或るアイドルへの大難
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順風満帆なはずだった。玲明学園に入学するまでは。アイドルになると決めたのだから、進学先はもちろんアイドル養成学校だ。有名なのは夢ノ咲と玲明の二校。しかし女子生徒も受け入れているのは女子部のある玲明学園のみだったため、受験校はほぼ一択しかないようなものだった。
中高一貫校への編入はかなりの倍率だったが、それ自体は大した壁ではない。元々地頭は良い方だった。お陰で中学時代は新聞配達のバイトをしながらもトップの成績を維持し、こうして高校受験も難なく通過できた。それで晴れて、アイドルとして己を磨き、左団扇で暮らせるほどの金を稼いでからさっさと引退する予定だった。
そのはず、だったのに。
(……あ〜〜、クソ、またかあ。よく飽きずにやれるよなぁ)
学園内に併設されたライブ会場。その楽屋から少し席を離れた隙にひっくり返された弁当を見て、茜は瞼を痙攣させた。
――小中と続けられてきた虐めは、玲明に入ってからも消えることはなかった。学園内できちんと立場が保証されている“特待生”であるにも関わらず。
理由は理解している。小中学校の頃と今で、その虐めの理由と性質が違うことも分かっていた。
これまで受けていたのは茜が児童養護施設出身だからだ。茜自身の人物像がどうであれ、怪しい施設で育ったというレッテルが茜を排斥対象に仕立てあげた。
だが、この玲明で受けているそれは茜の過去なんてどうでもいいのだ。使えない奴から虐めて、なるべく早く業界を出ていってもらう。そうすれば、人が消えた分の仕事が自分達に流れ込んでくる。元々少ない仕事を多くの人間で取り合う世界なのだから、邪魔者はさっさと掃いて捨てるほうが効率がいい。ただそれだけの理由だった。
蓋付きのままひっくり返されたおかげで中身が漏れていないのが幸いだった。昼休憩が終わるまであと二十分しかないのに、机の掃除までしていたら確実に次のライブの出番まで間に合わない。
おそらく実行犯であろう数人の女子生徒の視線を感じながら茜は弁当と荷物をまとめると、さっと楽屋を出て会場外の適当なベンチに座る。スーパーと食堂の惣菜を詰め込んだだけの弁当は予想通りぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。文句を言う暇も惜しいのでそのまま食べ進めるが、特段味を感じない。美味しいとも不味いとも思えない食物をただの栄養補給だと見なして胃に収める。
……これでも、非特待生に比べたら随分まともな生活を送れている。今もちらりと廊下に目を向ければ、無地のネクタイを締めた非特待生がモップを手にばたばたと走っていくのが見えた。彼女らにはきっと、中身がシェイクされた弁当を食べる茜でさえも宮殿でコース料理を食す貴族に見えているのだろう。特待生の中でも虐げられている者がいるなんて想像できないかもしれない。立っている世界が違うのなら、見える景色が違うのも当然と言えば当然だった。
……だけどそんなことは関係ない。とにかく頭にくる。なんで、よりによって私がそうなんだ。
特待生の中での序列は、簡単に言えばその時売れている順だ。入学したばかりの茜はまだお世辞にも人気とは言えなかった。
他の特待生と合同ライブを行ってもファンと呼べる人間は誰一人いない。コールなんて夢のまた夢。どれだけ熱心に歌って踊っても、茜は誰にも見られることはなかった。
(どうして誰も私を見てくれないんだろう)
お願いだから、もっと私を見て。私の歌を聞いて。私のことを応援して。
アイドルとしての芽を出せない焦燥感ばかりが募っていく。そうした焦りが表に出れば出るほど、人は近寄らなくなる。だからって人に見てもらえなくても構わないなんて自分に嘘はつけない。茜はアイドルで、アーティストじゃないのだ。施設を出れるだけの金は欲しい。誰に聞かれることがなくても歌えていれば十分なのだとしたら、こんな空気の悪い学園なんて退学して路上で好きなだけ歌えばいいのだから。
(やっぱり向いてないのかな、アイドル)
アイドルの父とも呼ばれた傑物が曾祖父でも、二代も跨げばその血はとっくに薄まっている。まして両親は、赤子の茜を名前もつけずに施設に捨てた外道だ。もしかしたら何か特別な理由があったのかもしれないけれど、その答えは一生かかっても見つからないのでひとまず外道と呼ぶことにしていた。
きっと自分には歌の才能はない。踊りの才能もない。中学からずっとアイドルのレッスンを受けてきた他の特待生と違って、自分はせいぜい施設の地下室で歌っていたくらいだ。入学した時点で実力にかなりの差をつけられてしまっている。
だからってどうしたらいいのかわからない。特待生が利用できる設備はすべて利用している。授業もレッスンもサボったことは一度もない。あと足りないものは一体何なんだ。どこに行けばそれを見つけられる。
(……ちょっと、疲れた)
会場に戻らなければいけないのが億劫で、空になった弁当をぼんやりと見下ろしていた。まるで電池が切れてしまった機械のようだ。指先一つ動かすのも、呼吸だって面倒に思える。
「――そこの方。顔色が優れないようですが、もしやどこか具合でも悪いのでしょうか?」
俯いた茜に突如、知らない声が降ってきた。ぱっと顔を上げると、日差しを背に茜に微笑みかける長身の男が立っていた。
「……え?」
「ああ、よかった。意識ははっきりしているようですね。まだ春とはいえ、ライブなどで激しく動いたあとは熱中症になる方もいますから、念のため声をかけさせてもらいました。とはいえ、体調が悪いようなら保健室に行くことをおすすめします。もし動けないようでしたら俺が運びますが」
そう言って彼は溶かしたバターのようなやさしい微笑を浮かべた。肩につかないまでの、男性にすれば長い部類に入る薄緑の髪がふわふわと風に揺れる。玲明学園の制服が茜と同じ学生であることを示しているが、なぜ、男子生徒が女子部のライブ会場裏にいるのか、一瞬頭に疑問符が浮かんだ。その後すぐに首から下げた入校許可証が目に入ったため、何らかの手続きを踏んで来ているのだと察したが。
「い、いや、大丈夫……です……? ちょっと疲れてただけだから……ですから」
「ならよいのですが。しかしくれぐれも無理はなさらないように。我々アイドルは体が資本ですからな」
流れるように紡がれる茜を労わる言葉の数々に、茜は自分が玲明学園から一瞬で教会かどこかにワープしてしまったのではと錯覚した。となれば、この男はまるで牧師だ。
……牧師?
その言葉を最近どこかで聞いたような気がして、茜はこれまでの記憶を辿ってみる。
「…………あっ、もしかして、男子部の風早巽!? ……さん!?」
「おや、俺のことを知ってくれていたんですね」
アイドル、教会、牧師というワードから、近頃玲明学園を代表する勢いのあるとあるアイドルの名前が思い浮かんだ。彼は頷いて肯定すると、ふっと茜に微笑みかける。
「男子部と女子部の間は情報も遮断されているようなので、こちらで俺のことを知っている方はあまりいないと思っていました」
「そりゃ知ってますよぉ! 端くれもいいとこだけど一応アイドルなんで、有名な人の名前はすぐに覚えるようにしてるんです」
「よい心がけだと思いますよ。学園ではどうしても歌やダンスなど目に見える実力で評価されがちですが、人脈を作るのも重要な技術ですから。人の名前を覚えやすいのは、これから先貴方の武器の一つになるかもしれません」
「これから先……先かあ……」
胸に突き刺さった言葉に痛みを感じた。表情を曇らせた茜に巽はすばやく何か悩みを抱えていると悟ると、「隣に座っても?」と一言断って茜の横に腰を下ろす。
「実はこの後のライブの手伝いに来ている身なので、あまり時間を割けなくて申し訳ないのですが……何かに思い悩んでいるようでしたら、俺が聞き役になりましょう。案外、言葉にすることで気持ちを整理できるかもしれません」
どうやら彼は、茜が出演するライブに用があってきているみたいだ。彼もステージに上がるかどうかは定かではないが、どちらにしろ巽と茜に残された時間はほぼ同じだった。
どうせ今日のライブが終わればこれっきり会うことはない人間だ。茜も巽も同じ特待生が、学園の外の仕事がない茜には顔を合わせる機会がない。
だから、愚痴の捌け口になってくれるという申し出はこれほどなく甘美なものに聞こえた。この時、茜にはそれを振り払う理由も、余裕もなかった。
「……ようは、舐めてたんです。アイドルを」
ぽつぽつとこぼれだした言葉は、やがて決壊したダムのようにあふれ出てくる。
「これまで地獄みたいな場所にいたから、もっと底があるなんて思わなかったんですよ。思えば今まで歌なんて誰かに教えてもらったことないし、運動神経悪いからダンスを覚えるのも時間かかって。座学は得意だからアイドルの授業でなんとか成績を補えてるけど、玲明は実力主義だからいつまで持つか分からないし。でもそんなんじゃ他の特待生にはいじめられるし、非特待生には大した能力もないくせにって目の敵にされてて」
児童養護施設で自分以外はみんな馬鹿みたいだと見下していた弊害が今になって現れていた。無自覚に膨らんだプライドは玲明で見事に挫かれ、入学からひと月も経たないうちに自信まで粉々に砕かれてしまっている。自分が代替の効く取るに取らない人間なのだと嫌という程突きつけられた。
なぜなら、それ自体が現在の玲明の育成システムだからだ。入学してからすぐに自尊心を折ることで生徒を効果的にコントロールし、より精確に売れるアイドルを排出する。茜はその仕組みに組み込まれただけで、そのような思いをしているのは茜一人だけではないのだが、そんな言葉をかけたところで当事者をさらに苦しめるだけだ。巽は茜の話を最後まで聞き切ってから、ゆったりと息を吐いた。
「……今の話を聞くかぎり、おそらく貴方にとって逃げ場となれるような場所が必要なようですね。時間が許すのならもう少し腰を据えて相談に乗りたかったのですが」
「……いいですよ、そんな。人気アイドルの風早先輩の時間を拘束しちゃ、私が怒られちゃう」
「人気があろうとなかろうと、何に時間を使うかは自由で、平等ですよ。……では、こうしましょう。今度時間がある時に、
「カタ……コンベ?」
パリの地下墓地を意味する名前だが、決してフランスに来いなどと言っているわけではないだろう。茜が首を傾げていると、巽は視線を茜からライブ会場端の茂みの奥に移した。
「あの奥に、古い時代に作られた地下空間への入り口があります。俺は普段夜はそこにいるので、そこでならもっと落ち着いて話すことができるでしょうから」
「地下!? この学園、地下あんの!?」
「知らないのも無理はないと思いますよ。教師ですらも立ち入り禁止になっていますし、男子部では俺が広めたような形になってしまいましたが、女子部では禁忌が守られているようですしな」
苦笑した巽を見て、この人は一体何者なんだと茜は汗を流した。わざわざ立ち入り禁止場所に集会を開くなんていつ特待生から転がり落ちてもおかしくないこと、普通ならできるはずがない。もしかすると自分は、心優しい牧師に悩みを打ち明けた気でとんでもない怪物相手に胸襟を開いてしまったのかもしれなかった。
だが先程同様、茜には物事を深く考える余裕がなかった。鬱症状では判断能力が鈍るというがまさにそれだ。手を引かれている先が楽園であれ警報の鳴り響く踏切であれ、自分をいざなってくれるものは何でも、あまい香りがしたのだ。