或るアイドルへの大難
14
止まっていた秒針が動き出すように、全てが順調に周り始めた。まず、茜の心境が変わった。ギラギラと威光を放ちさえしていた“人に見られたい”という欲求は、男子部のタコ部屋に居た非特待生、漣ジュンと出会った日からすっかりと奥に引っ込んでしまった。大衆に目を向けられなくても
、いつか彼が自分というアイドルを見た時に、胸を張れるようにしたかった。これではまるで、牙を失った愛玩動物だ。
だが皮肉にも、アイドルと愛玩動物の親和性は高い。承認欲求が消えた途端“安全で平和的なアイドル”は人目を惹くようになり、ある日のライブで観客の一人が茜の姿をネットの海に流し――奇しくもその映像がSNSで注目を浴びた。
男性アイドルが主流の中、突如狂い咲いた新進気鋭の女性アイドル。今ステージ上で最も輝くスターの原石。
来栖茜の名はまさにその代名詞となった。
――悪い気はしない。ずっと待ち望んでいたことだ。運の女神がこちらを向いているのなら、それに笑顔で手を振り返さずして何がアイドルか。
それをきっかけに茜は本格的に玲明を経営するコズミックプロダクションのプロデュースを受け、女性アイドル業界に金字塔を打ち立てんばかりの躍進を見せた。ライブから始まり、ネット番組、ラジオ、雑誌モデル、ごく稀に地上波に顔を見せるほど。来栖茜の名は風早巽に追いつくほどの勢いがあった。
もちろん、代償はある。見た目を少しでも良くするために過度な食事制限をした。急激な体の変化に拒否反応が出たりもしたが、それでもレッスンだけは欠かさなかった。最初はアンバランスな体で厳しい指導についていけることもなく、時間の終わりと共にろくに入っていない胃の中身を戻したりもしたが、それらは全て茜をトップアイドルの地位にまで連れて行く運賃のようなものだと考えていた。
そこまでくれば、玲明内での扱いも必然的に大きく変わる。他の生徒からのいじめはぱたりと止んだ。皆大きく売れている茜を見て、絶対に手を出してはいけない人物だと悟ったのだ。石を投げて鬱憤を晴らすよりも、縋りついて恩恵を受けた方がいい。かつて茜の洗濯物にティッシュを投げ込んだ非特待生が「肩でも揉みましょうか?」などと言って近づいてきた時は、茜も寮に戻ってから大笑いした。それくらい、人間関係は改善されていったのだ。最初に茜の映像をSNSに投げ込んだ誰かにお金を送りたいと思うくらいに。
とはいえ。
「茜〜! お昼一緒に学食行かない?」
座学の授業が終わると、同級生が二、三人ほど茜の席に集まってきた。茜が売れる前は目も合わせなかった三人組だが、最近は後光が差しそうなほどの笑みを貼り付けて寄ってくることが多くなった。
すかさず、茜も同様の笑顔を被って対応する。
「ごめ〜ん! 私この後撮影あるから、お昼は移動先で食べるんだ」
「そうなんだ! 茜忙しいもんね。何か大変なことあったら私らに言ってね! 何でも手伝うから!」
「そうするよ。ありがとう」
この中身のない会話きっついな。
そう本音を出してしまえば、 彼女達の態度は瞬く間に以前に戻ってしまうだろうから、何重にも包んで心の中にしまう。
一応、この後に撮影があるのは本当だ。と言っても校内にある小さなスタジオでの、スタッフも最小限に抑えた低予算ネット番組の収録だが。そういった外部の人間が関わる施設や設備は全て男子部にあるため、茜は休み時間の間に男子部への入校許可証を取り、現場に向かわなければならない。
茜は手早く荷物をまとめると、スクールバッグを肩にかけて教室を出る。途中「茜撮影? がんば〜!」と声をかけてくる特待生に笑顔で手を振って、女子部の校舎を立ち去った。男子部の校門付近にきた頃にはすっかり真顔に戻っていた。
「あのねぇ、どうして言われたこともできないのかな?」
ピリ、とスタジオ全体を刺すような鋭い声が現場に響いた。休憩を告げられ端の方で水を飲んでいた茜も、びくりと肩を揺らしてペットボトルから口を離す。声のする方を振り返ってみると、監督の叱責を浴びる一人のアイドルがしゅんと肩を落として立っていた。
「台詞、毎回忘れてるよね? 台本覚えてきてって言ったはずだよ。しかもそんなに長くないはずなのに、どうしてそれくらい覚えられないの?」
「ま、まあまあ監督。この子もまだ一年ですし……」
「一年だろうと二年だろうと、番組に出す以上はみんな同じアイドルだよ。風早君が一年の頃はこんなミスしなかったのに……」
哀れに思った若いアートディレクターが間に入るが、監督の眼光はなおも鋭い。
あの監督は作品作りには少し厳しい面もあるが、基本的には出演するアイドルたちのことをきちんと考えた現場を作ってくれる。アイドルを使い捨てのおもちゃみたいに扱う人間もいる中で、彼はかなり良心的な部類の業界人だった。その彼をここまで怒らせるのだから、きっとあのアイドル側に相当な落ち度があったのだろう。
茜のいる位置からはスカイブルーの髪で隠れて見えないが、あのアイドルのことは茜も知っている。HiMERUだ。本名は十条要。茜と同学年の、玲明に通う特待生。同じ現場になるのは今回が初めてだが、彼が入学した当初は業界が少しざわついていたのを知っている。もっとも、当時は茜も仕事らしい仕事なんてなかったので、あくまで風の噂を耳にする程度だったが。
「もういいから、楽屋行ってちゃんと覚えてきて。先に他の子の分取るから」
監督にそう言われると、HiMERUは言葉通りすごすごと楽屋に戻っていった。茜も、収録に呼ばれた他のアイドルたちも皆その後ろ姿を呆然と見つめていた。「はいはい、そろそろ収録再開するよ」と監督が手を叩けば、呆気にとられていた者もわたわたと準備を始め指示通りの場所につく。
「あ、茜ちゃんはもうちょっと待ってね。君単独のところだけ後でまとめて撮りたいんだ」
「あ、はい。わかりました」
「前回に引き続きごめんね。時間大丈夫?」
「いえいえ〜! 監督のためならどうってことないですよぉ!」
先ほどまでの怒気を抑え込んだ監督が苦笑しつつ茜に言う。茜は冗談混じりに返すと、少しだけ監督の雰囲気が緩んだ気がした。
アートディレクターと軽い打合せに向かった監督と見送ると、茜はふうと息を吐く。
現場の空気が前回と比べ格段に重い。理由はもちろん、あのHiMERUというアイドルだ。茜の記憶では彼だけが致命的なミスを連発し、その度に撮影が止まって収録し直しになっている。監督があの場で叱責しなければそのうち他の出演者からの不満が爆発していただろう。茜も含め、皆HiMERUに対して同じくらいの苛立ちを感じていたはずだ。
あまり気乗りしないが、仕方ない。茜はそろりとスタジオを出ると、出演アイドルたちの荷物が置かれた楽屋へと向かった。
「…………」
廊下を歩いた先に二つの扉が並んでいる。片方には来栖茜、もう片方には男性アイドルの名前がずらりと書かれた紙が貼られていた。茜はその二つのドアを見比べ、まずは自分の名前が書かれている方をがちゃりと開けて中に入る。そして置いていたスクールバッグを掴んで外に出ると、もう片方のドアをノックした。
「は、はい」
中から緊張を孕んだ返事が返ってくる。茜は遠慮なく扉を開けて中に踏み入ると、両手を握り合わせて椅子に座った状態の彼と目が合った。
「きみは……? 確か、同じ番組に出ている……」
「来栖茜。共演するアイドルの名前くらい覚えなよねぇ。最近出て来たばっかで影が薄いってのは否定できないけどさぁ」
おそらく番組のスタッフが追ってきたのだと思ったのだろう。また怒られるのかもしれないと怖気づいた様子だったが、尋ねてきたのが共演するアイドルだとわかると途端にくっと眉を寄せた。
「きみ、一体をしているんです? ここはぼくが使う楽屋のはずです。ぼくは親切なので教えてあげますが、きみの楽屋はこの隣の部屋なのですよ」
「んなこと知ってるっつの。ちゃんと君に用事があってきたの」
「用事?」
HiMERUがきょとんと茜を見つめ返す。はあ、と嘆息と共に茜はスクールバッグを開くと、おもむろに一つの冊子を取り出してHiMERUに差し出した。
「これは……台本、ですか?」
おずおずとそれを受け取ったHiMERUが表紙の印字を目でなぞると、見覚えのあるタイトルに瞠目した。二十枚前後のコピー用紙をホッチキスで束ねただけの簡易な冊子は、数日前の顔合わせの時に配られたものと全く同じだった。ただ一つその時と違うのは、表紙の右下に小さく“来栖茜“と手書きされている。
「台本、どうせなくしてろくに読めなかったんでしょ。忘れたにしては言葉が出てこなさすぎだったもん。それあげるから覚えなよ。じゃなきゃ撮影進まないし」
図星だった。HiMERUの鞄に今日の台本などは入っていない。だから楽屋に戻ったところでどうすることもできず、椅子に座って途方に暮れるばかりだったのだ。
「……でも、これはきみの台本でしょう。きみはどうするのです?」
「そんなの昨日のうちに全部頭に叩き込んでるから平気だよ。いざとなりゃ一瞬スタッフにに見せてもらうか、頼み込んでコピー取らせてもらうこともできるし。でも、私は今回の監督とそれなりに仲がいいからそういうことができるけどさ、君は違うでしょ」
ただでさえ撮影を止めてばかりで信用を落としているのに、その上「台本を忘れてしまったのでコピーを取らせて」なんて言い出しにくいはずだ。新人のうちは特に。
仮にそうしてもスタッフの誰かが仕方なしに見せてくれるだろうが、その代わりもう現場に呼ばれなくなることは間違いない。仕事の数に対して過剰にアイドルが増えている現在、少しでも“使えない”と思われたアイドルは業界から遠ざけられて、ひっそりと消えていく。何せ代わりは掃いて捨てるほどいるのだから。
HiMERUは溶けかけの氷のような瞳で茜の呆れ顔を眺め、必死に思案する。そうして数秒間の無言ののち、HiMERUは何かを思いついたようにパッと顔を明るくさせた。
「……ああ、わかりましたよ。きみはぼくに恩を売りたいのですね」
「はぁ?」
「ぼくは名のある特待生ですから、それも当然のことです。どうです、来栖茜。ぼくは賢いので、きみの考えもお見通しなのですよ」
「………………は〜〜〜? 何、こいつ……」
手を差し伸べたのを後悔したほどに、茜は額に青筋を立てる。だがHiMERUは茜の様子に気づくことはなく、どうだと一人で鼻を高くするばかりだった。
今までに見なかったタイプの思考回路だ。風早巽もまあまあ考えが読めないところがあったが、それは通常の人間には目視で判断ができないほど複雑に絡み合っているが故のそれだった。目の前にいる彼は回路そのものがそれぞれ変な場所に繋がっている。ボタンのかけ違いが永遠に続くから、どう考えればそこに行き着くのかわからない場所に不時着する。
「変なやつ……もういいから、さっさと台本覚えなよ……」
「きみに言われずともそうします。………………書き込みが多くて読みづらい…………」
「うっせ〜。黙って読め」
もはや茜は笑顔だった。理解できないと喚き立て困惑する方が馬鹿らしく思えてきたので、いっそ笑っている方がまだ絵面は良いのではと思い始めていた。
「きみ、アイドルなのに口が悪いですね」
「そりゃ育ちが悪いからね! ……ま、院長先生は割と口調が穏やかだった方だけど、ああなりたくないな〜と思ってたら自然とこうなるよね」
「ぼくは親切なので教えてあげますけど、そういう野蛮な部分はアイドルには不適切です。業界人やファンに見られれば、彼らの持っているイメージを簡単に壊してしまう」
「わかってるよ。だから絶対に見せたくない人には見せないの、こういうのは。みんな綺麗な来栖茜が好きだもんね。かわいい猫ちゃんだと思って撫でてたのに実は雑菌まみれの狐だった――とか知られたら、一瞬でゴミみたいに蹴られるよ」
少なくともそれが、茜がアイドルファンに対して抱く感情だった。SNSで人気に火がついて急上昇中の今、地道なライブ活動でファンと呼べる人が着々と増えてきていた。ひとたび歌えばコールで会場の空気が揺れるほどまでに。
だけど茜が施設生まれの底辺育ちだと知って、そのうちの一体どれほどが変わらずファンでいてくれるだろうか。
ファンはアイドルに夢を見ている。アイドルはその夢を提供し続ける仕事だ。自分を見る全ての人が来栖茜のことを清純で可憐なアイドルだと信じてやまないのなら、茜は素を捨ててそちらに寄せることで初めて念願の金をもらうことができる。
だから施設で受けた虐待も、玲明で受けたいじめも、荒々しい言葉遣いも、本当はファンを愛していないことも、全て茜だけの秘密だ。
それが自分を守る一番の手段でもある。何年も前に起こった“あの明星”の事件をこの身に下さないためにも。
(……あの子も、同じかな)
そういう仮面を顔に貼り付けていても、時折ふと考えることがある。
男子部のタコ部屋で出会ったあの非特待生。漣ジュン。
彼が自分のことをどれだけ知ってくれているのかは知らない。少なくとも出会った段階で茜はまだアイドルとして芽が出ていなかったのだから、そもそも彼が自分の名前を覚えていてくれているのかも定かではない。
だけど、あの指差しが。茜だけに与えてくれたファンサが、今でも胸に焼き付いて離れない。
あの日からすっかり茜はおかしくなってしまった。どうしてくれるんだとクレームを入れたくなるくらいに。客席に向かって歌を歌って、手を振るたびに、こちらを指差してくる彼の姿がちらりと脳裏を走る。
これまでずっと、誰かに何かを願ったことはない。事務所には期待をしていない。ファンを愛してもいない。ただ自分が施設の手を離れて、遠いところで一人で暮らせるだけの金が欲しいとだけずっと思っていたのに。他には何にも望むことはなかったはずなのに。
――叶うことなら、漣ジュンの推しアイドルになりたい。
ステージで輝く私を、どうか最前席で応援してほしい。君はもしかしたら、私のことなんて全然視界にも入れていないかもしれないけど。たったそれだけで、吐くくらい辛いレッスンも体型維持のための絶食も、口調を制限するストレスも、全部なかったことになるから。
アイドルは夢を見せる仕事だ。楽園のような夢を見せながら、自身もまた夢を見ている自分はきっと、本当はアイドル失格なのだ。