春風の抜け殻


 ――そこは、自分の姿さえ見えない深い闇の中だ。

 目を開けていても閉じていても、映るものは黒一色で何も変わらない。次第に自分が瞳を開けているのか閉じているのかさえ分からなくなってくる。暑くもなく寒くもなく、感覚すらない。ようやくここが現実世界ではないのだと気づき始めた頃、暗闇の中に変化が起こった。

 自分の向いている方向に、が見えてきた。光の届かない場所のはずが、何故か檻があることだけは認識することができる。最初は小さなものであったがそれはどんどん大きくなり、はっきりとピントがあったところで檻が大きくなっているのではなく自分が檻に近づいているのだと分かった。

 ――檻の中で、何かが動く。人間ではない、と悟った。

 モヤに覆われた“それ”はもぞもぞと動いているものの、こちらに干渉する気はないとでも言うようにじっと動かずに自分を見つめている。対して、自分はその正体不明の物体に底知れない恐怖を抱いていた。

 なぜなら、その檻は最初からのだ。檻の中の“それ”はその気になればいつでも出てきて、自分の体に食らいつくことができる。

 檻の中の“それ”が獰猛であることは理解できた。命の危機に恐怖を感じない人間はいない。いるとすればそれは人間の生存本能を諦めたか、もしくは“生きたい”という望みそのものを捨て去った人物だけ。自分はそれら全てを捨てることなどできずに、未だ胸の中に大事に残している人間だ。

 だからどうか、檻の向こうの“それ”が出てくることがありませんようにと。まだ“それ”に飲み込まれたくはないと。自分は――アスティは祈ることしかできなかった。









「――アスティさん」
「――へ」


 意識が覚醒する。真っ先に目に飛び込んできたのは天井――ではなく、心配そうに眉を八の字に曲げたクラスメイトの顔である。それから、天井は見えるはずもない。なぜならアスティが寝ているのは二段ベッドの下段であり、アスティを覗き込んでいる彼女の背景に見えるものは部屋の天井ではなく二段ベッドの上段だ。


「……アルティナ? お、おはよう……? あれ、私今日も寝坊した?」
「おはようございます、アスティさん。いえ、起床時刻は過ぎていませんが……うなされている様子でしたので、つい」


 「ご迷惑でしたか?」と若干萎縮するアルティナに「いーや大丈夫、ありがとう」と礼を述べると、アスティはもぞもぞとベッドから起き上がった。

 リーヴスの寮とは違う風景。二段ベッドが二つだけというシンプルな部屋に泊まるのはこれで二度目だ。他でもない、トールズ士官学院第U分校専用特別装甲列車《デアフリンガー号》である。

 ガタガタと揺れる車窓に視線を移すと、木々や岩場が左から右へと高速で流れていく光景が目に飛び込んでくる。夜通し演習地へ向けて動いていた列車だが、朝を迎えてもなお目的地には到着していなかった。


「もしかして、結構山の中走ってる? この列車」
「一応街道のすぐ近くを走っているそうです。この位置からは街道は見えませんが」
「へえ、じゃあ意外と自然が豊かなところにあるんだねぇ、クロスベルって」


 立ち上がって窓の外を眺めてみたが、景色自体は大して変わらなかった。アルティナ曰くこの目の前に続く高台のすぐ向こう側に街道があるらしいが、この先も同じような景色が続きそうな雰囲気である。


「あ、アル。アスティ起こしてくれたの?」


 部屋のドアが開いてユウナが入ってくる。既に起きてシャワーを浴びていたらしい彼女の髪はまだほんのり濡れていて、肩にかかったタオルが滴る雫を受け止めていた。


「ちょ、完全に私が自力で起きられないみたいな言い方!」
「実際起きられないじゃない。普段から私かアルが起こしに行ってやっと起きるくせに」
「う、反論できない……! その節はどうもありがとうございます!」
「堂々と言えるような事ではないと思いますが」


 アルティナのジト目がアスティに直接突き刺さるが、そんな痛みには気付かないふりをしてトランクを漁る。あと数分で起床のアナウンスが放送されることだろう。時間に厳しいミハイルの怒号が飛ぶ前にと、アスティは制服を引っ張り出して身支度を始めた。

 ――五月二十日。数日前のセドリックの言葉通り、第U分校は毎月の特別演習としてリーヴスから遠く離れたクロスベルへと進んでいる。デアフリンガー号を用いた二回目の演習地がクロスベルだと聞いた直後は皆動揺していたが、実際に出発すれば案外冷静に動いている印象ではある。

 十数分後、列車が郊外の演習地に到着し、朝食とミーティングを終えると《Z組》の特務活動は早朝から開始された。大きな流れは前回のサザーラント州での演習と同様で、まずは第U分校の特別演習の開始を行政責任者に直接報告しに行かねばならない。その人物こそが、


「――それにしても、ルーファス総督との面会なんて」


 クルトが述べた通りの人物である。


「ハンサムでやり手って噂ですよね。……タイプじゃありませんけど」
「……私、あの人ちょっと苦手なんだよなぁ」
「え、教官はともかく、アスティも知り合いなの?」


 今や連日ラジオや新聞で取り上げられるほどの著名人である彼との面会が控えていると知り、アスティは少々困ったような顔で嫌悪を露わにした。《灰色の騎士》として帝国各地を回り帝国政府とも繋がりがあるリィンはルーファスとも既知の関係であることは予想していたが、アスティがかの総督と面識があるとはユウナやクルトも想像していなかったらしい。

 だが、リィンやアルティナからすれば理解はできることだった。アスティの後見人となっているのは帝国軍情報局のレクターと鉄道憲兵隊のクレアの二名である。彼らが一体どんな立ち位置にいて、さらにと繋がっているのか。それを考えると不思議な事ではないのだが……依然として、という疑問が尽きることはなかった。


「知り合いって言うほど気さくな関係じゃないよ。帝都にいた頃何回か顔を合わせただけだし」
「セドリック殿下に加えてルーファス総督閣下……一介の学生の知人にしては、錚々たる顔ぶれすぎる気もするが」
「普通、ただの貴族のお嬢様が皇太子様や総督と会う機会なんてないでしょ……」


 そんな貴族がいるとすれば、四大名門やその他上流階級の貴族に限定される。だが子爵の爵位を授かったヴァンダール家のクルトからしても、“コールリッジ”などという貴族の名は聞いたことも無い。皇族や四大名門と接点のある家の令嬢などすぐに噂好きな貴族の間で話題にはなっていそうなものだが。ならばいっそ貴族ではなく、貴族と対立の関係にある政治家の家の生まれだろうか。

 しかしクルトの考察も全て的外れである。何しろ、アスティには経歴が一切無い。半年前にベッドの上で目覚めたのが最初の記憶で、それ以降は帝国政府の膝の元与えられた名前、与えられた家、与えられた戸籍で暮らしてきた。目的も過去も、一切告げられないまま。

 通常ならばその時点で疑問に思う事なのだろう。後見人として面倒を見てくれているレクターやクレアに問い詰めたとしても不思議ではない。だがアスティがそのような行動に出たことは一度もない。“訊いても無駄だ”と、直感的に理解していたのだ。


「……ま、私の話は置いておくとして。そのルーファス総督、実際はどんな人なの?」
「怜悧な印象の方ですね。私が使われたのは短期間なので詳しい人柄までは知りませんが」


 アスティの問いに抽象的な回答を示したのはアルティナであった。だがその小さな口から飛び出した爆弾発言にアスティを含む事情を知らない生徒組は思わずどう反応して良いのか分からず、眉を下げて聞き返した。


「使われたって……今の情報局とは別にか?」
「アル……本当大丈夫なの?」
「ええ……? 内戦時の各種工作活動とカイエン公逮捕くらいですが。それと……」
「……? アルティナ?」
「……いえ。なんでもありません」


 言葉が途切れたアルティナの視線が一瞬だけアスティに向けられたが、すぐに逸らされる。不思議には思ったが現状あるだけの情報でその核心に迫れる自信はないため、気に留める程度でとどめておく。

 「……それってこの場で話しちゃってもいいわけ?」とユウナが呆れ顔で聞き直すが、アルティナとしては別に守秘義務があるわけではないから話しても問題ないことになるのだろう。もしも今の情報が帝国メディアのジャーナリストの耳に入りでもすれば大きな騒ぎになりそうだが。

 内戦の話は一度区切り周辺の地理に詳しいユウナが先頭となって演習地を出ると、湖沿いの街道に出た。


「……風光明媚な場所だな。大都会と聞いていたけど」
「ふふっ……帝国と同じく街から出たらこんなものよ」
「大きな湖……私初めて見た……!」


 まさに絶景とも言える湖を目の前にアスティは感嘆の声を漏らした。導力車や導力トラムに囲まれた近代的な大都市の中ではこのような広い湖など見ることはできない。写真や映像でしか見たことのない風景に気分を上げていると、ユウナが自慢げにエルム湖やミシュラムなどのガイドを始めた。


「――教官、それじゃあ街に向かいましょうか?」
「ああ、行くとするか」
「…………………………」


 ――やはり、何かおかしい。

 浮足立ったユウナの様子が普段と少し違う事に、アスティもクルトも、当然リィンも気が付いていた。彼女の一挙手一投足が、些細なを生んでいる。おそらく、彼女自身も無意識のうちに。


「彼女……ちょっと変じゃないですか?」
「いつもの元気が……なんか、空回りしてるような」
「……ああ。今はそっとしておくといい」


 出立前のオーレリアの言葉を思い出す。彼女はデアフリンガー号の前で、“何が合ってもおかしくはない”と生徒全員に告げた。冗談やはったりなどではなく、本気で。具体的には、前回のサザーラント州と同じように《結社》の存在を示唆するような発言であった。

 そしてユウナの出身地は他でもない、今現在踏みしめているクロスベルの地だ。思い入れのある自分の故郷に危機が迫っているかもしれないと暗に示され、それでも冷静を貫ける人間は数少ないだろう。少なくとも、単純かつ真っ直ぐに芯の通った性格であるユウナには無理な話だった。


「……それじゃ、ノリのわる〜い男性陣は放っておくとして。《Z組》女子旅しようよ、ユーウナ!」
「えっ、ちょっと、アスティ!?」
「ほらアルティナも!」
「いえ、私は別に……あっ」


 重い空気を打ち払うように、アスティは先を歩くユウナとアルティナの間に割り込んで腕を組んだ。突然のタックルにバランスを崩しかけたユウナだったが、アスティが腕を支えていたことによりなんとか持ち直す。


「あ、歩きにくい……っていうか、力強すぎじゃない!? 一体どこにそんな力があるのよ……!?」
「細かいことは気にしなくていーの! せっかくクロスベルに来たんだし、楽しまないと損じゃない?」
「一応、特務活動の一環で来ていることをお忘れなく」
「うう、アルティナ冷たい……」


 ぎゅう、とユウナとアルティナと密着して歩くアスティの姿はふらふらを覚束ないが、警戒心を完全に解いてしまっているかと聞かれれば答えは否である。両手をユウナ、アルティナと組んで揚々と歩いてはいるが、いざ魔獣の襲撃に遭えば即座に手を離して交戦できるだけの備えはしている。後方で仲睦まじい様子を眺めているリィンにもそれはすぐに分かった。

 ただユウナやアルティナを手を繋ぎたかったのではない。有事の際にはいつでもユウナのフォローに入れるように、そしてそれを本人に悟られないためにあえて子供のように振舞っているのだろう。

 あの様子では当分は大丈夫そうだな、とリィンは腰に手を当てた。幸い魔獣の方は自分とクルトの二人でなんとかできるレベルだ。ならばユウナの方はアスティに任せて、クルトには悪いが自分達は安全の確保に努めておこう。

 何よりも、ああいった友人同士の経験は必要だと思うのだ。ユウナにとってもアルティナにとっても、もちろんアスティにとっても。









「250アージュ……思った以上の高さだな」
「街道からも見えてたけど、近くで見るとますます大きく見えるねぇ」
「体積的には帝都の《バルフレイム宮》の方が大きいかもしれません。ですが高さにおいては間違いなく世界一になるかと」


 思わず見上げてしまう高さだが当然頂上ははるか遠くで肉眼でははっきり見えそうもない。今やクロスベルを象徴する施設の一つとなったオルキスタワーは、今日も変わらず街を見下ろしている。


「でも、結構朝早くなのにどうして人が多いんだろう……?」
「多分、というか間違いなく《視察団》が来るからだろうな」
「ああ、帝国からVIPが集まってくるっていう、あの……」


 視察団の来訪については、演習地発表と同時にミハイルによって説明されていた。共和国対策やテロ防止の為に一切の情報が伏せられているが、第U分校の演習と同日に帝国本土からの視察団がオルキスタワーを訪れ、ルーファス総督と共に会食を行うと。そのため、有事の際は第U分校も警備に参加して事の対処に当たる可能性があるとも。

 たいぶオブラートに包んで話してはいるが、おそらくクロスベルが選ばれたのはそれが一番の目的なのだろう。有事の際の第U分校……と言うよりは、有事の際の《灰色の騎士》が狙いだ。教官として第U分校に所属しているリィンをそのままクロスベルに引き寄せるのは難しい。だから第U分校の演習地をクロスベルにすることで、《灰色の騎士》をクロスベルに招くことにした――と、そんなシナリオなのだろう。一体誰が書いた脚本なのか、アスティの知る由もないが。

 オルキスタワーのエントランスへ足を踏み入れると、職員の案内でエレベーターへと通された。ガラス張りの扉からはタワーの外が一望でき、人や導力車がみるみるうちに米粒代まで小さくなっていく。


「でも、このタワーが出来てからクロスベルは変わったんだよね」


 下へ下へと遠ざかる街を見下ろして、ユウナがぽつりと呟いた。


「人気者だった市長が国際会議で独立を提案して……その後、強引に独立宣言をして帝国や共和国と全面対決をしたの。そんな事をしなければ今頃……」
「…………………………」


 それは、帝国では語られることのないクロスベルの歴史だ。アスティもクルトもアルティナも、初めて知った事実に目を丸くする。そんな話、帝国では一度たりともメディアに取り上げられることはなかった。当然のように教科書にも書かれることはなく、当時の状況を帝国に住む一般人が知る機会は皆無である。

 最上階への到着を知らせるチャイムが鳴り、《Z組》一行は再び職員の案内で執務室へと通された。


「……お久しぶりです」
「失礼します」
「ああ――二人とも久しぶりだ」


 広い執務室の中心で、男が一人椅子に腰かけている。ブロンドの髪は緩く結われ、宝石のように透き通ったスカイブルーの双眸はどの色にも染まることなくただ淡々とリィンに注がれていた。

 一言でいえば、“綺麗な人”なのだろう。――内面まで綺麗かどうかは、コメントを控えるが。

 リィンとアルティナから外された視線はユウナ、クルトを順に巡り、そしてアスティに止まった。ほんの少しだけ目を細めたが、すぐに再びユウナとクルトへと戻される。


「クロスベル州総督、ルーファス・アルバレアという。見知りおき願おうか、トールズ第U、新Z組の諸君」





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