まっすぐな道、歪んだ白線


 放課のチャイムが今日一日の授業の終了を知らせてすぐ、アスティは一人蔵書室へと向かっていた。

 蔵書室に入るとどうやら自分の他には誰もいないようで、ほっとしつつ中に入って本棚を見つめる。沢山の蔵書とまではいかないが、古い文学小説から最近の雑誌まで、ありとあらゆるジャンルのものが所蔵されていた。その中で歴史書、主に近代史のコーナーを覗いてみる。目当ての本はなかったがそれに限りなく近いものはあったので、手に取ってぱらぱらと目を通してみる。……が、数秒で表紙を閉じた。

 うん、やっぱりわからない。

 はあ、とため息をつくと、その本を大人しく棚に差し込んだ。


「アスティ?」
「わっ!?」


 突然背後から話しかけられて、ビクッと肩が跳ねる。一度差し込んだ本をひっかけてもう一度落とすところだったが、なんとか素早くキャッチすることはできた。


「すまない。驚かせてしまったな」
「リィン教官……! いえ、大丈夫です。こうして本も無事ですし」


 本についた埃を手で払って再度棚に差し込むアスティの傍ら、「いや、そういうことじゃないんだが……」とリィンが何かを言いたそうにしていたが、すぐに何でもないと言葉を消した。一瞬アスティの頭にクエスチョンマークが浮かんだが、そこまで気にすることでもないだろうとそのまま受け流す。

 「これは……歴史書か?」と本棚のジャンル区分けを見たリィンがそう尋ねる。アスティは苦笑いを浮かべながら、探してるのは近代のやつなんですけどね、と答えた。


「ほら、私って記憶があるのが大体半年前じゃないですか。目覚めてからはずっと、この分校に入るための勉強と戦闘技術ばっかり磨いてきたから……その、近代の文化とか、文明とか、そういうのにはかなり疎いというか……」


 わたわたとした様子で話すアスティに、リィンはなるほど、と顎に手を当てる。記憶喪失で失ったものは今までの経験や感情の記録といったものだけではなく、彼女の場合は一般教養も併せて白紙になってしまったのだろう。同時に、彼女が2週間前の実力テストで《灰色の騎士》の話題が出たとき、“時事的な話題は優先度が低い”と発言したことを思い出す。

 おそらく彼女の言う“優先度”というのは、意識が芽生えてから分校入学までの半年間で学習しなければならないものの優先度だろう。そして当然、彼女の場合その筆頭は一般教養だ。文字の読み書きから数学的な基礎知識まで、本来日曜学校で数年かけて習得するものを僅か半年で学習しなければならない。

 それに加えて、彼女の進学先として選ばれたのはここ《トールズ士官学院》だ。筆記試験のレベルも通常の高等学校よりも高いのは事実だが、何よりそれなりの戦闘力も重要になってくる。一般教養から高校入試、軍事学校で残れるだけの戦闘技術を全てたったの半年で習得しなければならないのだから、入試においてさほど重要視されない時事的な話題は学習内容として優先度が低くて当たり前だ。そして、それらを成し遂げ見事分校に入学した彼女の努力は、並大抵のものではなかっただろう。

 思案するリィンにアスティはふと彼が歴史学の担当教官であったことを思い出すと、「あ、教官の授業が分かりにくいとか、そういうのじゃなくてですね!」と慌てて弁解を述べる。


「勉学的な歴史っていうより、一般常識的な近代史を身に着けたいというか……そんな感じで……!」
「……そうだな。歴史と一言に言ってもその範囲は幅広いし、自分が学習したいと思う内容を見つけた方がいいだろう」


 俺も探してみるよと協力を申し出ると、彼女はありがとうございます、と顔をほころばせた。


「けど、ひとつ問題があって……」
「?」
「えっと、私、その……文字の読み書きがあんまり得意じゃないっていうか……小難しい内容だとさっぱり解読できないっていうか……」


 たどたどしく言葉を切りながら話すアスティに、そういえば彼女の提出する小テストはやけにスペルミスや文法ミスが多かったなと思い返す。事実、先程アスティが本を一瞬だけ開いてそのまま戻したのもそれが理由だった。一般教養を学びはしたが、半年で全て完璧にすることは到底かなわない。一応及第点が与えられる程度には身に着けているが、少し難解な単語や複雑な文法が頻出する本などは未だ内容を理解できる域に達していなかった。

 なら、とリィンが口を開きかけたところで、アスティでもリィンでもない第三者の声がかかった。


「クク、《灰色の騎士》様がこんなところで女子生徒と密会たァ、なかなか隅に置けないッスね」


 今朝聞いたばかりの声に、アスティは眉をひそめた。


「アッシュ……」
「……アッシュか。てっきり君は帰ったと思ったんだが」
「教官殿についさっき呼び出されてな」


 帰り際にレアな現場に出くわしたと話すアッシュに、誤解を生みかねない冗談はやめてくれとリィンが呆れ顔で話す。アッシュがこの場に現れたのも、偶然アスティとリィンを見つけたので茶化してやろうと寄っただけだ。あくまで目的はリィンであり、アスティ一人だけであれば問題なく素通りしていただろう。

 アッシュの視線が、リィンから彼の後ろの本棚へと移動する。アスティたちの会話は先ほどから耳に入ってきていたため、状況は把握していた。「お子様が読むにはその辺の棚はちと難しすぎやしねぇか?」と挑発的に述べると、アスティは眉間の皺をさらに濃くして「ご忠告どーも」とそっぽを向く。一触即発な雰囲気にさすがにリィンが止めようと口を開くが、その声は発せられるよりも先に「その左隣の棚、下から二段目」とアッシュが言葉を紡ぐ。


「え?」
「せいぜいそのレベルのがお似合いってモンだろ」


 アスティは一瞬きょとんとした顔でアッシュを見るが、すぐに言われた通りの棚を確認すると「あ」と声を上げた。


「雑誌……とまではいかないけど、専門書というよりは割と一般向け……日曜学校の上級生レベルかな……?」
「…………」


 一冊を本棚から抜き取ってぱらぱらとページをめくるアスティの傍らで、リィンはほんの少し目を見開いてアッシュを見る。彼の担当教官であるランドルフからは色々と手を焼いているという話を聞いていたのだが……存外面倒見の良い面もあるものだ。当の本人は「チッ……」とばつの悪そうな顔で目を逸らしているが。

 目的の本が見つかったことで上機嫌となったアスティがありがとうと口にすると、彼もほんの少し目を見開いたがすぐに深く眉間にしわを寄せた。なんだその態度はとまたもや不機嫌になりかけたその時、開いたままになっていた窓から突然風が吹き込んできた。三人ともほぼ同時に腕で顔を覆い、アスティが手を滑らせて本を床に落とす。

 風自体はすぐに収まり特に大きな問題はなかったが、アスティが落とした本が風に乗ってアッシュの足元まで移動していた。「あ、ごめん!」と駆け寄り、急いで本を拾う。

 そしてアスティが本の表紙から埃を払う時、袖の隙間からちらりと見えた傷跡に、アッシュは目を奪われた。


「テメェ……」
「!? え、何……?」


 彼女の腕を掴んだのは、ほぼ反射的だった。訳が分からずにぱちりと瞬きをする彼女を無視して、じっと彼女の腕を――正確には、袖に隠された傷跡を睨む。「やっぱりな」と呟いた彼の真意は分からない。無意識の間に力を込めてしまい痛がる様子を見せた彼女の姿に、リィンがさすがに止めようと「アッシュ、」と声をかけたのだが……その続きは、その直後に起こった異変によって発せられることなく終わった。

 アッシュの手から黒い“何か”が滲みだして、アスティの腕に吸収された。


「え……」


 ――殺せ。

 その言葉が、脳を埋め尽くした。禍々しく濁ったそれが彼女の体内に収まった瞬間、彼女が苦しそうに呻いてうずくまる。脳裏に響いたその言葉の意味も分からないまま、ただただ気持ち悪さと不快感だけが身体を支配する。同時にアッシュも頭を押さえて唸り、パッと手を離した。まるで磁石が反発するかのように互いの手が弾かれると、次第に黒いモヤも消えていく。


「アスティ! アッシュ!」


 リィンが肩で息をする両名に駆け寄り、うずくまるアスティの傍で膝をつく。徐々に息を整える彼女に大丈夫かと声をかけると、背中にやさしく手を置いた。アッシュはというと、同じように息を整えつつ考えるそぶりを見せた後、何も言わずにその場を足早に立ち去ってしまった。リィンが待てと呼び止めるが、背中は小さくなる一方だ。


「……はっ、……リィン教官……もう、大丈夫です」


 アスティはゆっくりと立ち上がり、スカートについた汚れを払う。


「アスティ。今のは一体……?」
「……わかりません。でも、“よくわからない力”が私に宿っているのは事実です」


 まさか、こういう事になるとは思っていませんでしたけどと彼女は悲しく微笑んだ。


「たまにあるんです。人の力じゃない、何か別の力が出てしまうことが。それが一体何なのか、私にもよく分からないんですけど」
「それは…………」


 唖然と彼女の顔を見つめる。人の力ではない、尋常ならざる力が彼女にも宿っている。それはまるで、己が持つ“例の力”に似ていると瞬間的に思ってしまった。確証はない。けれど、彼女も確実に何かが“混じって”いる。

 ユウナ達には言わないでくださいね、と彼女が笑った。約束する、と答えると、彼女は何でもないかのように立ち上がる。


「さて……すっかり長居してしまいましたし、私はそろそろ寮に帰ります」
「ああ……その、本当に大丈夫なのか?」
「あはは、教官さては心配性ですね? 大丈夫です、今はぴんぴんしてますから」


 「ああでも、この本貸し出しできるか分からないので一度返してきます」と本棚の奥に消えた少女をじっと見つめる。もしも彼女が己と同じ類の力をもってしまったとしたら、女神はどれだけ彼女のことを嫌っているのだろう。記憶喪失。謎の力。抱えている二つの問題を、彼女はどう受け止めて生きていかねばならないのだろうか。

 リィン教官、と声をかけられて、意識が引き寄せられた。本を返しに行っていたアスティが、心配そうにリィンを見上げている。教官の方こそ大丈夫ですかという声に大丈夫だと返すと、ふと本来の目的を思い出した。


「そうだ。君に渡したい物があったんだ」
「? なんでしょう」


 ポケットの中を探って、一冊の手帳を彼女に差し出した。元々、リィンが蔵書室へと足を運んだのは彼女にこれを渡すためだ。生徒手帳と書かれたそれの最初のページには、アスティの証明写真と《Z組》であることを証明する旨が書かれている。


「生徒手帳……」
「ああ。《Z組》の分だけ、準備の関係上用意するのが遅れてしまってな。後でユウナ達にも渡しに行こうと思ってたんだ」


 生徒手帳の、身分証明の部分を見入っていた。自分も《Z組》の一員であると認められたようで……そして何より、記憶が芽生えて初めて、アスティ・コールリッジという人物が存在することが証明されたことが、何よりも嬉しかったのだ。


「ありがとう、ございます」


 大事に、大事に。まるで世界一大切な宝物を貰ったかのように、アスティはそれをきゅ、と両手で握った。





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