カマイタチの傷口

「あれ、泉ちゃんに敦君」


そう呼ばれて、二人は振り返った。泉はまじまじと桜坂を見つめ、中島はその手に茶封筒を持っている。


「どしたの、二人で。デート?」
「いや、違いますよ……! 今から、鏡花ちゃんと仕事で出掛けてくるところです」
「お仕事か〜……なら、泉ちゃんにとっては初仕事じゃない? 探偵社内での」
「……必ず成功させる」


そのためだろうか。彼女から感じるこの焦燥は。早くマフィアから、殺しから足を洗いたいと願う気持ち。単に初仕事だから緊張しているだけかもしれないが、それ以外の色も混ざっているように見える。


「……ま、そんな固くならなくても大丈夫だって。見た感じただのお遣いっぽいし、社長も新人の女の子にそんな難しい仕事あげないでしょ」


そう云って桜坂は泉の頭をぽんぽんと撫でた。身長は桜坂の方が高く、しかも泉はかなり小柄な方に入るので、意外と頭は撫でやすい。


「……あなたは、もしかして」
「……?」


泉がはっとなにかに気づいたように桜坂を見上げたが、それ以上話す様子はなかった。桜坂はそんな彼女を不思議に思ったが、話さないのならばそれ以上追求する必要は無い。

「……そういえば」中島がふと、口を開いた。


「月雲さんの初仕事って、何だったんですか?」
「あたし? そうだなー……あたしの時は、太宰さんと二人で詐欺会社の証拠掴みに行くことだったと思う」


いやあの、普通に難しい仕事じゃないですか。さっきの鏡花ちゃんへの言葉は一体……?と中島は思ったが、口にすることはなかった。

あの時は本当に大変だった。まず目を離すと太宰が女性を口説きに行くので常に目を光らせている必要があったし、張り込みをすればいつの間にか太宰が猫と戯れ始める。

そのくせ重要な場面ではしっかりと活躍してくれるので、怒るに怒れないのだ。


「とりあえず、もう二度と太宰さんと仕事はしたくないと思ったね」
「……ご、ご愁傷様です」


光が消え、全てを諦めた瞳でそう告げると、中島は気まずそうに言葉をたじたじと紡いだ。

まあ、これが桜坂に、太宰は変わったと認めさせる一件にもなったのだが。


「じゃ、そういうことで、月雲さんはそろそろ行こうかな。泉ちゃんお仕事頑張って〜」
「あれ、月雲も何処か出掛けるんですか?」
「ふっふふ〜、ちょーっとデートにね」


デート。意図せずとも中島と鏡の声は揃った。普段ほぼ口にすることのない響きに目をぱちくりとさせると、二人は目を見開いた。

そんな新人二人の初心な反応に桜坂はしてやったりと口角を上げる。


「あと敦君、公園に美味しいクレープ屋さんがあるから、ちゃんと連れて行ってあげること!」


そう云って手を振ると、まるで「マジですか」とでも云っているような表情で手を振り返された。

女のコが落ち込んでいる時は、やはり甘いものが効果的だと思うのだ。これはエリス嬢の受け売りだが。









事務所を出た桜坂は大変ご機嫌そうに、鼻歌を歌いながら足音を弾ませていた。その姿はまるで恋人に会いに行くようだが、これから会いに行く相手は恋人という認識から外れていた。

目標を発見した桜坂は口元を吊り上げ──その小柄な背中に抱きついた。


「中也せーんぱいっ」


「痛って!」中原中也が背後の感触の正体を確認すると、「なんっで手前が此処にいるんだよ!?」と離れろと云わんばかりに桜坂の頭を押した。それに対し、「広津さんに聞きましたー」と桜坂は腕の力を強める。

中原の腕と桜坂の腕。当然中原の方が上なのだが、それが分かっていても手を抜くようなことはしない。

だが、「離、れ、ろ!」蹴りが飛んできたことは予想外だった。動体視力と反射神経は嫌という程鍛え上げられてきたので避けるのは容易いが、桜坂自身は不服そうに頬を膨らめる。


「酷い……レディを足蹴りするなんて」
「レディは出会い頭にタックルなんざしてこねぇよ」


ふてくされる桜坂に中原はデコピンを一発くらわせる。もっとも、中原が本気のデコピンを放ってたとすると、桜坂の額どころか脳にまで被害が及ぶのだが。元後輩、もとい教え子に意味もなく本気で暴力を振るうほど、中原も鬼ではない。


「……まあいい、手間が省けた。首領からの伝言だ。"お使い"に行ってくれだとよ」
「……"お使い"?」


数日後、森がある人物へと手紙を出す。その手紙を運んでほしいとのことだ。何せ森はポートマフィアの首領。相手も恐らくだが、存在を公に出せない人物だろう。

そのため、桜坂が選ばれた。桜坂の「八咫烏」ならば、どこにも証拠を残さず、かつ紛失のリスクを最大限までに減らせる。


「あの森先生が見返りもなしにペラペラと喋るはずがないとは思ってましたけど……まさか伝書鳩代わりとは」
「まあ、俺もそう思ったがよ……だが文句は言わせねえぞ? 手前はこっちの情報を聞いちまったんだ」
「ポートマフィアの合理主義は変わらないですよねぇ……別にそのくらい引き受けますけど」


やれやれ、と桜坂が掌を宇宙へ向けたその時、とある有名歌手の歌声とともに桜坂の携帯電話が振動した。すぐ隣にいるのは中原のため、一睡の躊躇もなく携帯電話を耳に当て、通話ボタンを押す。


「……っ、桜坂か。事務所近くの公園で敦と新人が襲われた。今すぐ来い」
「! すぐに向かいます」


電話越しに聞こえた国木田の声は酷く緊張感があり、おそらく彼も今現在現場に向かっているのだろう。


「それじゃあ中也先輩、あたしはこれで。ちょっくら後輩を助けに……」
「待て」


くるりと中原に背を向けた桜坂を、静かに呼び止める。先程の賑やかさはどこへ消えたのか、静寂だけが辺りを包んだ。


「もうひとつ首領からの伝言だ。……"ポートマフィアへ戻る気はないか"」
「っ!」


その言葉を聞いた瞬間、桜坂は形容しがたい痛みに苛まれた。記憶の中で忌み嫌われる光景の一つがフラッシュバックされる。


「……っ、馬鹿にしないで!」


バン、とビルヂングの壁を叩く、否、殴る。声を荒らげる桜坂の視線は、まるで仇でも見るように中原の瞳にすっぽりと収まった。


「あたしは、ポートマフィアが……あたしを捨てたヨコハマの裏社会が大っ嫌い」


蘇るはひとつのトラウマ。

背後に迫る黒は、突如として桜坂の身体を貫いた。なす術もなく重力に従った身体は地面に叩きつけられ、振り返ることすらも許されなかった。

理解などしたくなかったし、それを納得することを脳が拒否していた。だが、目の前に廃棄された瓦落多の山から覗く鏡の一部は、一寸の容赦もなく、ただありのままに事実だけを写し出した。




「──」




まるで生きているかのようにうごめく、その外套を──。


「手酷く捨てた犬が、ちょっと優しくしただけで戻ってくると思わないでください」


桜坂がそう言い放つと、意外にも中原はにやりと口角を釣り上げた。「……ま、手前はそういう奴だよな」などと、桜坂にはわけのわからない言葉を口にする。


「……ああでも、中也先輩は別ー! 月雲さんの中の好感度ランキング首位は、いつでも中也先輩ですからねー!」
「いいから早く行け」


そう云って中原はため息をつく。あの冷酷非道なポートマフィアに所属していたにも関わらず、何故この少女はこんなにも破天荒に育ったのか。そんな人物が他にも1人だけ思い浮かんだが、急いで思考を払拭した。よりにもよってあの自殺マニアが出てくるとは。

高級ブランドのスカートを翻し、桜坂は影と同化し、トプン、と沈んだ。

「八咫烏」の移動能力は、あくまで影を操る能力の延長線上にある、おまけ機能でしかない。桜坂は緊急時の移動方法として多用しているが、その分後日体力が著しく下がる特性がある。要は、体力を未来に前借りしているようなものだ。

それは移動距離などにも左右され、距離が長ければ長いほど、消費体力も大きくなる。今回の使用であれば、 半日はベッドから出られないくらいだろうか。

再び風を感じた桜坂の目に飛び込んできたのは、宙を舞う車だった。それも、かなりの高級車と見える。


「頭下げてくださーい」


宮沢のどうにも緊張感のない注意喚起にポートマフィアの黒服は警戒するが、まさか車が上空から降ってくること予想外だったのだろう。みっともなく取り乱しながら、次々と車の下敷きにされていった。

いつの間にか国木田も到着していたようで、中島に駆け寄る。桜坂はというと、何か策があるようにふふん、と笑って再び影に沈んだ。


「探偵社の毒虫め……鏡花にこれ以上毒の光を見せるな」
「……おい、桜坂。いい加減働け」
「仰せのままにっ」


中島と対峙するポートマフィアの幹部、尾崎紅葉率いる黒服達が銃口を探偵社3人に向けたその時。国木田の一言で桜坂はすぐに姿を現した。

……尾崎の影から。


「……っ!」
「"八咫烏"」


異能力によって生成された刀を振るう。低姿勢からの攻撃はいくら尾崎でも防げまい。そう思っていたのだが。


「"金色夜叉"!」


寸前で防がれた刃に、舌を打つ。


「流石はポートマフィアの幹部様。これでも傷つけられないなんて」
「汝は……確か掃除屋の」
「お久しぶりです、姐さん」


尾崎の異能"金色夜叉"と桜坂の刃が、ギチギチと音を立てる。やがてこのままではキリがないと悟った桜坂が引いた。


「そんなこんなで、月雲さんも参戦ってね! 敦君生きてる?」
「真面目に働け」
「あいたっ」


にわかには信じられない身体能力で後方へ跳んだ桜坂は中島の前で着地をすると、右手でピースをつくり、ウインクを飛ばした。心なしか周囲の影も楽しそうにうねっている。……直後に後頭部に直撃した衝撃──国木田の手帳なのでそこまでの威力はない──に、それらは一斉に静止したが。


「組織同士の全面戦争と云う訳か。この忙しい時に」
「でも、正直マフィア側に勝ち目は無さげだよねぇ? なんたって、四対一なんだし」


異能の戦いにおいて、非異能者にできる事は無い。いくら銃弾を浴びせようと、桜坂がすべて影で防ぐ。"金色夜叉"といえども、宮澤、中島の二人が相手では分が悪いだろう。

ポートマフィア、探偵社の間に静寂が走る。誰か一人でも動き出せば、それは開戦の狼煙だ。

その時。


「ワァ、タイミング最高」


両陣営の視線は、その言葉の主に注がれた。


「衝突一秒前って感じだ。あと少し遅く来れば楽できたのに」


現れたのは、二人の男だった。西洋の農夫のような若い男と、黒ずくめの大男。どちらも、この場で発言できるとい合うことは、どうにも一般人と云う訳ではないらしい。


「仕方ない。"組合"の給料分は仕事しますか」
「"組合"……!」


組合の男ががそう言ってから間もなく。上空から、"何か"が降ってきた。否、降りてきた、が正しいのか。

それが着地した瞬間、誰もが目を見張ったことだろう。人だ。人が降りてきた。四人それぞれ、こちらを見据えて悠然とそこに立っている。


「いかん! 撃て!」


尾崎が何かを察してすぐに砲撃を命令するが。


(あ、れ……?)


何故か、体が動かない。気づけば、桜坂の体は大量に血を流しながら血に伏せていた。他の探偵社員も、ポートマフィアも皆等しく、中には絶命している者もいるだろう。

そんな、まさか。ほんの一瞬のうちに、たったの六人に全滅させられたと云うのか。


(一体、どうやって──)


何故、どうして。その疑問だけを残し、桜坂の意識は闇に沈んだ。
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