亡くした記憶は水の中

「中也先輩−!」


暗い路地に、二人分の足音が響く。一人はそこまで速くもなく、堂々と地面を踏みしめる音で。もう一人はそれよりいもテンポが速く、軽やかな音で。小さな足音が、大きな足音に、抱きつく。


「うおっ!? おい、またお前かよ……!」
「ふふ、月雲さんの上司なら、これくらいは慣れてもらわねば! というわけで、これからは一日に一回抱きつこうと思うんだけどどうかな中也先輩!」
「知らねえよ! 百歩譲ってそれは良いとしても、手前は上司にタメで話してんじゃねえ!」


桜坂が掃除屋としてポートマフィアに派遣されてから、まだそんなに経ってはいなかった。殺しの技術は十分にあるとしても、まだ裏社会の規則なるものをよく分かってはいない。ましてや、齢15の少女だ。

そこで抜擢されたのが、中原中也だった。桜坂が規則を覚えるまでの間、部下として桜坂を中原の元へ置き、新人教育を受けさせる。そのため中原と桜坂は、常に共に行動していることになるのだ。


「でも、なんで中也先輩の身長はのびなかったんだろう。同い年の太宰さんは普通にのびてるのに」
「うるせえよ! ってか、それなら手前の女の中ではチビじゃねえか」
「女の子はちょっと小さいくらいで丁度良いんだよ! 殿方と並んだとき、よく映えるでしょう? ほら、あの子達だって……」


桜坂は路地の間から覗く公演を見て、足を止めた。「どうした?」と中原が振り返っても、桜坂は地に脚がくっついたように離れない。

クレープの焼ける、良い香り。キャーキャーと声を上げて走る子供達。木陰で休みながら談笑する、同じ歳くらいの少女達。ベンチで手を繋ぎあう恋人同士。キラキラと輝く世界が、薄汚れたこの場所へと顔を覗かせた。


「……あんまり見んな」


ポン、と中原は犬猿の仲の相棒にダサいと散々云われ続けた帽子を桜坂の頭の上に置き、ぐりぐりと押し込む。桜坂の視界が帽子で覆われるようにしたのは、もちろんわざとだ。

それでもなお、桜坂の脚は動かない。本来ならば、影の差し込まない場所で同級生と楽しく教育を受けるべき年齢だ。檻の中では想像しか出来なかった世界が、実際目の前にあるのだ。


「……うん、わかってる」


桜坂の心には、友への憧れというものが芽吹きつつあった。施設では同年代の子などおらず、年下か、またはうんと年上かのどちらかしかいなかった。マフィアに派遣される頃には年下すらいなくなっており、代わりに年上ばかりが増える一方。その中で桜坂は、いつもどこかで疎外感を感じていた。


「手前は裏の人間だ。いくら手前があれを望んでも、手に入ることは絶対にねえ」
「……はは、あたしは掃除屋だよ? そんなのは最初からわかっているよ」


桜坂は無理矢理目をそらすと、重い脚を持ち上げた。だが重いはずのその脚はあっという間に中原を追い抜き、まっすぐにマフィアの本拠地へ向かう。


「……ったく、めんどくせえな」


中原は無造作に頭を掻くと、携帯電話を取り出す。迷いながらも電話帳にある「青鯖」の番号を押すと、その携帯電話を耳に当てた。









「初めまして。あたしは掃除屋の桜坂月雲。今日の任務は君と一緒だから、よろしく!」


変な奴だ、と芥川は思った。しばらく彼の上司である太宰との任務が続いていた芥川は、当然今日もそれが続くのだと思っていた。だが、今日の相手は。


「ありゃりゃ、反応なし?」


ぱっちりと開いた二重瞼の瞳は空色に輝き、色素の薄い茶髪が風に揺れる。顔立ちはどこか異国の者のような雰囲気をまとっていて、まるで西洋の人形のようだ。ハイライトのない瞳に漆黒の髪の自分とは、随分対照的に思えた。


「できれば、君の名前が聞きたいな」
「僕に名乗る道理はない。勝手に呼ぶがいい」
「了解。なら勝手に呼ぶ」


にっこりと笑ったその笑顔は、見覚えのある笑顔だった。昔、自分の異能を利用しようと近づいてきた大人達の、張り付いたような笑顔だ。心の底では何か別のことを考えている、気持ちの悪い笑み。この女も、どうせそれと同じ類いだ。

芥川は桜坂になど目もくれず、一人でスタスタと目的地に向かう。任務はこの女と合同だが、何も二人で協力してやる必要はどこにも無い。全て自分一人で片付けてしまえば良い話だ。

待って、などと云って追いかけてくる桜坂の姿など見えないフリをして、そのまま歩みを進める。嗚呼、実に不快だ。









「『八咫烏』」


とある場所の、とある廃工場。建物の影からのびた影が、次々と密売人の心臓を貫いていく。血生臭い光景に、芥川は息を飲んだ。いや、血生臭い光景の中にいる、桜坂に息を飲んだ。

何も云わず、ただじっとコンテナの上に座って空中に舞う赤色を見つめている。密売人の叫び声も全く耳に入っていないのか、動じることもない。その時、運良く急所を外れた密売人が、桜坂に震える手で拳銃を向けた。桜坂はそれも見えていない様子で、ただ空をぼんやりと宙を見つめている。


「っ、『羅生門』!」


芥川の外套から生まれた黒獣が、密売人を喰らう。予定が狂った。こんな女、救う気などなかったのに。いや違う。今異能を使ったのは、マフィアの命により密売人を葬るためだ。決してこの女のためなどではない。


「お。終わったね、やつがれ君」
「……何だ、その呼び名は」
「やつがれ君が勝手に呼んでいいって云ったから。あたし、やつがれ君の名前わかんないし」


全ての密売人が息絶えたというところで、ようやく桜坂は我に返った。マフィアからは「一人だけ生かして連れてこい」と云われていたが、桜坂のあの状態では中々難しい。何事もなかったかのように今まで通り――芥川曰く気持ちの悪い笑顔――で語りかけるその姿に、思わず溜め息が出た。


「……芥川。芥川龍之介だ」
「"あくたがわりゅうのすけ"。わあ、すっごく長い名前!」


それを笑顔で云われても、と芥川は思ったが、あえて口にはしないでおく。

桜坂は、自分の異能を自分で上手く操れない。施設では掃除屋としての暗殺技術をとことん鍛えられたらしいが、そのせいであまり異能の訓練を行うことはできなかった。そのため、異能の制御に集中しすぎて、視覚や聴覚、嗅覚などの五感を全て閉ざしてしまうことがあるらしい。先程拳銃を構えた密売人に反応ができなかったのはそのためだ。


「何はともあれ、助かったよ、芥川。ありがと!」


そう云って桜坂は、芥川の手をぎゅっと握った。今まで数える程度しか繋がれたことのなかった手は、やはり冷たくひんやりとしていた。

ここでふと、芥川に考えが過った。もし、この手を暖めることが出来たとしたら、この気持ちの悪い笑みは、何か変わるのだろうか。今芥川の心にあるのは、好奇心だ。これが、芥川が初めて桜坂への小さな興味を持った瞬間だった。









「うーん、懐かしいよねえ」


四年経っても、変わらない景色がある。クレープの焼ける良い香り。キャーキャーと声をあげて走る子供達。木陰で談笑する同じ歳くらいの少女達。ベンチで手を繋ぎ合う恋人同士。どれも四年前中原と見た風景で、何とも平和だな、なんて思ってしまう。実際今はポートマフィアとの戦争状態で、平和どころではないのだが。

後からわかった話なのだが、あの時の桜坂と芥川の任務は、中原と太宰の計らいによるものだったらしい。元は太宰と芥川の二人での任務だったのだが、路地裏で桜坂が通りすぎた後、中原は太宰に、太宰と桜坂の人員を入れ換えるよう頼んだのだ。それによって借りをひとつ作ってしまった中原はしばらく太宰の云いなりだったが、中原の機嫌がすこぶる悪かったのはそのせいか。

確かに、当時桜坂は十五歳で、芥川は十六歳だった。年も似たり寄ったりの二人ならば、良い関係になれるとでも思ったのだろう。珍しく先輩らしい行動をしたなと今だから云えるのだが、その結果が今のこれなのだから、少しだけ申し訳なくなる。


「……そういえば中也先輩、今どうしてるんだろう」


その中原が現在太宰と対峙していることなど露知らず、そんなことを口に出す。そして、公園の端に落ちていた、誰が落としたのかも、はたまた近くに木があってそこから落ちたのかもわからない小さな小ぶりの無花果を踏みつける。蜜柑は好き。でも無花果は嫌い。理由は簡単、芥川が好きなものと嫌いなものだから。そして芥川が見たら気持ちの悪いと云うであろう笑顔で笑うと、踵を返して探偵社への帰路へついた。
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