燃える霧の中

「レイチェル。それが貴様の名だ、月雲」


芥川の声が桜坂の脳内に木霊した。この男は一体、何を云っているのだろうか?


「違う。あたしは、桜坂月雲。レイチェルじゃないよ」
「あくまで、廃れた王座に膝をつくつもりか。滑稽だな」
「それも違うけど……君には一生理解できないよ」


特に動揺するわけでもなくただ無表情に芥川を見据える桜坂に、中島は少しの疑問を感じた。まず、レイチェルとは何なのか。芥川の話が本当だとすると、桜坂は自分に嘘をついていたのか。

「八咫烏」で影を放つが、芥川の「羅生門」が全てを喰らう。やはり、想定していたとおりだ。桜坂が必死に体術を学んでいた間に、芥川は必死に異能を鍛え上げてきている。異能を使った戦術において、桜坂は追い越すどころか、右に出ることすら出来ないだろう。


「月雲さん……レイチェルって……?」
「中島君が気にするほどでもない、くだらない話。で、あたしはここまで自分の異能で来たけど、帰りは国木田さんの迎えがないといけない。それまでここで芥川の相手をすることになる、け、ど」


「羅生門」が桜坂の左腕を掴み上げたのは、それと同時だった。足が着かない程度に浮かされ、ギリギリと腕を締め付けていく。じたばたと暴れてみたが、放す気配はない。

「月雲さん!」中島が桜坂を「羅生門」から引き離そうと駆け寄るが、その脚もまた「羅生門」に引きずられ、近くのコンテナに叩きつけられる。


「引渡しまでもう数刻もない。人生最後の船旅を楽しめ、人虎」
「断……る……」


中島が苦し紛れに答えると、芥川は中島の傷口を抉るように踏みつけた。芥川は細身でマフィア内でも非力な方だが、齢20並みの力はある。当然傷口が開き、シャツについた汚れは埃の灰色から一気に赤色に変わった。


「弱者に身の振りを決める権利など無い。死んで他者に道を譲れ」


芥川には、明らかな殺意があった。マフィアの任務など関係なく、ひとつの私怨が。それが芥川の中でどう形をつくっているのかはわからないが。

と、ここで桜坂の視界はゆっくりと閉じていく。「……ッ、糞……!」随分と多くに見える、黒と白。そこに、赤が加わった。赤と黒が、何かを話している。頭がクラクラして、重い。


「クレープ、おいしかった」


だが、そこでぱっちりと目が覚めたのを覚えている。桜坂は「八咫烏」で刃を向ける。やっと刃向かってきたかと「羅生門」は自らを守るように蜘蛛の巣を張り巡らすが、「八咫烏」が狙ったものは、「羅生門」ではなく、かといって芥川本人でもなく。

「羅生門」に捕らえられている、桜坂の、腕。


「……い……ッ……ぁああ!」


鋭い激痛が桜坂を襲い、その傷みに苦痛の悲鳴をあげる。掃除屋だった頃にある程度痛みには鳴らされていた――痛みは恐怖に繋がるため――が、あれとは規格外だ。それでも歯を血が出るのではないかを云うほど食いしばって着地をすると、後からボトッと自分で切り離した腕が落ちてきた。


「月雲さん、腕が……!」
「月雲……気でも狂ったか……っ」


流れるような動作で手首から先を拾うと、「八咫烏」を使用する。周囲の影が桜坂の左手を中心として集まり、やがて獣のような禍々しい左手を形成した。右手が太もものあたりまでなのに対し、左手は膝のあたりまでとバランスは悪いが、その巨大な手は戦闘には丁度良い。


「うん、血が流れてだいぶ頭がスッキリした」


準備運動として首をまげ、手を軽く振ってみる。異常は無い。「乱歩さんとの約束があるから、早めに帰んないといけないんだよね」芥川を見据えて笑う。


「それに、甘味は女の子の正義なんだから、それを奪う奴は問答無用で死罪決定なんだよ」


桜坂が「泉ちゃん!」と叫べば、船の一部が爆破した。あらかじめ泉が武器庫の爆弾を仕込んでいたのだ。


「逃げて!」


国木田が小舟で迎えに来ており、泉が叫ぶ。国木田の呼ぶ声にも押された中島は、とうとう背を向けて走り出した。行かせまいと芥川が「羅生門」を放とうとするが、「させない」と桜坂に入り込み、影の左手を振るう。


「貴様も逃げなければ死ぬぞ、月雲」
「別に? あたしは君が死んでくれれば、自分がどうなっても良いの。君を足止めして死ねたら、それはそれで本望だよね」


何処までも動かない桜坂の態度に、芥川は舌打ちをする。彼女を忌々しそうに睨み、泉の首に手をかけた。


「鏡花の身を案じるのならば、貴様もあの船に乗れ」
「そこまでしてあたしを逃がしたい理由は何? 真逆、ここまできて情でもかけるの? 裏切り者のくせに!」


ボウ、と影の左手が揺らめいた。手をぎゅっと握りしめ、仁王立ちで行く手を阻む。


「情けをかけるくらいなら死ね! そうじゃないなら、最初から何もするな!」
「……抗うつもりか、月雲」
「そうだよ! でも、あたしじゃ君に勝てない! 糞むかつくことに、いつもいつも、あたしの先を歩くのは君だった! だからっ……!」


左手でコンテナ数個を破壊し、周囲に破片をまき散らせる。無意識なのか、周辺の影も荒々しく波打っていた。


「だから、君を倒すのは、あたしじゃない!」


「中島君!」桜坂の頭上を飛び越えて、中島は走った。目にも泊まらぬ速さで泉を救出し、芥川の背後に立つ。

虎と黒獣。二つの攻防は、常人では間に立つことすら出来なかった。それは、桜坂も例外ではない。目を瞑り、視線を落とす。中島から預けられた泉を支え、ただ見ていることしか出来ない。

これで、良かったのだ。他人任せだと、云われるかもしれない。責任転嫁だと、云われるかもしれない。それでも、自分は芥川に勝てないのなら、こうするしかなかった。


「何故、見ない……!」


「月雲さんは、探偵社に入ってからずっと、お前だけを探していたんだ!」顔を上げる。あちこちから血を流し、ボロボロになりながらも、中島は叫んでいた。「中島君……」桜坂が声をこぼす。


「なのに何故、目を合わせない! 話を聞こうとしない! 何時まで意地を張っているつもりだ!」


ピクリ、と芥川が肩を揺らし、中島が走る。それは罠で、身体を「羅生門」に喰われようとも、その瞳を芥川から離すことはない。力の抜けた中島はそのまま海へ落ちると思っていた、が。


「虎の……尾!?」


「月下獣」によって生み出された虎の尾を芥川の身体に巻き付けて、手を伸ばす。


「……もう、中島君なんてよそよそしく呼べないなあ」


「ありがと、敦君」桜坂は「八咫烏」を使い、中島の右手に影を巻き付けた。異能と異能の複合技だ。断絶された空間が、音を立てて割れる。


「……芥川」


昔の、大好きだった友達。中島の雄叫びと同じ刻として、芥川の顔面に中島の虎化した腕が食い込む。虎化したときの中島の力はすさまじい。「羅生門」を使用する間もなく芥川は十数米ほど吹っ飛び、海へと落ちた。

だが体力の消耗が激しかった中島も、同様に意識を失う。「敦君!」桜坂が駆け寄ろうとするが、そのまえに目を覚ましたらしい泉が前に出る。


「……貴女は、逃げなくていいの」
「あたしはちょっとやることがあるからね」


「敦君をお願い」コクリと頷く泉の姿を確認すると、桜坂は船とは反対方向の、芥川が落ちた地点へ向かった。桜坂は、自分に吐きそうになった。情けをかけるなと叫んでおきながら、結局は自分が情けをかけてしまっているではないか。


「あたしが殺す前に死んだら、墓に毎日蜜柑の山供えてやるんだからね」


かつて彼が嫌いだと云っていた水菓子の名を口に出し、「八咫烏」を使用する。影は海に浮かぶ芥川の周囲をドームのように包み込み、小さな壁を作った。

最後の爆薬が爆発を起こし船が沈んだのは、それから数秒後の出来事だった。
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