとあかるくなる。急に前のめりになった彼に若干気圧されながらもこくこく頷くと「よかったぁ」彼の肩が力が抜けたようにゆるやかに落ちた。子どもみたいな無邪気さと安心感がたんまりとこもった、やわらかい笑顔だった。
さぁ行こうとすくっと立ち上がる彼の一歩後ろを、私はのそのそとついて行く。焼き鳥でいまからお腹もこころも満たされにいく彼を心底うらやましいと思った。

膨大な量の罪悪感を浴びながら食べる焼き鳥をおいしいと思える自信なんて、まるでない。


*


幸村くんと並んで歩くのは、あの花壇事件の帰り以来だ。
あの日も内容はハプニングと呼んでいいものだった。そして今回はそれに勝るほどのアクシデントだ。もっと言ってしまうと彼は被害者で、私が加害者なのだ。どうやらこの焼鳥屋同行がその免罪符となるらしい。

私よりも少し大きいローファーが視界に入る度、頭が痛くなる。
きっと足のなか気持ち悪いだろうな。彼の家はここからどれくらいなんだろう。もし遠かったら余計にかわいそうだ。やっぱりはやく帰ったほうがいいんじゃないのかな。いまから私がコンビニまでダッシュして靴下を買いに行くほうが一番らしいお詫びになるし、平和に終わる。

コンビニ行きませんか。そう声をかけようとしたが、彼によって遮られた。

「あそこの花壇、あれからちゃんと綺麗になったんだ」

そういえば、彼と出会ったのはあの花壇での一件からだ。

「あ…わ、私も見たよ。ちゃんと補修されてたから」

「先生が業者にすぐ頼んでくれたみたいでよかったよ。あそこの花壇もあれ以来、よく世話をするようになってね。屋上庭園に比べると素通りされてしまうけど俺は好きなんだ」

話している幸村くんはとても楽しそうだ。

「花壇がぼろぼろになったときは、あの子たちが心配だったけど、私も植え替えるの下手だったから……でも、いまも綺麗に咲いてるからよかった」

ほっと胸を撫で下ろしていると、じーっと幸村くんがこちらを見つめているのに気づいた。

「···ふふっ」

「?」

「花のこと『あの子』って言いかた、するんだね」

「···あ、」

そう言われて確かに気づいた。ちいさな子でも花のことをあんまり「あの子」呼ばわりしないんじゃないか。
口元に手を当てて隠すように笑う幸村君を見てきまりが悪くなり、しつこくしどろもどろになる。

「ご、ごめんなさい。変だよね」

「俺もそう呼ぶんだよ」

「え?」

「自分の手で育ててると愛着が湧くから···そうだね、それこそ自分の子どもみたいっていうのかな。大袈裟かもしれないけど。それに見てたら『この子たちほんとうに生きてるんだな』って思えてくるから自然と···あ、いまも呼んでしまったね」

私の大きな勘違いかもしれないけれど、そう笑う彼は少しだけ、照れくさそうだった。

「それに花を見て綺麗とかはよく聞くけど、『可愛い』って感想、言われたことないんだ。俺もほんとうはそう思うけど、男だし···なんとなく言いにくくて。実際、変に見られたこともあってね」

表情から口ぶりまで全てが温かみを持っていた。
花のことを可愛いと愛でる男の子。

それを変に思ったのは誰なんだろう、と少しだけ、知らない誰かさんを咎めたくなった。

花壇が壊れたあの瞬間に偶然関わっていたことで、なにか自分はよくない印象を持たれたのかと思っていたけど(実際私が犯人だと一瞬思われていた)、それはあまりにも自意識過剰だったと、改めてわかった。あの日の幸村君はただ花たちに愛情が向いてて、そこに傷がつきそうだったから、心配だっただけ。そういえば、植え替えが終わったあとも、こんなふうに笑っていたんだ。

『好き』をこんなにも美しく体現できるこのひとは、綺麗で、眩しい。


「す」

「?」

「す、すす凄くいいと思う。ぜ、全然変じゃないし、むしろ変に思うひとが変というか。えっと、そんなふうに『可愛い』って思うことは···幸村君の気持ちだから、その、もっと堂々としていい、と思う」

そう話せば、彼がじっとこちらを見つめてくるので、無性に気まずくなって俯いた。
いつもこうだ。いつもうまく伝わらない。あの日もいろいろ話したいことがあったのに、まとまらなかった。まとまらないなりにも偉そうにいちばん言いたいことは確かにあって、それを手繰り寄せるのが私の話しかただ。

「そ、そんなふうに『好き』だって思えるのは、すごく…素敵だよ」

こんな途切れるような話しかたはきっと聞き取りにくいに違いない。

「ありがとう」

恐る恐る顔を上げると、真っ直ぐこちらを見てくれる彼がいた。合わさる視線が怖かったのに、いまになってはとても安心できる。

神さまが微笑うと、こんな感じなのだろうか。
こんなにも愛されているあの子たちは、ほんとうに幸せだ。






潮の香りが遠くなった頃には、例の焼き鳥屋の前に立っていた。
こんがりした、甘辛い匂いが鼻に通れば、お腹の中が僅かに動いた。

「ど、どれがいいですか···?」
「この三本セットにしようかな。君は?」
「えっと、同じので」

割引の対象になっている、ねぎまやつくねやらが色んな種類が詰まったセットを頼むことになった。焼き鳥を外で頼んだこともないから、勝手がわからず彼の注文と同じものにしてみる。
幸村くんはタレで、私は塩。勝手な先入観から彼はてっきり塩派だと思っていたので、ちょっとだけ意外に思ったのはここだけの話。もしかしたらこれは彼のファンに有力な情報かもしれない。(いや、どうでもいいことかな···)

お詫びのつもりだったので、彼の分の代金を払おうとしたけど丁重に遠慮された。なんとか押してみるが、やわらかく、でもはっきりしたそのお断りになす術がなかった。あまりしつこくしても鬱陶しいかと思い、大人しく財布をしまうしかない。

商品を受け取ったあとは、このまま持ち帰るのかと思っていたけれど、「お腹空いてきちゃったね」と店内にすっと彼が入っていった。私がそれをぼうっとながめて立っていたら、「おいでよ」さも当然かの口調で誘ってくるのでまるで私がおかしいのかと錯覚しそうになる。

まさか一緒に食べるんですか私たち。
しかしここは彼のされるがままについていくのが正解なのだ。彼の靴を濡らしたくせに奢ってもいないのだから、せめて彼の意図に従うしかない。


店内はこぢんまりとしていて席数も少ない。椅子やテーブルも簡素なものだ。
向かい合って座る形になったけれど、結構な距離の近さにどきまぎする。さっきの海でもそれは近かったんだからいい加減に慣れたらいいのに、とは思うけれど。
私由来の人見知りする性格なのか、それとも幸村くんマジックのせいなのか、その両方か。
なにがそう落ち着かなくさせるのか考えてみるものの、ここに来るまでにいろんなことがあったせいで結果がまとまることはなかった。


隣を通りかかった店長さん(らしきひと)が、彼に気さくに声をかけていた。
前から知っているような口ぶりで、彼と談笑している。どうやら彼はここの常連さんらしい。
会話のなかで「友達と一緒に来るのも久しぶりだね」と店長さんが言っていた。もしかしたら彼はひとりでここに来ることのほうが多いのだろうか。そう思うと、多少なりとも彼のパーソナルスペースに入り込んでしまったのかもしれない。これはなかなかに貴重な体験なのかもしれない。が、それはそれで恐縮すぎる。
店長さん、私は神の子の靴をびしょ濡れにした加害者として来たんです。

しばらくして、店長さんがテーブルに取り皿を置いてくれた。合図かのように彼が「食べようか」と声をかけた。

「···いただきます」

「いただきます」

串を持ってみたものの、そこから手が動かない。幸村精市が目の前で焼き鳥を食べている。カジュアルなのになお気品がただようのは彼のなせる技巧だ。人間がしているごく普通の行為なのに、私にはとても不思議な光景に映る。

「海にはよく来るのかい?」

彼が尋ねた。

「海は、好きです」

「ずっとここに住んでるから見慣れた景色だけど、俺も、いつ見ても綺麗だなって思うよ。特に夕焼けは絶景だ」

その通りだ。私は素直にうなずいた。もっと気のきいた返事ができないものかと思うけれど、これが限界だ。「はやく食べないと冷めてしまうよ?」促されるまま慌てて口に運ぶ。しょっぱい味、ということしかわからない。
「そんなに緊張しなくてもいいよ」彼が言った。あぁ、やっぱり。というかここまで露骨だとバレて当然か。「…って、言っても無理があるか」回答に戸惑っている合間に彼が私の心情を代弁した。

「ち、違うんです。私が、そ、その…」

「さっきのこと、気にしなくていいんだよ」

「それもあるんですけど、その……私、話すの下手くそだから、全然だめで、き、聞き取りにくくて、ごめんなさい」

また、こうだ。なにを話そうか。どこまで詰まらないか。もっと声を大きく。そんなことばかり考えて、話しているうちに目の前のひとがいらいらしてしまって、私はまた―――――

「君に、あやまらないといけないことがあるんだ」

串から目をはなし正面を向くと、彼と目が合う。逸らしてはいけないと言われたみたいだった。

「あの音楽室にいたのは、君だよね?」

こたえることも頷くこともできなかった。無反応であることを肯定と受けとったのか、彼はつづけた。

「あの音楽室で会った日から、ときどき…音楽室の外で君のピアノを聴いていたんだ。盗み聞きのつもりはなかったんだけど…言い訳しようがないな。盗み聞きだよね。あそこからピアノの音がきこえる日も、きこえない日もあった」

胸の鼓動がはやくなる。手に汗がにじみだす。
知らないところでずっと聴かれていた。警戒したはずなのにいつから? いつまで? 音が消えていくその瞬間を、彼はどこまで─────

「あとは、君の声がきこえる日も」

彼の言葉に、視界が開けた。

「君がなにか話しているのもきこえたんだ。話しているというよりも…読んでいたように聴こえた。あれは小説かなにかなのかな」

ごめん、と彼が言う。過剰なほど慎重そうだった。

「練習…してたのかい?」








幼い頃の私はいまよりももっと吃りが顕著だった。
親しくない誰かとの会話はもちろん、劇、自由研究の発表、教科書の音読…大勢の前で話すこと全般がひどく苦手だった。つまずかないように。止まらないように。笑われないように。失敗をおそれるほど酷くなった。そんな自分がたまらなく嫌で、少しでも克服したかった。教科書だと授業を連想してしまうから、好きな本を音読して何回も練習した。幼なじみにも付き合ってもらって、物語のどのタイミングでどの台詞が来るのかも覚えるくらい読み上げた。そうしたら、少しずつつまずく回数が減っていった。あがることもほとんどなくなって、毎晩練習をしなくてもすらすら読めるまでになった。その成果は如実に現れて、中学になったいまでもクラス発表も音読も落ち着いて臨めている。

「でも……」

串を持つ手が上がらない。肉はすっかり冷めてしまった。

「誰かと話すと…初対面になるといまでもだめなんです。えっと、クラスの発表だと、多分、みんなの集中が分散してるから大丈夫だって自分に思い込ませられるからいけると思うんですけど、一体一とか誰かと面と向かって話すと、その、全然だめで。相手の意識が私にぜんぶ向けられてるんだって思っちゃうから。きっと向こうはそんなに私のこと気にしてないし自意識過剰だって頭ではわかってるのに…いつも『これ』で相手を困らせたり、いらいらさせてばかりで」

幼い頃を思い出して、ときどきあの音楽室で好きな小説を読んでいる。ピアノを弾く気になれないときはそうしていた。あのときはこのやり方で克服したのだから今回もできるはずだと信じてみたかった。もう、同じ方法では通用しないのに。

「自分でもなにやってるんだろうって、馬鹿なことしてるなぁって思って」

「馬鹿なんかじゃないよ」

顔を上げると、私を直視する彼と完全に焦点が合った。寸分の迷いもなく断ち切る瞳だった。

「馬鹿になんてしない。それを馬鹿にするひとが愚かだ」

その一瞬、いままで纏っていたやわらかさががらりと形を変えた。彼は依然として言いきるものだから、潔さに圧倒されそうになる。私の知らなかった全然違う彼なのに、彼らしくもないとも思わない。彼みたいじゃないのに、こわくない。

自分の話になってしまうけど、と、彼が前置きをした。

「俺もテニスをはじめた頃は全然上級生に適わなかったんだ。技術も戦略も未熟で『これくらいのこともできないのか』って思われていただろうね。相手にもされなかったし、それこそ、馬鹿にされていたと思う」

彼の表情はなんにも変わらない。そこには怒りも嘆きもなつかしさもなく、ただ起きていた事実を述べているようだった。

「それでも、つづけたかったんだ。いっぱい練習して、いろんなことがあったけど……やっとここまで来た。いまこうして立海に入って毎日テニスに集中できてとてもうれしいんだ。それもぜんぶ過去を抜きにしては得られなかったものだから」

いろんなこと。もう彼の身体の一部として身につけたひとの言える単語のようにきこえる。
いらっしゃい、と軽快な挨拶が店内に響く。客と店主の笑い声が遠くからきこえる。

「初心者であることはなにも恥ずかしいことでも馬鹿にされるようなことでもない。絶えず努力をつづけられる君は、凄いよ」

幸村くんは笑っていなかった。だから、信じられた。
ほとんど外のあかるさだけを頼りにしている、ほのかに薄暗い店内なのに目の前がぱあっと開けたみたいに一段とあかるく見えた。なんだかむず痒くなって、胸がそわそわしてしまった私は、また俯いてしまった。
凄い。そんなふうに言われたこと、いままでなかった。普通に近づきたくてしていたことはみんなにとってのあたりまえだった。あのときは追いつきたくて、普通になりたくて、ただそれだけだった。幼なじみも家族も見守ってくれていた。それでもあの頃の自分を一番なさけなく思っていたのは、ほかの誰でもなく、自分自身だった。『こんなこともできない』のかと、ほんとうにそう思っていたから。

「ありがとう、ございます」

そう言うと、彼はそこでようやく笑った。私は彼の表情を見てこれ以上ないくらい力が抜けきってしまった。
幸村くんこそ、凄いひとだ。いまの彼は天才ともいえるくらいの注目を浴びて、もとからの素質ですべてこなしてきているかのような噂も立つし、実際そういう目で見られている。私もそう思っていた。けれどそれこそ、間違いだった。彼だって努力してきているのに、なんにも知らないまま崇めているだけだったんだ。
そしてふと、思い当たった。諦めの感情を通り越して半ばやけになって彼につらつら話してみたけれど、

「いつどのタイミングでどこからどこまで聞いていたんでしょうか……………」

はじめて会ったあの日以来、彼はもう一度音楽室を訪ねているというわけだ。いや一回じゃないかもしれない。何回来ていた? 何回聴かれた? 出る前に外に誰もいないか確認していたのにそれさえも彼に見抜かれていたということ?
頭のあちこちに何個もの渦が発生しだす。そっとしておけばいいものをそうできないのがかなしいかな、私の性分なのである。いいお話でしたちゃんちゃんで終わらせられない。
私の暗雲たるオーラを察してか彼は気まずそうな顔で「またどこかでそのあたりはちゃんと説明するよ」なだめるように言った。いまの私に詳細を話せば収拾がつかないと予想しているのだろう。

「俺が聞いてしまったからといって練習はやめないでほしいんだけど…」

「と、と、とてもものすごく最高に意識してしまいますすみません」

「そうだよね」

幸村くんが困ったなぁと気まずそうに表情を固めてうーんと考えこむ。そしてしばらく思い至ったあと「そうだ」声のトーンが高くなった。

「じゃあこの際、俺が君の練習相手になるのは?」

彼は突破口を見つけたかのように話しているが、私は固まったままうまく反応できない。今日は数分のなかで思いがけないことが畳み掛けるように発生するから理解に追いつかない。私の混乱っぷりは露知らず幸村くんはつづける。

「努力の方向性を変えたらいいってことなんじゃないかな?音読も立派な訓練だろうけど、さらに実践を加えたらもっと上達すると思うんだ。俺と面と向かって話すようになれば『いつ聴かれるんだろう』って気にする必要がそもそもなくなるし、こっちのほうが君が目指してる形に近いんじゃないかって」

「そう、ですかね」

「敬語もやめてくれたらうれしいな」

「……あ、私ずっと敬語で…」

「いいんだよ」

「いいんだよ」というのは、敬語云々よりもそう焦らなくていいんだよ、ということだろう。
「部活にも敬語で話す友達はいるけど、君の場合はそれとも違うみたいだから。ゆっくりでね」彼のお察し通り柳くんにも先日分析されたばかりだ。無意識に壁を作りつづけているのが言葉然り態度の節々から彼に伝わっていたらしい。たしかに一体一で気張らず会話ができるようになりたいなら、敬語も然りまず形から入らなければいけないだろう。

「よ、よろしく」

お願いします、と言いそうになるのをぐっと堪えた。

「よろしくね」

彼みたいななめらかな挨拶が、いつかできたらいいな。

「話しすぎちゃったね。さきに食べたほうがよかったかな」

ほとんど手をつけないまますっかり冷めてしまった私の串を見て、彼が言う。

「ううん。冷めちゃったけど…でも、その、すごくおいしい」

へらっと笑っていると、幸村くんが私をじっと見ているのに気づいた。変なこと言っちゃったのかな。ぎょっとしていると彼が瞬時に反応して「あぁ、ごめん」咄嗟に断りを入れた。

「いいなって、思って」

彼が目を細めて微笑んだ。
私はおそるおそる「まだお腹空いてるなら、よ、よかったら。そ、それにこれはお詫びなので何十本でも買いに行きますっ」まだ手をつけてない串を差し出すと、彼はしばらくきょとんとしたかと思えば、急に顔を崩してついには吹き出して笑っていた。

「俺、そんなに物欲しそうにしてた?」

「そ、そうじゃないけど…その、幸村くんは普段呪文料理とか食べるイメージがあったから、焼き鳥好きなのが意外だと思って、えっと」

「呪文料理?」

「……び、ビーフストロガノフ、とか、ガスパチョとか、ヴィシなんとかとか、ペペロンチーノとかナポリタンとかオムライスとか」

「後半は一般的な料理な気がするけど」

「あ、あれ? 私なんて…?」

「あははっ、俺も君も食べるものはそうそう変わらないと思うよ?」

彼は口に手を当てながら声を出して笑っていた。幸村くんでも、砕けるように笑うんだ。どこにでもいる普通の中学生の男の子みたいに。

「変わってるというのかな、別物って扱われることはよくあるんだ。俺としてはそんなつもりは全然ないんだけどね」

少しの抵抗もなく、生きてきて当然のように連れ添ってきた物事の一部のような口調で彼が言った。
幸村くんの才能は、なにもはじめから与えられたものばかりじゃない。いろんなこと。彼にも過去に積み重ねてきたものがたくさんあったはずで、それらと一緒にいまの彼がいる。彼と並んで語るなんてとてもおこがましいのかもしれないけれど、私と同じように、彼も努力をしてきたひとりの男の子だ。そして、なにひとつ変わらない普通の男の子。花が大好きで、放課後に焼き鳥も食べて、あかるく笑って話す普通の男の子。
どうしていままで雲の上にいるひとと崇めていたんだろう。ひとをひとだと思っていないような扱いかたをしているみたいで、とても失礼でさびしいことを、私はしていたんだ。

「反省、します」

スカートのうえで膝をぎゅっとつくった。

「いままで私にとって、幸村くんは全然違う世界にいるひとだと思ってた。正直、苦手だった。…それは、でも、自分のものさしの枠でしか見てなかったんだなって、相手のことなんにも知らないまま決めつけてたんだなってわかったから、その…ごめんなさい」


―――――『ほかになんかあったっけ?』


そのさびしさを、嫌というほど解っていたはずなのに。


「これからは、先入観でそのひとを測ったりしないようにするね。今日は誘ってくれてありがとう、幸村くん」

私がぱっと顔を上げると、彼はいつになく落ち着いたようすで私を見つめ、粛々としていた。彼のようすを見て、ほっとした。少しでも伝わってくれたらそれはとてもうれしいことだった。清々しさをかんじていたはずなのに、時間が経つにつれてじわじわ恥ずかしさが押し寄せてきた。胸のなかで留めておけばいいものを、なぜ彼に向かって宣言しているのだろう。

「ご、ごめんなさい。あの、いきなり変なこと喋って」

「とてもいいスピーチだった」

なにがおかしいのかさっぱりわからない、と至って真面目な顔つきをしていた。率直な感想という響きがした。

「俺も、君はもっとおとなしい子だと思ってた」

でも、と、彼が私の顔を見つめ直した。

「意外と、って言ったら語弊があるかもしれないけど…もし、言いたいことがあったとしても君は隠してしまうのかなって思ってたんだ。他人に考えを委ねてしまうんじゃないかって。でも、けっしてそうじゃなくて君は自分の意見をしっかり持ってる。それにこうして面と向かって話してくれる。
君が思う以上に、君の伝えたいことはちゃんと届いてるよ」

躓いてばかりでうまく話せない。
私がそう言っていたことに、こたえてくれているのだと思った。

「苗字さんは思っていた以上にいっぱい喋るし、喜怒哀楽もはっきりしてるし、びっくりするくらい大声も出せるみたいだし」

「そ、それは…」

「俺も決めつけていたようなものだね。だから、おあいこ様だよ」

さらりとした涼しい風がここにだけ吹いているような心地だった。こんなにも晴れやかな気持ちでだれかと向き合えたことが、いままであっただろうか。

「冷めてしまうよ?」

彼にもう一度促されて食べた焼き鳥は、しょっぱくて、つめたくて、固くて、おいしかった。

「おいしいね」

そう自然と零れていた。彼もいっしょに、笑っていた。




「音楽室で読んでた本はなんていうの?」

「え?」

「もしよかったら、教えてくれるかい」

私が固まっていると「ごめん。いきなり困るよね」彼が遠慮がちにそう言うので慌てて本のタイトルを言った。まさか聞かれるとは思ってなかったから反応が遅れてしまった。

「君の声、綺麗だったよ。だからかな……つづきが気になったんだ」

そう言われてからは、帰り道もずっと頭のなかがぼうっとして、胸を撫でられるような感覚が絶えずつづいて、頬が熱くてしかたなかった。

一緒に並んで歩く帰り道は、あんなにも見上げていたような気がした彼の顔がずいぶんと近くにあるように思えた。
この日がはじめて彼とさようならを交わした日だった。
  

神さまの通り道

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