撹拌される心音


 自由行動日。《トールズ士官学院》の伝統とされる授業のない休日。学院内の施設も全般的に使用可能となるため、自習をするのも鍛錬をするのも良し。申請をすれば帝都まで足を伸ばすこともできる。

 しかし今日……初回の自由行動日のみは、ある制限が設けられていた。部活決めである。

 本来分校に部活動は予定されていなかったが、オーレリアが無理矢理通したらしい。部員は二名から申請可能で、設立の許可が下りればどのような設備・機材でもすぐに手配してくれる。その代わり、部活に所属しない者は生徒会役員として分校長に奉仕させる――という分校長の意向だ。さすがに、あのオーレリアの小間使いはアスティには荷が重い。全力で避けなければならないが、そのためには今日中に所属する部活を決める必要があった。

 そして現在、午後三時。未だに部活は見つかっていない。


「やばい……」


 校門近くの花壇の端に座り込み、頭を抱える。この間にも多くの生徒が部活動を組み、申請書類にあれやこれやと書き込んでいるのだろうと考えると、ストレスから頭痛がアスティを襲った。

 何故このような時間まで部活が決まっていないのか。答えは簡単だ。単純に、午前中全ての時間を睡眠に費やしていたのである。

 連日の疲れがたまっていたこともあり、「まあ一、二時間くらい多く寝てもいいよね」と昨夜アラームをかけずに就寝。再び目を覚ました時には、一、二時間どころか三時間も四時間も寝過ごしていたのであった。急いで制服に着替え自由行動日の学院に足を運んでみたものの、やはり一度出遅れるとその後部活を探すのは非常に困難である。

 うーん、と首をかしげてみるが妙案は浮かばない。とりあえず、現段階でどのような部活が出来ているのかを探ってみて、興味を惹かれたらそこに入れてもらおうと立ち上がろうとしたその時。アスティのブーツに、何やら小さな振動が伝わった。気になって視線を足元に移すと、野生の兎がカリカリとアスティのブーツにかじりついている。


「こら君、私のブーツは食べ物じゃないよ」


 どうしてこんな場所に兎が、と思ったが、分校の周辺は非常に自然が豊かであるゆえ、迷い込んできたとしても不思議ではない。これ以上ブーツに傷をつけられるのも嫌なのでそっと兎を抱きかかえるて靴から引き離す。……が、すると兎は気分を悪くしたのか勢いよくアスティの手にかじりついた。「痛った!?」と反射的に手を離すと、兎はぴょんと素早く地面に着地、数歩下がって噛まれた箇所をさするアスティをじっと無表情で見つめている。その態度が無性に腹立たしい。

 このまま黙って引き下がるのも癪であるため、アスティは兎を捕獲しようと足を踏み出した。野生の動物の反射神経は人間のそれとは比較にならないため、兎はアスティの予備動作の段階で既に後ろに下がるため足に力を入れている。文字通りの脱兎となった兎はアスティとの距離を開け、そのまま逃亡に成功するかと思われた。

 一言で言ってしまえば、人間離れした速さだった。刹那の一瞬、瞳が赤く染まったアスティは兎に手を伸ばし、瞬きの間に兎を捕獲する。暴れる兎を抱きかかえてしゃがむが、すでに瞳は彼女自身の本来の色に戻っていた。


「こら、暴れない……!」


 周囲にアスティ以外の生徒はおらず、たかが兎相手に躍起になっている様子は見られることはなかったとほっと一息をつく。ついとっさに追いかけてしまったが、思い返せばなんともまあ恥ずかしい。

 すると兎がまたしてもアスティの手を噛み、再び痛覚が刺激された。


「痛っ!? 君ねえ、兎鍋にでもされたいのかな……!」
「へえ、兎鍋ねえ」


 突然耳元から聞こえた声に、兎を落とすかと思った。

 ここ2週間ほど聞くことのなかった懐かしい声に振り向くと、その男は「よぉ」と片手をあげて軽快な笑みを見せる。アスティは男の顔を認識すると、目を見開いて叫んだ。


「レクター!?」


 翠玉の瞳が細められ、アスティが一瞬にして血液が沸騰しそうなほどに体温が上昇した。

 どうして彼がここに。というよりも、今の、見られた……!?


「い、いつからそこに……」
「あー……お前さんがその兎追いかけ始めたあたり」


 完全に見られていた。

 ぶわ、と顔を真っ赤に染め、「いるなら一声かけてくれたっていいでしょ!」と憤慨するアスティにレクターが喉で笑う。「野生の小動物相手に随分躍起になってたじゃねぇか?」という言葉に、アスティはただただ羞恥に震えるしかなかった。そうした彼女の反応を楽しむために、あえて声をかけるタイミングを見計らっていたのだが。


「で、でも、どうしてレクターがここに? 教官たちに用事?」
「ああ、ちょっとした用件でな。今連れが一人来るから、そいつがきたら会議室まで案内してほしいんだが……」
「別にそれは構わないけど……」


 じっとレクターの顔を見つめる。嘘をついている様子は全くないし、今この場で嘘をつく必要性も全く感じないのだが、どうして今この時期に、情報局がこの《第U分校》に来たのかは少々気がかりではある。同じく情報局であるアルティナが在学していることと言い鉄道憲兵隊のミハイルが教官として赴任していることと言い、この《第U分校》には帝国政府による何らかの思惑が関係しているのはとっくにアスティも理解していたが……よりによってレクター・アランドール、帝国軍情報局特務少佐が直々に足を運ぶというのは一体どんな用件なのだろうか。それも、週明けの機甲兵訓練、そして来週末の特別演習を控えた今に。

 アスティの視線に気づいてかレクターが口を開いたとき、レクターの名を呼ぶ少女の声が耳に届いた。パステルブルーのショートカットを揺らしながら駆け足でこちらに向かってくる少女はレクターの隣に立つと、「あれ?」とアスティの顔を見て声に出す。


「もしかしてキミが、レクターが言ってたアスティ?」
「! 私の名前……知ってるってことは、君も情報局の?」
「うん! ボクはミリアム・オライオン! キミのことは、レクターやクレアからよく聞いてたよ!」
「……どんな話を聞いてたのかな一体…………」


 ニシシ、と笑う彼女はどう見てもアスティよりも年下であったが、レクターが否定しない以上彼女の言っていることは全て本当なのだろう。そもそも、同じクラスに所属するアルティナだってあの幼い年齢で情報局所属だった。帝国軍情報局についての詳細を知っているわけではないが、実力主義なところはあるのかもしれない。ミリアムの後半のセリフは少々気になったものの、とりあえずは彼らの仕事を優先しようと二人を校舎内へと案内した。

 正面玄関から会議室までの校舎内に生徒の影はなく、皆グラウンドや食堂など、部活設立に関係のある場所にとどまっている様子だった。客人を案内しているだけなのだから別に見られても問題はないのだが、ほっとしてしまうのは何故だろうか。扉の前で立ち止まり会議室はここだと伝えると、レクターは「おう、あんがとさん」とアスティに手を振った。「べ、別に……」と目を逸らすが、それが彼女の照れ隠しであることは彼にはバレバレである。

 扉を開けて勢いよくリィンに飛びつくミリアムの後姿を見てから、そっと扉を閉める。会議室の入り口からはリィンの姿しか見えなかったが、おそらく全職員が会議室に集合しているはずだ。アスティはただ来客を会議室まで案内した一生徒であり会議の内容を聞く資格などありはしないので、レクターとミリアムを見送ると来た道を戻った。

 その間ずっと兎を抱えっぱなしだったが、腕の中の兎はすっかり大人しくなっている。まあ兎鍋にするには大人しい方が丁度いいしな、と適当に撫でつつ校舎を出ると、主計科の女子生徒とすれ違った。互いに顔を見合わせ立ち止まると、その女子生徒の目はアスティの腕の中の兎にくぎ付けになる。


「か、かわいい……! アスティちゃん、どうしたんですかその兎さん……!」
「ティータ。これはほら、なんかノリで捕まえちゃって……今から締めに行こうと思って」
「…………え?」


 “締める”という言葉にティータは動きを止めると、「た、食べちゃうんですか……?」とおそるおそる聞いた。アスティはそれがさも当然のように「うん」と頷き、「兎鍋、一度作ってみたかったんだよね」と笑った。

 アスティは兎を殺して調理するという事に何の疑問も持たず、兎を食料として認識しているようだったが、ティータにとっての兎は食料というよりも愛玩動物という印象の方が強い。自分も生命活動を続けるために牛や豚の命を奪って生きているという事は重々理解していたが、この目の前の可愛らしい小さな命をいざ奪って食すというのはティータにも些かの抵抗感はあった。このままこの愛らしい兎が鍋となって出てきたとして、果たして自分はそれを喜べるだろうか、と暫くの間熟考し、やがて一つの結論に至る。


「……アスティちゃん。アスティちゃんは、もう入る部活決めました?」
「いいや、まだだけど……」
「あの、もしよかったら何ですけど、この兎さん。料理同好会で飼育しませんか……!?」


 それが、ティータがこの兎を救うために出した答えだった。“いずれ料理に使うために育てる”という名目で、この兎の命を繋ぎとめようという考えだ。「ほら、この兎さんちょっと痩せ気味ですし、鍋にするならもう少しふくよかになってからの方がいいと思ったんです……!」と補足をすると、アスティは目を輝かせた。

 その提案は、アスティにとってはメリットしかない。丸々と太った美味しい兎鍋が食べられ、兎鍋以外にも料理同好会という名目で料理の材料費が経費で落ちる。そして何より、一番の心配であった部活動に所属することができる。


「……ぜひ! お願いしたいな!」


 断る理由はなかった。

 ティータにとっては己が所属する部活の部員を増やすことができ、この兎の命を救うことができる。アスティにとっては分校長直属の雑用係という役割を回避し、この兎のより美味しく食すことができる。兎の命運を巡っては互いの思惑に矛盾はあれど、現段階での利害は一致していた。


「やったぁ! ありがとうございます、アスティちゃん!」


 ティータ曰く、他には彼女と同じ主計科のサンディと戦術科のフレディも料理同好会の部員となることが決まっているらしい。寮に帰ってから挨拶に行かねばなと思っていると、ティータの持っている端末のアラームが鳴った。それに彼女は「あっ」と声を上げると、アラームを切って申し訳なさそうに声をかけた。


「す、すみません。実はこの後、シュミット博士に呼び出されていて……続きは寮に帰ってからでもいいですか?」
「そうなんだ。私は今日一日暇だから全然大丈夫。いってらっしゃい」


 主計科でも、ティータだけは他の生徒とは少し違い、技術顧問のシュミットに弟子入りを志願していた。その関係で、彼女はよく格納庫やアインヘル小要塞に出入りをしている。二週間前、《Z組》の実力テストの際にナビゲーションをしてくれていたの彼女だ。

 駆け足でその場から立ち去るティータの後姿に手を振って送り出すと、腕の中の兎を撫でる。とりあえず、今日のところは自室で飼えないだろうか、この兎。









 分校長の好意で兎小屋を建設するまでの間だけは特例でアスティの部屋で飼育することが許されたので、兎の主な食料である干し草とペレットを兎と共に抱え、リーヴスの街を歩く。兎を抱えているのが物珍しいらしく、途中何人もの子供に捕まっては兎を撫でさせろという要求に答えていた。夕方になりやっと子供達も己の家へと帰宅をし始めたので、晴れて自由の身になったばかりである。

 リベール駅の前を通りがかると、つい数時間前に見た顔ぶれが並んでいた。いかにも帰る途中であったので、せめて挨拶をしておこうとその名を呼んだ。


「レクター!」
「! アスティ」


 アスティの声に、レクターが振り返った。ミリアムが共にいることは察しはついていたが、よく見るとリィンとアルティナも一緒である。レクターに駆け寄るアスティの姿にリィンは一瞬目を丸くし、「知り合いだったんですか?」とレクターに尋ねた。


「ああ、教官にはまだ話していませんでしたっけ。この人――レクターは、私がこの学校に入学するときに後見人になってくれた人です」
「後見人っつーか、色々根回ししただけだけどな。……つーか、その兎まだ持ってたのかよ」
「う、うるさいよレクター!」


 アスティとレクター。顔も容姿も全く違う二人の間は、強い絆で結ばれてることをリィンは瞬時に察した。だが同時に、アスティ・コールリッジという人間を巡っての帝国政府の動向に対しての疑問は一層強まる。内戦で姿を消した“あの少女”と同じ顔をしたアスティが、帝国軍情報局――それも、《鉄血の子供達》と深い関わりがあるとは。そんなリィンの心情を察してか、レクターは「ま、思うところがあるのは分かるけどな」と口にする。


「けどまあ、アスティこいつアスティこいつだ。そういうややこしい事情は今は抜きにして、ただの一生徒として頼むぜ、シュバルツァー」
「ええ。もちろんそのつもりです」


 レクターとリィンの言葉の意味はアスティには理解が及ばなかったが、「要は、うちの娘をよろしくお願いしますってことだよね!」とミリアムが笑顔で爆弾を投下した。「ミリアムさん!?」と驚嘆するアスティの隣で、レクターはため息をついて笑う。


「勘弁してくれよ。オレの娘ならもう少し上品になるように育てるわ」
「うぐ、上品さ……」
「ま、少なくとも兎を素手で捕まえるような真似はさせねぇわな」


 リィンとアルティナの視線がアスティの抱えている兎に注がれる。事情は知らないが彼女らの会話から何となく状況を察し、リィンは苦笑いを浮かべた。こうして見ていると、仲の良い兄妹のようだ。――兄妹、という単語に、些か複雑な感情はあるが。


「……そんじゃ、名残惜しいが俺たちはそろそろ退散させてもらうぜ」


 どうやら、そろそろレクターとミリアムの乗る列車が出るようだ。ミリアムはレクターの隣でリィンとアルティナに別れを告げると、アスティを見て「今度会う時はもうちょっとお話ししようね!」と笑った。「はい、また今度」と笑い返すと、ミリアムは一足先に駅のホームへと向かう。


「そんじゃーな。お前さんも、とちって怪我すんじゃねーぞ」
「しません。……レクターも、気を付けてね」
「おう。兎鍋楽しみにしてるわ」
「またその話題……まあ、そうだね。すっごく美味しいの作ってあげるから、期待しててよ」
「……ああ。またな」


 そうアスティが笑いかけると、レクターはほんの少しだけ目を見開いた。それからリィンを目を合わせると、くるりと振り向きミリアムの後を追う。ひらひらと手を振りながら駅の中へ消えるレクターを、アスティはじっと見届けた。





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