「あーあ、どうしよっかな」


御琴は、玉狛支部の廊下の壁に寄り掛かっていた。近くの部屋からは、修が千佳を必死に説得する声が聞こえてくる。

事は数分前、千佳がボーダーに入りたいと言ったことが始まりだ。A級隊員になって、遠征に行って。そして、友人と兄を探したい。宇佐見や遊真の話を聞いて、よく考えて、自分と何度も何度も話し合って、そうして出した答えだ。


「……あたしは、どうすんだろうな」


パチン、パチンと、《脳内魔導起機》が起動しない程度に指を鳴らす。そして、次に、《脳内魔導起機》が起動するくらいの速度で指を鳴らす。


「ダイブスイッチ」


小さな声で、誰にも聞こえないように呟く。

今の魔法は、あらあじめ《脳内魔導起機》にセットされている魔法の一つだ。これとは対になるもので、脱出スイッチというものが存在する。ダイブスイッチは少女が出した迷宮に侵入する魔法だが、脱出スイッチは逆に迷宮から出る魔法。

本当に魔法が使える状況ならば、今頃御琴はすでに迷宮の中だ。だが、今は何も起こらない。それが、自分がこの世界とは全く違う存在なのだと、無理矢理再確認させられるようだった。

迷宮病を発病した少女に、プライバシーなどはない。なぜなら、彼女たちは災害として認定されてしまったのだから。出身、年齢、家族構成、家庭内での事情、最近の学校での様子など、本人が知られたくないことも全て、資料として迷宮に侵入する生徒たちに配られる。クズみたいな世界だ。


「やっぱあたし、近界民なんだ……」


あたしは、この世界の誰とも違う。

少しだけ泣きそうになって、御琴は壁に寄りかかったままその場にしゃがんだ。コツコツと床を歩くが聞こえ、御琴の前で止まった。顔を見られたくないのか、御琴は腕で顔を覆っている。

なんだよ、どっかあっち行け。

その人間が、ゆっくりと口を開いた。


「ぼんち揚食う?」
「…………はあ?」


あまりにも場違いな台詞に、御琴もつい言い返した。たっていたのは、やはり迅悠一。その手にはなぜか「ぼんち揚」と袋に書かれたスナック菓子を持っている。ボリボリと食べる音がうるさい。


「なんで迅悠一がここにいるんだよ」
「たまたま通りがかったら御琴が泣いてたから」
「泣いてねーし!」


ちなみに、たまたまではなくサイドエフェクトで御琴が泣く未来が見えたからここに来たのだが、それを今言う必要性は感じられない。御琴は吉祥寺高校のセーラー服についた汚れをはたいてから立つと、迅の横を通り抜けようとする。それを迅は止めない。
かわりに、


「違わないよ」


御琴の方を見ずに、迅は言った。今の彼女はきっと酷い顔で、見たら怒るだろうから。だから、見ない。
御琴は迅の言葉で、その場に立ち止まった。


「御琴は御琴だよ。ちょっと生まれる世界が違って、ちょっと人とは違う物を持っているだけ」


人とは違う物……《脳内魔導起機》のことだろうか? そういえば、あれはまだ宇佐美に預けているんだった。


「っていうか、人とは違うからひとりぼっちなんて言ったら、世界中ひとりぼっちで溢れるぞ。おれは未来が見えるし、遊真なんて年中トリオン体だから、誰とも同じ人なんていない。……でも、ひとりぼっちじゃないだろ?」


迅には玉狛支部のみんながいる。今日戦った青年は迅を毛嫌いしていたが、きっと本部にも迅を慕っている人はたくさんいるのだろう。遊真には、修と千佳がいる。誰よりも大切な、かけがえのない存在だ。


「……あたしも」


手を握りしめて、言う。


「あたしもそのなかに、入れるかな……?」


御琴の呟くに、迅は「大丈夫」とぽん、と肩を叩く。


「未来はもう、動き始めてる」


前を向くと、遊真、修、千佳の三人が駆け足ぎみに歩いてきていた。体力のない修が、少しだけ息を切らせて「倉花さん」と呼ぶ。


「おれたち、ボーダーでチーム組むことにしたんだよ」


修のとなりにいた遊真が、あまり話せない修のかわりに代弁した。しばらくすると修が「もう大丈夫だ、空閑」と言って一歩前に出る。


「倉花さんも、一緒にやりませんか」


修が、いつもとは少し違う真剣な表情でそう言葉を紡いだ。千佳はまさに緊張しているという顔で、遊真はこんなときでも笑っている。いや、こんなときだからこそ笑っている。すごく、キャラが濃い面子だ。この中のリーダーは、修に決定か。


「……ああ!」


思えば、こちらの世界に来てからこんなにも心地よく笑えたのは初めてだ。あたしも、大切な人たちの一部になれるのだろうか。記憶の隅にでもいい。誰かに覚えていてもらえる存在に、なれるのだろうか。

待ってろよ、みんな。絶対、無事に帰って見せるから。そんで絶対、またカラオケで馬鹿騒ぎしような。









「おう、遅かったな」


迅が、「御琴も一緒じゃないとチームを組まない」と言い出す未来を見てから数分後。4人は早速支部長室に向かった。几の上には、4人分の入隊、転属用の書類が乗せられている。あとは4人と、修と千佳は保護者のサインだけだ。


「迅さん……この未来が見えてたのか?」
「言っただろ? "楽しいことはたくさんある"って」


遊真に答えた迅は、続けて御琴に聞いた。


「一人じゃなかっただろ?」


御琴は笑う。


「……ああ」


御琴は故郷に帰るために。遊真は修と千佳を導くために。修は千佳を守るために。千佳は友人と兄を探しに行くために。


「たった今から、お前たちはチームだ。このチームでA級昇格、そして、遠征部隊選抜を目指す!」


あたしは絶対、帰るんだ。


「ああ、そうだ御琴。お前だけ、もうひとつサインして」
「……? 何だよこれ」
「お前の高校の転校手続き」
「はあ!? いいっての別に高校なんて!」


即座に御琴は断った。高校なんて行かなくていい。ボーダーで十分だ。第一、この幸せな世界の高校に馴染める自信がない。


「だけど、楽しめるもんは楽しめるうちに楽しんでおいたほうがいいぜ? その他諸々の細かい手続きは、林藤支部長に任せておけばいいからさ」


あ、これは断っても無駄なパターンだ。

「任せろ」とメガネを光らせる林藤支部長と、にやにや笑う迅に押され、御琴はしぶしぶサインとすることになった。

……高校、かあ。
透明な旅は始まったばかりだ



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