恋人の魔法使い



1



 長い雨期が明けた。
 道なんてろくに舗装されていない嵐の谷で雨が降ると、まずフランチェスカは家を出ることができない。大地は一面ぬかるみに覆われ、傾斜も多い場所では大の大人ですら歩くことを躊躇うほどだ。

 ベッドの上で目が覚めたフランチェスカはここ数日ずっと屋根を叩いていた雨音が鳴っていないことに気付くと、ばっと飛び起き窓を開く。空を覆っていた雲の膜は綺麗さっぱり消え、清々しい朝日が窓に残る露を金剛石のように照らしていた。小鳥の鳴き声を聞いてフランチェスカは頬を緩ませると、魔法で服を着替えてドタドタと階段を駆け下りる。


「ファウスト先生! 箒借りるね!」


 いつもなら起きてすぐに立ち寄るダイニングを通り過ぎ、玄関に立てかけてあるファウストの箒を持って外に出た。先に起きて朝食の準備をしていたファウストは突風の如く飛び出して行った弟子に一言声をかけようと口を開いたが、数日前に交わした言葉を思い出してそのまま息を吐き出す。

 ――箒に乗る練習をしたいのなら数日待ちなさい。もうじき雨期が来る。
 ――それってフランカとの約束?
 ――約束じゃない、忠告だ。泥だらけになっても僕は魔法をかけてあげないぞ。

 あのくらいの歳の子はどうしたって体を動かさないと気が済まないものだ。今は引きこもりで滅多に外を出歩かないファウストにも、子供の頃はそういう時期もあった。
 出不精で不摂生よりはマシか、とファウストは肩をすくめると、キッチンの窓をガラリと開けて肺いっぱいに息を吸い込んだ。


「昼までには一度帰って来なさい! それと、今日は満月の日だからあまり遠くまで行かないように!」
「はーい! わかったー!」


 二人とも、もし近隣に住民がいれば苦情文でレターボックスがいっぱいになるほどの声量で叫んでいた。
 嵐の谷に住む魔法使いは数少ない。最も近くに住む魔法使いの家も遠くに見える大木を越えた先にあるので、ファウストとフランチェスカがどれだけ声を張り上げて会話しようが一向に構わなかった。

 その気になれば魔法で言葉を伝えることもできるのだが、まだ魔法に不慣れなフランチェスカは自分の声をファウストに送り届けるのに時間がかかる。ならば叫んだ方が早い。

 フランチェスカは身の丈に合わない大きな箒に跨ると、目を閉じてぐっと全身に力を込めた。本来は全く必要ないのだが、無意識の内にか息まで止めている。
 そのうち、フランチェスカの体は箒ごとゆっくりと浮いた。地面から足が離れ影が一回り程小さくなると、そのまま徐々に前進していく。

 あまり遠くへ行くなと言ったばかりだが、その心配はなかったかもなとファウストはくすりと笑った。速度は歩いた方が早く、高度はファウストの胸よりも低い。あれでは昼までに辺りを一周してくるのが関の山だろう。


「ふふっ、かわいい」


 ファウストの口からぽろりとこぼれた言葉は誰の耳に届くことはなく、卵と共にじゅうじゅうとフライパンで焼かれていた。









「ごめんください」


 トントントントン、と玄関の扉が四回叩かれる。


「ごめんください、呪い屋さま。いらっしゃいますでしょうか」


 女の声だった。
 時刻はもうじき短針が頂を差す。フランチェスカが帰ってきてもおかしくはない時間だが、扉の声はどう聞いても彼女よりも年上だ。

 追い返すことは容易いが拒む理由もない。ファウストは呪文を唱えて扉を開けてやると、若い女が目を丸くしてそこに立っていた。長い距離を歩いて来たのだろう。ブーツは汚れスカートに泥が跳ねている。


「……貴方が嵐の谷に住むという呪い屋さまでしょうか?」
「そうだ。僕に何か用か?」


 女は冷静に、けれど力強く述べる。


「呪い殺したい魔法使いがいるのです。どうかお力をお貸しください」


 真っ直ぐに見つめる瞳は一見澄んでいるように見えるが、その裏側に泥のような思いを孕んでいるのをファウストは見逃さなかった。だが彼の元を訪れる魔法使いでこのような人物は珍しくもない。彼女がどんな経緯でここに来たのかは知らないが、ファウストの性格上、依頼を持ち込んできたのなら話を聞かないわけにはいかなかった。

 中で話を聞こう、とファウストが招き入れると、女はほっと安心したような顔で頬を綻ばせる。すっかり応接間兼用となってしまったリビングルームに案内して座らせると、魔法でティーセットを移動させてカップを彼女の前に置き、宙に浮いたポットが紅茶を注ぎ始めた。


「お話を聞いていただきありがとうございます、呪い屋さま。私は雨の街で暮らす魔女。名を明かせないことをどうかお許しください」
「構わないよ。名を伏せるのも偽名を使うのも、魔法使いなら珍しいことじゃない。それで、呪い殺したい魔法使いって?」


 ファウストがそう尋ねると、魔女は重々しく語り始めた。


「……私は以前、ある魔法使いと親交を深めていたのです。ですがその男に騙され、魔力の大半を奪われてしまいました」
「ああ、だから君は箒に乗ってくることができなかったんだな」
「ええ、お恥ずかしながら。お陰で簡単な魔法しか使うことができません。この体たらくでは、あの男を呪うなんてとても」


 初めて彼女の姿を見た時、彼女の足元が妙に汚れていたのが気になっていたのだ。
 魔法使いならば大体皆空を飛ぶことができる。フランチェスカだって超低空飛行ではあるものの、一応飛ぶことには成功していた。目の前の彼女もまた魔法使いだというのなら、ここへの道中は箒を使えば簡単だったはず。けれどわざわざ道の悪い谷を通ってやってきたのには、魔法を使えない事情があったのだろう、とファウストはうっすらと察していた。


「それだけならばまだ許せました。けれどその男は私の魔力だけでは飽き足らず、私の恋人の、命を……」
「………………」
「ですから、私の代わりに件の魔法使いを呪っていただけませんか。報酬はどんなものでも。ただ、彼の命を奪ったあの男に、一矢報いたいのです」


 前回の依頼者とは違い、彼女の依頼は復讐だ。むしろこういうことの方が呪い屋らしくていいとすらファウストは思っている。
 だがファウストは安請け合いをしない。同情はしても、実現可能なものしか引き受けないことが彼なりの誠意だった。


「……その魔法使いが僕の呪いで敵う相手なら、引き受けよう。相手の情報は?」
「名はエドウィン・スティーブンス。同じく雨の街に住む魔法使いです。魔力は決して強い方ではありませんので、その狡猾さ以外は取るに足りません」


 魔女は魔法使いについて詳細を語ると、懐からあるサシェを取り出してすっとファウストに差し出した。


「これは?」
「以前あの男から貰ったものです。呪術には相手の持ち物を使用する場合もあると聞きました。必要があればどうぞお使いください」


 随分使い古されたものらしく、当初の香りはもうほとんど残っていない。ファウストが小袋を手に乗せると、布を隔てて存外硬い質感を反発させた。


「中に入っているのは鉱石か?」
「はい。南の国で採れるものだとか」
「南か……」


 ファウストの知識は呪術や薬草に精通する一方、他国の特産品にはめっぽう弱い。生まれ育った中央の国のものであれば多少は押さえているが、ファウストがかの国を出て数百年の間に絶滅した動植物もいれば、新たに発見された種も存在する。基本的に、脳内図鑑は四百年前から更新されていないのだ。

 香りを発する鉱石というものも、似たようなものなら探せば大半の国に埋まっているだろう。ただ、南の国限定だというそれをファウストは知らない。

 脳内図鑑に項目を描き加えようとファウストは袋の紐を解き、石を手のひらに出してみた。原石を削った球体がファウストのかんばせを綺麗に反射させている。紫とも青とも緑ともつかないオーロラ色の鉱石は確かに東の国では採掘できないような品で――どこか、ファウストの古い記憶を叩くにおいがした。

 その瞬間、ファウストはかっと目を見開いた。鉱石をぐっと握りしめ、それを渡した魔女に険しい視線を向ける。


「君、これを一体どうして――」


 だが、ファウストの言葉はそれ以上続くことはなく、窓の外から聞こえた猫の鳴き声にかき消された。

 ファウストの家には現在二匹ほど出入りしているが、性格は極めて温厚だ。必要以上に鳴くことはなく、来客時はフランチェスカと共に姿を消すことの方が多い。魔女が来ている今、滅多なことでは鳴かない筈なのだ。


「失礼。少し席を外す」


 ファウストは立ち上がると、まっすぐに玄関先へと向かった。猫が鳴いているのは扉のすぐ向こうだ。
 ドアノブに手をかけ、ガチャリと開ける。


「しーっ、猫ちゃん静かにして! ファウスト先生にばれちゃうから……!」
「………………………………」


 フランチェスカもとい、泥の塊が玄関先に落ちていた。ベージュのスカートにも紺の外套にも土がべっとりとはりつき、ブーツは元の模様が分からないほど汚れている。ファウストが魔法で仕立てた帽子から泥がぼとりと垂れ、驚いた猫がにゃあと鳴いて家の中へ逃げて行った。

 しゃがんで戯れていたフランチェスカが猫を追って手を伸ばすが、その視界の大半が急に烏羽色に染められる。何だ、と思って視線を上に向かわせてみると、パンジー色の瞳とサングラス越しに目が合った。


「あっ…………ファ、ファウスト先生…………」
「……大体察するが、一応聞いておこう。どうして泥まみれなんだ」
「お、落ちちゃった。箒から……」


 フランチェスカは頬を引きつらせて笑いながら、草むらに置いたファウストの箒をすっと差し出した。箒もフランチェスカ同様、これ以上汚れようがないほど茶褐色に染まっている。

 ファウストはため息をつく代わりに、静かにサングラスを指で押し上げた。

 怒っている。そう感じたフランチェスカはびくりと肩を揺らすと、ごめんなさいと控えめに謝罪する。


「謝ることじゃない。失敗は誰にでもあることだ。それより、怪我は」
「な、ない……」
「ならいい。次は気をつけなさい」


 ファウストは胸の前で組んだ腕を解き、フランチェスカに差し出そうと動かした。だが指先まで完全に伸ばされる前に女の声が被せられる。


「《プルラ・ノノプボス》」


 呪文と共に、フランチェスカの体を光の粒子が包み込んだ。しかしそれは声を上げる間もない一瞬の出来事で、フランチェスカとファウストの眼が大きく開かれた頃には既に溶け消えていた。彼女の衣類や肌に付着した泥も一緒に連れて。


「ごめんなさいね。泥だらけで困っているように見えたものですから……もしかして、余計なお世話だったでしょうか?」
「……いや。手間を取らせてすまない」


 魔女が姿を現したことでファウストは伸ばしかけていた手をそのまま下ろす。魔女はくすりと笑うと、ファウストの隣を通り過ぎフランチェスカの前で膝をついた。


「この程度の魔法しか使えませんが、お役に立てたのならよかった。あなた、お名前は?」
「? えっとえっと、フランカはフランチェスカ! ファウスト先生の弟子だよ!」
「フランチェスカ、お礼」
「あ! ありがとう、魔女のお姉さん!」


 フランチェスカは子どもらしく無邪気な笑顔を浮かべると、塵ひとつ付いていないスカートをぽんぽんと払って立ち上がった。それから綺麗になったファウストの箒を握り、駆け足で家の中へと退散する。隠れてしまった彼女の背を振り返って見つめながら、魔女は独り言のように呟いた。


「東の呪い屋様が最近になって弟子をお取りになったという噂は、本当だったのですね」
「あの子がそう名乗っているだけだ。僕は弟子を取ったつもりはない」
「でも、否定なさらないのでしょう?」


 図星を突かれ、ファウストが押し黙る。
 他に関係性を示す言葉が見つからなかっただけだ。親子でもない、兄妹でもない。偶然拾って、育てて、魔法を教えているだけ。
 世間一般ではそれを師弟関係と呼ぶのだが、師という言葉に若干思うところがあるファウストはそれを頑なに認めようとしなかった。

 いつか手を離してしまうかもしれない。離されるかもしれない。
 せいぜい百年しか生きられないと知りながらそんな不確定なものを与えるなんて、まるでと同じじゃないか、と。


「……僕とあの子のことは別にいい。それより依頼だが、引き受けよう。すぐにでも執り行う」
「今すぐに、ですか?」


 魔女が目を丸くする。


「今日は満月だ。呪術を使うには丁度いい。来たばかりで悪いが、なるべくこの家から離れていてくれるか。他の魔法使いが近くにいると儀式に影響が出るかもしれない」


 ファウストがそう告げると、魔女はふいに口角を上げた。


「ええ、ええ。ありがとうございます。すぐにでも谷を出ます。……ところで、その呪術はいつ頃終わりますか?」
「日が沈んだ頃には」
「そうですか……分かりました」


 膝についた土も払わず魔女は立ち上がる。また明日、今度はお礼に参りますと目を細め、彼女は背を向けて立ち去った。

 その顔は確かに微笑んではいるものの、恨みが晴らされる喜びとはどこか違う。四百年近く怨恨を抱えて生きているファウストには容易に理解できた。

 彼女は憤りなんてこれっぽっちも持っていないことを。
 そして、彼女がこのまま嵐の谷を去ることがないということも。









「《サティルクナート・ムルクリード》」


 ファウストが魔法を使うと、家を囲っていた精霊たちが皆、蜘蛛の子を散らしたようにどこかへ消えてしまった。

 嵐の谷の精霊たちは呪術を嫌う。だからファウストが呪いを発動させると、周囲一帯が一時的に精霊のいない閑散とした土地へと変貌するのだ。それでも時間が経てば徐々に戻り始め、やがては元通りの姿に収まるので、ここへ来る依頼人は皆口を揃えて「やけに精霊に好かれた方たちだ」と驚いていた。

 家を囲っていた精霊たちの囁きが止んだことに気付き、フランチェスカはファウストの部屋の扉を軽く叩く。


「ファウスト先生、お仕事終わった?」
「ああ。もう開けても構わないよ」


 ファウスト先生がほんの少し疲れを滲ませた声でそう言うと、フランチェスカは遠慮もなしにガチャリとドアを開けた。ノブにかけた方とは反対の腕で黒猫を抱え、隙間からそろりと顔を出す。


「今日の呪い、いつもより簡単なやつ?」
「どうしてそう思う?」
「えっとね、いつもはもうちょっとたくさん道具を用意してるし、あとお風呂に入る! でも今日はすぐに終わっちゃったから、あんまり強くない呪いなのかなって」


 よく見ている子だとファウストは感心したが、思えばフランチェスカも今年で十だ。興味さえあればどんなことにも目ざとくなる年頃だった。

 フランチェスカの言う通り、ファウストの使う呪術はかなり大掛かりな魔法だ。必要な素材は最上級のものを吟味し、儀式の直前は必ず身を清める。触媒を使うにしろ祭壇を作るにしろ、呪術とは複雑な行程を踏んだ末にやっと始まるのだ。
 だが今回ファウストは、自室にこもってからものの十五分であっけなく片付けてしまった。それでは一人の命を奪うどころか、せいぜい頭上に鳥の糞を落とす程度の不幸しか運べないだろう。


「君の言う通り、僕はあの魔女が言っていた魔法使いを呪っていないよ。よく知りもしない魔法使いを軽率に呪って、呪い返しを受けたらたまったものじゃないからな。それに彼女の言う魔法使いとやらは、おそらく――」
「? フランカよく分かんないけど、魔女のお姉さんとの約束は?」
「別に約束はしていない。それに、一応彼女の目的自体はこれで果たされたはずだ」
「???」


 ファウストは魔女の依頼をあえて無視した。だがこれは彼曰く、魔女の狙い通りの結果だという。
 幼いフランチェスカにはファウストと魔女の間でどんな駆け引きが行われているのかさっぱり分からなかった。ただ思うことは、ファウストが依頼を反故にするはずがないということだけだ。ならばあの魔女の依頼とは、魔法使いを呪い殺すことは単なる見せかけで、ファウストはその裏に隠された願いを叶えてやったのかもしれない。


「フランチェスカ。外の精霊の様子は?」
「みんなどこかに行っちゃった。今朝はあんなにたくさんいたのに」
「そうか」


 そう短く返すと、ファウストはフランチェスカを連れて玄関へと向かった。今朝と同じように壁に立てかけられた、一度は泥水に沈んだ箒を手に取り、フランチェスカに差し出す。


「少し手伝ってくれないか、フランチェスカ。この周辺の地理は僕より君の方が詳しいだろう」


 フランチェスカはぽかんとファウストを見上げたが、箒を受け取ると共にその瞳の輝きを増した。

 この数ヵ月、嵐の谷を主に歩いていたのはフランチェスカだ。基本的に家の外に出ないファウストとは対照的に、フランチェスカは毎日犬のように坂を走り回り、猿のように転がり回る。お陰で一帯の地形や植生などはフランチェスカの方が頭に入っていた。


「分かった! フランカ、何すればいい!?」


 以前同様、ファウストの手伝いとあればフランチェスカは喜んで頷いた。何を頼まれるのかと期待に胸を膨らませながらファウストの指令を待つ。


「――――――――」


 その言葉を聞いて、フランチェスカはぱちぱちと瞬きを繰り返した。しかしうーんと小首を傾げたところで、フランチェスカにはファウストの狙いなど分からない。分からないものは、仕方ない。フランチェスカはよく理解しないままもう一度頷くと、外に出て身の丈に合わない箒に飛び乗った。

 超低空飛行のまま谷を降りていく背中をファウストが見送る。壁掛け時計に目を向けると、日が沈むまであと一時間というところだった。


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