見えない壁が僕らを隔てる

「どうしよう」


困った、と云うように顔をしかめながら、桜坂は歩いていた。手には先程の売店で買ったアイスクリームが握られている。舐めるだけで舌が冷やされ、甘い味が口の中でさっと溶けて気持ちが良い。

この時間は、確か江戸川が警察の助っ人として呼ばれていた筈だ。それに中島もついて行っている筈。太宰は相変わらず行方がわからないが。


「ああ、そうだ。久しぶりに書店にでも……」
「やめてください!」


何処へ行こうかと迷っていた桜坂の耳に、ソプラノの悲鳴が届く。見てみると薄暗い路地の方に、女性が一人と、その女性を無理矢理連れ出そうとする男三人。

そこからは単純だった。まず一人目は足払いをして体勢を崩し、二人目は鳩尾に殴りを入れ、立ち上がってきた一人目の顎にまた蹴りを入れ、最後に三人目の横顔に膝蹴りをくらわせる。


「走って!」


桜坂は女性の手をとると、男達とは反対方向になるように逃げた。何の武術もしていない一般人なら、あれだけやればしばらくは立つことすら困難だ。なので別段焦る必要はないが、やはり離れるならば早いほうが良い。


「あの……ありがとうございました」


そろそろ良いかと立ち止まって女性を見てみる。帽子をかぶっていて顔はあまりよく見えないが、一見おとなしそうな女性だ。帽子からはみ出た金髪が、風に乗って揺れる。


「いやいや別に。一応、武装探偵社ですから。ところで、君はどうしてこんなところに?」
「実は、人を探していたんです。この辺りで見たと聞いていたのですが……もう、大丈夫です」


女性が取り出したのは、スタンガン。


「っ! 君……」
「我が主の命により、貴方を連行します」


樋口一葉。所属はポートマフィア。あの芥川の直属の部下だ。










「良い眺めだな」
「あたしにとっては最低だよ」


とは云っても、桜坂は覆い被された目隠しによって何も見えていない。だがおそらく、いるのは座敷牢だろう。両手は後ろで鎖によって拘束されていて、動かすことは出来ない。


「でも、君が女の子をこんな扱いするなんて。まさか、そういう趣味なの?」
「精々そこで吠えているがいい。目を塞がれた貴様はもはや仔犬同然。その程度、恐るるに足らぬ」
「はっ、勝手に云ってなよ。そうやってひねくれてるから、太宰さんに捨てられたんじゃないの? ポイってね」


その瞬間、桜坂の頬を「羅生門」が掠った。ひりひりと痛み、血も流れているだろう。それに少しだけ顔を歪ませると、息を飲む音が聞こえた。芥川のいる方向だ。


「芥川……?」


名を呼ぶと、何故か桜坂はふわりと暖かいものに包まれた。不思議と悪い感じはしない。


「……僕が嫌いか?」


耳元で聞こえた芥川の声に桜坂は一瞬身を堅くするが、それに続けて


「嫌いだよ。顔も見たくない」


と云った。芥川は「そうか」と呟くと、桜坂から離れる。何故その瞳を揺らしたのか
は、桜坂にはわからなかったが。

すると芥川は「羅生門」を使用し、桜坂の目を覆っていた目隠しを切り刻んだ。晴れて自由の身になった桜坂だったが、それだけではないことを思い知らされる。


「……君のこういうところ、本当大嫌い」
「元マフィアの掃除屋が鏡恐怖症とは、聞いて呆れるな」
「よくもまあ平然と云うよね。元は君が原因でこうなったのに」


座敷牢の壁は、一面鏡張りで出来ていた。何処を向いても、鏡が視界に映ってしまう。

桜坂月雲は、鏡恐怖症だ。というのも、元凶はこの男、芥川龍之介なのだが。


「でもあたしだって、全く動けないわけじゃない。ちょっと荒いけど、『八咫烏』を無差別に動かして鏡を割れば良いだけだもんね」


とは云ったものの、実際桜坂の手は震えている。足も震え、涙もにじみ、それでもそれを必死に隠そうとしている。この男にだけは、自分の弱い姿を見せたくなんて無いのだ。

嫌い。大嫌い。あたしを殺そうとしてきたくせに、そんな目で見てくる君が、大嫌い。


「……興醒めだ」


芥川は手元のスイッチを押す。桜坂の手を拘束していた鎖はそれと連動していたらしく、ガチャン、と音を立てて外れた。赤い痕がくっきりと残っていて、何とも痛々しい。


「そこの扉から、外へ繋がる階段がある。もう貴様に様はない。勝手に出て行け」
「はあっ!? それじゃあ君、何のためにあたしをここまで連れてきたの!? わざわざ部下まで使って!」
「五月蠅い。目障りだ」


ふい、と芥川がそっぽを向けば桜坂は「もういい!」と大層ご立腹で、「八咫烏」で座敷牢の檻を破壊し、階段を駆け上った。

傷をつけたいわけではない。苦痛を与えたいわけでもない。泣かせるなんてもっての外だ。小さくなる想い人の背中を見つめ、遠い遠い、それでいて遠くもない、まだ互いを「友」と呼び合っていた頃を思い出す。

ただ、自分の行いが鏡恐怖症という鎖となって彼女に残っていることを愉快と思ってしまうことが、恐怖として芥川にまとわり付いていた。
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