記憶を亡くした雛鳥

「月雲。殺しに生き、殺しに死ぬ者」


いくつの頃の出来事だったのか、桜坂も覚えてはいない。しかし、こう何度も夢に出てくるということは、それほど記憶の隅に染みこんでいるのだろう。

遠くから聞こえる幼子の悲鳴に耳を塞ぐが、すぐに大人達によって両手を後ろで拘束されてしまう。そうなると嫌でも叫び声は耳の奥を突いてくるので、思わず桜坂は顔を歪めた。


「これに懲りたのならば、もう二度と親を捜そうなどと思わないことだ」


「お前は親に捨てられたのだ」大人達の一人が指をパチンと鳴らすと、それまで耳を劈いていたソプラノの声が、テレビの電源を消すかのようにプツンと止んだ。そう、死んだのだ。この理不尽な世界によって、その儚い命を散らしたのだ。

涙はもう、枯れ果てていた。









「同棲なんて聞いてませんよ!」


中島の叫びで、桜坂はハッと目を覚ました。パソコンを開いたまま机に突っ伏して寝てしまっていたらしく、首と腰が痛い。肩には見覚えのある外套がかけられており、おそらく職務中に居眠りしてしまっていたのだろう。

「部屋が足りなくてねえ」と陽気に笑う太宰に、被害者である中島はゼェゼェと呼吸を乱していた。「太宰さん」片手に丁寧に畳んだ外套を持ち、太宰に近づく。


「おや月雲、良いところに。実はね敦君。月雲も新人の頃は二人で一つの部屋を使っていたのだよ」
「え、そうなんですか。ちなみに誰と……?」


「私」太宰がニコニコとしながら自らを指さす。「そんな懐かしい話を引っ張り出さないでよー」桜坂が丁度太宰の机にあったファイルで彼の頭を叩いた。ちなみにそのファイルには堂々と「重要書類封入済 取扱注意」と赤字で書かれていたのだが、本人は全く気にしていないようだ。

一方中島は何を想像したのか半歩ずつ後ずさっていくが、全て事実なので弁解のしようも無い。唯一云えるのは、同棲中、巷で流行っているような恋愛小説の「れ」の文字もないような生活ばかり送っていたということだ。

太宰と桜坂はマフィアに所属していた頃からの知り合いだが、互いに上司と部下という間柄のせいか、恋愛に発展するようなものなど何一つ持ち合わせていなかった。それに加え、桜坂は立場上、中原の部下ということになっている。共に行動することもあったため、太宰と中原の言い争いを芥川と二人で斜め後ろから傍観していることの方が多かったのだ。

そして何より、太宰にとっては「彼」の存在のほうが大きかった。


「判らないかい敦君」


泉は現在、ポートマフィアに追われる身。それ故独り暮らしは危険だ。「君が守るんだ。大事な仕事だよ」肩に手を置いてぐっと親指を立てると、中島は「判りました!頑張ります!」と目を輝かせた。


「敦君って、案外チョロいよね」
「俺に云うな」


影で桜坂と国木田がそんな会話をしていたことを、中島は知らない。太宰はとっくに気付いていたが。


「おい太宰。早くマフィアに囚われていた件の報告書を出せ」
「好い事考えた! 国木田君じゃんけんしない?」
「自分で書け」


バチコーンッという効果音でもつきそうな笑顔で云うが、当然のごとく跳ね返される。


「月雲。ここにトランプがある」
「ええ、やだよ。太宰さんにトランプとかのゲーム系で勝てる気しないし。っていうか絶対イカサマでも何でも使うでしょ」


太宰が数枚のトランプを掲げてみせるが、桜坂は露骨に嫌そうな顔を見せてふいとそっぽを向いた。しかしその手は何故か国木田へと伸びていて、机に向かって座る国木田の背後に立って三つ編みをしている。一体何がしたいのか。国木田はそれで良いのか。中島一人だけが酷く困惑していたが、桜坂の自由奔放さ、もとい奇行は、探偵社ではすでに日常茶飯事と化していた。


「敦君。今日は君に報告書の書き方を教えようと思う」
「こ……この流れでですか?」


何とも云えぬ顔をする中島だったが、「君にも関わる話だよ」と太宰は云った。「君に懸賞金を懸けた黒幕の話だ」


「判ったんですか!?」


スッとマフィアから入手した書類を差し出す。


「出資者は『組合』と呼ばれる北米異能力者集団の団長だ」
「北米……外国なんだ」


芥川から告げられた桜坂の出身地と一致する。桜坂の本名は「レイチェル」だと聞いたが、今まで偽名である「桜坂月雲」で育てられてきた身としては、もうこちらが本名のようなものだ。よって、このことは探偵社に伝える必要は無い。出身地に関しては、聞かれたら答えれば良いだけの話だ。

国木田は組合のことを、まるで三文小説の悪玉だ、と云った。表向きは政財界や軍閥を担う一方で、裏では膨大な資金と異能力で謀を底巧む秘密結社。横浜で云うポートマフィアに似ているが、唯一違う点は、組合は一般的には都市伝説の類いのものとされていることだろう。


「た、大変です!」


すさまじい轟音が聞こえると同時に、谷崎が駆け込んできた。音自体はただのヘリコプターの音だが、その場所が事務所の入ったビルヂングの真横だったため、かなりの騒音となっている。ヘリは道路に着陸すると、中から一人の男性がアタッシュケースを持って降りてきた。


「先手を取られたね」

組合団長こと、フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド。彼がビルヂングに足を踏み入れるのは、それから数秒後の出来事である。









「会話、聞こえるの?」
「ちょっと待って……嗚呼、聞こえるよ」


客人と云うことでフィッツジェラルドは応接室に通されたが、会話の内容を聞くため扉に盗聴器を仕込む男が一人いた。太宰治だ。

「こんな事して、大丈夫なんでしょうか……」「大丈夫大丈夫、太宰さんだから」と小声で中島と桜坂が話していると、太宰が小型のスピーカーを持って二人に手招きをする。

応接室にいるのは、社長である福沢と茶を運びに行ったナオミ、そしてフィッツジェラルドとその部下二名の、計五名。扉一枚を隔てた程度では、音など簡単に伝わる。もしも扉の向こうから自分と同じ声で、同じ会話が聞こえてきたとしたら、盗聴をされていると云うことがバレてしまうのだ。

応接室から最も離れた会議室へと入り、スピーカーの電源を入れる。


「この会社を買いたい」
「……!」


もちろん、フィッツジェラルドの声だ。ただし彼は、この土地や社屋、社員にも一切興味は無い。あるのはただひとつ。


「『異能開業許可証』をよこせ」


異能開業許可証。異能者の集団が開業をする際、内務省異能特務課が発行した許可証が必要となる。それが、異能開業許可証だ。

だがしかし、これを発行するにはかなりの時間を要する。そのうえ異能特務課は、表向きには存在しないのだ。当然買収には応じなかったため、どうやら組合は、武装探偵社から許可証を買い取る方向に決めたらしい。中島に懸賞金を懸けたのは、この交渉を持ちかけるためだ。


「桜坂。賢治と共に、客人を送って差し上げろ」
「はいはーい」


手を国木田に向かってひらひらと振り、会議室を出る。出る直前、太宰の持っているスピーカーから「断る」の言葉が聞こえたため、ひとまずは安心だろう。コツコツと廊下を歩き、応接室の前で待つ。しばらくすると扉が開いたため、宮沢が「お送りします」と云った。


「明日の朝刊にメッセージを載せる。よく見ておけ親友」


「俺は欲しいものは必ず手に入れる」そう云い残し、フィッツジェラルドは応接室を出た。昇降機の扉を開き「どうぞ」と云うと、ぞろぞろと乗っていく。途中フィッツジェラルドの部下である赤髪の少女が「その帽子素敵ね」と宮沢に声をかけ、桜坂は少女に続いて昇降機に乗った。最後に宮沢が乗ると、扉が閉まる。


「失礼、お嬢さん。名前をお聞きしても?」


ふいに、フィッツジェラルドがそう尋ねた。ただの気まぐれだったのかもしれないし、何か考えが合ったのかもしれない。だがそんなことは桜坂には一切合切関係の無い話なので、「桜坂月雲です」とだけ云う。

すると、彼は少しだけ目を開いた。それもそうだろう、と桜坂は心の中でそう思う。

桜坂の外見は、日本人とはほど遠い。真っ白な肌に、キラキラと光る金髪。スカイブルーの瞳。それらは、欧米諸国の人々を連想させた。「ならば、出身は?」


「北米、とだけ聞いていますけど」


それを聞いて、彼は納得したように笑った。ここまでの桜坂の対応は、とても客人にするようなものではない。国木田が聞いたら怒られそうだなあ、とぼんやり考えていると、視界の端で、フィッツジェラルドが部下の少女に目配せしているのが判った。


「何を――」


桜坂が異能を発動させようとした瞬間。




彼女は、別の場所にいた。
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