指差しのよすが

或るアイドルへの大難

15

「あんなやつらにまけるなよ、ジュン」


 そう口をついて出た言葉を思い出して、茜は壁に頭を打ちつけたくなるくらいの羞恥に震えていた。収録現場であるとある高校の廊下で立ち止まり、右肩をべったりと壁に寄せている。


(何様だよ私! どの目線から言ってんの!? 死ねよ!)


 穴があったら入りたい。非特待生が隅々まで整えた寮の自室で目覚め、座学とダンスレッスンを受けて午後からドラマの撮影のため現場へ向かうハードスケジュールをこなしてもなお昨日の出来事が茜の脳から離れてくれなかった。

 巽を訪ねて男子部へ向かった先で、偶然にもジュンと再会を果たした。寮の裏手でしゃがみ込む彼を発見した時は全身の血が沸騰しそうなほどだったが、なんとかアイドル・来栖茜のプライドで平静を保った。帰ってから興奮で寝付けなくてごろごろとベッドで寝返りをうつばかりだったのは墓場まで持っていく秘密だ。

 何より衝撃的だったのは、彼が茜を覚えていたこと。茜もすっかり売れてしまったのでいつかは彼の耳に届くと思っていたが、タコ部屋で泣いていた小娘と人気絶頂のアイドルをきちんと結びつけていてくれたことに感謝しかない。


(じゃあさじゃあさ、私が今後ライブとか番組とかラジオとか雑誌とか出たとして、全部ジュンの目に入るかもしれない可能性があるってことでしょ。うわ、やば……)


 名も知らないファンに全身くまなく見られたところで何も感じないが、どうしてか彼だけは違う。彼にはみっともない姿を見せたくないし、常に完璧な来栖茜というアイドルでいたい。そうでなくとも既にタコ部屋で無様に泣く姿を見せてしまったのだから、何としてもあの印象を払拭したい。

 そう考えると、今から撮影するドラマももしかしたらジュンが目にするかもしれないのだ。非特待生で多忙の身だから難しいかもしれないが、可能性はゼロではなくなった。そう思うだけでぎゅっと握った手のひらに汗が滲む。むずむずと言い表せない感情がこみ上がってきた。


「――と、――……ちょっと、きみ!」
「ん? あっ、はい!」


 突然聞こえた大声に茜はびくんと体を跳ねさせた。壁から上体を離して急いで顔を上げる。

 気づけば目の前に男が一人、不服そうな表情で茜を見下ろしていた。ピスタチオグリーンの髪はふわふわとゆるい癖がある。一見幼そうに見える顔立ちのわりにはすらりとした長身が印象的だった。茜と同じドラマ用の制服に身を包んでいるが、その輝くようなオーラには雲泥の差がある。

 彼は宝石のような双眸をむっと細め、唖然とする茜を見つめる。


「そんなところに立ってたら機材搬入の迷惑になるね! 体調が悪いならきちんとスタッフさんに言って休ませてもらうこと! アイドルの君が現場で失態を冒せば、同じアイドルであるぼくの印象にも響くからね!」
「あ、ああ……はい。ごめんなさい……?」
「うんうん、素直に謝れるのはいいことだね。まあでも、今のところまだ誰にも迷惑はかけていないみたいだし、次から気をつけていればそれでいいね」


 茜が立っていた場所は丁度機材を運ぶ台車の通り道だったらしい。すごすごとその場を避けると、彼の表情はぱっと明るくなった。


「それで、きみはどうしてあんなところで立ち止まってたの? もうすぐ今日の収録が始まるから、できれば今のうちに軽く打ち合わせでもと思ってたんだけど。本当に体調が悪いなら、共演のよしみでこのぼくが特別にスタッフさんに掛け合ってあげなくもないね」
「いや別に結構で〜す。つか、そういうのって自分が付き添ってあげる〜とか言うのが通例なんじゃないんですか?」
「ぼくが? どうして?」
「うわ本気でなんでか分からない顔。巴さん、さては箸より重いもの持ったことないでしょ」
「当然だね! 貴族であるぼくがわざわざ重たいものを持つ理由がないね!」


 彼はそう言うと腰に手を当てて胸を張った。

 夢ノ咲学院アイドル科に所属するアイドルユニットfine。その二枚看板の片割れである巴日和とまさか同じドラマに出演することになるとは茜も思っていなかった――どころか、ついさっき初めて知った。茜が演じるのはドラマの中で端役もいいところなので多少情報の回りが遅い部分はあるが、少なくとも最初の演者一覧に彼の名前はなかった。共演者にライバル校の生徒がいると分かれば、マネージャーが真っ先に連絡を入れてきそうなものだが。

 茜がそう疑問をぶつけると、日和は再び眉を寄せてかぶりをふった。ころころと表情が変わりやすい人物だ。


「そのあたりはまあ、色々と事情があってね。本来ぼくの役――君の恋人役を演じるはずだったアイドルが急遽出られなくなったとかで、代わりにぼくが大抜擢! 実力を信用されてるのは喜ばしいけど、代役というのはいただけないよね! どうせ英智君が噛んでるんだろうけど! 悪い日和!」


 恋人役。あのfineの巴日和と、汚い施設生まれの自分が、名門校に通う恋人同士。なんとも笑ってしまうが、それが仕事ならば応えなければならない。今まで人生で誰かと付き合ったことなんて一度もないので、その演技はどうしたって何かの模倣的な動きになってしまうだろうが。

 そんな茜の心の陰りを察知したのか、日和は諭すように口を開いた。


「主役でも端役でも代役でも、カメラに映る以上は役者の一人だね。ぼく達を知らないほとんどの人には記憶にも残らないようなシーンでも、ぼく達のファンはそれを楽しみに見てくれるね。なら、例え映るのが一瞬だとしても手を抜くことはできないね」
「まあ、それは同意しますけど。でも打ち合わせって言っても、軽く台本読み合わせするくらいしかできることなんてないでしょう?」
「それがさっき、監督が脚本を少し書き変えたらしいんだよね。現場ではよくあることなんだけど、ただ、君のプロデュースに関することは君に聞かないと分からない問題だしね」


 茜は頭いっぱいに疑問符を浮かべて小首をかしげた。確かに茜は事務所からプロデュースを受けてアイドルとして活動をしているが、それが一体何に関わるというのか。

 日和は一瞬言いにくそうに言葉を詰まらせたものの、はぐらかしても仕方ないと感じたのか、あるいは一学年上という年長者のプライドが勝ったのか、毅然とした笑顔で言い放った。


「次のシーン、ぼくと君のキスシーンがあるんだけど、事務所からNGとか出てないよね?」









「――やられたっ、あのクソマネージャー!」


 不要になった古い台本をぐしゃぐしゃと潰し、ゴミ箱へシュート。しかし運動センスのなさが災いして、紙くずはゴミ箱の縁にがつんと当たった後、箱の外へと跳ねていった。


「言葉遣いが汚いね! 悪い日和!」
「そりゃすみませんね! 育ちが悪いもんで! ついでに事務所の対応も最悪だったもんで!」


 さすがに収録現場でポイ捨てをするわけにはいかないので、茜は一度投げたゴミをぷんぷんと怒りながら拾い上げ、再びゴミ箱に捨てた。そうして残った新品の台本に目を向けると、殴るような頭痛が茜に襲いかかる。

 日和と共にスタッフから書き換えられた台本を貰うと、確かに彼の言うとおり日和と茜のキスシーンが追加されていた。恋人同士という役回りなので一応突拍子もない展開というわけではないのだが、主演陣の演技が相当監督の気分を高めたらしく、どうせならもう少し描写を深めよう――という思いつきだったらしい。芸術家肌のクリエイターにはよくあることだ。


「で、一応キスが事務所的に大丈夫なのか確認を取らなきゃいけないわけだけど。茜ちゃんのところは問題ないの?」
「問題大ありだよ!!」


 ひっくり返らんばかりの声で茜は否定した。

 来栖茜は清純派アイドルだ。裏側では自由気ままに暴言を吐くこともあるが、少なくとも世間一般に認知されている茜はそのイメージから凄まじく乖離している。恋も春も知らない健気な少女をみんなで応援することこそが、茜のアイドルとしての最大の売りだった。

 なので衣装の露出は最小限だし、グラビアの仕事は事務所の厳しいチェックが入る。当然、キスシーンはNGを出していたはずだ。


「でもこういう日に限ってマネージャーが現場に同行してくれないし、電話にすら出ないしさぁ……! 無理だよ〜私だけであの空気の現場に割って入ってNG伝えるの。絶対空気最悪になるよ〜……!」
「まあ、気持ちは分からなくはないね。君が何年も芸歴のあるアイドルだったら臆することは何もなかったけど」


 売れ始めて半年も経っていないアイドルが現場の流れに逆らうのはかなりの勇気がいる。だからこそ、新人アイドルは率先して事務所が盾になる必要があるのだが。

 日和は般若の表情でスマホをタップする茜をちらりと見る。

 どういうわけか、彼女の場合は事務所が盾の役割を放棄している節がある。夢ノ咲所属の日和には事務所となる存在がないので比較対象がやや不十分だが。百歩譲って現場に新人一人で向かわせることがあったとしても、代わりにいつでも電話に出れる人間を一人用意しておくのが妥当ではないだろうか。


「……きみ、もしかして事務所から嫌われてるの?」
「そういうことって思っても口に出さないのが普通じゃない!?」


 がばっと日和を振り返る茜は少し涙目になっていた。どうしようかと考えてふるふると震える姿はまるで鷹に追い詰められた兎のようで、さすがの日和も良心が痛む。


「特別にぼくが口添えをしてあげてもいいけど、あまり効果は期待できないね。主演はみんなぼくらより芸歴の長い俳優ばかりだし」
「でも勝手にコズプロのバックなしで交渉は私の芸能界での立ち位置が……」
「じゃあもうキスするしかないね! ご愁傷さま!」
「他人事みたいに言いやがって! ちくしょう!」


 だが、仮にそうなったとしても事態は悪化するのだ。NGが出ていると知りながらその行動を取るのは明確な契約違反にあたる。そうなれば、コズプロはいつでも茜を切り捨てられるのだ。最悪、非特待生に降格だって有り得る。

 どちらを選んでも茜にとって不都合なのは変わらない。ならば何を判断材料に据えるかで選択をするしかなかった。


「……っていうか、巴さんのところはどうなんです? 夢ノ咲のことはよく知らないんですけど、そもそもfineってドラマ出演自体あんまりそういうイメージなかったんですけど……?」


 参考程度に日和の話を聞こうとした茜だったが、彼は突如機嫌を損ねてそっぽを向く。


「そこはどうせ英智くんの嫌がらせだねっ! ドラマに出演させればイメージ契約だとかでぼくが女の子たちと遊びに行くのをやめさせられるとでも思ったんだろうけど、考えが浅はかすぎるよね。ぼくを御せるのは世界中でぼくただ一人だけなのにね」
「あ、そう。私は役とはいえ女の子と遊び歩くような人が恋人だってたった今知って最悪の気分ですけどね」
「このぼくとキスができるまたとない機会なんだから、きみは泣いて喜ぶべきじゃない?」
「ドラマ、降りてぇ〜……」


 自己肯定感の擬人化のような彼は何の参考にもならなかった。彼の態度からして、少なくともキスシーンがNGというわけではないのだろう。基本的に夢ノ咲から外に出てこないfineの内部事情はコズプロ所属の茜には捉えきれなかったが、fineのプロデュースをしている誰かの苦労は察するに余りある。

 その時、撮影場所を離れていた茜と日和の元に一人のスタッフが駆け寄ってきた。


「来栖さん、巴くん。そろそろスタンバイお願いします」
「……は〜い。今行きま〜す」


 引きつった愛想笑いを浮かべて、茜はスタッフの後を追った。やや数歩遅れて日和も彼女らに続いたが、歩幅の差で日和が茜に追いつくのにそう時間はかからなかった。


「思ったんだけど、きみ、ぼくとキスすること自体はそこまで拒否しないんだね?」


 先行するスタッフに聞こえないくらいの小声で日和が囁く。


「ま、アイドル活動するならそういうこともあるかとは思ってましたし。 子供じゃないんだし、別にそれくらいで騒いだりしませんよ」
「なら、一応経験はあるんだね? よかったよかった、さすがにファースト――」
「いやないけど」


 間髪入れずに答えた茜に、今度は日和が表情をこわばらせた。あれだけ饒舌に動いていた口から一言も出てこない。声が大きくてうるさかったくらいなので、静かになるのはいいことだと茜は特に何も言わなかった。

 数秒の静寂が通り抜けた後、日和は凪のように小声で告げた。


「……なんか、ごめんね?」
「憐れむくらいなら最初から聞くなよな! こっちはド健全16歳アイドルでやってんの!」


 ここにきてから常に日和のペースに振り回されっぱなしで、茜はいよいよ血管がちぎれそうだった。風早巽しかりHiMERUしかり、アイドル業界には変人しかいないのかと憤ってしまうほどに。

 スタッフの先導により二人は階段の踊り場に並んで立つ。ロケ地が私立高校なだけあって空間も広く、茜と日和、そしてスタッフ数名が立っていても場所には余裕がある。機材の調整を待っている間、茜はなんとなく日和の方を見ていられなくなってふいと顔を逸らした。壁に掛けられた大きな鏡の自分と目が合った。

 暫く黙っていた日和だったが、何を思いついたのかきょとんとした顔で茜に言葉を投げかけた。


「もしかして君、好きな子いるの?」
「…………あ、!?」


 およそ名門校に通う女子生徒とは思えないような声が出かけ、茜はあわてて口を閉じた。スタッフを初めとした業界人が多くいる場でいくらなんでも素を露呈させるわけにはいかない。

 しかしその反応は日和が求めた答えを得るには十分すぎるほどだった。彼は今まで以上に瞳を輝かせると、“詳しく聞きたい”と書いてあるような顔を茜に近づける。


「その反応は図星と見たね! ねえねえ、どんな子? 絶対誰にも言わないからぼくだけに教えて……?」
「うっぜぇ……! 女子小学生みたいなこと言わないでよね……!?」
「愛の話に女子も男子も関係ないね! それに機材調整の間ただ立っているだけなのも退屈だしね。きみはさっき、ぼくの助言によって過ちを正せたのだから、ぼくを楽しませる話をする義務があるよね?」
「ないよ! そういうとこ結構わがままだよね貴方!」


 ドラマの撮影まできて恋バナを強制される意味がわからない。しかも恋愛がテーマのトーク番組ならともかく、カメラも回っていないような隙間の時間に。

 茜は大袈裟なほどため息を混ぜて、日和の期待にシャッターを下ろすように否定した。


「別に好きな子はいません。巴さんが期待するようなことはありません。……大体、人を好きになるって何?」


 茜がすっと目を細める。呆れたような表情は晴れた日の雪景色のような、爽やかだが温度のない色へと移り変わる。


「この世は資本主義で、等価交換の原則が働いてるわけでしょ? 私を愛してくれないひとをなんで私が愛さなきゃいけないわけ?」
「……ああ、なるほどね。道理でアンバランスだとは思っていたけど」


 日和は合点がいった様子で自身の口元に指を添えた。

 日和はドラマの収録が始まる以前から茜を知っていた。男性アイドルが主流の中で、女性でありながら一際異彩を放つ彼女を気にとめないアイドルはいない。日和も最初は全く興味がなかったが、研究のようなものだとしてユニットメンバーの青葉つむぎに映像を送られたことがあったのだ。

 そこで見た彼女は、確かに多くの人が熱中するのも分かるほど目を惹く何かがある反面、不格好で調和が取れていなかった。

 まるで、一流の職人たちが作ったバラバラのパーツを繋ぎ合わせただけのロボットみたいだ。ダンスや歌唱力は申し分ない。容姿は特に力を入れているのが伝わってくる。愛嬌だって抜群だ。そんなスーパーアイドルのようなボディを操縦している本人だけが、いつまでもぎこちない。だから、何をしても必ずどこかで欠陥部分が生じる。その欠損を、ファンはミロのヴィーナスと似たような感覚で愛するのだろうが。


(きみはきっと、愛のない世界を生きてきたんだろうね)


 自己形成の基盤となる乳児期から学童期の間に、彼女は一切の愛情を受けずに育った――と、日和は考察した。無償の善意や愛をくだらないと蹴り飛ばしているのだ。アイドルなんてまさに対極にある職業だろうに。

 同時に、ならばなぜ彼女は今でもアイドルを続けているのだろうと日和は不思議に思う。金が欲しいという理由で芸能の世界に足を踏み入れる人間を日和は何人も知っているが、その大半は人気が出ると共に理想と現実のギャップに耐え切れずに去って行った。彼女は一体どちらに進んでいくのだろうと、日和の好奇心が囁く。


「……きみ、やっぱり好きな子がいると見たね」
「はあ〜!? だから違うって言って」
「本当に?」


 見透かすようにアメジストの双眸に見つめられ、茜は言葉を詰まらせた。

 脳裏でちらりと、紺青の髪が揺れた気がした。


「…………別に、好きなわけじゃないけど」
「………………」
「ファンにしたい子が、いる」


 今も非特待生寮で理不尽と戦っている彼が自分を見てくれるまで、仕事に手は抜きたくない。継ぎ接ぎだらけの四肢が落ちて、来栖茜の素顔が白日の下に晒されるまでは、彼の理想のアイドルでいたい。


「……キスシーン。うまくできなくて、失敗したらごめんなさい」
「本当にいいの? 事務所に怒られるんじゃない?」
「さすがに玲明もこの程度で退学にはできないよ。扱いづらいってことで非特待生に落ちるかもしれないけど……そのせいであの子にみっともない姿を見せるよりは、よっぽどマシ」


 そう言って自身を見上げる茜を見て、日和はつむぎに見せられた映像の一部を思い出した。

 デビューした直後でまだファンもついていなかった頃の来栖茜は、今とはまた少し雰囲気が違っていた。例えるなら手負いの孔雀だ。美しい羽模様は遠目に眺める分にはよいが、怪我を負って後がないからと必死に雌を誘う様子はどこか近寄りがたさを感じさせる。その結果ファンも伸びず、あのまま続けていても烏合の衆の一部となって消えていくだけだっただろう。

 だがある時から、それが一変した。カメラの向こうにいる誰かに訴えかけるように。“誰でもいいから私を見て”から、“貴方に見られる私になりたい”と叫ぶように。

 なるほど、と日和は僅かに瞠目した。


(愛を持ちたいと思える誰かと、きみは出会えたんだね)


 それはたぶん、とても素敵なことなんじゃないかと日和は思う。なんとなく、彼女のことは嫌いにはなれなかった。むしろ好ましくすら思う。共に育った凪砂ほどではないし、その順序が逆転することはそれこそ天地がひっくり返ってもあり得ないが。惨めで小さな、事務所にすら見放されかけている弱いアイドルが唯一守り通そうとしている愛をほんの少し手助けしてあげようと思うくらいには、日和は茜のことが気に入っていた。


「……そう。ならぼくも、特別大サービスで手を貸してあげようね。茜ちゃん。君は余計なアドリブは考えないで、最初の台本通りに動いて」
「え? でも台本はさっき書き換えられたでしょう?」
「そんなものはどうだっていいね。ドラマを見る視聴者からはこのお芝居が何回目の台本なのかも、アドリブなのかも分からないんだから」


 ファーストキスもしたことがない茜に恋人として即興の演技をさせるのは無茶な話だ。ならば日和だけがアドリブで動けばいい。幸いなことに日和は、どういう動きをすれば、どういう表情をすれば世の女性の心に刺さるのかを熟知していた。


「来栖さん! 巴さん! 撮影一発目行きます!」


 壁にかけられた鏡の死角となる位置からカメラが三台、茜と日和に向かってレンズを向けている。打ち合わせ通りの定位置に立った二人を確認して、助監督が片方のカメラに向けてカチンコを構えた。


「よ〜い……」


 カン、と拍子木が鳴った。そこから一拍置いて、まずは台本通り日和が台詞を喋る。茜には彼の思惑が把握しきれていなかったが、あそこまで自信たっぷりに言われたのならひとまずは従おうと必死に暗記した台詞を思い出した。

 そんなやり取りが暫く続いた後、例のキスシーンに差し掛かる。さて日和はどうするつもりなのか、と茜が台本から逸れないように様子を伺っていると、突然茜の体がぐるんと引っ張られた。


「っ、!?」


 茜の背に冷たく硬い感触が広がる。壁に押し付けられているのだと理解するのに暫く時間を要した。そうしている間に日和の肌荒れを知らない端正な顔が徐々に近づいてきて、茜の額に影を作る。

 そして鼻先がちょんと触れるくらいの位置で、止まった。茜の唇は薄く開いたまま、何の反発もない。

 キスしてないじゃないか、これ。それどころかカメラの画角からも外れてしまっている――と思ったところで、茜はようやく日和の意図を汲み取った。

 この階段の踊り場に設置されたカメラは三台。そのメインの二台からは二人は消えてしまったが、サブで回していた三台目が映す鏡に、二人の姿が反射していた。まるで学校の隅で熱烈な口づけを交わす恋人同士みたいに。


「――カット! 巴さん、今のアドリブ良かったよ!」


 監督が少し興奮気味に静寂を突き破ると、スタッフが一気にざわつくのを感じた。今のは良いと納得の表情で頷く彼らを見る限り、現場確認で問題がなければそのまま編集に使われることになるだろう。これなら視聴者にはどう見てもキスをしている二人に見える。仮にコズプロが苦言を呈してきたとしても、厳密にはキスのふりをしているだけだと言い訳ができる。ついでに茜のファーストキスも守られる。


「このぼくが手助けしたんだから、きみはちゃんとその愛を守り通すんだよ」


 そして、夢ノ咲ではもう見られない夢の形を、ぼくに見せてね。

 カメラが止まっても呆然と立ち尽くす茜に、アメジストの瞳が眩しいかがやきを見るように微笑んだ。
ALICE+