父親の魔法使い



2



 魔法使いの男が再び嵐の谷へ足を運んだのは、それから三日後のことだった。


「呪い屋様に言われた通り、護符を妻の部屋に貼りました。ですが符には何の変化もなく……」


 そう言って男が机上に置いた札は以前ファウストが渡した時と何ら変わりはなく、新品同然の姿で天上を見上げている。ファウストが手に取って確認してみても、呪いへの反応どころか制作者ファウスト以外の魔力すら感じられなかった。


「……奥方の容態は?」
「変わらないどころか悪くなる一方です。あの、呪い屋様。本当にこの護符が妻を助けてくれるのでしょうか……?」


 男は以前よりもやつれた顔でファウストにそう尋ねる。
 彼もファウストやフランチェスカと同じ魔法使いだが、力はそこまで強くはないらしい。そのためファウストの処置の正確さに確証が持てず、精神的余裕がすり減っていることも相まって懐疑的になっているようだった。
 ファウストはそうした人物の相手も慣れた様子で、特段表情を変えることもなくぴしゃりと言い放つ。


「結論から言えば、君の奥方は呪われているわけじゃない」


 ファウストの護符は呪術にのみ反応する。だとえ術士がファウスト以上の腕を持っていたとしても、魔力の残滓は必ず残るはずだ。
 しかし護符には何の変化も現れず、以前と全く同じ姿のまま返ってきた。となれば、そもそも呪術は使用されていないと考えるのが妥当だった。


「呪いではない……? ではなぜ妻は……」
「呪いではない……が、それ以外となると誰かが直接部屋に立ち入って魔法をかけたことになる」
「そんな! この護符を貼ってからは私と医者以外誰も部屋に入れていませんし、医者が魔法使いでないことは何度も確かめました! まさか私が妻を殺そうとしたとでも……」
「いや、君以外に一人だけいるだろう。該当する人物が」


 ファウストの語り口は水のように冷たく、だが諭すように柔らかかった。自分を疑っているとは微塵も感じさせない口調に男は熱くなっていた目頭をわずかに緩める。
 数秒の沈黙ののち、男が呟いた。


「…………まさか、お腹の子が…………?」


 妻は子を身篭っている。
 男でもなく医者でもなく、そして妻自身でないのであれば、彼女に魔法をかけたのが一体誰であるのかは自ずと絞られることだった。


「仮にお腹の子が魔法使いだったとして、なぜ自分の母親に魔法を? そもそも胎児の段階で魔法なんて使えるのでしょうか?」
「魔法は心で使うものだ。魔力を宿し、生物としての自我さえあれば動物でもできる。……だが、わざわざ自分の母親を魔法で弱らせるとは考えにくい。自殺するようなものだ。となれば、魔力を持て余したことによる暴走の線が妥当だろう」


 こういうことは稀にあるのだ。
 魔法使いは生まれたその瞬間から魔法使いだ。赤子であっても魔力は保有し、その総量には個人差がある。通常は成長するうちに魔力量が増加していくものだが、稀に赤子のうちから大人に匹敵するほどの魔力を持った子が生まれてくることもある――と、ファウストは以前とある医術に明るい魔法使いに聞いたことがあった。

 その場合母親が魔法使いであれば親の魔力に順応し徐々に収まっていくのだが、親が人間である場合はその事実に気づかないことも多い。結果母親の体が弱り、母子共に死んでしまう事例もあるのだとか。


「解決法自体はシンプルだ。僕が赤子に魔力抑制の魔法をかければいい。が、抵抗される可能性も考えて一瞬でも何かに意識を向けさせる必要がある」
「ですが、胎内にいる赤子の意識を向けさせるなど、どのようにすれば良いのか……」
「そこは安心しろ、僕に考えがある。……フランチェスカ、いるんだろう」


 ファウストはそこで言葉を切ると、今立っている部屋と廊下とを隔てる扉にすっと目を向けた。男はきょとんとした顔でファウストと扉を交互に見比べていたが、しばらくたって扉が音を立てて開いたことで目を丸くする。


「バレてた?」
「丸わかりだ」


 扉の向こうから現れたのは、恥ずかしそうに頬を赤く染めたフランチェスカだった。
 前回男が訪れた時、フランチェスカは表に姿を現していない。そのため男はここに少女が住んでいたことをこの時初めて知ったのだ。


「あの、呪い屋様。この子は……?」
「訳あって僕が引き取っている子だ。この子も魔法使いだから安心していい。……フランチェスカ、聞いていたんだろう。少し手を貸してくれるか」
「うん、いいよ! ファウスト先生のお手伝い楽しみ!」


 まるで新しいおもちゃを見つけたように喜ぶ彼女を見て、男の胸に少しばかりの不安がよぎった。

 魔力の成長が遅かったせいで見た目こそ老けているものの、自身の年齢は四十と魔法使いにしてはまだまだ若い部類だ。しかし彼女は自分よりも遥かに幼く、人間であれば親子とも取れるほど歳が離れているように見える。北の国には少年の姿のまま何千年と生きている双子の魔法使いがいると聞くが、目の前の彼女が彼らと同じだとはどうしても思えなかった。


「あの、呪い屋様。その……大丈夫でしょうか。彼女が魔法を使うのは、何というか……」
「彼女に魔法は使わせないよ。言ってしまえば、彼女はただ立っているだけでいい」
「はあ、ならばなぜ……」
「話せば長くなる。……が、赤子の意識を向けさせるのなら僕よりも彼女の方が適任だ」


 当然、ファウスト一人でも工夫次第ではどうにでもなる問題だ。だが今、ファウストの傍にはフランチェスカというこれ以上ないほどの適役がいる。手伝ってもらわない理由はなかった。


「それじゃあ、今日はこれを」


 そう言ってファウストは近くの棚にしまいこんだ小物のうち一つを取り出すと、男にすっと差し出す。今度は護符ではなく、手のひらサイズの白い鳥の羽だった。


「奥方は歩けない状態なんだろう。僕たちが村へ行ってもいいが、きっと村に被害が出てしまう。奥方のいる側でこれに魔力を流し込みなさい。動かず、瞬時にここへ移動できる道具だ」


 ファウストは一瞬フランチェスカの方へ視線を向けつつそう語る。
 男はその視線を意味をよく理解していなかったが、それを受け取ると丁寧に礼を告げて嵐の谷を去って行った。









 翌日、男は妻を連れて再び嵐の谷を訪れていた。
 ファウストの渡した道具を使えば男はもちろん、椅子に座った妻も椅子ごと瞬時に移動していたので、やはり力のある魔法使いはすごいものだと男は声に出さず感心を露わにする。


「今から始めるが、念の為目を瞑っていてもらえるか」
「はあ……それは一体どうして……?」
「万が一が起こっては困る。魔法使いならある程度自力で抵抗できるだろうが、魔力を持たない体では何があるかわからない。……君、手を握っていてあげてくれ」


 相変わらず男はファウストの言っていることがさっぱり分からなかったが、その通りにしておけばいいのだという安心感が彼の言葉にはあった。

 男は不安がる妻に一言大丈夫だと告げると、椅子の隣に膝をつき彼女の手を取る。魔法使いでもない身で――正確にはお腹の子に――魔法をかけられる不安を少しでも軽減させるためのものだったのだろう。彼女は眉を下げて身を固くしたままだったが、男の手に触れるとぎゅっと離さないよう握る。

 ファウストは夫婦の様子を見て問題がないことを確認すると、数歩後ろで傍観していたフランチェスカに前に出るよう促す。


「頼めるか、フランチェスカ」
「うん。分かったよ、ファウスト先生!」


 スキップをするようにフランチェスカが夫婦の前に立つ。夫婦とは対照的に、彼女の姿は意気揚々としたものだった。ファウストの仕事を手伝えることを誇らしく思っているようで、その顔には一片の陰りも見えない。

 男はフランチェスカの姿を見ながら、そういえば彼女についてはまだ何も知らないと首を傾げていた。

 聞けば、まだシュガー作りを終えたばかりだという。男は北の国に行けば三日と経たずに石になる程度の弱い魔法使いだと自負していたが、それでもシュガー作りだけなら目を瞑っていても簡単にできる。それくらい初歩的で、単純な魔法なのだ。

 だとすれば、彼女はまだ魔法使いとしては半人前どころか卵もいいところだろう。呪い屋が不可欠と話す裏には一体何があるのだろうか。
 男のそんな疑問は、彼女が帽子を取った瞬間すぐに瓦解した。

 肌を抓られるような。
 脳を押し潰されるような。
 眼球を引っ張られるような。

 大気中の全てに“彼女を見ろ”と脅されるかのように、男はフランチェスカから目が離せなかった。
 自分の体が違和感に侵食されていくのを感じる。
 おかしい、どうしてという考えは次第に塗り潰されていった。

 だってこの感情を、男は既に知っている。
 これは愛だ。
 男が妻に、子に抱くものと同じものだ。

 男は二度しかフランチェスカと顔を合わせていない。相手が年若い|魔法使い《同士》であったため多少の情はあれど、所詮その程度。妻や生まれる子とは比べるまでもなかった。
 だが男は今、フランチェスカを愛している。 ――まるで、呪いのように。


「《サティルクナード・ムルクリード》」


 ファウストの声が聞こえた途端、男の思考はぱっと霧が晴れるように明瞭になった。瞬きを数回繰り返し、再びフランチェスカの姿を認知する。

 彼女の頭には馴染みのとんがり帽子がファウストの手によって被せられていた。押さえつけられている、と言ってもよい具合に。
 額に汗を滲ませるほどの強烈な違和感はすっかりと消え、若干の動悸だけが男の体に残っている。


「……もう目を開けてもいいぞ」


 ファウストが静かにそう告げると、男の妻はゆっくりと瞼を挙げた。傍らにしゃがむ男とファウスト、そしてフランチェスカに順番に目を向けて、おそるおそる口を開く。


「あのう、もう終わり、なんでしょうか……?」
「ああ。物理的に変化がある魔法じゃないから実感はないかもしれないが、魔力を落ち着かせる魔法は赤子にかけ終わった。体調も次第に回復するはずだ」
「そうですか。ああ、ありがとうございます、呪い屋様……!」


 ファウストに向け両手を合わせる妻を見上げて、男は目を丸くした。自分が感じた異常の一切を彼女は感じていないようだった。


「あ、あの、呪い屋様! 先ほどのは一体……!? そちらのお嬢さんの魔法ですか……?」


 この不思議を放置することなど男にはできなかった。ファウストは男が耐え切れずに尋ねてくることを予期していたのか、表情を崩すことなく淡々と述べる。


「今のは魔法じゃない。彼女の……体質、というべきだろうか」
「体質、ですか?」
「彼女は自然から祝福を受けて生まれている。だが同時に呪われてもいる。普段は僕の守護符で抑え込んでいるが、外すと先ほどのようになるんだ。それなりに力のある魔法使いなら抵抗できるんだが……その様子だと、防ぐのは難しかったみたいだな」


 この世の生物は皆彼女を愛すようにできている。そういう祝福を持ってフランチェスカは生まれてしまっている。惚れ薬が服を着て歩いているようなものだ。

 だが愛とは不定形で、流動的なものだ。性愛エロス家族愛ストルゲー隣人愛フィリア無償の愛アガペーと言葉は数多くあれど、はっきりと型にはめ込むことができるのはごく一部である。

 そしてそれは、あくまで人間に限った話だ。動物が、植物が、精霊が一人の魔法使いを同時に愛した時、何が起こるかなんて分かったものじゃない。

 そのため彼女が人並に生きるには、その祝福をどうにかして抑えなければならなかった。その道具こそが、彼女が被るよう常にファウストから指摘されているとんがり帽子、もといフランチェスカが散々気持ち悪いと称したの守護符だ。

 人間たちの間では、魔除けの象徴として目のマークが古くから使われている。実際のところ単なる迷信などではなく、呪いへの対抗措置として目を描いた呪符を使用することもあった。

 “見る”という動作は、少なからず相手への牽制効果をもたらすものだ。獣が威嚇するときに相手をじっと見つめるように、呪いをこちらから睨みつけることで防ぐという古典的な結界の役目を果たしている。

 フランチェスカは常に帽子から護符を下げ、に睨みつけられることで己の呪いを封じている。帽子を脱ぐ脱がないが呪いのオンオフを切り替える装置のように機能していた。

 ファウストからその話を聞いて驚愕する夫婦を前にしても、フランチェスカは興味もなく他人事のように笑顔を浮かべて佇んでいる。人里離れた場所に住む魔法使いらしく、その齢で情緒のバランスが狂っているようにも見えた。


「つまり私は、彼女の呪いの影響を受けてしまっていたということなのでしょうか……?」
「一時的にな。生まれていない胎内の子どもの意識を母親から引き離すには、多少強引だがこの方が手っ取り早い。赤子とはいえ魔法使いなんだ。この程度じゃ成長に影響はないよ」


 ファウストはそう述べながら、呪文も唱えずに星型のシュガーを二、三個作り出し男の妻に差し出した。男の作るそれと形が違うからか、あるいは呪文のない魔法が新鮮だったのか、彼女は一瞬だけ躊躇いを見せたがすぐにありがとうございますと述べてそれを受け取る。


「あのねあのね、いっこ聞いてもいい?」


 彼女がシュガーをその手の中に収めたと同時に、ふとフランチェスカが尋ねた。


「赤ちゃんは魔法使いだけど、あなたは人間なんでしょ? どうして産むの? 大変なの分かってるのに」
「フランチェスカ」
「だってフランカは……」


 魔法使いだったから、母親に捨てられたのに。

 フランチェスカは赤子の頃に嵐の谷に捨てられていたとファウストから聞いている。それ以上は教えられていないため、どこで生まれたのか、親はどんな人物だったのかなどは一切知らない。

 だがなぜ捨てられたのかは幼いながら理解している。それは自分が魔法使いだからだ。魔法使いを生んでしまったから。それに耐えられなくて親は自分を捨てたのだ。


「ふふ、それは決まっています、小さな魔女さん」


 彼女は一瞬唖然としていたが、やがて子守歌を聞かせるように微笑み、当然のように答えた。


「それは私がこの子の母だからです。この子が人間でも、魔法使いでも、怪物だったとしても、この子の母は世界で私ただ一人なのです。だから産み、育て、愛するのですよ」
「…………」
「小さな魔女さん。よろしければ、この子に祝福の魔法をくださいませんか。この子もきっと、喜ぶと思うのです」
「えっ……でもフランカ、魔法はまだ……」


 どうしよう、とフランチェスカは若干狼狽した様子でファウストを振り返る。
 シュガー作り以外の魔法はまだ教えてもらっていない。難しい魔法ではないので奇天烈な結果になることはないだろうが、人に魔法をかけるだなんて経験は初めてだった。


「……僕が手伝おう。やってみなさい、フランチェスカ」


 ファウストがフランチェスカの後ろに立ち、支えるように肩に手を置く。まだ自分の魔道具を決めていないフランチェスカにはファウストのリードが必要不可欠だった。

 呪いを使う時よりもよほど落ち着かない様子だったが、ファウストに背を押されたことでようやく意を決め母親の前に立つ。おそるおそる手を伸ばし、やわらかな手のひらをそっと子を孕んだ腹にかざした。


「《ロクァークス・フェレス》」


 フランチェスカの呪文と共に小さな光の粒が指先から生まれ、母親の腹の中へすっと消えていく。

 祝福の魔法とは仰々しい名前だが、言い換えれば幸運のまじないだ。成功しても失敗しても結果は使用者には分からない。ファウストが生業とする呪いはその真逆のことを行っているだけで、将来この子どもに訪れる禍福が魔法によるものなのかどうかは実のところ誰にも知ることはできないのだ。

 だが母親はそれでも満足な様子だった。たとえ今奇跡が起こらず、フランチェスカの魔法がただのはったりだったとしてもきっと同じように喜んだだろう。

 嵐の谷に住む呪い屋と、その弟子が我が子の誕生を祝ってくれた。
 母親にはその事実だけで十分すぎるほどだった。









「ファウストせんせー! パンケーキできたよ!」


 トントン、と軽いノックの後にファウストの部屋の扉が開く。隙間から顔を覗かせたフランチェスカは相変わらず花のような笑顔を咲かせており、今日は愛用のブラウスとスカートの上に子ども用のエプロンを着けていた。

 アフタヌーンティーの誘いにファウストは作りかけの魔法道具を机に置くと、すぐに行くと伝えて一足先に食卓に消えたフランチェスカの後を追った。


「生クリームたくさん作ったんだけど、それでも結構余っちゃった……」
「届いた量が量だからな……仕方ない、後でバターにでも変えておこうか」


 ファウストの家のキッチンは現在山羊乳で溢れている。以前依頼にやって来た夫婦は村では酪農で生計を立てていたらしく、謝礼にと大量のミルクを送ってよこしたのだ。おかげでここ数日、食事のメニューには必ずと言って良いほど乳製品が並んでいた。

 本来ファウストは依頼の報酬として魔法道具か材料のどちらかを要求することが多い。人里離れて暮らしているファウストにとっては金銭よりも物の方が役に立つという理由からだった。だが依頼者は人間に紛れて暮らしているため魔法使いとしての経験は浅く、他の依頼者のように魔法の材料を手に入れることは難しい。その分、感謝の気持ちを伝えるために質より量でと考えたらしかった。


「ファウスト先生が魔法使いで良かったね! 魔法がなかったらとっくに腐ってたかも」
「そうか。なら君でも腐らせることがないように、次は状態保存の魔法を教えよう」
「先生はまた何でも授業のお話にする……」


 フランチェスカはげんなりした顔で席につき、用意したナイフとフォークを手に取った。ファウストも同様にフランチェスカが用意したカトラリーの前に座る。食事の前の挨拶を済ませると、ダイニングに二人分の食器音が鳴り始めた。


「上手く焼けてる。美味しいよ」
「えへへ。フランカ、覚えるの早いでしょ」
「結界の魔法もそれくらい早く覚えてくれるといいんだが」
「一言多いよ先生ー!」
「冗談だ」


 ファウストの口数が少ない分、フランチェスカがぺらぺらと会話の種を蒔いては育てていた。仮にフランチェスカがいなければ、ファウストのアフタヌーンティーはもっと質素で静かなものになっていただろう。わざわざ午後にそんな時間を作るかどうかも怪しい。事実、フランチェスカを拾う十年前まではそのような感じだったのだ。


「フランチェスカ」


 正円のパンケーキが半分になった頃、珍しくファウストの方から話を始めた。


「依頼者の夫婦……母親とその子に祝福の魔法をかける時。君は羨ましがっていただろう」


 魔法使いは心で魔法を使う。そのせいか他の魔法使いの補助をする時、何となく感情が伝わってくることがあるのだ。
 ファウストがフランチェスカの補助をした時、彼女の心は揺らいでいた。魔法を初めて使うことだけではない。あの動揺には、親という存在への羨望も含まれていた。


「うーん、羨ましいとはちょっと違うんだけどね。フランカのお母さんはどんな人だったのかなって考えてたの」


 子どもが魔法使いだと知って捨てる親がいる一方、魔法使いだと知っても産み育てると言った親もいる。その差が一体どこでついてしまったのかフランチェスカには分からない。母がどんな気持ちで嵐の谷を訪れたのか、フランチェスカにできることは推測することだけだ。


「……君は、…………本当の両親のもとに帰りたいか?」


 ティーカップのハンドルを指先でつまんだファウストが、持ち上げることもなくそう問いかける。
 ファウストであればフランチェスカを実の両親の元へ送り届けることも可能だろう。赤子の頃のおくるみに縫われていた家紋で彼女の家については大方予想がついている。彼女の生まれ故郷の中央の国に足を伸ばし、少し情報を集めるだけで特定することはできるだあろう。彼女がそれを望むのならば、すぐにでも行動に移すことができた。

 だがフランチェスカは、不思議なことを聞くものだと言うようにあっけらかんとかぶりを振った。


「全然。フランカには先生がいるし」
「……僕は君の父親代わりになるつもりはない。大体君は魔法使いを信用しすぎだ。拾ったなんて実は嘘で、本当は君を魔法の材料にするために街から攫ってきたのかもしれないよ」
「もしそうならフランカはとっくに鍋の中だよ。だってフランカには保護の魔法がかかってないもん」


 ファウストは几帳面な性格だ。棚の本が一冊倒れているだけでもこまめに直し、採取した材料は下処理の魔法を施してから保管する。だからもしもその材料がフランチェスカ自身だったとしても、十年もの間何もせず野放しにしておくはずがない、とフランチェスカは胸を張って答えた。

 あまりの自信満々な態度にファウストの持ち前の毒気はすっかり抜かれてしまい、ただばつが悪そうに顔を逸らすことしかできなかった。このどこまでも根明な思考回路は間違いなく中央の国の血だ、とファウストは脳裏にちらつくかつての幼馴染の姿を懸命に振り払いながら紅茶を喉に流し込む。

 畢竟、フランチェスカにとってファウストが何であろうとどうでもよかった。彼が父であろうと師であろうと誘拐犯であろうと、フランチェスカの作るシュガーの甘さは変わらない。
 父と呼ばれることを彼が拒否し、血なんて一滴も共有していなくとも、二人の間を名前で結ぶとすれば、その言葉は“家族”にしようとフランチェスカは決めていた。


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