散りばめて金平糖
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
一抹の不安を抱えながら事務所のドアを開けた中島を迎えたのは、メイド服を翻しながら微笑む桜坂だった。「え……月雲さん……?」と持っていた鞄を床に落とし、中島は目を丸くする。
奥の方では、泉がナオミに流されるままに椅子の上で高速回転をしていたり、谷崎に至っては携帯電話で写真を撮っている。そして案の上、泉もメイド服をまとっていた。
ワイワイと騒ぐ、やけに緊張感のない探偵社職員達を見て、中島はつい言葉を漏らしたのだった。
「何やってんすか」
「で……何がどうなったらこんな事に?」
「だって彼女何着ても似合うンだもの」
「や。そこではなくて」
すでにこの時点で、中島からは表情が消えていた。とりあえず泉も桜坂も普段着に着替えたが、あのメイド服の印象というものはなかなか消えてはくれない。
「月雲さんは違うよ−? あたしは乱歩さんに云われただけだもん」
「乱歩さんに……?」
中島を救出する際に、乱歩に云った言葉を復唱する。
中島を見つけ出した場合何でも一つ云うことを聞くというそれは、メイド服を着るという形で帰ってきた。桜坂にとっては予想外の結果だったが、着るだけならば問題は無いと二つ返事で頷いた桜坂の目には、若干の好奇心がうかがえる。そしていざ着てみた結果意外と楽しくなってきたらしく、冒頭の状態に至る。
「あれ、でも月雲さん、あの後一体どうやって帰ってきたんですか?船は爆発していたはずじゃあ……」
「ああ、敦君には説明してなかったんだっけ。あたしの異能の効果」
芥川に影の壁を施した直後、桜坂は『八咫烏』を使用した。『八咫烏』には影を操るという能力の他に、影を通じた移動ということができる。そのため爆発が起こる数秒前には一足先に探偵社に帰還することが出来たのだ。国木田もそうすることがわかっていたため特に捜索をするようなことはなかったし、むしろ帰還してからの方が地獄だった。
「えっと……地獄って……?」
「……そのうちわかるんじゃないかな」
そう遠い目をした桜坂は隣で淹れたての紅茶をすする与謝野に目をやる。パチリと目が合った瞬間ニタァと妙に寒気のする笑いを返されたので、即座に目をそらした。
与謝野の治療のおかげで長距離の移動による身体的負担はゼロに等しくなったが、精神的負担はしばらくとれそうにない。表情から全てを察した中島は、それ以上もう何も聞いてこなかった。
「でも、大丈夫なのでしょうか。彼女は一応殺人犯で……」
「……拙いかな」
「谷崎さん達が良くても、例えば乱歩さんなんて特にこの手の規則を気にするんじゃあ」
中島が不安げな顔で泉を見るが、「あ、それは大丈夫」と谷崎は笑顔で否定した。
「ただいまぁ〜!」
するとその時、大層ご機嫌な様子で江戸川が事務所に足を踏み入れた。噂をすれば何とやらとはよく云ったもので、バンと開かれたドアがその勢いのあまりゆらゆらと揺れている。
「乱歩さんが一番浮かれてるから」
「あのはしゃぎようで二十六歳なんてね〜」
わざわざ自分で駄菓子を買いに行き、泉に分け与える姿を見て中島は密かに小学生の兄妹を連想させた。ただ、この数秒後に泉が作った練り菓子を「でも食べるのは棒だけどね」とひょいと口に入れ、主にナオミから大批判を受けることになるのだが。
その後、泉と福沢の交渉が始まると、桜坂は静かに事務所を出た。出入り口からではなく『八咫烏』と使ったため、おそらく誰にも気付かれていないだろう。
理由はただ一つ、事務所の入ったビルヂングのすぐ横を、芥川の部下である樋口一葉が通ったからだ。
桜坂が樋口と対面したのは約一週間前のことだが、その時点ではあまり彼女にポートマフィアのような殺伐とした印象は抱かなかった。だがしかし、仮にそうだとしても彼女はれっきとしたポートマフィアの一員。また中島を狙う準備をしている可能性もあるため、放っておくわけにもいかないのだ。
「今度は何をコソコソと動き回ってるの?」
桜坂がそう背後から声をかけると、樋口は咄嗟に振り返り、銃口を桜坂へ向けた。拳銃を握る手はカタカタと震えており、よほど切羽詰まった状況なのか、額には汗がにじんでいる。
「貴方は……武装探偵社の……っ!」
「怖い怖い。そう睨まないでよ。今日は戦うつもりはないって」
「そっちが何もしないならね」両手を挙げホールドアップの体勢になりながら、桜坂は内心そう付け加える。樋口の武器は拳銃一丁。それに対して桜坂は異能力である。どちらが勝つかなど、戦う前からわかっていた。樋口は苦虫を噛み潰したような顔で、ゆっくりと手を下ろす。
「……で、君の目的は何? こーんなところで、何をしていたのかなあ」
「……芥川先輩が、拐かされました」
樋口の口から漏れた言葉に、桜坂は少しだけ目を見開く。だがすぐに元の表情に戻ると、「ふうん」と口元だけで弧を描いた。「で、芥川の容態は? あれだけの爆発で無傷ってことはないでしょう?」桜坂が聞く。
「……下顎骨剥離骨折 、前頭骨・胸椎裂離 、頸部靱帯損傷 、上腕・大腿筋断裂 、全身T度熱傷 ……そして、昏睡です」
「……わあ、結構大ピンチっぽい?」
船が爆破する直前、せめて死亡だけは避けさせてやろうと影の壁をつくったが、「死亡」が「限りなく死亡に近い重傷」になっただけであった。輸出船と云うことだけあって、相当の量の爆薬が積んであったのだろう。
「で、芥川が連れて行かれた場所は?」桜坂の問いに樋口は一瞬戸惑いながらも場所を伝えると、桜坂はくるりと後ろを向いた。
「待って下さい! 貴方は……貴方は、芥川先輩と旧知の仲ではないのですか!」
「だから、月雲さんに助けてもらおうって? やだなあ、冗談云わないでよ」
「別に死ねばいいんじゃない? どうなろうが、月雲さんの知ったことじゃないし」死んでくれればそれはそれで嬉しい、と桜坂はペラペラと喋る。「ならば一体何処へ……!」という樋口の悲痛な問いに、桜坂は振り返らずにひらりと手を振ると、その異能で狭い路地から姿を消したのだ。
樋口が芥川を奪還すべく拠点に乗り込んできたことは、すぐに全員に伝わった。さすがは国外の傭兵ということもあり、侵入者への対応も迅速である。応援部隊はすぐに呼ばれ、武装した大柄な男達が十数人で集団になり、薄暗い廊下を駆ける。「誰だ……?」誰が呟いたのかは判らない。だが確かに、男の目の前には一人の少女が立っていた。
「月雲さん的にはここで殺してもらってもよかったんだけど」
「自分で殺さないと気が済まないらしいんだよね」桜坂は溜め息を漏らす。
「ああ、自己紹介が遅れちゃったね。初めまして。あたしは桜坂月雲。以後よろし」
パァンという銃声が響き渡る。桜坂へ向けられた銃口から煙が糸のように空気を伝って上へ上へとあがり、静寂が満ちた。「酷いなあ、最後まで云わせてくれないなんて」しかも君の下手な攻撃のせいで、ブラウスが駄目になっちゃったんだけど、と桜坂は銃を持った男を睨み付けた。桜坂の着ている白いブラウスには、肩の辺りに軽く何かがかすった痕がついていた。薄く焦げているだけで一般的には「まだ着れる」と放っておかれそうなものだが、彼女は違う。
「こいつ……何故生きている……っ!」
おが放った弾丸は、確かに桜坂へと向かっていた。桜坂はただ『八咫烏』で、この弾丸の軌道上に刃を置いただけだ。その刃に自ら突っ込んでいった弾丸は桜坂へたどり着く前にまっぷたつに分断され、地面へ落ちる。ただそれだけの事だ。ただ、影を具現化している時間が極端に短かったため、たまたま男達の目にはとらえきれなかったようだが。
「基本武装探偵社で人殺しは厳禁なんだけど……今回はそっちから手を出してきたんだし、正当防衛ってことでいいよねえ」
まあ、今から月雲さんが殺したって云う証言者はいなくなるんだし。桜坂のその言葉は引き金となり、周囲には男達の断末魔の叫びが響き渡った。
「記念写真を撮りたいくらいのやられっぷりだねえ」
意識のない芥川に、桜坂はそっと語りかけた。顔色は先日会ったときよりもさらに悪くなっており、身体中包帯だらけだ。彼の元上司である太宰と良い勝負になるのではないだろうか。
扉の向こうからは、激しい銃撃戦の騒音が聞こえてくる。樋口の方にも応援が来たようで、決着がつくまではもうまもなくといったところだ。だとすれば、あまり此処に長居はできない。桜坂は芥川を刺激しないように、ゆっくりとその手に触れる。
「……良い部下を持ったね。命がけで助けに来てくれるなんて」
「少し前とは大違いだ」桜坂は笑うが、反応はない。ハイライトのない大きな瞳は見えず、瞼は閉じられたままだ。
「本当だったら今この場で殺しても良いんだけど、無抵抗の君を手にかけるのは、さすがにちょっと気分が悪いからね。見逃してあげる」
「だから、早く元気になってよね」銃撃戦の音が止んだのを確認すると、桜坂は『八咫烏』の影に身をくるむ。手を離す瞬間、芥川が手を握り返してくれたような気がしたのは、気のせいだろうか。
「おやすみ、芥川」
小さくひっそりと呟いたその言葉は、誰にも聞こえず闇に溶けて消えた。
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