それから一秒もたたない間に、御琴は目を覚ました。

吹き付ける風が少し肌寒い……風? 迷宮内に、風など吹いていなかったはずだ。そう思い、上半身をゆっくり起こしてみる。


「……は、あ……?」


御琴たちが侵入した迷宮黙示録アリスは、その名の通り「不思議の国のアリス」を連想させるような世界だった。色とりどりの林檎が実り、鹿やリスなどのおとなしい動物たちが住む、酷く美しい世界。

だが、今現在御琴が目にしているものは、そんな美しい世界とはかけ離れすぎていた。電柱は倒れ、住宅のコンクリートはヒビが入っている。人も誰一人としておらず、完全なる廃墟だ。

そしてもう一つ、おかしな点があった。あのとき、確かに御琴は迷宮内でウサギに胸を貫かれたはずだった。だが今の御琴には、貫かれた形跡などはどこにもない。ビリビリに破れた吉祥寺高校のセーラー服も、すっかり元通りだ。


「くっそ……真之介たちは、一体どこに……」


立ち上がった御琴は、左耳についた小型のヘッドホンに触れる。壊れてはいない。それから素早く、パチンパチンと指を鳴らした。

《脳内魔導起機》。ヘッドホンの形をしている、迷宮を攻略するための最大の武器だ。呪いの歌を再生して脳を揺さぶり、魔法を発動する最先端の技術。基本、六つまでしか呪い歌をセットできないという縛りはあるが。


「九ノ重スイッチ」


御琴の手に、日本刀が生まれる。日本刀で受けた攻撃の威力を九回まで相殺できるという、攻撃と防御両方を兼ね備えた魔法。


「おっしゃ、出せる。じゃ、とりあえずはここがどこなのかを調べてから……」


その時。


『門発生。門発生。近隣の皆様はご注意ください』


突然、警告音が鳴り響いた。パッと振り返ったときに遠くにあったのは、巨大な黒い球体。バチバチと黒い電気のようなものが通っている。しばらくすると、その球体から白い謎の生物が出現した。首が長く、大きく開けた口の中には瞳のようなものが入っている。見たことがない。


「……あはは。面白そう」


その瞬間、御琴の目つきが今までとは違う、狂気じみたものに変化した。ギラギラと光御琴の双眸は、敵生物をとらえて放さない。


「加速スイッーー」
「はいストップ」


加速スイッチ、と言おうとしたところで、御琴は何者かに口を手で塞がれた。《脳内魔導起機》の弱点の一つとして、魔法の名称を口に出さなければならないというものがある。つまり、口を塞がれてしまえば、魔法は使えない。


「〜〜〜っ!」


御琴の口を塞いだ人物はそのまま敵生物の死角となる場所まで連れ込み、手を放した。自由になった御琴は敵生物へ走ると思いきや、ふりかえってその人物に右ストレートをかます。だが、その人物はあっさり御琴の攻撃をひょいと避けた。御琴の戦闘の成績は、吉祥寺高校でもトップクラスだった。その御琴の攻撃を軽々と避けるということは、この人物も相当戦い慣れているのだろう。


「あんったどういうつもり……!? あいつ殺すなら絶好の機会だっただろーが!」
「おっと……まあまあ落ち着いて。たぶん、今発動しようとしたものじゃあいつは倒せないよ」
「倒せない……? 《脳内魔導起機》が効かないとでも言うのかよ?」
「《脳内魔導起機》……そうか、そっちではそう呼んでるのか」


一体何がしたいのか、「ふむふむ」と黙り込んでしまった。

クセのある栗色の髪に、目元だけを覆う特徴的なサングラス、「BORDER」と書かれた青いジャージ。余裕そうな笑みが、御琴の神経を逆なでする。

するとその時、背後でドン、という爆音が聞こえた。あの敵生物に気付かれたのだろうか。


「加速スイッチ」


パチンパチン、と指を鳴らし、呪い歌を再生する。


「魔剣スイッチ」


御琴は髪をとめていたヘアピンを外し、手に持った。ヘアピンの飾りが、しゃらりと揺れて音を鳴らす。そして、ヘアピンを中心にして、魔剣が形成される。魔剣スイッチは、触れたものを何でも魔剣へと変える魔法だ。だから、特別なものは何も要らない。

それに、


「暗殺特性」


魔剣スイッチには、ターゲットの弱点を自動で分析し、視覚投影するという機能もついていた。短期決戦型のアタッカーが好んでよく使う。あの馬鹿、有栖真之介も、好んで常に《脳内魔導起機》にセットしていた。

御琴が呟くと、すぐに弱点が御琴の目に視覚投影された。暗殺特性が指したものは、敵生物の口の中にある球体。


「つーかまーえたっ!」


事前に聞いていた加速スイッチの呪い歌の効果で、全身の筋肉が急激に活動する。思いきり地面を踏み込んでジャンプすると、簡単に敵生物の口元までたどり着けた。加速スイッチの効果は、ほんの一秒だけ。だが、そのほんの一秒で充分すぎるほどだ。

御琴は魔剣を構え、空中で振りかぶった。球体は綺麗に一刀両断、敵生物も消えたーーはずだった。

魔剣は、球体を切っていなかった。いや、切れなかった。球体はガチガチに固く、これで切れという方が無理がある。だが確かにこの球体は、この敵生物の弱点だったはずだ。暗殺特性で見つけた、唯一の欠陥。


「なんで、」
「だから言ったろ? それじゃあ倒せないって」
「っ、あんた……!」
「まあまあ見てなって」


そう言うと、先ほどの男性は敵生物へ向かって走っていってしまった。その手には、光る刀のようなものが握られている。あれがあの人の持っている魔法なのだろうか? しかし、あの人は右耳にも左耳にも《脳内魔導起機》をつけていなかった。

だが、その動きはとても速い。加速スイッチを使ったときの御琴には劣るが、おそらく、普段の御琴よりも格段に速いだろう。

そしてその男は、そのまあああっさりと敵生物を倒してしまった。弱点を狙わず、魔剣でさえ切れなかった体を、たったの一撃で。


「は……あんた、どういうことだよ……? ていうか、何者なわけ……?」
「ああ、そうだ。初めまして、おれは迅悠一」


にやりと笑って、サングラスを取った。


「実力派エリートです」


実力派エリート。エリート。ふと、華奢な身体に金髪のポニーテールが浮かんだ。そういえば、あの生意気なエリートお嬢様達は一体どうなっただろうか。


「あたしは、倉花御琴。なあ、迅悠一。あたし、さっきまで別の場所にいた気がするんだけど、何か知ってないか?」
「ああ、知ってる」


御琴は、目を見開いた。これでやっと、この奇妙な場所から帰れる。《脳内魔導起機》の効かない、戦えない世界なんて、まっぴらごめんだ。


「本当か!? なら、元の場所に帰れる方法を教え……」
「まあ、待て待て。少し長くなるから、続きは別の場所で話そう」


迅の提案に、御琴はしぶしぶ頷いた。


「じゃ、行こうか。おれらの玉狛支部に」
廃退した世界のレプリカ



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