指差しのよすが

或るアイドルへの大難

09

 親なし子への風当たりは強い。少し心が成長して、個々人の差に目を向ける年頃になれば、次第に茜は爪弾きにされるようになった。

 陰口は絶えず、遠巻きに見て近寄ろうともしない。本来手を差し伸べるべき教師もそれをしなかった。茜の孤児院が一体どういう場所か、なんとなく察しがついていたのだろう。臭いものに蓋をして、虐められている可哀想な子なんていないものとして扱った。あと二年、あと一年と冬の期間を耐え忍ぶように。もしかしたら、次に担任になった先生があの子を助けてくれるかもと淡い期待を残しながら。

 それでも茜は、そんな大人がいないことを知っていた。職員室の誰もが関わりたくないように目を逸らし、参観日には他の児童の親からも冷ややかな視線を向けられる。

 だが、それは茜だけが特別だからではない。茜と同じ孤児院にいる児童もまた、他学年で同様の扱いを受けていた。かつて茜に濡れ衣を着せた二人も同じように。そう思うと、どこかすっとする気分だった。ざまあみろ、と心の中で嗤っていた。

 そんな学校生活なのだから、当然友達は誰もいない。毎日一人で帰路につき、狭い公園のすぐ脇道を通る。だけど直帰してしまっては、あの魔女のような院長と顔を合わせる時間が無駄に増えてしまう。だから茜は、学校が終わって日が沈みかけるまで、ある程度公園で暇を潰すのが日課になっていた。

 この日も、ブランコに座った茜の影を夕日が伸ばしていた。何も楽しいことがなくて、でもわざわざブランコを漕ぐ気も起きなくて、ぼうっと自分の影を見つめていた。住宅街の中の小さな公園だ。子供たちはみんなここよりももっと大きな公園へ流れていってしまったので、今は茜くらいしか使っていない――と、思ったのだが、どうやら今日は茜の他にも客人がいたようだ。


「……クソッ!」


 男の怒号が聞こえたかと思えば、茜の数歩先に黒いプラスチックの板がかつんと飛んできた。何かの電子機器だろうか。液晶が白く光っているのは見えるが、それが何なのかはまだその場でははっきりとしなかった。

 顔を上げると、その数メートル先でやるせなさを全身に滲ませた三十路過ぎの男が一人、年季の入ったベンチに腰を下ろしていた。


「……どいつもこいつもみんな――――を、――て――――にしやがって――!」


 肘と膝をくっつけるように前かがみになった彼は何かをぶつぶつと呟いた後、先程の怒鳴り声が嘘のように地面を見つめたまま動かない。身なりもあまり身綺麗とは言い難く、あれならまだ院長の方が印象が良さそうだ。

 これが世に聞く不審者か。茜は直感でそう思った。

 ああいう輩にはあまり近寄らない方がいい。自ら火に飛び込んでいく趣味はないので、茜は気づかれないうちに去ろうとブランコから立ち上がった。

 しかし、視界の隅できらめいた液晶に目を引かれてしまった。幼さでネジの緩んだ天秤が身の安全から好奇心へと傾く音がする。男が放り投げた機械と男本人を何度か見比べて、少しだけならいいかと茜は公園を出るはずだった足を電子機器へ向けた。

 液晶の端に軽くヒビが入ってしまった端末を拾い上げる。画質の荒い画面の中央には音符のマークと、その下にシークバーが表示されている。


「これ、音楽プレーヤー!?」


 茜は思わず目を輝かせた。

 およそ電子機器に触ったことのない茜にとって、音楽プレーヤーは生まれて初めての代物だった。音楽なんてものは基本的に学校の授業か、テレビのニュース番組で流れてくるくらいしか聞ける機会がない。だがこれがあれば、いつでも好きなだけ音楽が聞けるのだ。チョコレートを何十個積まれたとしても勝る。

 適当にボタンを押してみたりして、興奮気味にプレーヤーを触る茜だったが、その持ち主の男が自身を見ていたことに全く気づいていなかった。


「おいガキ! 何してる!」
「っ!!」


 びくん、と茜の肩が大きく揺れた。驚きのあまり手を滑らせ、プレーヤーは再び地面に叩きつけられる。


「……あ、え、えと」


 冷や汗を流した茜は慌てて端末を拾い、おずおずと男に差し出した。


「ご、ごめんなさ……珍しくて、つい……」


 大人のものを勝手に取ってはいけない。破れば牢屋行き。施設での教育が茜の脳によぎった。

 ここに牢屋はないが、代わりにどんな罰があるんだろう。やっぱり殴られたりするんだろうか。職員にはたまにやられることがある。そういう時は大体、牢屋が既に誰かで埋まっている時だった。


「……」


 茜がぎゅっと目を瞑る。

 男は何も言わなかった。どんな表情をしていたのかは茜には分からなかったが、少なくとも手を上げようとする気配は感じられなくて、茜はひっそりと片目ずつ開ける。


「……それ、欲しいか」
「えっ」


 やつれた顔の男がそう尋ねる。茜は一瞬耳を疑ったが、急いでぶんぶんと首を縦に振った。


「ならやる。どうせ安物だ。俺にはもう必要ない」


 そう言うと、男はポケットから何かを取り出し、ぽんと茜に投げて寄越した。手の中収まったイヤホンに茜が気を取られているうちに、男はのっそりとベンチから立ってその場を後にする。


「えっ……えっ、え?」


 遠ざかる男の背中を見て、茜はあまりの急展開に目が回りそうだった。そんなことを気にもせず、男はすたすたと去っていく。


「ほ、本当にもらっていいの!?」
「……」
「もう茜のだからね! 返せって言っても返さないからね!」


 普段あまり言うことがないせいで、素直に礼を述べることもできなかった。とうとう男の顔をきちんと見ることがないまま、公園に茜一人だけが取り残される。

 急に静けさを取り戻した空間で、茜は音楽プレーヤーに目を落とした。耳にイヤホンを装着し、いざ気を引き締めて再生ボタンを押す。

 聞こえてきたのは、軽快な伴奏。そして男の歌声。運動が苦手な茜でもつい体が動いてしまいそうになるほどの魅力が鼓膜を揺らした。


「……あれ、この歌知ってる」


 曲がサビに近づくにつれて、徐々に記憶に引っかかるフレーズが増えてくる。朝、学校に行く前のニュース番組でたまに流れてくる曲だ。なんでも、数年前にリリースされた曲が最近のドラマの主題歌にタイアップされたらしい。歌っているのは“さがわ”だか“さざみ”だか茜はよく覚えていなかったが、ニュースキャスターが彼を何と呼んでいたかだけは覚えている。


「アイドルだ」


 スーパーアイドル。ステージ上で輝く一番星。

 歌って踊るだけの、何の生産性もない職業なのに、なぜか人はそういうものにお金を払うらしい。それも、全国の人が。


「アイドルになれば、茜も楽できるかなぁ」


 そんなこと、絶対にあるわけないのだけど。非現実的な妄想くらい、まだ許される歳のはずだ。

 鼓膜を震わせるスーパーアイドルの歌声に耳を傾ける。ボロボロのスニーカーを履いた足をぱたぱたと揺らしながら、いつまでもその歌を聞いていた。

 門限の時間も忘れて。





「ごめんなさい! もう遅れないから! ちゃんと時計見ま――」


 ガシャン、と無慈悲に閉じた扉に縋り付く。何度か閉じ込められた経験はあるが、自身の髪を掴みあげる職員の冷ややかな視線と明かりのない部屋は茜の恐怖心を幾度と掻き立てた。

 どんどんと扉を叩いても返事は返ってこない。これもお決まりだった。


「ごめんなさい! ちゃんとします! 学校終わったらすぐ帰ってきます! 遊んで帰ってきません! 公園にも行きません! ごめんなさい……!」


 泣いて許しを乞うが、嗚咽ばかりが部屋を反響して、自分はここに一人ぼっちなのだと痛感するだけだった。

 だが、何がきっかけだったのか。普段なら職員が迎えに来るまでずっと涙をこぼしているだけだったのに、今日の茜はやけに頭が冴えていた。慣れのせいもあるかもしれないし、公園での不思議な出来事のせいかもしれない。

 ふと、こんな考えが脳裏を過ぎった。

 もしかして自分の声って、外に聞こえてないんじゃない?

 目の前には鉄製の扉。施設の廊下に出るまではさらに階段が続いている。反対側には鉄格子が嵌められた小さな窓が一つだけ。施設内で地下と言えばここ一つだけのため、隣の部屋は存在しない。

 つまり、この部屋は究極の防音室になっているのでは?そう思った時、茜の涙はピタリと止まった。

 また仮説の段階だから分からない。理科の実験みたいに、検証することが大事なのだ。茜はゆっくりと立ち上がると、大きく息を吸い込んだ。


「わっ!」


 腹に力を入れて精一杯叫ぶ。静まり返った空間に変化はない。

 何も起きないことを確認すると、茜は再び息を吸った。


「……トイレ! トイレ行きたい! 漏ーれーちゃーうー!」


 ………………。

 相変わらず、扉の向こうからは音一つ聞こえてこない。一応この牢屋も、茜以外に使う子供がいるのだ。仮に外で職員が待機していて、今の声が聞こえたのだとすればさすがにすっ飛んでくるはずだ。

 だが、結果は無反応。これは廊下まで声は届いていないという仮説に一歩近づいた。

 あともう一押しと言わんばかりに、茜は深く息を吸った。今度は喉を枯らして叫ぶのではない。

 音楽プレーヤーで聞いた曲を思い出して歌った。“さがわ”だか“さざみ”だか知らないアイドルの旋律を声でなぞった。

 施設内では娯楽が禁じられている。歌も駄目だ。疲れた職員にはどんな歌でも雑音に聞こえるかららしい。だからもし誰かが歌おうものなら、すぐに職員が髪を掴んで牢屋に連れていく。

 茜の歌が彼女らに届いているのなら、扉が開くはずだ。まともに覚えていないせいであやふやな歌詞を歌いつつ、鉄の扉を注視する。

 サビを歌い終える。

 最後まで、扉は開かなかった。


「……あはは」


 茜の口から乾いた笑いがこぼれる。


「あっはははは! 馬っ鹿じゃん!? こんなの怖がってたの!?」


 冷たい床にひっくり返って、茜は自身の腹を抱えて大笑いした。悲しみと恐怖から出ていた涙のはずが、笑いすぎたせいでいつしか生理的な涙に変わっている。それでも口から出てくる笑いはおかしなほど止まらなかった。まるで自分が壊れた玩具になったみたいだ。

 だって、それもそのはずだ。施設の他の子供たちも自分も、あんなに恐れていた地下室だけが、自分の自由を約束してくれる場所だったのだ。

 ここでなら何をやっても怒られない。歌うのも自由。寝るのも自由。走るのも自由。ベッドから学校まで、どこに行っても他人が付きまとう環境の中で唯一、ここだけが茜が一人になれる場所。

 そう思うと、今まで泣いていた自分が馬鹿らしく思えてきた。どうしてあんなに怖がっていたのだろう。ここには何もないのに。世界でただ一つ、“何もない”が叶う場所なのに。

 この瞬間、ここに閉じ込めることがお仕置だと思っている職員も、ここに入れられる茜を笑う子供たちも、全員茜の敵ではなくなった。一人先に殻を破った気分だ。もう怖いものなんて何もない。

 ありがとう、“さがわ”だか“さざみ”だか知らない人!

 ありがとう、アイドル!

 貴方のお陰で、私は今、世界の真実を知ることができたよ! これが成長ってことなんだね!

 茜は笑って、タイトルも知らない曲を歌い続けた。

 扉の向こうから足音が聞こえてくるまで、ずっと。





 その日から茜は、周りにいじめられる不幸な子供から、手がつけられないやんちゃな子供へと変貌した。

「あっまた茜ちゃんがチョコ盗んだ!」
「院長先生〜! 茜ちゃんが〜!」


 右手にチョコレートを一粒握りしめて廊下を走る。ちらりと後ろを振り返れば、他の子供が職員に密告しているのが見えた。

 職員から逃げ回るのはもう慣れっこだった。運動神経は悪いが、逃げ足には十分自信がある。ひょいひょいと人を避けて庭に出ると、新鮮な空気が茜の来訪を歓迎した。

 だがそれも束の間のことだ。ぐっと頭皮を引っ張られる痛みが茜を襲う。


「いっ……!」
「院長先生! ナイス〜!」
「茜ちゃん、何度言えば分かるの? そうやって大人のものを盗れば先生たちが相手してくれるなんて、思っても間違いだからね」


 院長の声が頭上から降ってくる。ずるずると見せしめのように引きづられたまま、茜は地下室へ連行された。


「痛い痛い! 離してよ〜!」


 目に涙を浮かべて訴えるが、院長は何も返さない。それを見た他の子供たちから嘲笑されるばかりで、何も得られるものはなかった。

 階段を降りて、いつも通りの部屋に放り込まれる。ガシャンと閉じられた扉に縋り付いて、これもまたいつも通り懇願した。


「もうしない! もうしないから! 開けて!」


 何回か戸を叩く。だがその強さには十分注意した。あまり音が大きすぎると、去っていく足音が聞こえないからだ。

 完全に人の気配が消えて数秒。もう院長は消えただろうと判断すると、茜はにやりと笑った。

 その場で靴を脱ぐ。中からテープで固定した音楽プレーヤーを取り出し、反対側の靴からはイヤホンを出す。ポケットに入れて万が一見つかれば大事になるから、こうして隠し持つには靴の中に入れるのが一番安全だった。

 もちろん、異物を常に踏んで歩くのは痛みを伴うが、この地下室に入るためなら多少は我慢出来る。

 そうして、茜は音楽を聞きながら歌っていた。言わばこの半地下の部屋こそが、茜のレッスン室だった。どれだけ大きな声を出してもここなら問題はない。最近気づいたが、自分は案外歌を歌うことが好きなようだ。

 いじめや虐待のストレスも、ここで歌うことで全部洗い流していた。

 これが音楽。これがアイドル。

 私もいつか、この歌を歌う佐賀美陣のように、アイドルになれるだろうか?

 ふと思い浮かんだ夢物語も、全部歌でかき消した。
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