「あーあ、さみーなあ」


吉祥寺高校のセーラー服に少し長めのコートを羽織って、御琴は外出していた。外出と言ってもまだ玉狛支部から出たばかりで、警戒区域内には入っている。にも関わらずこんなにも堂々と歩けているのは、彼女の耳に装着された《脳内魔導起機》が理由のひとつだ。宇佐美に調整してもらったお陰で、攻撃がトリオン兵にも有効になっている。まあ、ここで《脳内魔導起機》を使ってしまうと「近界民が〜」とややこしい話になってしまうので、あまり使いたくはないのだが。

と、その時。


「……? うっせーなあ……」


ドドドドという騒がしい音。恐らく、ここからそんなに遠くはない。戦闘音のようだが、どうやら訓練というわけではなさそうだ。かといって、近界民が現れたとの話も聞いていない。なら、何の音だろうか。


「……チッ、めんどくせ」


「加速スイッチ」と呟くと、御琴は地面を蹴った。









嵐山隊の作戦は、成功で終わった。嵐山を囮にして木虎が狙撃手を撃破、その隙に嵐山隊の狙撃手である佐鳥が射手万能手共に無力化。同時に迅が自らの黒トリガー、風刃でA級隊員を6人撃破し、黒トリガー及び特殊トリガー争奪戦は幕を閉じた。


「おーすっげー」


その様子を、近くで見ていた御琴が感嘆する。これが、ボーダーのA級隊員。

御琴の世界でも、これほどまでの実力者は珍しかった。英雄チームの仲間たちと同じくらいだろうか?《脳内魔導起機》を使ったら勝てるかもしれないが、今の御琴がトリガーを使ったら……瞬殺だ。こいつらがA級隊員だってことは、元の世界に帰るには、こいつらと並ばなきゃいけないのか。神様もハードル上げまくったもんだ。


「ま、待て! 動くな!」


そのとき御琴はA級隊員に釘付けになっていて、反応するのが遅れたのだ。相手はトリオン体。御琴の両手は片手で押さえつけられ、首にはナイフの形をしたトリガーが突きつけられる。おお、すごい。一昔前の映画みたいだ。


「! おまえは、あのときの近界民……!」


男が御琴を押さえつけたことによって、御琴の存在がボーダーのA級隊員たちにバレてしまった。その中の一人は、見たことがある。警戒区域内の駅のホームで、遊真と戦っていた青年だ。「秀次」と呼ばれていた気がする。


「あ、"秀次"だ」
「え、三輪、知り合い?」
「そんなわけないだろう! 近界民に知り合いなどいるか……!」


ああ、なるほど。彼はそういう人物か。


「近界民……クク、やっぱりおまえがそうだったみたいだなあ……!」
「近界民……!? じゃあ、彼女が例の特殊トリガー持ちか……!」
「……だからあ?」


にやり。男は笑うと、御琴を押さえつける手にグッと力を込めた。「いっ」と御琴が少しの苦痛に声を漏らす。今の御琴は、もちろんこちらのトリガーなど持っていないため生身だ。対する相手はトリオン体。トリオン体に換装すると、その身体能力は生身の数倍にまで及ぶ。当然痛い。


「やめろ金守! 彼女は生身だぞ!」
「ハッ、興味ないね。どうせ近界民だ。さあ、黒トリガーと特殊トリガーを出してもらおうか!」


金守、というのはこの男の名前だろうか。一応A級のマークはあるが、どうにも強そうに見えない。つーかお前の言う特殊トリガーは目の前にあるヘッドフォンだし、黒トリガーは遊真のものだから出せるわけねーだろーが。こいつ本当にA級か?

でも、こいつらの狙いはわかった。遊真の黒トリガーと、あたしの《脳内魔導起機》だ。


「ったく、ごちゃごちゃうるせえよ」


パチン、と指を鳴らすと、《脳内魔導起機》が起動する。ヘッドフォンから流れる呪い歌で、脳漿がダブダブになる。


「九ノ重スイッチ」


御琴の右手に、日本刀が生まれる。本当は魔剣スイッチのほうが使い勝手が良かったのだが、あの魔法は呪い歌を聞いたあとに何かに触れなければ発動できない。両手が塞がっている今、それは無理だった。

御琴は手首だけを器用に動かし、男の無防備になっている両足を日本刀で切り落とした。血の代わりに、男の両足からはトリオンが溢れ出す。


「トリオン体……だったか? つまり、あんたを殺すには二回頭をかち割ればいいわけだな」


少し脅しただけで、男は酷く情けない悲鳴をあげながら「緊急脱出!」と叫んだ。チッ、逃げられたか。


「あの……あなたが例の特殊トリガー持ちというのは、本当ですか?」


赤い隊服を着た黒髪ショートカットの少女が、御琴に尋ねた。それに続いて、同じ隊服の青年、さらには黒い隊服で小麦色の髪の青年も近寄ってきた。ちょっとまて、お前は敵だろ。


「ってことは、君が迅の言ってた"倉花御琴"か!」
「迅……? くっそ、あいつ勝手にあたしの個人情報暴露しやがって」


さっきは同じボーダー隊員がすまなかった、と青年は素直に謝罪を口にする。この人と迅悠一、双子みたいにそっくりだな。


「俺は嵐山准。こっちは木虎藍。よろしくな、倉花さん」
「倉花でいい。あんたのほうが年上だろ」


爽やかな笑顔を見せる嵐山に、御琴は「よろしく」と軽く挨拶をする。木虎は不思議そうに、若干睨みながら御琴を見ていた。


「つか、あんたはあたしのトリガー奪わなくてもいいのかよ? 普通に考えて、今がチャンスだろ」
「いや、俺今腕一本しかねーし。普通に考えて、返り討ちにされて終わりだろ」
「あは、よくわかってんな」
「うわ、今俺すっげーイラついた。おまえもクソ生意気だな」


「な、三輪」と彼は黒髪の青年に顔を向けるが、なんだろう。すごく睨まれた。


「あ、俺は出水公平。あっちが三輪秀次な」
「ふーん……一応、倉花御琴。よろしく」


よろしくするつもりはねーけどな。特に三輪秀次。


「倉花は確か、玉狛だったよな? 良かったら送るが……」
「別に大丈夫だと思うぜ? だってほら……」


御琴が指をさした。


「迎えが来た」









「なあ、なんで黒トリガーを渡した?」


迎え、もとい迅は、御琴のその問いに立ち止まった。彼の腰にあるホルダーには、いつも肌身離さず持っていた彼の師匠の形見がない。


「あんたがあんたの師匠の形見を手放さなくても、あたしは自分の力で《脳内魔導起機》を守れた」


一人で十分だった。


「あんたが、そんなもぬけの殻みたいな顔するくらいなら、いっそのこと、あたしを取引に使えば良かったのに。だって、あたしは、どうせ」


元の世界に帰れる保証なんて、どこにも。


「御琴」


御琴の言葉は、そこで止まった。迅が、御琴の唇に優しく人差し指をあてていたから。


「だめだよ、それ以上は」


その続きの言葉がわかっていたかのように、迅は寂しそうに微笑む。「だって」と、御琴は苦虫を噛み潰したような顔をした。また、その顔。


「……御琴は意地っ張りなのに、案外泣き虫だなあ」
「なっ、泣き虫い!? 誰がっ」
「でも、いいんだ」


迅が数回、御琴の心を落ち着かせるようにぽんぽんと頭を撫でる。

迅が風刃をボーダー本部に差し出す代わりに、ボーダー本部は遊真の黒トリガーや御琴の《脳内魔導起機》に手を出さない。そして、遊真と御琴のボーダー入隊を正式に認める。そういう取引をして来たのだ。これで、安心して正式入隊日を迎えられる。


「……そ」


それしか言えなかった。御琴と迅は、まだ出会ってから数日しか経っていない。そんな奴がこの男にかけられるような言葉なんて、何も、ない。


「あのさ、迅悠一。あたし、弧月にする」


弧月。攻撃手が扱うトリガーのひとつだ。日本刀の形をしていて、出し入れができない代わりに威力の高い攻撃特化型。


「射手も良いと思った。けど、射手は守るよりも守られる側だ。守られるなんてまっぴらごめん。だからあたし、攻撃手になりたい。自分の身は、自分で守れるように」


あたしを守って、誰かが傷つくなんて嫌だ。空閑遊真も、三雲修も、雨取千佳も、迅悠一も。みんな、あたしが守ってやる。


「……わかった。弧月ならおれが前に使ってたやつだから、たぶん教えられると思うよ」


迅が御琴に手を差し出す。


「行こうか、御琴」


迅は内心驚いていた。まさか、自分が一番ないだろうと思っていた未来が現実になるなんて。この子の未来は、コロコロ変わりやすい。迅が見えるだけでも、十何種類にも未来が分岐している。迅が望むのは、その未来のうちのたったひとつだけ。


「……帰ろーぜ、迅悠一」


どうか、この子がちゃんと生きている未来がくることを。
今宵、月は嗤う



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