恋人の魔法使い



2



 ぱしゃ、と泥が跳ねた。
 スカートの裾が汚れることも気にせず、女は雨でぐちゃぐちゃになった獣道をずいずい進んでいく。頭上の空は夕焼けも通り越して、満月と星が輝く帳が下りている。

 女は茂みを掻き分けて奥へ奥へと入り込み、やがて一本の大木の麓へたどり着いた。

 その木は、フランチェスカが谷で遊ぶ時いつも目印にしている木だった。嵐の谷に住むのはファウストとフランチェスカだけではない。はっきりと線が引かれているわけではないしろ、住む魔法使いごとにテリトリーが決められている。フランチェスカが鳥を追い精霊とじゃれつくことができるのは、ファウストの領域内の狭い範囲だけだ。それを一歩踏み越えれば、何をされても文句は言えない。だからフランチェスカは、どんなに遊び回ってもその木に近づいたことだけはなかった。

 けれど女は、言ってしまえば余所者だ。この嵐の谷のルールを知らない。
 女は恍惚とした顔で大樹に近づくと、その根元に膝をついた。まるで祈りを捧げる修道女のようにやわらかな動作で土を撫で、そしてそっと呪文を口にした。


「《プルラ・ノノプボス》」


 その瞬間、女が触れた地面がぼこぼこと音を立てて亀裂を生む。だがそれ自体はそれほど大きな距離を生まず、せいぜい女の背丈よりも頭二つ分長い程度だ。裂けた空間を覗き込んで、女は今にも泣き出しそうな顔で頬を赤く染めた。


「ああ、ああ。見つけた。会いに来たわ、愛しいあなた」


 ――土の中には、男が横たわっていた。
 年齢は三十路を少し越えたくらいだった。硬く目を閉ざした男は女の呼びかけに一切反応しない。その心臓は既に動きを止めていた。しかし明らかに死んでいるにも関わらず、男の容姿は人形と見紛うほどに美しいままだった。人間ならば肉が腐り骨だけになっていてもおかしくはない。魔法使いならば、死んだ時点で石になっている筈なのに。

 女が男の頬に触れる。そして乾いた唇に自身のそれを落とそうとしたその時、背後から声がかかった。


「わざわざ精霊を遠ざけさせた理由はそれか?」


 女はぴたりと動きを止める。逢引に邪魔が入ったことで若干の怒気を含ませながら振り返った。


「……鋭いのですね、呪い屋さまは。私の足跡は全て子どもの大きさに変えていましたのに、どうして弟子あの子のものでないとお分かりに?」
「昨日までの雨でこれまでの足跡は全て流されてる。それに今朝からフランチェスカは箒の練習に夢中で、ろくに地面に足を付けていない。大きさが何であれ、足跡が残っていればそれは君のものでしかない」
「ふふふ。そういえばそうでした。お弟子さまは、箒の練習中に落ちてしまって、あんな可愛らしい姿になってしまったのですものね」


 自分を追って現れたファウストを前に女が微笑む。彼女にとっては泥だらけになって返ってきた子どもも“可愛い”と形容できるらしい。ファウストが見る限り、皮肉や嫌味ではなく本心から来ている言葉のようだった。


「ですが、愛し合う者同士の逢瀬に割って入るのは、些か不躾では?」
「そうだな。僕だって、死体がその木の向こう側に埋まっていれば余計な干渉はしなかった。……埋めたのは、僕が以前呪術を使った時か?」
「ええ、その通り。あんな一瞬で精霊が飛び立ってしまったので、てっきりもう二度とこの地に精霊は来ないものだと思っていましたのに。……まさか、数日後に全て帰ってきてしまうなんて、考えもしませんでした」


 それだけファウストはこの地の精霊に歓迎されているのだ。
 精霊は呪いを嫌うから、並みの魔法使いであればもう二度とその地の精霊は寄り付かない筈なのに。


「君が殺されたと言っていた恋人は、その男だな」
「はい」


 ファウストは土の中の男に視線を落とす。


「殺したのは魔法使いではなく、君だろう」


 女は薄ら笑いを浮かべたまま押し黙った。端麗な顔立ちをしている分、月明かりに照らされる頬や瞳が余計に不気味さを出している。
 永遠にも一瞬にも感じられる時間が過ぎ、女はようやく口を開いた。


「残念です。証拠となるようなものは何も、呪い屋さまにはお渡ししなかった筈ですのに」
「確かに物証はない。否定したければ、すればいい。だけど僕は、嘘をついて利用しようとしてきた奴を見逃すほど善良じゃない」


 そう言ってファウストは、懐からサシェを取り出して女に見せた。昼頃に女が、恋人を殺した魔法使いの持ち物だと言って渡した鉱石の入ったサシェだ。


「これを僕に渡したのは悪手だったな。でなければ、もう暫くは君の嘘に踊らされていたかもしれない。形が変わっていてすぐには気づかなかったが、これは南の国ではなく北の国で採れるものだろう」
「…………」


 その石は、ファウストの古い記憶に一瞬だけ存在していた。遥か昔、魔法の教えを乞いに北の国に滞在していた時に、同じものを見た。


「雨の街に住む? 魔力はそれほど強くはない? ふざけるな。――フィガロを呪うなんて、冗談じゃない」


 今度はファウストの方が、静かに怒りを燃やす番だった。
 菫色の瞳に反射するのは確かに女の姿であるはずだが、その炎は誰か別の人物を薪にして燃え盛っているように見える。


「……驚きました。まさか東の呪い屋さまが、フィガロとお知り合いだったなんて」
「あいつの使う魔法に多少覚えがあるだけで、無関係だ。知り合いじゃない」


 四百年前の面影を脳裏に呼び覚ましたせいで、ファウストの機嫌は最低値にまで達していた。これ以上詮索するのは藪蛇だと思いつつも、女は好奇心から話を続ける。


「このサシェは確かに北の魔法使いフィガロのもの。以前、譲り受ける機会がありまして。もう魔力の気配も残っていないのに、どうしてお分かりに?」
「君に答える義務はない」
「あら、残念」


 子供のように突っぱねるファウストが意外だったのか、女はクスクスと笑った。


「ねえ呪い屋さま。誰かを真剣に愛したことはあって?」
「……君、まさかフィガロの……」
「それこそまさかです。私が愛したのは他の方。人間の彼」


 そう女が言い放ったことで、ファウストの視線は再び土の中の男に落とされた。
 心臓は止まっているはずなのに、生きているかのように血色が良い。一切の苦しみから解脱したような安らかな表情で瞼を下ろしている。
 まるで、魔法にかけられたみたいだ。


「どうして人間は老いてしまうのでしょう。私はただ、美しい姿の彼と、美しい姿のまま永遠を過ごしたかっただけなのに」
「君は……」
「私は西の国で生まれました。美しいものを見て、美しいものを食べて、美しいものを着て育ちました。けれど、心の底から美しいと感じたものはあの街には何もなかった」


 そんな時、一人の人間と出会った。
 初めて、綺麗だと思った。

 理想の顔。理想の体。理想の心。女にとってその男は、どんな金銀財でも値打ちはつかず、どんな輝きのダイヤでも霞んで見えてしまうほどに美しかった。

 それを恋だったと気付いたのは、女が男と結ばれてからだった。
 幸せな時間だった。魔女としての灰色の数百年はこのためにあったのだとすら思った。

 だが、どれだけ恵まれた時間でも、魔女と人間の時の速さは違う。

 男は人間だ。たとえ息を呑むほど美しくとも、歳をとれば皺は増える。老いていく男とは対称にいつまでも若いままの魔女には、その老いが憎らしくて仕方なかった。

 だから、時を止めた。男がいつまでも美しくいられるように。
 それによって魔力の大半を失い、もう二度と言葉を交わすことができなくなっても、自分たちは心で繋がっているはずだから。


「呪い屋さまは馬鹿らしいと笑うでしょう。ですが私は本気です。かの大天才ムル・ハートが月にご執心なように、西の魔法使いは死体だって愛します。愛しています。だから、どうか私たちのことは見なかったことにしてください」
「………………」
「私たちの、邪魔をしないで」


 それは、西の魔女の切なる願いだ。恋人とただ二人、孤独を求めて嵐の谷ここへ来た。誰にも干渉されず、目を閉じ耳を塞ぎ、そっと傷を癒しに来た。

 ファウストだって似たようなものだ。そもそもこの嵐の谷は誰の所有地でもない。人間が訪れないからという理由だけで魔法使いが隠れ住むようになって、暗黙の了解という薄いルールで土地を分け合い、顔を合わせることもなく暮らしている。現在ファウストの家が建っている場所だって元は誰か別の魔法使いの場所だったのだ。だから今、ファウストがこの魔女に土地を分け与えることに異議を唱える者は誰もいない。

 ファウストは眼鏡を押し上げると、きっぱりとした口調で述べた。


「断る」


 女は意外だと言うように目を見開いた。
 東の呪い屋は人嫌いだ。人間は言わずもがな、魔法使い相手だって関わることを極力避ける。だが、案外情に脆いところがある、と女は以前呪い屋の世話になったという魔法使いから聞いていた。


「事情を話せば僕が同情して要求を飲むとでも? 何度も言うが、僕は僕を利用しようと近づいた奴を笑って許せるほど善良じゃない。まして、僕を殺そうとした相手なら尚更」
「!」
「僕が気づいていないとでも思ったのか? 力の弱い魔法使いだと偽ってフィガロを呪わせようとしたことが何よりの証拠だ。君が僕に依頼をしたのはフィガロを殺すためじゃない。僕に呪術を使わせて周囲の精霊を遠ざけ、呪詛返しに遭う僕を確実に石にするためだろう」


 呪術は扱いが非常に難しい。呪う対象の方が術者よりも強い魔力を持っていた場合、その呪いはそのまま術者へと跳ね返ってくる。強い呪術を使うほどそのリスクは上がるため、ファウストは受ける依頼は慎重に選んでいた。呪い屋とはそういう危険も抱えているのだ。

 女はそのことを知っていたのだろう。真っ向から殺そうとしたところで、嵐の谷の精霊が必ず彼を守る。何より、女は恋人の容姿を保つことに常に大半の魔力を費やしているため、今の彼女は南の魔法使いと並ぶほどに弱い。ファウストを石にするのなら、彼を騙してより強い魔法使いを呪わせ、精霊の守護を解いた状態で呪詛返しに遭わせるのが好都合だった。


「目的は僕のマナ石と、この土地か。大方、その男に魔法をかけ続けるには継続的にマナ石を取り込まなきゃいけないんだろう。……だが、当てが外れたな」
「っ……本当に、呪い屋さまには驚かされてばかりです」


 自分の目論見が全て見透かされていたと気づき、女はようやく笑顔を崩した。ギリ、と睨む瞳が月光で鋭く光る。


「東の呪い屋さまなら質の良いマナ石になると思っていたのですが、どうやら失敗に終わりそうです。でも、今は少しでもマナ石が欲しい状況ですので。小さなマナ石でも我慢することにします」


 女は苦虫を噛み潰した顔でそう告げると、懐から一つの布切れを取り出した。

 その布の切れ端にファウストは見覚えがあった。なぜなら、それはファウストが麓の村まで自ら買いに出向き、魔法で縫製したものの一部だったからだ。
 子どもの成長はきっとあっという間だからと、少し大きめに作ってやったフランチェスカの上着の破れた切れ端だった。


「! あの子の汚れを落とす魔法を使った時に一緒に……!」
「いくら私の魔力が弱くとも、あの子どもには勝るはず……! 呪い屋さまのマナ石が無理でも、その弟子のマナ石なら……!」
「……! よせ……!」
「《プルラ・ノノプボス》」


 ファウストの制止も聞かず、女は自らの魔道具である口紅を握りしめて呪文を唱えた。
 本来なら、呪術を使うにはその強さに応じて特別な儀式が必要だった。だが、今夜は満月だ。荒削りでツギハギだらけの魔法でも、呪術として成立する。

 いないはずの精霊が一斉に散るように、女とファウストの間を風が通り抜けた。女は呪術が成功したことでにやりと口端を釣り上げる。対してファウストの頬に汗が一筋流れ、眼鏡の奥の瞳を一層険しくした。


「馬鹿な真似を……! 呪詛返しに遭うぞ!」
「あの子の? まさか、……っ?」


 その時、女の体に異変が起こった。
 何かが込み上げてくるような感覚のままに、ゴホゴホと咳き込んだ。咄嗟に下を向き手で口元を押さえると、指の隙間を液体が伝う。ぬるりとした感触に疑問を感じおそるおそる手を離した。

 女の色白な手は、吐いた血によって真っ赤に染まっていた。

 そんなはずはない。呪詛返しなんて起こるはずがない。
 だって、呪ったのは子どもの魔女だ。確かに魔力を消耗してはいるけれど、あんな赤子にも等しい年齢の子どもに魔力で負けるだなんて!

 水面に映る世界のようにぐにゃりと視界が曲がり始めた。これが心因性のものなのか、あるいは呪詛返しによるものなのかもはや区別は付かなかった。自分が立っているのか座っているのかさえ分からない感覚の中で、女は二度目の血を吐く。

「……若さに拘るあまり、基本的なことを忘れてしまったのか。魔法使いの見た目と魔力は比例しないことを」
「なん……どうして、あの子ども…………」


 膝をついて呻く女を見下ろしてファウストが言い放った。


「あの子の魔力は同い年の数倍は強い。あと数十年すれば僕を超すだろう。もしかしたら、北の魔法使いフィガロに届くまでになるかもな」


 フランチェスカに幼い頃から魔法の教育を施すのはそれが理由だった。
 彼女の魔力の成長スピードはおそろしく速い。だが無知無学のまま強い魔力を持つことは、馬車の手綱を握らないことと同じだ。ますます上がる速度に対応できず、何かの拍子にぶつかって、圧死する。
 それを防ぐには、フランチェスカが早々に魔法の使い方を覚えるしかない。たとえ、たった百年だけの夢幻だとしても。


「でっ、で、も……これ、こんなっ……! 呪詛返しだけで、こんな威力に、なることなんて……!」


 女が血を吐きながら呻き苦しむ。皮膚がぼろぼろと崩れ出し、爪は欠け、見るも無残な姿へと変貌していく。


「普通はない。いくらあの子の魔力の方が強かったとはいえ、身体が崩壊するほどの呪詛返しは北のオズやミスラ辺りじゃないと発生しないはずだ。……だが、あの子は少し特別なんだ」
「特、べ……?」
「あの子は生まれた段階で既に大きな呪いにかけられてる。生半可な呪いが介入する余地はない」


 毒を以て毒を制す。厄介な呪いでも、他の脅威に晒されればそれはフランチェスカを守る鎧へと変わるのだ。フランチェスカ自身もそれに気付かないまま。

 先ほどまで妖艶な笑みを浮かべていた魔女はどこにもいない。絶望した表情で自壊していく身体を見つめ苦痛に喘ぐ女に、ファウストは一歩近づいた。


「《サティルクナート・ムルクリード》」


 暗闇の支配する森の中で、ファウストと女の周囲だけがぼんやりとした灯りに包まれる。

 途端、女の呻き声は徐々に小さくなり、その瞳に輝きが戻った。身体の崩壊が収まったわけではないのに、痛覚が切られたように大人しくなる。
 そして地面の中に男がいるのを見つけると、あどけない少女のように笑った。


「……………………あ、……ああ、こんなところにいたのね、エド。月よりも美しい貴方」


 女が震える手を男の頬に添える。


「一緒にいきましょう。誰に理解されなくたって、貴方が魔女の私を愛してくれたように、私も死体になった貴方を愛するわ。見えなくても、話せなくても、心で通じ合える。だって私は、西の国の魔女ですもの」


 子供をあやすような声で女は歌を口ずさむ。ファウストの知らない歌だった。東の国でも中央の国でも聞いたことがない旋律だ。もしかしたら、彼女の故郷の西の国でしか歌われていないのかもしれない。


「ら……ららら……ら…………」


 パキ、パキ、と何かが割れるような音が歌に混ざって聞こえてくる。次第にそれは歌よりも大きな音となり、最後に一段と大きく響かせて、それからは何も聞こえなくなった。


「……僕は、君たちのことを何か知っているわけじゃないし、君たちのことを理解できるわけでもないが」


 静寂の中でファウストが呟く。

 女のマナ石は本当に小さなものだった。指先でつまむ程度のそれを草の中から拾い上げると、ファウストは地面の穴を見下ろす。

 眠り人形のようだった男は魔女の魔法による幻だ。その魔女が消えた今、男の姿を保つ力は何も残っていない。白骨と成り果てた男の骸は、それでも何かを待っているように見えた。

 せめて、あの世で二人共に安らぐくらいは許されていいはずだ。
 そう言葉にする代わりにファウストは男の骨の隣に女のマナ石を置いてやると、魔法で土を被せた。最後に帽子を胸の前で持ちもう一度小さく呪文を唱えたが、特に何かが変わった様子はない。ただのまじないのようだった。

 ファウストにしてやれることはもうない。再び帽子を被って引き返したファウストを見送るかのように、大木の葉が一枚ひらりと枝から離れて土の上に舞い落ちた。











 来た道を辿ったファウストは、己の家の様子を見上げて目を丸くした。
 二階に位置する一部屋だけ、真夜中だというのに煌々と明かりがついている。窓から漏れ出る光は紛れもなくフランチェスカの部屋からだった。

 家主がいないのをいいことに夜更かしをしていたようだ。全く、と帽子を触りつつ深いため息を吐くと、彼女の名前を呼ぶために一歩近づく。
 だが、呼ばれたのはフランチェスカの名前ではなく、ファウストの方だった。


「あ、ファウスト先生だ! おかえりなさい!」


 明かりのついている窓が開くと、瑠璃色のつぶらな瞳が悪びれもなくファウストに向けられた。ファウストの叱咤が飛んでくる直前だったことなど知りもせずに、ニコニコと家主の帰宅を迎える。


「夜のお散歩? いいなー! フランカも一緒に行きたかったー!」
「……………………この子は…………まあ、そんなところだよ。それよりもフランチェスカ、窓から乗り出すのはやめなさい。落ちたらどうするんだ」


 脳天気なフランチェスカに、ファウストは完全に呑み込まれてしまっていた。おかえりなさい、と屈託のない笑顔で言われてしまえば怒る気も失せてしまう。

 窓から身を乗り出してファウストを見下ろす彼女に中に入るよう伝えるが、時間帯を考慮し控えめの声量で放たれたファウストの声は上手く彼女の耳に届かなかったようだ。


「んー? 何ー? なんて言ったの、先生………………あっ、わあ!」
「! フランチェスカ!」


 声を拾おうとさらに身を乗り出したフランチェスカの体は、突如吹いた風によってぐらりと大きく揺れた。小さく体幹もない身では自身で支えることも難しく、開け放たれた窓の外に向かってバランスを崩し――転落した。


「わー!」
「《サティルクナード・ムルクリ》――!」


 ファウストが咄嗟に鏡を取り出し、早口で呪文を唱える。
 しかし、彼が唱え終わる前にフランチェスカの声が辺り一帯に響いた。


「《ロクァークス・フェレス》!」


 ぽんっ、とフランチェスカの手の中に箒が生まれた。
 フランチェスカを乗せて宙に浮く箒は昼間彼女が乗っていたファウストのものではなく、普段はバケツと共に置いてある掃除用のそれだ。

 身の丈に合わない箒に跨り、右へ左へふらふらと蛇行しながら徐々に高度を下げていく。くすぐるようにそっと地面に降り立つと、フランチェスカは自信たっぷりの顔でふふんと胸を張った。


「先生見てた!? フランカ、箒に乗るのちょっと上手になった!」
「…………フランチェスカ」


 ファウストの冷ややかな視線に気づいたのか、フランチェスカはハッと瞬きをして動きを止める。蛇に睨まれた蛙のようにその場に佇むフランチェスカを見下ろしたまま、ファウストは静かに口を開いた。


「今回は成功したからいい。でももし失敗して、僕の魔法が間に合わなかったら?」
「えっと、えっと…………」


 頭から地面に激突していた。最悪の場合、即死だ。


「魔法使いだって頭を強く打てば死ぬ。次からは気を付けなさい」
「…………うん………………」


 言葉の冷水を浴びせられ、フランチェスカはしゅんと肩を落とした。咄嗟の魔法が成功したという熱に浮かれていたが、改めて自分が落ちた高さを見てサッと背筋を凍らせる。民家の二階でも子供の目線からすれば相当な高さだ。あの場所から落ちたら、痛いどころじゃ済まないかもしれない。

 呆然と立ちすくむフランチェスカを見て、ファウストは少し凄み過ぎたかとばつが悪そうな顔をして眼鏡を押し上げた。


「……でも、咄嗟の機転はよかったよ。昼よりも上達したな」
「本当!? やった……………………あれ、先生何持ってるの?」


 ころころと態度を変えるフランチェスカに一瞬呆れを見せたファウストだったが、彼女に指摘をされて自身の手の中に視線を落とした。


「袋? 何入ってるの? ファウスト先生のやつ?」
「いや、これは……」


 フランチェスカが指したのは、魔女がファウストに差し出したサシェだ。魔力を奪った魔法使いの私物だと偽っていたが、その実は北の魔法使いフィガロが数百年前に作り出したものだった。彼に苦い思い出のあるファウストからすれば今すぐにでも捨ててしまいたいアイテムなのだが、つい忘れて握ったまま帰ってきてしまったらしい。

 ……とはいえ、鉱石そのものに罪はない。
 品物自体は希少価値の高いものだ。少なくとも東の国で手に入れる機会はそうそうやってこない。北の国まで足を伸ばしたところで、入手できるかは運次第だ。


「…………北の国で採れる、香りのする鉱石だ。数百年前のものだからもう香りはしないが、お守りとしてはまだ使えるだろう」


 つまり、フランチェスカの教材としては最適だ。ファウストとしては癪だが、フィガロが使う道具はどれも一級品ばかりなので、フランチェスカの見聞を広めるには丁度いい。

 袋を開けて鉱石を取り出し、ファウストがフランチェスカの手のひらの上に乗せる。見たことのない石を目の前にしたフランチェスカはわあと目を輝かせて、月明かりに照らしたりして楽しんでいた。


「きれい! いいな〜これ! フランカもほしい!」
「……僕は使わないから、君が欲しいなら持っていてもいいよ。危険はないと思うが、何か異変があればすぐに僕に言うように」
「いいの!? ありがとうファウスト先生!」


 手の中の鉱石をぎゅっと握って花のような笑顔を見せたフランチェスカにファウストは何も言えなくなる。
 瞳の奥に北の吹雪を映した彼が取れた行動は、早く寝なさいとフランチェスカの背中をぽんと押すことだけだった。


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