マリオネットの幕開け
「痛い痛い痛ーいー!」
まるでお菓子を買ってもらえずにぐずるような子供の、もとい、桜坂の声が探偵社内に響く。隣では普段桜坂を諭す、あるいは諌める側の国木田や中島までもが机に突っ伏していた。
三人とも、先程の組合襲撃で大怪我を負ったはずだった。しかし、現在彼らの体には傷一つなく、むしろ輝いているようにも見える。
「なんだい、傷なら妾の異能で治ったはずじゃないか」
「痛い……心が痛い……」
「全く腑甲斐無いねェ。妾の能力が無きゃ今頃揃って土の下だよ」
「だからって目覚めた瞬間チェーンソーはショッキング映像すぎると思います……」
やれやれ、とため息をつきながら歩み寄る与謝野に、桜坂は弱々しく答えた。
与謝野の異能「君死給勿」はあらゆる外傷を完璧に回復させる、異能の中でも希少とされる治癒異能だ。しかし、治せるのは"瀕死の重症"のみ。この異能の発動条件によって、与謝野のチェーンソーが活躍することになるのである。
「特に月雲。あんたは最近能力使って移動しすぎだ。その疲労の原因の半分は、あんたにあるんだからね」
「うぐっ……言い返せない……!」
「八咫烏」での移動は体力を消費する。それは探偵社であれば誰もが知っていることであり、医者である与謝野にとって見過ごせることではない。与謝野の一喝を受けた桜坂は、バツが悪そうにそっぽを向いた。
「だってぇ……あれやると楽だし……走るのとかだるいし……服汚れるし……」などとぶつぶつ言っている分には、体調は元通りなのだろう。
「具合は如何だ」
「社長」
と、その時。突然の社長──もとい、福沢諭吉の登場により国木田は慌てて机から上体を起こし、愛用の眼鏡を手に取る。
「申し訳ありません、俺が居ながら」
「佳い。少し出る」
「……道中お気を付けて、社長」
「……分かっている」
国木田、桜坂の呼びかけに応じると、福沢はエレベーターへと向かった。
あと、ほんの数日。早ければ明日にでも、探偵社、ポートマフィア、組合の三つ巴抗争が幕を開ける。その準備に、誰も彼もが持ちきりだった。
「久しいな、掃除屋」
「お久しぶりです、尾崎幹部」
福沢が外出してから暫く。太宰、中島、桜坂の三人は捕縛したポートマフィアの幹部、尾崎紅葉の元へ足を運んでいた。目的はもちろん、この抗争でのポートマフィアの動きを探るため。幹部である尾崎がそう簡単に口を割るとも思えないが、そこは太宰に一任することとなった。
桜坂と尾崎はポートマフィア、そして中原中也という共通点はあれども、そこまで面識がある方ではない。何と言っても、尾崎はポートマフィア内でも古株である存在だ。一方桜坂は、掃除屋としてポートマフィアに貸与された身分。幹部と最下級構成員では、まず会うことすらも無いはずなのだ。
「……地獄を抜け出してまで目にした景色は、さぞ良いものであろうな」
「そりゃあもちろん、四方八方獄卒に囲まれたあの場所より、遥かに」
五大幹部を獄卒と罵る彼女。ポートマフィア時代ならば処刑は免れないほどの無礼であったが、そんな見え透いた嫌味にいちいち腹を立てる尾崎ではない。
「ふむ……それでは、中也も同じく獄卒であると申すのじゃな」
「! 違う違う! 中也先輩は別! マフィアに舞い降りた最後の天使だから!」
からかうように笑う尾崎に桜坂は慌てて訂正する。それを聞いて隣の太宰は思わず苦虫を噛み潰したような表情をするのだった。
……マフィア抜けても先輩呼びとか、あの帽子置きに懐き過ぎでしょ、この子。
「……童。鏡花は無事かえ」
「彼女は……行方知れずだ」
「貴女の所為だ」中島の憎しみを孕んだ視線が、尾崎に刺さる。貴女が襲撃さえしてこなければ。まるでそう言うように、彼女をじっと睨む。
しかし尾崎は、一瞬目を見開いたかと思えば、その口から漏れたのは覇気のない笑い声だった。
「何が可笑しい!」
激昂した中島はほぼ無意識のうちに、その異能力を発動させた。右手のおよそ肘あたりの所まで虎化が進んだところで、
「!」
太宰が彼の腕を掴む。「人間失格」によって無効化された虎化は瞬時に解け、真っ白な毛並みは普通の人間の皮膚へと戻る。
「彼女は私に任せ給え。君は外に」
「太宰さん」
「はいはい敦君、君はこっち」
それでも太宰に食い下がる中島を、桜坂は背に手を添えくるりとドアに向かせた。そのまま彼を押し、部屋の外へ導く。
……流石に尋問なんて見せらんないよなぁ。ちらりと太宰に視線をやると、彼はにこにこと微笑んだ。
「……掃除屋」
「なぁに、尾崎幹部?」
「……せいぜい組合には気をつけるのじゃな。おそらく、彼奴等がヨコハマに来た理由に、其方も入っているであろう」
「……ご忠告どーも」
尾崎の言葉に振り返らずにそう答えると、部屋の外へ出て扉を閉める。開閉時の衝撃が、床を伝って太宰まで届いた。
部屋の中で何やら太宰が話す声が聞こえ、桜坂はほっと息をついた。
……組合が自分を狙っている。理由はわからないが、それには薄々気づいていた。組合の赤毛の少女、ルーシー・モンゴメリは「フィッツジェラルドさんに個人的に頼まれた」と云っていた。しかし彼女の作戦が失敗に終わった今、組合は他の構成員も巻き込んで大々的に狙ってくるだろう。
しかし、フィッツジェラルドが何故こんなにも桜坂に執着するのかは不明だ。それさえ判明してしまえば、対抗策を打ち出せるかもしれないのだが。
「……月雲さん?」
「! どうした、敦君?」
「あ、いえ、顔色が良くなかったので、大丈夫かな、と……」
「大したことでもなくてすみません」中島が云う。
「……いやぁ、君は探偵社唯一の良心だよねえ。他の人達とか……」
「そんなことないですよ」
珍しく、中島は桜坂の言葉を切って云った。
「皆さん……国木田さんも、谷崎さんも、太宰さんも。皆、月雲さんを心配してるんです」
「だって、同じ探偵社の仲間ですから」何故だかわからないが、中島のその一言は、桜坂の心にストンと落ちてきた。ただ真っ直ぐに、正直に届いたのだ。
それから、ああ、良い後輩に恵まれたなぁ、とも思った。自分と一つしか違わないはずなのに、掻い潜ってきた困難はほぼ同じはずなのに、妙に、彼は先を進んでいると思うことがあるのだ。
「……そっか」
──それでも、私は。
「うーん、敦君は天然タラシの素質があるねぇ! どうどう? ちょーっと良い女の子とかいない?」
「なっ、何云ってるんですか……」
年頃の男の子らしくあたふたとする彼の後ろで、記憶の中の子供たちは私を指差していた。
昼と夜を繋ぐ武装探偵社。月夜を駆けるポートマフィア。掴み取るため来訪せし組合。
三組がそれぞれに思いを馳せながら、ヨコハマを舞台に、開戦の鐘は鳴り響いた。
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