そして天秤は傾いた

「ただいま帰りましたー!」


中島敦が正式に武装探偵社に入社した翌日。

ガチャリと扉の開く音が聞こえると、そこには一人の少女が満面の笑みで立っていた。色素の薄い茶髪は左下辺りで緩く束ねられ、ぱっちりとした空色の瞳はキラキラと輝いている。顔はどこか日本人離れしていて、どちらかというと西洋人に近い。手には有名菓子店の箱が握られていた。


「桜坂か。遅かったな」
「いやいやぁ、いくら天才美少女の月雲さんでも、出張行ってそんなに早くは戻れませんって」


「はい、これお土産」と少女が箱を差し出せば、真っ先に反応したのは江戸川だった。少女の手から箱を半ば奪うようにして受けとると、ごそごそと中身を漁っている。流石は自由人と云ったところだろう。事務員のナオミはこれを事前に察知してか、すでに皿とフォークは準備済みだった。


「あ、もしかして君が、太宰さんの云ってた新入り君?」
「えっ」


少女がふらふらと社内を歩き回っていると、突然中島の前で立ち止まった。数日前、上司である太宰に連れてこられた少年で、異能力「月下獣」の使い手でもある。


「あ、帰ってたのかい月雲」
「お、太宰さんお久しぶり」


つい先程まで「完全自殺」なるどこから買ってきたのかも怪しい本を斜め読みしていた太宰だったが、いつの間にか中島の背後に立って少女に話しかけている。その姿は国木田と話していたときよりも若干甘辛く感じたが、一体どのような関係なのだろうか?


「紹介しよう、敦君。彼女は桜坂月雲。しばらく出張でここを離れていたけれど、彼女もまた、立派な社員の一人だよ」
「初めまして初めまして〜。月雲さんと呼んでね」
「は、初めまして。中島……敦、です」


両手でブンブンと激しく振りながら握手をする桜坂に、中島は戸惑う。

年齢は十代後半だろうか。だとすれば中島と年齢はたいして変わらないが、その身長は中島よりもずいぶんと低く、その上腕も細い。孤児院出身でまともに体力も筋力もない彼だったが、それでも少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。

しばらくその奇妙な握手は続いていたが、「それで、中島君は何してたの?」と云う桜坂の純粋且つ素朴な疑問に全てを思い出した中島は、いままでの倍速と云っても過言ではないような早さで身支度を再開した。


「彼は今から、初仕事なのだよ」
「へぇ、どんな?」


つい数十分前、一人の女性が武装探偵社を訪れた。密輸業者が屯しているところへ行って張り込みをし、証拠を掴んでほしいとのことだったので、新人の初仕事には丁度良いと判断したのだろう。ただし、もしものときのために谷崎兄妹も一緒だ。


「月雲も一緒に行ったらどうだい? 久しぶりの仕事復帰だろう?」
「いや、出張だから仕事復帰ってわけでもないんだけど……太宰さんがそう云う時って、すごく怪しいんだよねぇ」


桜坂がジト目で太宰を見ても、太宰はニコニコと笑うばかりで何もわからない。「探偵社一の奇人」が代名詞である彼の考えていることなど、優れた読心術の使い手でも数分で音を上げるだろう。読み取ろうとする行為そのものが無駄なのだ。


「……ま、いいよ。天才は上司のお誘いを断るなんて真似はしないからね」


「中島君、同行者一人追加ね〜」と軽く手を振ると、「えっ!?」と云う反応が返ってきた。とりあえず今の段階で、中島はリアクションの大きいいじられキャラだと云うことが確定したので、これからさぞかし苦労することだろう。特に、彼の直属の上司である某自殺愛好家によって。









「えっと……月雲さん、は、探偵社に入る前は何をされていたんですか?」
「ん、あたし? え、聞いちゃう? 大人の階段上る気満々だね」
「いや……やっぱりいいです」
「あはは、冗談だって。あたしまだ成人してないし、大人も何もないもんね」


依頼人の女性に案内され、中島、桜坂、そして谷崎兄妹は、依頼内容にもあったビルヂングの裏手に向かっていた。現場を張るだけの仕事なので、戦闘員は桜坂一人である。


「実は、ある人に会うために探偵社に入ってて、そのある人が今いるところの、近くも遠くもない関係施設があたしの前の職場。おわかり?」
「なるほど。その人には、会ってどうするんですか?」
「そりゃ……」


桜坂の声は、依頼人の「着きました」と云う声によって遮られた。薄暗く、人目にもつきにくいこの路地裏は、確かに密輸にはもってこいな場所だ。だが、ひとつだけ腑に落ちない点がある。


「樋口さん。無法者と云うのは臆病な連中で――大抵取引場所に逃げ道を用意しておくモノです。でも此処はホラ」


路地の反対側は行き止まり。つまり、逃げ場などないのだ。


「その通りです」
「!? 真逆……」


それまでは割りと温和な雰囲気のあった樋口だったが、急に冷たいそれへと変わった。おろしていた髪は団子状に結い上げ、しめていたスーツのボタンは開けている。動きやすいよう、シャツの第一ボタンも一緒にだ。


「私の目的は、貴方がたです」


樋口はそう云うと、携帯電話に耳をあてる。極端にコール数が少ないため、相手も連絡を待っていたのだろう。


「芥川先輩? 予定通り捕らえました。これより処分します」


全身から、血の気が引いた。芥川と云えば、桜坂の中では一人しか思い付かない。芥川龍之介。ポートマフィアの構成員で、桜坂の元同僚。


「重畳。五分で向か――」


電話越しに聞こえた、芥川の声。だがそれを全て聞く前に、その電話は切れた。否、壊れた。

異能力「八咫烏」。視界に入る全ての影を操る能力。それが、桜坂の最大の武器だ。


「殺す」


ビルヂングの影が地面を離れ、桜坂の回りをふわふわと浮く。その顔は先程中島と話していたときのような和やかな笑みではなく、憎悪や嫌悪といった負の感情が混ざりあったような顔だった。


「貴方のその異能についてはすでに調査済みです。我が主の為――ここで死んで頂きます」


誰もいない、薄暗い路地裏。周辺には無数の銃声が響き渡った。
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