ひだまりのワルツ


 己の名を呼ぶ少女の声に、リィンは足を止めて振り返った。普段顔を合わせる同級生よりも頭一つ分ほど低い視線がかち合うと、彼女はにっと歯を見せて笑顔をつくる。一体どうしたんだと尋ねたが、どうやらさほど重要な用事もなく、ただ歩いているのを目にしたから声をかけただけらしい。保護者の彼は何処へ行ったのやら、彼女だけがトリスタのベンチで何をすることもなくただ座っていた。

 暇だからついていって良いですかという彼女の申し出に、リィンは暫しの間思考を巡らせる。彼女についての事情は士官学院の関係者、特に彼女の保護者に近しい人物であれば誰でも知っていることだ。それに加え、幸い今日は自由行動日でもある。授業がないため、教官に相談すれば彼女一人くらいの立ち入りは認められそうなものだ。有事の際に備え、自分が監督役となれば良い話である。

 教官に打診してみようと話すと、彼女はぱあ、と顔に花を咲かせてベンチから立ち上がった。そしてリィンの傍へ駆け寄り、それじゃあ行きましょ、と制服の裾を引っ張った。伸びるからやめてくれと訴えれば、案外あっさりと手放してくれる。いたずら好きな幼子のような仕草にリィンは苦笑をこぼすと、丁度その時、キュルルと腹の虫が鳴った。勿論、彼女の腹部からである。

 ──今日は何を食べたんだ?
 ──ゼリー一個。
 ──それじゃあすぐにお腹がすくだろう。成長期なんだから、朝はもう少ししっかり食べないと駄目だ。

 彼女の保護者よりもよっぽど保護者らしい言葉に、彼女は頬を膨らませる。別にこれくらい前は普通だったし、と反論しようと口を開いたが、再び腹の虫は何か飯をよこせと騒ぎ始めた。その様子にリィンは小さく吹き出すと、今の時間なら食堂が開いているから一緒に行こうと提案する。仕方ないなあと若干の羞恥心を隠しつつ、彼女は首を縦に振った。









 ピピ、と電子音が鳴って、意識が浮上した。布団を頭まですっぽりかぶった状態のアスティは右手だけを外へ伸ばし、手探りで目覚まし時計を掴んでアラームを止めた。が、完全に覚醒したとは言い切れない脳は“まだ寝れる”との甘い囁きを残し、アスティは脳内の悪魔に従うがままに右手を引っ込めた。

 何やら夢を見ていたような気がするが、この睡魔の前では全てがどうでも良いことだ。やわらかな布団の中で意識はゆっくりと沈み、そしてもう少しで完全な眠りに落ちるというところで──。


「アスティー! 起、き、な、さ、い!」


 布団が剥ぎ取られた。

 うぅ、と小さく唸って身を縮みこまらせ、冷たい外気から身を守ろうとする。せめてもの抵抗でほんの少しだけ布団を握って繋ぎとめていたが、その手もぺしっと叩かれあっけなく手放してしまう。


「ユウナ……あと、二分……」
「いつもの“あと五分”よりちょっとだけ謙虚になったのは褒めてあげるけどね……あんたの“あと何分”が、それっぽちの時間で終わるわけないってこっちは知ってるのよ!」


 交渉、もとい要望はあっさりと却下され、布団はもうベッドに寝転がっているアスティには手の届かないところまで追いやられてしまった。あんまりだと思いつつも、仕方ないのでベッドから起き上がる。のろのろとアスティが動き始めると、ユウナはやや呆れた様子で「全く、本当に寝坊助なんだから……」と苦言を残して部屋を出て行った。

 なぜ朝一番にユウナがアスティの部屋に現れたのかと言うと、それは地方演習から帰ってきた数日後に交わした、とある約束が理由である。

 アスティ・コールリッジは、とにかく朝に弱い。先日の地方演習中でも一日目の朝は寝坊しかけ、通常の授業の日でも朝のHR直前にギリギリで駆け込むことは数知れず、担任であるリィンにさりげなく指摘されることもあった。それを見かねたユウナが、自分が朝アスティの部屋まで起こしに行くことを提案してきたのだ。当然毎日とは行かないが、それによってアスティのHR駆け込み回数は大幅に減少している。報酬としてその日は缶ジュース一本をアスティが奢っているのだが、ほぼユウナの善意で成り立っている取引だった。

 朝食は小さなパンひとつで済ませ、制服に袖を通して部屋を出る。一階まで降りると、ユウナとアルティナが既に身支度を整えた状態で待っていた。おはようと声をかければ、アルティナはいつものぼんやりとした表情でおはようございますと返す。ユウナはため息をつきつつ、ちゃんと時間までに降りてきたアスティにほっとした様子で挨拶を交わした。そうして三人揃って寮を出ると、他愛もない話をしながら真っ直ぐに分校へと向かう。

 五月十三日。今日も、いつも通りの学生生活である。《Z組》が他の科と合同で授業を行うのは変わらず、五限と六限は男女に別れた選択授業であった。


「──それじゃあみんな、まずはレシピ通りに進めてね!」


 女子の授業は調理実習であった。トワが担当教官となって前に立ち、テーブルには人数分の調理器具と材料が配られる。人数の関係上アスティ、ユウナ、アルティナのテーブルにはティータ、ミュゼの二人が追加され、特務科・主計科の合同グループとなっていた。

 実家ではいつも料理をしていたと話すティータは五人の中でも最も手際が良く、泡だて器でボウルの中身をかき混ぜる工程もすんなりとクリアしている。おそらく彼女の料理スキルは、この分校内だと実家が宿宿場で同じ料理同好会のサンディと同等か、その次辺りには届くのではないだろうか。


「そういえば、アスティが兎を捕まえて料理同好会で飼い始めたって聞いたんだけど……」
「結構噂広まっちゃってる感じ? ま、別にいいんだけどね」


 ボウルをかき混ぜる手を止めずに、ユウナはふと思い出したようにアスティに声をかけた。同じ部活に所属しているティータは既に知っている、というよりも自分が理由の一つとなっているため、「あはは……」と苦笑いをこぼした。


「確か、アスティさんが兎を捕獲して自室に連れ込んだのは、地方演習の前であったと記憶していますが……地方演習の間は、その兎はどちらへ?」
「あの時はまだ兎小屋が完成してなかったからね……分校長のところに預けてたよ」
「え、分校長に!? アスティって、結構恐れ知らずなところあるっていうか……」
「私も駄目元だったんだけど、案外すんなり受け入れてくれたよ?」


 現在は小さな兎小屋が建てられ料理同好会が管理している菜園の隣で飼育されているが、それ以前のサザーラントでの地方演習中は、オーレリアの部屋で飼育されていたことにユウナは目を丸くした。だが、元々部活のなかった分校に部活動制度を設立するよう掛け合い、私財を投じてまで強引に部活動制度を認めさせた分校長の事である。彼女の器の広さを考えれば、そう言いだしてもおかしくはない、と妙な納得をする。

 当の兎はというと、貴族階級の元で数日間暮らしすっかり野生を忘れてしまっているかと思いきや、返って野生の勘が研ぎ澄まされていたことにはアスティも驚きを隠せなかった。本来であれば“狩られる側”であるはずの兎に王者の風格が漂っていたのだから、オーレリアの飼育がどのようなものであり、一体あの兎はどのような生活を送っていたのか疑問は尽きないが、それを彼女に尋ねても具体的な返答は返ってこなかった。つくづく謎の多い、規格外な人物である。


「なんか、食べづらくなっちゃったなぁあの兎……」
「た、食べようとしてたわけ……?」


 ユウナが若干顔を引きつらせながらアスティに突っ込みを飛ばしている間にも、調理実習は着々と進んでいた。ティータはボウルの中身をかき混ぜ終わり、アスティ、ユウナもあと少しで終了しそうなところまでは到達している。


「むむ、これは私も負けてられませんね……リィン教官に美味しいものを召し上がっていただくためにも」


 ふふ、と語尾にハートマークがつきそうな笑みを浮かべるミュゼに、ユウナは「アンタねぇ……」と言葉を漏らした。彼女がリィンの熱烈なファンであることは、分校の生徒であれば大体は知っていることだ。冗談交じりなアプローチであるために「どこまでが本気なのか分からないのが恐ろしい」という声もあるが、おそらくリィンを気に入っているという部分は本当なのだろう。


「もっとも教官を慕っている人は数多くいる様子……せめて今は頭の片隅に留めてもらえるだけでも十分ですけど」
「フン……確かに有名人だし、そりゃあモテるんでしょうけど」
「でも、リィン教官の女性関係はあまり聞いたことはありませんね。《旧Z組》の方々とはかなり親密な様子でしたけど」
「ラウラさんとはあつーいハグをしてたもんね、教官」


 話題はアスティの兎から、リィンの女性関係の話へと推移していた。男女の関係というものは女子同士の話題の定番であるがゆえに、その熱は先ほどよりもやや上がりつつある。その話題の中心が自分達の教官で、尚且つ世間的にも注目度がある《灰色の騎士》であるならばなおさら。

 リィンの女性関係という言葉で真っ先に思いつくのは、サザーラントで出会ったラウラとフィーの二名だ。特にラウラは再会するなり生徒たちの目の前で熱い抱擁を交わし、一瞬リィンと彼女は恋人関係なのではと思ったほどである。


「あの格好いいラウラさんやメチャクチャ可愛いフィーさんとあんな風に親密にしてるなんて……エリオットっていう人も可愛いし、恵まれすぎでしょ、あの人!」
「落ち着いてください、ユウナさん」
「ユウナ、最後はちょっと暴走しすぎ……」
「あ、それもアリですね! 乙女の嗜みという意味では!」
「ほら〜乙女の嗜み警察来ちゃったじゃん……」


 主に“エリオット”という言葉に食い気味に乱入してきたミュゼに、今度はアスティが顔を引きつらせる番であった。ミュゼの言う“乙女の嗜み”をアスティは以前見たことがあるが、言い切ってしまえば、理解の範疇を越えていた。脳内に宇宙が広がったあの感覚を思い出し、それ以来ミュゼの前では嗜み、あるいはそれに類似するワードを言わないようにしているのだが、ユウナは見事言い当ててしまっていた。無自覚とは恐ろしいものだ。


「なになに、リィン教官の話?」
「あ、サンディ……って、みんな勢ぞろいで」


 気づけば、アスティたちのテーブルの周囲には他のテーブルで作業をしていた女子生徒たちも集まってきていた。ユウナたちが交わすリィンの話題に釣られて、作業を中断してやってきたらしい。初めはリィンの容姿についてあれやこれやと話が弾み、そこから他の男性教官へ、さらには男子生徒の話にまで話題が移り変わっていく。


「クルト君は反則かもね。女子より整ってるっていうか……カイリ君くらい可愛いタイプだと逆に妬ましくはないけど」


 男子生徒の話となると、その筆頭にあがるのはクルトであった。分校内では最も“眉目秀麗”という言葉が似合う彼──彼本人はそれを嫌がるのだが──を中心に、やれアッシュは、やれスタークは、やれシドニーは、と本人たちがこの場にいないことを良いことに好き勝手に話し始めている。さすがに可哀想に思えてきたところで歯止めに入ったのはトワであった。


「ほらほら、調理実習中だよ! そういう話は夜にお風呂あたりでしなさいっ!」
「──ふふ、それはそれとして。トワ教官とリィン教官ってどういうご関係なんでしょうか?」
「へっ……!?」


 反撃とばかりに華麗な手際でトワをも巻き込もうとするミュゼに、アスティは内心盛大な拍手を送った。どこまでも策士である彼女のことなのだから、この一言もきっと“わざと”発したのだろう。そのミュゼの策に乗せられたトワはあっという間に女子生徒たちの質問攻めに遭い、その余波を食らってしまったのがティータである。「赤髪の遊撃士さんとはどういう関係!?」とヒートアップする恋の話にティータはほんのり頬を赤く染め、下を向いた。


「……カオスですね」
「ミュゼ……あんた狙ってたでしょ?」
「ふふ、何のことでしょう?」
「怖……私、ミュゼだけは敵に回したくないなって思えたよ……」
「あら、そう思われてしまうのは心外です。私としては、アスティさんと情報局の例のあの殿方とのお話も気になるのですが」
「ひっ……勘弁してほしい……! マジでそういう関係じゃないから……っていうか何で知ってるの!?」


 ふふ、と妖艶な笑みを浮かべるミュゼは「たまたまお見掛けしまして」としか答えず、アスティを震え上がらせた。一体どこから見ていたのだろうか。ともかく、あのトワとティータの様になるのは嫌だ。彼女らには悪いが、ここはひっそりと隠れさせてもらおう。そしてミュゼにはあまり逆らわないようにしようと心に決め、アスティはかき混ぜ終わったボウルの中身を見てため息をついた。









「──お疲れ。今日も盛りだくさんだったな。初めての男女別授業もあったが結構新鮮だったんじゃないか?」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「えっと……」


 つい数十分ほど前のカオスの中心にいた人物は素知らぬ顔でアスティたちを労い、その姿に《Z組》女子勢は複雑な表情で見つめ返した。その思い空気にリィンは唯一の男子生徒であるクルトに「俺、何かやらかしたか?」と小声で尋ねるが、当のクルトは「知りませんよ……」と突き放すばかりである。どうやら女子の授業が大変盛り上がったらしいということは知っているが、それが何の話題であったのかは知らない様子だ。むしろクルトは知らない方が幸せであろうと、アスティは口を閉じて目を背ける。


「……フン、まあ教官自身に“そこまで”非があるわけじゃないし」
「本人の自覚が薄い以上、気にするだけ損かもしれません」
「無自覚っておそろしー……」


 ユウナ、アルティナ、アスティの反応にリィンは一度咳払いをして「まあいい」と仕切りなおすと、明日は自由行動日になると告げた。前回と同様に自由行動日明けの週はなかなかにハードなスケジュールな模様で、週明け直後が機甲兵教練、そして週末には二回目の《特別演習》が待っている。サザーラント州で《結社》が動き始めていると掴んだ以上、次の行先でも《結社》と衝突になる可能性は否めなかった。


「──ちなみに次も帝国政府の《要請》があったらリィン教官だけ別行動を?」
「そういえば……」
「実力不足は否定しませんが全く当てにされないのも……」
「…………」


 ふとアルティナが口にした言葉に、生徒たちの頭に不安がよぎる。思い返すのは前回の演習での出来事だ。演習地に置いて行かれ、命令違反をしてまでリィンを追いかけたこと。次の演習でも《結社》が現れるようなことがあり、そしてリィンが前回と同じように《Z組》を置いて《結社》を追いかけてしまうようなことがあれば、ユウナたちはまた同じことをするだろう。それでは、前回の演習と何も変わらなかった。

 「……正直に言わせてもらえば、君たちの身を案じてでもある」とリィンは口を開く。


「だが、入学して二ヵ月近く、君たちも鍛えられてきたようだ。確約まではできないが──次は協力してほしいと思っている」


 その言葉に、愁いを帯びていたユウナたちの表情はパッと明るくなった。言質は取ったと喜ぶユウナに、力を尽くしますと机の下で握った手に力を入れるクルト、呆然と瞳を揺らすアルティナ。その三名の様子を横から見て、アスティは「随分はしゃいじゃって」と笑った。

 その後、アルティナの号令をもってその日一日の授業が終了する。夕日が教室をオレンジ色に照らし、真っ直ぐとアスティの影が伸びていた。





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