指差しのよすが

或るアイドルへの大難

10

 転機が訪れたのは、茜が中学生の頃だった。


「つまるところですね。貴方の曾祖父様にあたる方の遺産の一部が、貴方に相続されるんですよ。と言ってもまだ中学生の貴方にはピンと来ないかもしれませんが、ようはこの金額を貴方が受け取れると思ってくれて構いません。それから、一部の会社の所有権も貴方に相続されます。リストを作りましたので、詳細はこちらの紙をご覧ください。あとは相続税を抜いた金額が――」


 ある日、いきなり院長に学校を休まされたかと思うと、施設の接待室に無理やり押し込められた。何が起こるのかと身構えていたのだが、それからまもなく全身黒スーツの大人たちがぞろぞろと入室し、かと思えばぺらぺらと茜には理解の及ばない難しい話をし始める。

 どうにか要点だけをまとめた話によると、茜の曽祖父はかなりの傑物だったらしい。詳しい事情は教えてくれなかったが、アイドル業界ではそれはもう名前を知らない者はいないほどで、その死後は莫大な遺産が遺された。遺産は分配されて血縁者の元へ渡り、その内の一部が茜の元へ巡ってきたのだ。

 両親も知らない自分がそんな大層な御仁の血を引いていることも驚きだったが、最も度肝を抜いたのはその遺産の総額だ。ざっと目を通してもゼロがいくつあるか判断できない。それだけではなく、曽祖父とやらが所有していた会社の一部も茜に相続権があるようだった。目玉が飛び出そうになるほどの情報に茜は軽い目眩を起こしかけていた。


「いいじゃない、茜ちゃん! こんなことって滅多にないわ。まだ子供の貴方には分からないかもしれないけど、貰えるものは貰っておいたらいいのよ。将来何かの役に立つかもしれないわ」


 なぜか茜よりも興奮した様子の院長が誘惑するように茜に語りかける。目の前の金額に目が眩んでいるのは茜だけではなかったらしい。

 このお金があれば何ができるだろう。少なくとも、この施設を出ていける。まだ中学生の身なので今すぐにとは行かないが、高校生になれば外で一人暮らしをすることができるだろう。そうすれば、魔女のような院長にこれ以上縛られなくて済むのだ。これ以上ないほど魅力的な将来プランだ。

 そのお金が、その時まで残っていれば、の話だが。

 茜はすっと、院長とスーツ姿の男の顔を盗み見る。

 茜は自分が社会的に弱い立場であることを自覚していた。そしてそういう弱い子供に笑顔で歩み寄ってくるのは、大抵の場合は何かを隠している大人だ。二人からはそれと似たような匂いを感じる。

 受け取れるのは本当に額面通りか?

 茜が高校生になるまで、そのお金は一体誰が預かるのか?

 院長や職員が、茜の金に手を出さないという保証はあるのか?

 疑問や不安は次々と湧いて出てくる。それと同じくらい、目の前の遺産が魅力的なのもまた事実だった。天秤に掛けられた両者をどちらに傾けるべきか、茜は岐路に立たされている。


「……ちょっと、考える時間がほしいです」
「あら……仕方ないわ。難しい話だったものね。少し休憩しましょうか」


 ここぞとばかりに院長は茜に甘かった。施設の子供を気遣う心優しい聖人になりきっている。外部の人間が訪れる時はいつもこうなので、あまり気にはしていなかった。

 水を飲みに行くと告げて茜は接待室を出た。廊下にも何人かスーツの人間がいて、わざわざ遺産の話をするためだけにここまで人が来るのは少し疑念が残る。

 だけど、余計な知識と現実で頭が休憩を求めていたのも事実だった。外の空気を吸いたくなって、少しだけ玄関を出る。


「…………」


 そこで鉢合わせた人物と目が合った瞬間、茜の心臓はばくんと飛び跳ねた。

 年齢は分からないが、中年と呼ぶには早い。凛とした顔で鋭い目つきの男は一瞬茜を見下ろした後、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。彼も他の大人と同様に黒いスーツを身にまとっていたが、彼だけは少し雰囲気が違っていた。もしかすると、この人が今日来たスーツ集団の中で最も上の立場にあたるのかもしれない。


「……えーと、こんにちは」
「話しかけるな。殺すぞ」
「…………」


 やっぱりこの施設を訪れる大人にろくな人間はいないんだと茜は落胆した。開口一番子供を脅す大人がまともであるはずがない。

 しかし本当に殺す気のある人間がわざわざ“殺す”と宣言することもないと思い、茜は無理やり会話を続けることにした。彼がもし、本当にスーツ集団の上に立つ人間なのだとしたら、少しでも情報がほしい。茜が遺産を受け取るべきか捨てるべきか、判断材料は多いに越したことはなかった。


「貴方も、私に遺産を受け取らせに来た人? なんで外で待ってるの?」
「…………」
「あの遺産のこと、私に隠してることあるよね? なんで貴方の部下は話してくれないの?」
「…………」


 わざと不確定な情報を混ぜ込んだ。これで相手が訂正してくれれば、それを起点にさらに話を聞き出せるのだが。

 男は暫く黙った後、大層くだらなさそうに答えた。


「あいつらは俺の部下じゃねえ。無関係でもねえが。俺は遺産の相続を見届けに来ただけだ。てめえが相続しようが放棄しようが俺は知らねえ。てめえが勝手に決めろ」
「……口悪っ」


 茜の正直な感想がつい口をついて出たが、男はそれほど気にしていない様子だった。彼は良くも悪くも茜に無関心だ。他の大人たちは少なからず、あの巨額を受け取る子供として奇怪な目を向けていたのだが。

 だがそれは、茜の目にはある種の信用として映っていた。院長や他のスーツの大人のように、どうにか遺産を受け取らせようと子供相手にごまをする空気が一切感じられない。軽率に殺すなんて言えるほど無関心だから、その言葉に嘘が混じっていないと信頼できる。何とも思っていない人間にわざわざ嘘をつく理由は無いからだ。


「あの遺産、何か曰く付きなの? 実は闇金だったとか?」
「わざわざ教えてやる義理はねえ。金は金だ。てめえが好きに使え。もっとも、てめえが好き勝手使える分が残るかは知らねえがな」
「……残る? えっ、あのお金消えちゃうの?」


 多少は税金で引かれると説明は受けたが、無くなるなんて聞いていない。茜には圧倒的に知識が足りていなかった。


「説明を受けてねえのか、それとも理解する脳が足りてねえのか……遺産は遺産でも負の遺産だ、あれは。てめえが自由に使えるのはその残り分だけだ」
「……やっぱり」


 薄々勘付いていた事実に、茜は顔を引き攣らせた。

 負の遺産。負債、つまりは借金だ。見せられた額面の裏には多額の借金が隠されているのかもしれない。大人たちが揃いも揃って子供相手にへりくだっていたのはそういう理由だった。ようは借金を茜に押しつけたかったのだ。それなら納得ができる。


「もっとも、てめえが残り分を全部使って精算するなら負の遺産は消える。何年かかるかはてめえ次第だが」
「…………無理だよ、それ。たぶん、施設にいる限りはできない。私が受け取った瞬間、きっと院長先生が横からかすめ取る。あの人はそういうのが得意なんだ。何に使ってるのかは知らないけど」


 長年一緒に暮らしていれば何となく気づく。院長は施設のお金をどこかに流している。おそらく職員たちも知っている。行き先がどこなのか、検討もつかないが。


「……なんだ。てめえ、あの女の正体をまだ知らねえのか」


 男は憐れむようにそう言った。

 幼い茜には意味が分からなかった。院長は性格の悪いただの女の人だ。そりゃあ、魔女みたいなところはあるけれど。


「……てめえも御大の血を引いている。それに免じて一つだけ忠告しておいてやる。死にたくなかったら早めに施設を出ろ」
「……………………どゆこと?」


 やっぱりこの男も、訳の分からないことを一方的にぺらぺらと話す人種のようだ。顔にクエスチョンを浮かべる茜を見下ろして顔色ひとつ変えず、言いたいことはそれだけだと言わんばかりに彼は目を背けた。


「あ〜もう、訳わかんないよ。結局私は遺産を相続すべきなの? しないべきなの?」
「それと忠告とは別問題だ。あの女に騙されて借金で潰れるか、俺に騙されて大金を逃すか、好きな方を選べ」


 どちらを選んでも嫌な結果に変わりはない。借金を背負うことがどれほどの重荷になるかいまいち予想つかないが、きっと想像を絶するものなのだろう。自力で立て直してマイナスをプラスに変えるにもどれだけの労力がかかることか。


「……分かった。分かんないけど分かった。……あと、もう一個教えてほしいんだけど。私の曾お祖父ちゃんって、アイドルだったんでしょ?」


 そう茜が述べた瞬間、男の目付きが変わった。まるで刃のように鋭さを増す。

 だけどここまで育った茜の面の皮は厚かった。男の張り詰めた空気にも臆することなく、ずばりと問いを投げかける。


「アイドルってさ――めっちゃ稼げる?」





 応接室の扉を開ける。戻ってきた茜を見るなり、院長はふんわりと笑いかけた。


「ああ、戻ってきたのね。それで、考えは決まったのかしら」
「うん、院長先生」


 院長と、それからスーツ姿の大人に向かって、茜は堂々と述べた。


「遺産は全部放棄します。あと私、アイドルを目指します」


 両手を広げてやってきた巨万の富を、涙を飲んで見送ることにした。本当は、喉から手が出るほど欲しかったけれど。そこに大人の悪意が仕込まれていたと気づいたのならば、仕方ない。

 ばいばい、私のものになるはずだったお金。いつかきっと、アイドルになって迎えに行くからね。
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