父親の魔法使い



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「ファウストせんせー!」


 廊下を走る軽い足音が鼓膜を叩く。同時に子どもの嬉しそうな声を聞いてファウストは作業の手を止め、数秒後の来訪者のために床に散乱していた呪具を魔法でクローゼットに押し込んだ。
 直後、部屋の扉が勢いよく開かれる。


「ファウスト先生! シュガーできたよ! きれいなやつ!」


 そう言って小さな嵐がファウストの部屋に飛び込んできた。背丈はまだファウストの腰程度しかなく、年齢は数えるのに両の手で余るくらいの少女だった。

 果実のような桃色の髪は肩の辺りで切り揃えられ、左側だけに施された三つ編みが年相応の愛らしさを演出している。童顔の真ん中には夜空を写し取ったような双眸がぱっちりと開かれ、きらきらと輝く瞳がはあ、と額を押さえるファウストの姿を反射させた。


「入る時はノックをしなさい、フランチェスカ。僕が魔法を使っている最中だったらどうするんだ」
「ごめんなさ〜い。でもそんなことより見て先生! フランカのシュガー、きれいにできたよ!」


 少女は反省など微塵も感じさせない様子でファウストに笑いかけると、右手の手のひらを上に向けてすっと差し出した。その上には星屑のようなシュガーが二つ乗せられている。
ファウストは片方をつまみ上げると、それをサングラス越しにまじまじと見つめた。


「確かに昨日よりもよくできている。練習の成果が出ているな」
「でしょ! だからそれは先生にあげるね」
「僕に? せっかく上手く作れたんだぞ。自分で使った方がいいんじゃないか」


 そう言ってファウストがシュガーを返そうとするが、フランチェスカはかぶりを振って拒んだ。


「フランカは今疲れてないから、お仕事してる先生にあげる! もういっこは猫ちゃんにあげる!」


 一応、ファウストが自室で呪い屋の依頼を進めているという自覚はあったらしい。ならば尚更ノックをしろ、とつい小言が出そうになったが、ファウストはそれを喉の奥にぐっと押し込んだ。


「……そういうことなら、ありがたく受け取っておくよ。だけど猫にあげるのはやめておきなさい」
「猫、シュガー食べられない?」
「食べられない訳じゃないが、猫は甘さを感じられないからあまり意味がない。肥満のリスクが高まるだけだ」


 シュガー一粒ですぐにどうにかなってしまうものでもないが、フランチェスカが与えて猫が食べる一連の流れが習慣化されてはいけない。特に意味がないのならば蓋は開けない方が懸命だ。

 弟子らしくファウストの教えを聞いたフランチェスカは、ならもういっこも先生にあげるねと残ったシュガーも彼に渡すとくるりと踵を返す。


「じゃあフランカ、外で猫と遊んでくる! 先生お仕事頑張ってね!」
「そうか。日が暮れる前には家に入るように。――あと、帽子は忘れずに被って行きなさい」


 背中越しにファウストがそう釘を刺すと、フランチェスカはぎくりと動きを止めて振り返った。向日葵のような気持のよい笑顔に若干の曇りが現れている。


「……あれ、被らなきゃだめ?」
「駄目だ」
「でもあのの絵、気持ち悪いしちょっと怖い……」
「それが一番重要な部分だろう。見たくないのなら頭の後ろに来るよう回したらいい」
「はーい、いってきまーす……」


 やや不満を残しつつ、フランチェスカはファウストの部屋を後にする。玄関ではなく自室の方へ向かったので、きっと言われた通り帽子を取りに行ったのだろう。ファウストはその後ろ姿を見送ると、扉を閉めて部屋に戻った。

 ――嵐の谷で赤子のフランチェスカを拾って数年、彼女は特段変わった様子もなく成長している。

 魔法使いとしての生来の素養はそれはもう素晴らしかったので、呪い屋の仕事が忙しくない時は魔法を教えることにした。入門として最初にシュガー作りを教えたばかりだが、もう既に商品として人間相手に売り捌蹴る程度には上達している。これは将来が楽しみだ、とファウストは手元のシュガーに保護魔法を二重にかけ、小瓶の中に入れて封をした。フランチェスカは食べることを望んでいたが、弟子の初めての成果を食べてなくしてしまうことは勿体なさの方が勝っていた。

 窓の外に目を向けると、とんがり帽子を被ったフランチェスカが猫におやつをあげている姿が目に映る。小さな頭を隠してしまうほどの帽子からはファウストの魔力が滲んでおり、それに釣られた精霊がちらちらと様子を伺っていた。

 幸いファウストはこの近辺の精霊には好かれており、そのファウストが育てているフランチェスカも一目置かれているようだった。なのでこの家から遠く離れない限り、危険はほぼ無いに等しい。今精霊が彼女を覗いているのも悪意などは一切なく、むしろ獣は遠ざけておこうだとか転んだらちょっとだけ助けてあげようだとか、甲斐甲斐しく世話を焼いている節もあった。

 だが今のフランチェスカをあの呪いから守るものとして最も強いのは、やはりファウストが与えたあの帽子だろう。

 正確には帽子そのものではなく、帽子に付けられている守護布が本命だ。円錐部分をぐるりと一周させた布は金具で一つに束ねられ、余った部分はつばから下に垂らされている。外から見ればただの飾りのリボンだが、布の内側には趣味の悪いの模様が描かれていた。フランチェスカが気持ち悪いと評するのも納得の不気味さだったが、そうでなければならない理由がある。

 何にせよ、彼女が平穏を享受できているのであればそれでいい。ファウストの魔法で彼女の例の呪いが抑えられているうちは。


「ファウスト先生」


 ファウストが作業を再開しようと椅子に腰かけたその時、再び部屋のドアが開いた。


「フランチェスカ、だから入る時はノックをしろと……」
「魔法使いが来てる。たぶん、お客さん」


 服に葉っぱをつけたままのフランチェスカがきょとんとファウストを見上げ、腕の中の白猫がそれを肯定するようににゃあと鳴く。
 ファウストは一瞬黙った後、とうとう何も言う事ができないまま席を立った。









「実は私、もう少しで子供が生まれるんです」


 客人用の椅子に座り、ファウストが魔法で入れた紅茶に視線を落とした男が頬を緩ませながらそう言った。


「……念のため聞くが、それは僕が呪い屋だと理解しての相談か?」
「もちろんです! 呪術に関しては右に出る魔法使いはいない、東の国一陰気で睨まれたら最も厄介な方だと聞いています!」
「どんな噂を流しているんだ、前の依頼人は……」


 呪い屋が嵐の谷に住んでいるという話は人伝てにしか広まっていないため、男にそんなこと吹き込んだのは以前ファウストの元を訪ねたうちの誰かに違いない。嬉々として話す男を前に、ファウストは今すぐにでもこの男をつまみ出したい気分に駆られた。しかしそうでもしようものなら付近の精霊たちがこの男をファウストの敵と認識して攻撃しかねない。好奇心旺盛な類の精霊が窓の外から覗いているのを尻目にファウストは入れたばかりの紅茶に口をつけた。


「まあいい。その噂は帰ったら君が否定しておいてくれ。それより、僕への依頼とは?」
「はい、それが……私の妻か、お腹の中の子どもか、もしくはその両方が呪われているかもしれないんです」


 男が顔をしかめ、両手をぎゅっと握り合わせる。


「私も妻もお互い四十を過ぎていましてね。子供を授かるのは少し遅めだったということもあってそれはもう大喜びしたものです」


 小さな集落だったため妊娠の知らせはすぐに皆に伝わり、毎日人が代わる代わる訪れては果物や肉をお見舞いとして持ってきてくれました。初めての子で気分が舞い上がっていたのでしょう。村で唯一の先生に食べていいと言われたものは喜んで妻に与えていました。こう見えて私、料理は得意な方なんです。

 けれどそれからしばらく経った後、妻の容態が急変したのです。それまであんなに元気だったのに、先生からは出産すら危ういとまで言われるようになりました。

 お世辞にもあまり裕福な村とは言えなかったので、こうなることは私も妻も覚悟の上でした。なので子を産めないかもしれないと先生に言われた時、悲しかったですがどこかで納得はしていたのです。

 妻の体から、微量の魔力を感じ取るまでは。

 妻は普通の人間です。魔力を持つなんてことはあり得ません。その時、もしかしたら妻は誰かから呪いを受けてしまったのかもしれないと思いました。だって、そうでしょう。今まで健康そのものだったのに急に動けない程具合が悪くなって、同時期に妻に知らない誰かの魔力がまとわりついているだなんて。


「だからどうか呪い屋様、妻の呪いを解くためにお知恵を貸していただけませんか。呪いのことであれば専門家である貴方に聞くのが一番良いでしょう。この際相手に報復ができなくとも構いません。どうか妻を、お腹の子をお助け下さい」


 男は椅子に座るファウストの横で膝をついて懇願した。まるで神に赦しを乞う信徒のように。
 事情を話す間に男の声は徐々に震え、瞳にはうっすらと涙の膜ができていた。彼が妻とその子を愛しているのは見ただけで分かる。

 一方ファウストは悩んでいた。男の依頼は妻にかけられた呪いを取り除くこと。しかしファウストは一応呪い屋として名が通っている。この依頼を受けるという事は、本職とは真逆のことをしなければならないということだ。本来ならば呪い屋ではなく祓い屋にでも行くべきなのだが、生憎数百年この谷に引きこもっているファウストにはそんな紹介先はない。

 その時、ファウストの背中に視線が突き刺さった。ドアの隙間からじいっと覗くその瞳は、客人が帰るまで奥にいなさいとファウストが言い聞かせた子どものそれだった。

 お母さんの呪い解かないの?
 赤ちゃん見殺しにしちゃうの?

 意思疎通の魔法でも使ったかのように、フランチェスカの言いたいことがファウストにははっきりと分かった。近寄らないよう釘を刺していたはずが、きっちり聞き耳を立てていたようだった。

 仮にファウストが北の魔法使いであればフランチェスカの視線など完全に無視できたのだろう。だが生憎とファウストの人格の根底には善性というものがこびりついてしまっているし、いくら皮肉たらしい性格でもその自覚はあるつもりだった。


「…………分かった、できる限りのことはしよう。本来なら解呪は若干専門から外れるが」
「本当ですか!? ありがとうございます! 何とお礼を言えばいいか……!」


 男が感激のあまり額さえ床に擦り付けようとしたので、その前にファウストが手で制す。


「だが、まずはそれがどんな呪いによる影響なのかどうか確かめるところからだ。《サティルクナート・ムルクリード》」


 ファウストがそう唱えると、彼の右手に一枚の紙が現れる。表面にはおどろおどろしいの模様が描かれており、傍から見ればファウストが男を呪い殺すシーンのようにも見えた。


「これを奥方の部屋の壁に。必ず模様が描かれている方を奥方へ向けて貼るんだ」
「はあ……これは、一体?」
「呪い除けの護符だ。魔除けとしても使われている。壁に貼るだけで作れる簡易的な結界だと思ってくれていい」


 当然、呪いの強度によってはこんな古典的な方法では通用しないこともあるのだが。母親がまだ命を落としていないのならばそこまで強力なものではないのだろう。


「数日貼って様子を見て、変化があってもなくてももう一度これを持ってここへ来なさい。本格的な対処はその結果次第だ」
「は、はい……! 分かりました……!」


 男はファウストから護符を受け取ると丁寧に鞄の中にしまい込み、何度も頭を下げながら家を出て行った。

 精霊たちの視線を受けながら谷を歩いていく彼の背中を見つめ、ファウストはガス抜きをするように息を吐く。男が完全に帰ったことを確認すると、フランチェスカが奥の扉からそっと出てファウストの隣に並んだ。


「ファウスト先生。あの護符、フランカのと同じやつ?」


 彼女が片手で帽子から垂れ下がった布を摘まみ、内側の模様をファウストに見せつける。ぎょろりと感情のない目がファウストの双眸と合った。作っておいて何だが、毎日これに見つめられるのは確かに気が滅入りそうだ。


「君のそれよりは少しだけ効力は下がるが、原理は同じだ。……それよりも、君が人助けに興味があるとは思わなかったな」
「うん? フランカは別に人間がどうなってもいいし死んでも悲しくないよ? でもフランカ、赤ちゃんがどんなものか見たことないから一度見て見たいなって!」


 でも一目見れたらあとはどうでもいいかな、と屈託のない笑顔を浮かべたフランチェスカを見てファウストは顔をこわばらせた。

 フランチェスカは一度もこの谷を出たことが無い。そのため人間に関する知識の大半はファウストの口から語られる情報に委ねられている。そのファウストが絵に描いたような人間嫌いだったものだから、フランチェスカは赤子の頃から人間嫌い育成プログラムを受けて育ったようなものだった。

 負の英才教育を施してしまったと気づいたときにはすでに遅い。魔法とは別に教えなければならないことが山ほどあるようだ、とファウストはため息をついた。


「……彼から聞くに、出産予定日までもうしばらくあるから君が赤子を見る機会はおそらくないよ」
「えっ」


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