君の後ろの黒い影


 必須要請である“エリンの花”採取のためには、イストミア大森林を訪れる必要がある。アスティ達が人形兵器と交戦した場所は北サザーラント街道のはずれであるため、必須要請をこなすには一度セントアークまで引き返さなければならなかった。「この距離引き返すの……?」と億劫になるアスティの背を押しつつ、街を訪れたついでに任意要請の仔猫探しも終えた《Z組》は凶暴化したと言われる魔獣との戦闘も視野に入れて装備を整え、イストミア大森林までの街道を歩く。


「そういえば、さっきのお姉さん……」


 道中、襲い掛かる魔獣の相手をしながらもアスティの思考は先ほどの仔猫探しでの出来事にとらわれていた。……仔猫を探す道中で観光者らしき赤髪の女性に助言を貰ったのだが、妙にその女性と目が合う回数が多かった気がする。気のせいと言われれば否定する材料もないので、あくまでアスティ自身の主観によるものだ。けれども、《Z組》の先頭に立って会話をするユウナではなく、何故か後方にいるアスティの顔を見て話していたような気がしてならない。

 軽快な言動で、この辺りではあまり見ない服装に身を包んだ女性だった。その服装から外国人観光客だと予想したのだが、思えば今の時代は観光客でなくともこのエレボニアを訪れる人物はたくさんいる。彼女から明確な敵意は感じなかったため今のところ害のない人物だとは思いたいが、彼女のことがどうにもアスティの胸に小さなしこりを残していた。

 西サザーラント街道を暫く道なりに進むと、徐々に自然の景観が変わっていった。草原だった風景は木々の生い茂る樹海へと変化し、ここがイストミア大森林であることは一目で分かった。


「ここが、イストミア大森林……子供向けの絵本だと、こういう場所の泉とかに妖精が住んでたりしますよね」
「……確かに色々な言い伝えが残っていてもおかしくなさそうだ」
「ええ、僕も来たのは初めてでしたが……この雰囲気――“何か”出ても不思議じゃないかもしれませんね」


 ……クルト曰く、このイストミア大森林は魔女や吸血鬼といった存在の伝承が残されている場所だそうだ。聞いた当初はそれほど本気に受け取っていなかったのだが……この森の様子から、笑い飛ばすことは難しいと悟る。

 幻想的、という言葉が最適な場所であった。どこからか吹くやわらかくも清涼とした風が頬を撫でる。決して日向の多い場所ではないが、木漏れ日がキラキラと草花を照らし林道をきらびやかに飾っていた。

 けれど、そんな場所がなぜ観光地になっていないのかという疑問は瞬時に解決する。魔獣の集団は音もなく《Z組》に忍び寄り、その鋭い爪を振るった。当然読めていたアスティはその爪をいとも簡単に剣で受け止め、それを引き金に戦闘が開始される。幸い依頼人である司祭が懸念していた“凶暴化した魔獣”ではなかったものの、武器を収めたユウナがふと疑問を口にした。


「い、今の魔獣……ちょっと不思議じゃなかった?」
「……間違いない。どうやらこの森では“上位属性”が働いているらしいな」
「上位属性って、導力魔法オーバルアーツの特異種ですよね? 地水火風とは別の」
「ああ、大まかには今アスティが言った通りだ。霊的な場所――遺跡や霊脈の集まる場所などでは、時・空・幻の属性が働いている」


 分校に入学する前、レクターに聞いていたことがどうやら役に立ったようだ。当時は軽く聞き流す程度だったが、やはり知識はいつどんな場所で役に立つか分からない。次回からはもう少し真面目に聞いておこうと心に刻み、リィンの話に耳を傾ける。

 上位属性の他にも、このような場所では予想外の出来事が起こることがある。《戦術オーブメント》の不調でもないのにアーツが使用不可になってしまったり、突然意識を失ってしまったり、神隠しにでもあってしまったかのように姿が見えなくなったりすることだってある。何が起こっても万事対応できるのようにオーブメントの構成を見直し、《Z組》はエリンの花を求めて森林の奥へと足を進めた。


「あっ……もしかしてあれなんじゃない!?」


 ふとユウナが指をさした先には、風に揺れるラベンダーの花が咲いていた。青紫色の花弁や葉の形状は聞いていたエリンの花の特徴と一致している。


「それじゃあ採集してくるね」
「花に傷をつけないようお気をつけて」
「わかってるよアルティナ……私そんなガサツな女の子の印象なの……?」


 エリンの花は遠くからでも穏やかな香りを漂わせていた。司祭は安眠効果のある薬の材料となると言っていたが、ポプリにしただけでも十分効能を得られそうだ。気持ちの落ち着く、静かな香り。その香りに包まれ――危機感までもが揺らいでいた。


「アスティ、戻れ!」
「……え?」


 リィンの緊迫した叫びで足を止めたアスティの頭上に、ふと影が差した。突然遮られた日の光にアスティは視線を上にずらす。 

 魔獣の脚が、すぐそこにまで迫っていた。蜘蛛型の魔獣はアスティの肢体を食らいつくそうと大きく口を開け、空中から飛びかかる。咄嗟に反撃しようとするも、それが間に合わないことなど明白であった。数秒後に来るであろう痛みに備えて、アスティは歯を食いしばる。後方からアスティの名を呼ぶ悲鳴が鼓膜を振るわせ、目を細めた。


「させるか――!」


 魔獣の黒一色であった視界が瞬時にして真っ白へと変わり、アスティは目を見開いた。白のコートを揺らして太刀を構え、リィンがアスティをかばうように魔獣と対峙している。己をかばった彼の名を呼ぼうと口を開くが、その声が発せられたのは魔獣の脚が彼の肢体に食い込むのよりも後だった。


「リィン教官ッ!」


 アスティの悲鳴が響くと同時にリィンは苦痛に顔を歪ませ、白い外套に赤い染みを作る。そして次の瞬間――瞬きの隙間を縫って、彼は忽然と姿を消した。唖然として彼の立っていた場所を注視し、これでもかと目を見開いて瞳を揺らす。

 食われた? いいや、この一瞬で、この魔獣が、血液の一滴も零さずに成人男性一人を丸飲みにできるはずがない。ではなぜ彼は突然姿を消したのだろうか? その疑問にたどり着いた時、この森林に入ったばかりの時にリィン自身が話していたことを思い出す。

 ……上位属性が働くまでの場では、不思議な事象が起こることがある。それは突発的にアーツが使えなくなることや、突然意識が遠のいてしまうこと――まるで神隠しにでもあったかのように姿が見えなくなってしまうことも起こりえる。


「きょう、かん」


 突然消えた獲物に困惑する魔獣を前に、大量の汗を流してアスティが立ち尽くす。

 教官が消えた。……私の身代わりになって。

 心臓の鼓動が速まり、息が荒くなる。目の前で大切な人が消えたという衝撃が脳を揺さぶり、がんがんと目頭を叩いた。そして沸きあがったのは、ふつふつとした“怒り”だ。一体何が、教官を奪ったのか。それは問うまでもなく、目の前の――。


「しっかりするんだ、アスティ!」


 クルトが名を呼んだことで、アスティの意識は思考の渦から引っ張り上げられた。後方で他の《Z組》が、たった三人で魔獣相手に戦っている。そのうち一体の魔獣を切り伏せながら、クルトはさらに続けた。


「上位属性が働く場で姿を消した人は、二度と戻ってこなかったわけじゃない! 暫く経てばまた教官も姿を現すはずだ!」
「だから、あの人が帰ってくるまで……私たちで時間を稼ぐわよ、アスティ!」
「…………」


 息を切らしながらも、ユウナたちは懸命に魔獣の群れと対峙していた。アルティナはそんな二人の支援をしながら、《クラウ=ソラス》で魔獣の攻撃を防いでいる。

 同級生が、仲間が、こんなにも必死に足掻いているというのに、どうして自分だけ何もず棒立ちのままでいられようか。


「……わかった!」


 後悔するのも、懺悔するのも、今は後回した。この怒りの全てを、今は目の前の魔獣にぶつけよう。

 鞘から剣を引き抜き、蜘蛛の魔獣へ駆け出す。右脚からの攻撃は受け止めず左側へ跳んで回避。当然今度は左脚からの攻撃が来るため、今度は上へ跳んで衝撃から逃れる。多くの脚を使って止まることのない穿刺をいとも簡単に回避し魔獣を翻弄していくアスティに、ユウナがまるで別人のようだと声を漏らす。

 勉強が分からないと己に泣きついてきたアスティの姿と、魔獣を仕留めんと鷹のように鋭い瞳で魔獣との攻防を繰り広げるアスティ。どちらかが偽りというわけではなく、どちらもアスティ本人であるということはとっくに理解している。けれど、失った記憶もしかり彼女自身の二面性もしかり、アスティ・コールリッジという底の見えない箱に自ら手を突っ込んで中身を探ってしまっているような気がして――それがほんの少しだけ、怖かった。

 次の瞬間、アスティの刃が魔獣に届いて胴体を真っ二つに切り裂く。アスティがほっと一息ついたのも束の間、すぐにユウナたちの応援に行こうとアーツを使用する。


「《ARCUS》駆動……!」


 だがそれは、致命的なミスだった。

 後方で支援を行うアルティナの背後に魔獣が迫っていると気づいた時には、もう既に《ARCUSU》を駆動した後で……今駆動解除して駆け寄ったとしても、アルティナの身体に魔獣の鋭利な脚が届く方が先だろう。アルティナの近くにいるユウナもクルトも目の前の魔獣の相手で精いっぱいで、アルティナに忍び寄る魔獣に気づいている様子はない。おそらく、アルティナ自身も。

 遠距離アーツという選択肢を取ってしまったことを悔やんだ。攻撃アーツを放っても遅い。駆動解除しても遅い。どうすれば、と顔を歪ませたとき、熱が通り抜けた。


「――緋空斬!」


 熱波、と言っても良いかもしれない。熱き炎をまとった斬撃はアスティの隣を通り抜け、アルティナの背後の魔獣に魔獣に命中した。元々かなり弱っていた魔獣はその一撃だけで地に付すこととなり、それによってようやく事態に気づいたアルティナが背後を確認する。

 この技を使えるのは、この中では一人しかいない。


「……リィン教官!」
「! アスティ、無事だったか」


 白の外套に赤い染みは残っているが、その姿は幾ばくか前に姿を消したリィンそのままの姿だ。抱き着きたい衝動を抑え、アスティはリィンに駆け寄る。丁度他の《Z組》も戦闘を終えたようで、再び現れたリィンの姿に目を見開きながらもアスティと同じように無事を喜んだ。


「リィン教官、ご無事ですか!? ああいえ、腕に怪我してますもんね! 全然無事なはずないですよね!?」
「と、とりあえず落ち着いてくれアスティ。……状況は大体理解しているよ。大事な時に消えてしまってすまない」
「! そんな、私の方こそ……私が突っ走ってしまったせいで、リィン教官が身代わりに……」
「いや、生徒の身を守るのは教官として当然の行いだ。君に怪我がなくて本当に良かった」


 真正面からそう言葉を投げかけられて、思わず「へ、」とたじろいでしまった。おそらく本人は無自覚なのだろうが、その整った顔立ちと棘のない低温でそのような台詞を言われてしまっては、大抵の女の子は即落ちてしまうのではないだろうか。何に、とはあえて明言しないでおくが、そういえば《灰色の騎士》の女性関係の噂はあまり聞いたことがないなと考える。もしも彼が学生時代からこのような性格であったとしたのなら、おそらく彼の旧友の女性はさぞ苦労したことだろう。

 リィン曰く、今回のような突然人が消える現象は2年前の内戦でも経験していたらしい。アルティナがリィンの怪我を回復アーツで癒し終わると、自分の不在でもよく対応できたなと《Z組》の行動を称賛する。褒められた照れ隠しなのかユウナはそっぽを向いて「これくらい当然です!」と突っぱねた様子だったが、存外まんざらでもなさそうである。

 《Z組》全員の無事を確認し少しばかり休憩を挟むと、当初の目的であったエリンの花採集を再開した。


「……アスティ。君、妙に慣れてないか?」
「まあ、料理研究会で色々栽培してるっていうのもあるからね。後は……なんとなく直感で」


 エリンの花が咲いている場所にアスティとクルトがしゃがみ込むが、明らかにアスティの採集スピードはクルトのそれよりも格段に先を進んでいた。しかも単なる手抜きではなく、きちんと土をほろい落とし尚且つ花や茎に一切傷をつけないという徹底ぶりである。


「あっもしかしたら私、記憶喪失になる前は料理マスターだった説ありそうじゃない!?」
「……君がそう思いたいならそうするといい」
「けっ、クルトつめた〜い……」


 ……本当に、先程魔獣と戦っていた彼女と今の彼女は同一人物だろうか。まさか、二重人格者であったりしないだろうか。

 そんなことを考えつつ視線を拗ねるアスティに注ぐクルトだったが、「こんなところね」とユウナが口を開いたことで思考を中断する。皆採集したエリンの花を抱えて中央に集まり、まとめて袋に入れた。他にこの森に用もなく、長く滞在する必要はないと破断した一行はひとまずセントアークへ引き返すことに決める。


「よし、それじゃあ――っ……!?」


 街へ戻ろう、腰に手を当てたリィンの顔が、突如苦痛に歪んだ。そのまま心臓の辺りを抑えてうずくまるリィンの姿に生徒は驚愕し、真っ先にアスティが駆け寄ってリィンの隣にしゃがむ。それに続いてアルティナも駆け寄り、眉を八の字に下げてリィンの顔色を窺った。

 もしも、たった今異常現象に巻き込まれたせいで彼の身体に異変が起きているとしたら、それはアスティにも責任はある。リィンは生徒たちに心配をかけまいと「大丈夫だ」と呟きかけ……次の瞬間、はっと目を見開いた。それから数秒間、誰もいない筈の空間を見つめたままぼんやりと数回瞬きをし、周囲を見渡す。


「きょ、教官……? 大丈夫ですか……?」


 ああ、まさか脳に異常でも起こってしまったのだろうか。さっと血の気が引いて真っ青な顔でアスティがそう尋ねると、リィンは少し困惑気味に曖昧な返答をし、その場に立ち上がる。


「――すまない、少し躓いただけだ。それより……今、そこに誰かいたか?」
「へ……!?」
「それはどういう――」
「……僕たち五人以外、誰もいなかったと思いますが?」
「……教官、まさか、本当に頭おかしくなっちゃってたりしませんよね……?」


 思いがけないリィンの言葉に生徒間に動揺が走る。クルトが冷静に事実を述べると、「そうか……そうだよな」とまたしても意味深な呟きをし、リィンは瞳を伏せる。


「まあいい、とにかくセントアークに戻るとしよう」
「まあ良くないですー!? ちょっと、本当に、大丈夫なんですよね!? 信じていいんですよね!?」


 先ほどの一件があり過剰に反応してしまっているアスティに、リィンが苦笑いで身体の方は何も問題ないと告げた。


「この深い闇……何が現れるか判らないからな」
「だ、だからそういうことを言わないでくださいってば!」
「あの、リィン教官。そういうの今はやめてもらっていいですか。割とガチめに……!」


 心配が激しい怒りに変わりそうなほどに、アスティは心臓の辺りがばくばくと激しい音を鳴らしていた。騒ぐ女子生徒2人組にリィンはすまないと謝罪を述べると、クルトが先導してイストミア大森林を引き返す。その間ユウナはリィンについての不満を垂れ流し、アスティはこれまでにないほど大きな安堵の息をついた。

 歩き出したアスティたちの後ろでアルティナとリィンが何やら言葉を交わしているが、そこにわざわざ入っていくような野暮な真似はしない。しばらくして二人分の足音を後方に感じつつ、セントアークへの道のりはリィンへの愚痴大会と化したのだった。





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