お返し

スポーツブランドのロゴが入った立派なロングタオルを端を揃えてきっちり畳む。皺を最大限に抑えるように慎重に袋へ入れる。お父さんが手土産にお高めのお菓子を買ってきてくれたときについていた厚手の手提げ袋だ。集めていてもかさばるからこまめに捨てるようにしていたけれど、いざという時のために残しておいてよかった。タオルのほかに、中にはお詫びの手紙と、ほんの気持ち程度のお詫びの品。このために柔軟剤もちょっといいものを使っているから大丈夫なはず。忘れないよう玄関の目立つ位置に置いておく。何回も確認して、ほっと胸を撫で下ろした。干しているときからこんなふうに落ち着かなかったけれど、明日になればやっと解放されるんだ。明日、幸村くんにこれを返したら、やっと。


*


だがしかし、私のメンタルの貧弱さはここでも発揮される。

「(こ、こわいよ…!)」

ひとのクラスって、なんでこんなにおそろしいのだろう。
人見知りからしたらよそのクラスというのはとてつもないハードルだ。友達がいたらまだよかったものの、当然いない。教室の後方の扉からちらちら覗くと、席に座る幸村くんの背中が見える。クラスメイトと話しているか、机に向かってなにか作業をしているか、だ。ときどき彼が立ち上がろうものなら私はさっさと死角に隠れてしまう。クラスメイトとの会話中に教室に入ってまで割り込む勇気はない。なら、彼がひとりならいけるかというとそんなこともない。幸村くんは目立つ。目立つひとに近づくと、私も目立つ=避けたい事態なのだ。おまけに彼が不意に席から立ち上がったり、振り向く折に私は条件反射で隠れてしまう有様だ。私ってめんどくさいな、とつくづく思う。そんなことを繰り返しているうちについに五限目の休み時間に突入していた。いま、幸村くんはクラスメイトと談笑している。あいだに入ってしまったら邪魔だろうか。

この前はごめんね、ありがとう。たったひと言つけて渡すだけのことをなにをうじうじしているんだろう。
結局は、伝えたい言葉よりも臆病なこころを優先してしまうんだ。
黒板の上にある掛け時計に目を凝らすと休み時間終了まで残り二分を指していた。二分しかない。されど二分。けれど二分。彼の横顔を見て、一瞬逡巡した。
「(今日はもう……)」
そっと背中を向けた。

また、だめだったな。はやく返さなくちゃいけないのに。どうして私はいつも―――――





「苗字さん!」

「へっ!?」

びくっと肩が跳ねる。ぐりんと首を捻ると、幸村くんがこちらへ駆け寄ってくるではないか。「やっぱり君だった」私の目の前に来ると、彼はほっとしたような表情を見せた。

「さっきから何回か教室に来てたよね?」

私が唖然としていると、彼は的中したと言いたげにくすっと笑みをこぼした。

「俺に用があるとは限らないし、びっくりされるかと思ってあえて声をかけるか迷っていたんだけど、にしても頻度が多いからさすがに気になったんだ」

どうやらバレバレだったようで、おまけに気遣われていたようだ。たしかに幸村くんに声をかけられたらかけられたで恐縮していた自信がある。クラスを覗き見ては何度も逃げる私の行動は不審者そのものだろう。自分の奇行も彼がそれを見守っていたことも含め全般がとにかくいたたまれない。

「なにかあったのかい?」
「…え、えっと」

言葉に詰まっていると、チャイムが鳴ってしまった。どうしよう、せっかく幸村くんが声をかけてくれたのに。渡すだけのことで時間を費やしても彼に申し訳ないし、手際よく済ませてしまったほうがいいかと思って「あ、あのっ、この前は」紙袋を差し出そうとしたときだった。
「苗字さん」彼が私の名前を呼んだ。途端、整列指示を受けたみたいにぴしっと背筋が張った。待って、と、言われた気がした。

「今日の放課後、よかったら屋上庭園に来てみない?」

「え?」

「あの花壇にもない花がいっぱいあるんだ。スイセンとかラベンダーとか、これからだとダリアとか、もっと見てほしくて」

「う、うん」

徐々に校内の喧騒が落ち着くのにならって、ふたりで交わされるテンポも心なしかはやくなる。

「部活のあとだから遅めにはなってしまうんだけど」

「えっと、き、今日はもともと図書室で勉強する予定だったから大丈夫」

「ほんとうかい?」

こくこく頷くとぱっと幸村くんの顔があかるくなる。この展開、この前も見たような気がする。そして幸村くんは「絶対にだよ」おだやか且つ鋭利な釘を刺してくるので何度も首を縦に振った。彼特有のさらりとしたように見せかけた圧には敵わない。

「なんとなくそっちのほうがいい気がしたから」

一瞬、私の持っている紙袋に目を配らせて彼がそう言った。じゃあまた放課後、と彼が教室へ戻っていくのをぼんやりとながめていた。もう一回、幸村くんと会うことになるなんて。しかも約束を取りつけて。幸村くんとどんな話をしたらいいんだろう。考えごとをしているうちにやたらとしずかだなと思った頃には生徒が廊下にほとんどいないのに気づいて、急いで私も自分の教室へと小走りで戻っていった。
授業中も机の横にかけている紙袋が目に留まる度にそわそわしていた。


*


屋上庭園には来たことがないと言ってしまったけれど、ほんとうは一度だけあった。来て、ゆっくりながめるまもなく一瞬で帰ったから、ほとんど来ていないようなものだと思ってカウントしていない。あの日も放課後だった。バラのアーチを背景に女の子と幸村くんらしきひとが向かいあって立っているのが見えた。周囲にひとの気配はない。会話は聞こえなかったけれど、察してしまった。独特の空気に耐えられず、音を立てないよう階段に繋がる扉を最大限音を立てずに閉めた。
屋上庭園では『ああいう場面』を意図せずとも遭遇してしまうのかと思うと足が遠のいていた。

階段を登って、分厚くて重たい扉を開く。目の前がさあっとあかるくなると、開けた空と丁寧に施された緑とカラフルな花たちが一体に広がっていた。ゆったりと足を進めて歩いていくと、バラのアーチの手前でしゃがみ込んで作業をしていた幸村くんがこちらに気づいた。彼はそのまますくっと立ち上がって、こっちだよと手を振った。あたりには誰もいないことを確認して、ひとまずほっとした。幸村くんのそばへ近づくと彼が大きな鋏を持っているのに気づいた。

「あの、遅くなってごめんね」

「俺もいま来たところだよ。ちょっとこれだけ終わらせてしまってもいいかな?」

私が頷くと彼はふたたびしゃがみこんだ。彼にならって私もしゃがんでみる。枯れている花びらを優先的に切っているみたいだ。ちょき、ちょき、と不定期なリズムで鋏が鳴る。

「枯れてるけど···せっかく咲いてるの、切るのもちょっともったいないね」

「たしかにね。でもこれをしないと他の花が綺麗に咲かないんだ」

「え、そうなのっ?」

「ちゃんとした栄養が綺麗に咲いている花びらにまでいかなくなるんだ」

「知らなかった···」

少し隣のほうで咲いていた黄色やオレンジの花を眺めていたら、彼に「好きなのかい?」と訊ねられた。これからの季節にふさわしい燦々と色づくイエローが花壇のなかで映えている。それらはマリーゴールドというらしく、聞き覚えのある名前なのにどんな見た目なのかも知らなかった。

「黄色とかあかるい色が好きなの?」

「えっと、花に詳しくないからあんまりわかってないだけで…あ、でも、もういまはないけど、二号館の花壇にあったあの青くてちいさい花もかわいいかった」

「ネモフィラ、かな?」

「ネモフィラ…?」

「水をやり過ぎたり湿気が多いと咲きにくくなるから少しコツがいるけど、慣れたら手入れしやすいほうなんだ。ちょうどこの前種を摘んだばかりだよ」

たしかにかわいいよね、と、彼はほがらかな表情をしながらそう言った。
幸村くんは、ほんとうに花が好きなんだ。
彼の笑顔を見て、ずっと遠い記憶に置きざりにしたようなさびしさとなつかしさが頭を過ぎった。いまの私にはないものだからだろうか。夢中になれる純真さと無邪気さ。ひとらしさが詰まった瞬間。すべて引き換えにしてでも、あれにしがみつくつもりでいたのに。

さてと、と言った立ち上がった幸村くんはひと仕事を終えたような清々しさがあった。

「ずっと、渡そうとしてくれてたんだよね?」

彼が私の持つ手提げ袋を見やった。あれだけ何度も訪れていたらそれはばれてしまうよな、と、さきほどまでの自分の行動を思い出してなんともいえない気まずさが襲ってくる。立ちながらもなんだからと、もう少し進んだ先にあるベンチにまで彼が案内してくれた。ふたり揃って腰を落ち着けてからようやく彼に渡すことができた。握りしめていたせいで皺が寄ってしまったサテン生地の持ち手がちょっとだけ不格好だ。

「その…遅くなってごめんね」

「全然。むしろはやいと思ったから……これは?」

彼が紙袋を覗いて取り出したのは、透明なラッピングに白いリボンが添えられた小ぶりなクッキーだった。

「あの、いつも買ってるパン屋さんで買ったクッキーなんだけど…その、もし、幸村くんのお口に合ったら」

文字通り、ほんの気持ち程度の品だ。店内でも延々考え凝らしすぎて頭がすり減った結果、このクッキーに辿り着いたのだ。「わざわざ買ってきてくれたのかい?」手にとってながめる彼の面持ちがまるで貴重なものを吟味するかのようだったから「たいしたものじゃないよ」何度か弁明したけれど彼はそれでも目を凝らした。やっぱりクッキーじゃなくてよかったかな。タオルだけのほうが良かったかも。そわそわしながら彼のようすを見守っていると、彼がふっと視線をこちらへ向けた。一段と胸が跳ねた。

「すごくうれしいよ、ありがとう」

特別やわらかい目で、彼は噛み締めるようにそう言った。
行動力もなければ、はっきりとも喋れない。ほんとうにうじうじしてばかりで反省することだらけだ。それでも、隣の彼の表情を見たらいままでの行動すべてが報われたような気がした。悩んだ甲斐があったなんていうと大袈裟かもしれないけれど、それくらい舞い上がりそうになった。胸のなかがふわふわする。

「もしかしてあの商店街のパン屋?」

「う、うん」

「何回かは行ったことがあるんだけど焼き菓子まであるなんて知らなかったよ。今度見てみようかな」

「えっと、そこのマドレーヌとかパウンドケーキもおすすめで、その、カヌレもすごくおいしくてたまに売り切れるくらい人気だから…」

「へぇ、よく通ってるのかい?」

「最近お気に入りで朝の焼きたての時間に買いに行くんだけど…その、りんごデニッシュとかブリオッシュとか、えっと…チョココロネもおすすめで」

「菓子パンばっかりじゃないか」口もとに手を当てて彼が笑うから、ぶわっと顔から首まで火照りだす。

「あ、あとは、カレーパンとかピザパンもおいしいよ。えっと、ソーセージパンも」

「君のおすすめを制覇するまで何日もかかりそうだね」

パン屋さんのすばらしさよりも食い意地のすごさが強調されてしまった。伝えたかったのはそこじゃなかったんだけどな。

「そういえば本が好きって言ってたけど、普段はどんなものを読んでるの?」

「えっと、いろいろだけど…いまは海外の冒険小説をずっと読んでて…あ、あと、最近は画集も見るのが好き」

「画集か…俺もたまに印象派の絵は見にいくんだけど、特にルノワールが好きなんだ。筆のタッチとか肌のあたたかみとか…見ていると癒されるから」

「私も…印象派好きだよ」

「ほんとうに?」

「似た描き方でもよく見ると画家によって違うからそれも好きで…幸村くんの絵も、色が綺麗だよね。そういうところから勉強してるのかなって思ったんだけど」

「たしかに影響は受けているのかな?俺もよく画集は読んでいるから」

「…?」

「苗字さん、見てくれてるんだね」

どうしてそうも彼の機嫌がいいのかわからず首を傾げていると、彼がそう言った。数秒経ってから台詞の意味にようやく気づいて吃っていると、彼はまたからかうように笑っていた。

「幸村くんの絵、好きだなって思って…その…」

なけなしのか細い声で弁解すると、彼が聞き漏らすなんてあるはずもなく「もっとはやく教えてほしかったな」やわらかく、そしてちょっとだけ悪戯っぽく笑っていた。

「小説はなにを読んでるの?」

「え、えっと……」

私が言葉に躓いても幸村くんがうんうんと聞いてくれるから焦らずに話していられる。口周りがいつもより格段に活動している。笑ってもいるから、明日は頬が筋肉痛になりそうだ。
きっと中学はずっと必要最低限の会話しかしないまま過ごしていく。なにもできないまま手放していくものだと、そう思っていた。
でも、今日の私はこんなにも喋れている。
肩の力が張ってないからか身体がいつもよりずっと軽い。ときどき熱くはなるけれど、誰かと一体一で会話するときに込み上げる焦りとか緊張とか、そういう嫌なかんじじゃない。
どきどきするのに、やすらげる。

「君が来てくれて、ほっとした」

しばらくして、彼が言った。

「少し強引だったかなとも思うんだけど、そうでもしないと君がまた逃げてしまいそうな気がしたから」

意外にも…と言えば失礼だけれど、彼なりに自覚はあったらしい。彼のことを知ろうとしてもいなかったあのときの私はまっさきに避ける方法を考えていたが、彼の遠慮ない行動力はそれを突破した。

「正直…ちょっとだけこわかったけど、」

「ちょっとだけ?」

「……結構、こわかったかも」

「はっきり言うね」彼はからっと笑っていた。ほら、やっぱり。彼はよくも悪くも自覚しておきながら反省する気はないのだ。「で、でも」必死に弁解する私を彼はじっと耳を立てている。うんうん、と、聞こえない声が聞こえてくる。

「でもね、こわいとかよりも…いまは、幸村くんに会ってよかったなって思ったことのほうが多いの」

僅かに湿り気を帯びた風がふたりのあいだを通り抜けると、花の甘い香りが緑の青々しさとがふわりと鼻さきを掠めた。

「ごめんないよりもありがとうがうれしいこととか、名前を呼ばれるとうれしいこととか、いっぱいあって…だから、その、この前柳くんにもありがとうって言えたの。みんなからしたら普通のことだしまだ全然うまく話せないけど、伝えられたことがほんとうによかったなぁって。先入観で決めつけちゃだめだったなとか…焼き鳥が冷めても『そういうこと』があればおいしくなるとか…今日もこうしていっぱい話せて…いろんな形のしあわせなことを幸村くんが教えてくれたから、幸村くんのおかげで知れてうれしいの」

幸村くんに会うたび、ぼやけていた世界が少しずつクリアになっていく。

「ありがとう、幸村くん」

こんなにもおだやかに誰かと過ごせる日が来るなんて、思ってなかった。

「君のおかげで知ったこと、俺にもあるよ」

彼の目と交わると、スカートの上に載せていた手は自然と握り拳をつくっていた。不思議と、息苦しさはない。

「純粋にひとりの俺を見ようとしてくれたことも、どんなことでもつづけられるひとが凄いことも、君と食べに行った焼き鳥が美味しかったことも、こうして頑張ってお礼を伝えにきてくれたことがうれしいことも、知ってよかったことがいっぱいあるんだ」

どうしてこのひとはそんなにもあかるく笑うんだろう。そんな笑顔を向けられたら、私がまるで凄いことをしているみたいに勘違いしそうになる。

「あ、そうだ」ひらめいたように「あとは、君の好きなパン屋はお菓子もおいしいこととか」彼が得意げに言った。

「これからももっと君が好きなものも見ていることも知りたいんだ」

彼が手を差し伸べた。細長くて繊細そうにみえるのに、なんでも掴めそうな骨ばった手。私は両手をつかって慎重に彼の手さきをちょこんと握ると、彼がちいさく頷いたような気がした。

「私も、幸村くんのこともっと知りたいな」

彼の後ろにある空の色も草花も、彼のやさしい瞳も、すべてがあかるくはっきりと見えた。曖昧な世界が少しずつクリアに映し出されていく。



帰り際、幸村くんは紙袋のなかをちらっと見やった。

「クッキーも好きだけど、せっかくならビーフストロガノフがよかったな」

「へっ」

「それかガスパチョとかヴィシソワーズとか」

「!?そ、そんな、いままで作ったことないから、なにから用意していいのか…!す、スーパーに材料売ってるのかな…!?」

頭上に雷のごとく衝撃が落ちたかと思えば「嘘だよ」その直後にあっさりと自白された。たった数秒のあいだにどっと疲労感に襲われた気がした。幸村くんは吹き出して盛大に笑うので私はしまいには「りんごみたいだね」覗き込みながらそんなことも言ってくるので私はますます顔を地面へやった。

「…も、もう」

「ごめんよ、つい」

やっぱり、反省する気はなさそうだ。


彼は帰り際に足を止めて、
「ここにもネモフィラが咲いていたんだ」
そう言った。
花壇の一部分だけぽつぽつと青い花が残っている程度の場所だ。

「来年の春になったら、また見に来ようよ」

来年の春。
幸村くんはおぼえてくれるだろうか。
私はきっと、来年のその日までずっとずっとおぼえていられる。

「さ、咲いたら……教えて、ほしいな」

貧相な声に込めても彼は拾い上げてしまうのだから、過度に期待してしまう。

「まっさきに君に教えるよ」

来年の春がきたら、もう一度ふたりで訪れるのだと信じて。


  

神さまの通り道

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