或るアイドルへの大難
17
曲を歌い終えたアイドルがステージから去っていく。音楽番組での出演者の入れ替わりは全て編集でカットされるため、収録は比較的落ち着いた空気で淡々と進められていた。舞台袖のパイプ椅子に座って出番を待っていた茜は正面からやってきた人物にすっと目を細めると、頬杖をついて瞳だけでその顔を捉える。「君、なんか変わった?」
そう声をかけられたアイドル、HiMERUは冷淡にも見える表情を崩すことなく茜の隣の椅子に腰かけた。
「変わったとは? ぼくは以前からこの通り優秀なアイドルなのですよ」
「いやいやアイドルとしての技能じゃなくてさぁ。なんていうか、アプローチ? マーケティング?」
聞き慣れないカタカナの羅列にHiMERUははて、と首を傾げたが、茜は特に説明することもなく話を続けた。補足した瞬間、プライドの高い彼に「馬鹿にしないでください、それくらい知っているのです」と話の腰を折られかねないと感じたためだ。
「君、こうやって人のこぼれ仕事引き受けるような人だったっけ?」
「特待生に戻るために必要なことはどんなことでもします。彼が抜けたことで困っているのは番組スタッフ側も同様ですし、ここでぼくの名前を売っておくのは今すぐには響かなくとも後々大きな手札になるかもしれないのです」
「知性も上がってる〜! ちょっとちょっと、どうしちゃったの?」
事務所のプロデュースも受けていない身でプロデューサーのようなことをスラスラと述べたものだから、茜は目を丸くしてHiMERUを凝視した。が、彼はそれを純粋な賛辞だと受け取ったのだろう。ピノキオのようにつんと鼻を高くした。
「ふふ、そうです。もっとぼくを称えてもいいのですよ来栖」
「あっその辺はいつものHiMERUなんだ」
根っこの部分は変わっていないのだと知れると、茜はスンと興味をなくしたように体の向きを直す。あまりに急変した態度にHiMERUは馬鹿にされていると感じ取ったのか、「ぼくの話を聞きなさい!」と憤慨した。
「え〜? HiMERUの話はなんか、二巡三巡した後急に変わったりするんだよなぁ……」
「そんなことをした覚えはありません。ぼくに変な印象がついたらどうしてくれるのですか」
「いや、天然なのは今さらって感じじゃない? 現に君、捌ける方向間違えてきてるしね?」
ぱっと台本を持ち上げてページを見せる。事前の打ち合わせによれば、出演するアイドルは上手側からステージに上がり、下手側に去っていく手筈だ。茜が現在待機しているのは上手側。つまりHiMERUは本来反対方向に向かわなければならなかった。
ぐ、と押し黙ったHiMERUは苦虫を噛み潰したように眉頭を寄せる。今度は茜が不敵な笑みを浮かべる番だった。
「玲明が生放送禁止でよかったねぇ? ま、上手と下手間違える新人は星の数ほどいるし、今回は全部カットされるから誰も気にしてないみたいだけど」
「きみだってまだ新人の範囲でしょう。……きみは、台本を覚えるのが得意ですよね。前に共演した時も一字一句暗記できていましたし」
「こう見えて暗記は得意なんだよ。それにたった一回のミスで比較されちゃう立場だから、死ぬ気で覚えるに決まってるっしょ。ただでさえこっちは新曲披露の場なのに」
コズプロスタッフの一人がタイトル変更を言い出した件の曲は、結局“ダイヤモンド”という曲名に落ち着いた。一悶着あった割には案外普遍的な名前に落ち着いたものだが、そこに茜が口を出す権利は今のところない。
茜は一呼吸おくと、すっと目を細めて隣の空色の頭を見つめた。
「……君もよくやるよね。巽先輩の後釜なんて、みんな日和ってできないのに」
本来、HiMERUの出演枠には風早巽が出るはずだった。だが先日、巽が体調不良により活動を休んだ影響で番組への出演もキャンセルされ、急遽代わりのアイドルが求められた。だがあの風早巽の代役を努めるのだ。一挙手一投足が巽と比べられ、些細な失敗で石を投げられる。そんな磔刑に進んでなりたがる特待生は誰もいない。
そこで唯一手を挙げたのが、このHiMERUという男だった。
「特待生に戻りたいのは分かるけど、だからって普通こんな火の中に飛び込むかなぁ? それとも、火の中でも大丈夫だって保証があったの?」
「――さて? 来栖が何を言っているのか分かりませんが、ぼくの話を聞きたくなくてわざと話をすり替えているのはバレバレなのですよ」
「あ、やっぱ分かった?」
HiMERUの話は二巡三巡すると言っておきながら、茜は自身で話を二転三転させていた。彼のペースに合わせると異様に疲れるということを以前共演した際に学んでいるからだ。
しかし、気づかれてしまってなお意地を張るほどのことでもない。出演時のパフォーマンスに影響を及ぼさない程度に、会話の主導権を譲ることにした。
「ぼくが何を話すと思っていたのかは知りませんが、ぼくが聞きたいのはさざなみのことです」
さざなみ。その言葉にぴくりと茜の肩が揺れた。
彼の口から出てきたということは、その名が指すのは茜も知る彼で間違いないだろう。シトリンの瞳を見つめると、彼は疑念を孕んだ目で茜を見返した。
「きみ、さざなみをどうやって誑かしたんです?」
「……はぁ?」
思いもよらないワードが飛び出て、茜もうっかり間の抜けた声が漏れた。唖然と口を開いたまま固まる茜を気にもとめずにHiMERUは続ける。
「最近のさざなみは見ていられないのです。この前もきみのインタビュー雑誌をぼくが話しかけても気づかないくらい熱中して読んでいましたし、就寝時間が過ぎてもイヤホンからきみの歌が漏れていたりします。まあ、寝られないほどじゃありませんし、ぼくは優しいので何も言わないでいてあげましたが――」
「……っ、ま、まって。それ、本当?」
思わず茜が立ち上がる。動いた拍子に足がパイプ椅子に当たってカタンと音を鳴らした。
「本当です。ぼくが無意味に嘘をつくとでも?」
HiMERUは自分が疑われたことが心底不服な様子で茜を見上げる。だがその時にはすでに、茜はHiMERUの顔を見ながらもそんな情報は微塵も脳に届いていなかった。
ジュンが自分の曲を聴いている。ジュンが自分を見ている。
あれだけ望んだことが、現実に起こっている。
ばくばくと心臓が激しく鼓動する。まだひとつもライトの熱を浴びていないのに皮膚がじんわりと温まった。
言葉を失って呆然と立ち尽くすばかりの茜にさすがにHiMERUも不思議に思ったのか、顔を覗き込もうと首を動かした。が、その前に番組スタッフに「来栖さん、スタンバイお願いします」と声をかけられ、茜は一瞬で現実に引き戻される。
HiMERUとは一言も言葉を交わさないまま、茜はスタスタとステージの手前まで足を進めた。この赤い顔が彼に見られなくてよかった。きっと彼は口が軽いから、こんな無様を晒していたとジュンに教えてしまうだろう。ジュンといつでも会えるという状況に嫉妬すらしてしまう。
スタッフの合図の後、ステージ中央に立つと眩しいくらいの照明が茜に向けられた。“ダイヤモンド”のイントロが流れる。歌い始めの声が震えないか少しだけ心配になった。新曲披露の場だから、ではない。
やっとここまで来れた。
やっと君に推される存在になれた。
たぶん私は今、初めて私が望むアイドルになれたんだ。
歌声をマイクに乗せる。この声が、この姿が届く画面の向こう側に、紺色の髪が見えることを願って。
その感動は、ものの数日であっけなく崩れてしまったが。
仕事の関係で学園側の手続きが必要な時、茜は決まって男子部の敷地を跨がなければならない。入校許可証をぶら下げてマネージャーと共に校舎を歩けば、すれ違う特待生からちらちらと好奇の目が突き刺さった。
「居心地悪……」
「も、もうちょっと我慢できない……?」
「我慢して抑えてんだけどぉ? ほら、ちゃんといい子にしてるでしょ?」
茜に挑発的な目を向けられ、マネージャーの男は何も言えなかった。こうしてわざわざ男子部に足を運んでいるのは、元を辿れば彼のミスだからだ。以前茜の仕事が急遽スポンサーにキャンセルされた時、どうやらコズプロ・玲明学園内で必要な手続きを踏んでいなかったらしい。それでわざわざ撮影の入っていない貴重な時間を割かなければならないのだから、茜からすれば気分のいいものではない。
けれど断れば巡り巡って自分の不利益になる上、マネージャーの入水でもしかねない青ざめた顔を見れば茜だって承諾せざるを得なかった。職員室でマネージャーと職員の間を行ったり来たりする書類をソファに座って眺めつつ、稀に渡される用紙に大人しくサインをしていくだけの時間を数十分ほど過ごしたのち、今は休憩と称して校内を散策している。
気晴らしにはなるかと思っていたが、特段面白いものは見つかりそうになかった。基本的には女子部と変わらない造りで、そこにいるのは女子か男子かの違いだけだ。強いて挙げるならばレッスン室の数が多く設備も最新に整えられていたが、そんな差を発見するごとに女子部がいかに冷遇されているかを自覚して苛立ちがこみ上げてくる。だからこそその不平等に気づかないよう、自分達が恵まれていないことを知らないようあの高い塀が作られているのかもしれないが。
その時、スピーカーからチャイムが流れた。茜を遠巻きに見ていた男子生徒たちも慌てて教室やレッスン室の中に引っ込み、一瞬で廊下から茜とマネージャー以外の人間が消えてしまう。
それとほぼ同時に、職員の一人がマネージャーを呼び止める声が聞こえた。
「……えっと、ごめんね茜ちゃん。僕の方で必要な手続きがまだ残ってたみたい。今は授業中みたいだし、一人でも大丈夫ならこのまま校舎を見学していてもいいけど……」
「じゃあそうする。適当に見終わったらエントランスにいればいい?」
「うん、お願い。何かあったら連絡してね」
マネージャーは申し訳なさそうに茜に告げると、職員と共に来た道を引き返して行く。一人ぽつんと残された茜は彼らの姿が曲がり角で消えるのを確認し――ダッシュでその場を離れた。廊下は走ってはいけないという当たり前のマナーは丸めて捨て、飛ばし飛ばしで階段を駆け下りていく。向かう先は男子寮だ。もちろん、非特待生の。
マネージャーの尻拭いに大人しく付き合っていたのはこのためだ。男子部への入校許可が下りるのは仕事の時だけ。そして収録があれば当然自由に動き回れる時間はない。だが今回は珍しく、収録以外で男子部に立ち入ることができる数少ない機会だ。つまり、合法的にジュンに会える。
そう思った途端、急に自身の身だしなみが気になり始めた。前髪が崩れてないか。メイクが浮き出てないか。一旦女子トイレに入って鏡と向き合いひとつひとつチェックする。前髪は携帯していた櫛で梳かして唇に色付きリップクリームを塗る。落ちかけていたハイソックスを上げ直し、おまけとばかりにスカートを一回折った。アイドルの時とは少し違う、ただの女子高校生の来栖茜がそこにいた。
ここまでする必要があるのかと自分でも思ったが、思えば女子制服のままジュンと会うのは初めてだ。ともすれば、これはいわば印象操作だった。薄汚れたジャージで泣いていた来栖茜の記憶を、華のような女子高校生像で塗り替えてやるのだ。
最後に全身を確認すると、茜は女子トイレを後にする。利用者が教職員くらいしかいないそこは男子部内でも片隅に位置し、出てすぐの廊下の窓からは校舎の裏手が丸見えだった。
浮足立った様子でその場を素通りしようとして、ふと視界の端に映った光景に足を止めた。
「は〜〜〜〜〜ったくまじで何だよ来栖茜。あいつが売れ始めてから他の特待生の仕事減る一方だろ」
「男子は風早巽、女子は来栖茜の独走状態だろ。何もやる気しねえよ」
「教師もなんで来栖を放置してんだ? 普通気ぃ使って俺らにも仕事回すもんだろ」
「知らね。枕でもしたんじゃね? つかあいつそんなに歌上手いか?」
知らない男たちの声に混ざって聞こえる咳き込む音。校舎裏の土の上で数人の男子生徒が寄り集まって何かを囲んでいる。
その中心で身を丸くしている紺色に、見覚えがあった。
(――ジュン!)
その瞬間、茜の中で炎のような怒りが燃え上がった。感情に突き動かされるまま足早にエントランスに向かい、雑に靴を履き替えて校舎裏に回り込む。
目的の場所が近くなるにつれ、その会話も風に乗って届いてきた。その大半は茜に向けられた恨みや嫉妬だ。おそらく彼らは、茜に仕事を奪われたと感じている特待生なのだろう。
だが、そんなことはどうでもよかった。誹謗中傷も謂れのない噂も、心底腹は立つが笑って飲み干せる。やれと言われたら皿だって舐められるだろう。
だけど、目の前で虐げられるジュンを飲み込むことなんてできなかった。
その子に触るな。そんな風に頭に足を乗せていい子じゃないんだ。
だって、漣ジュンは茜の星なのだ。いつも遠くにあって触れられない。けれど、それがあるから真っ暗闇でもその星を目指して進んでいける。ジュンがいるから、茜は重たいアイドルの鎧を着ても歩いていける。
あの日に受けたファンサが今でも茜の中で方向を指し示しているから、例え手足が腐ってもゾンビのように這っていけるのだ。まるで、指差しの呪いみたいに。
「あーあ、来栖茜のネタ、なんか持ってたらすぐ週刊誌にでも売ってやるのに」
「意味ないんじゃね? あいつ今はコズプロのお気に入りだし、もみ消されるだけじゃねえの」
「じゃあネットに流すか。あいつがリンチにあってるところ撮って、SNSに流してやろうぜ。あ、エロサイトでもいっか!?」
「ギャハハ、趣味わり〜」
「……面白そうな話をしてるね?」
衝動のままに吐いた息は想像よりも冷たかった。男子生徒らの下卑た声がぴたりと止み、ジュンの荒い息だけが空気に吸い込まれて消える。
「!? 来栖……!? なんでっ、ここ男子部だぞ!?」
「許可証が見えないかなぁ〜? 仕事の手続きでこっちの先生に用事があんの」
茜が入校許可証を見せると、彼らは顔を真っ青に染めた。ジュンから足を離し、二、三歩たたらを踏むように退く。
非特待生のジュンを蹴っても誰にも咎められないが、同じ特待生の、それも絶賛コズプロが売り出し中の人気アイドルに暴力を振るえば彼らだって相応の制裁を受けるだろう。この場におけるヒエラルキーの頂点に立つのは茜だ。彼らの社会的地位やアイドル人生の全ては茜の言葉一つ、指先一つで変わる。
「で、エロサイトがなんだって?」
会話は全て聞かれていて勝ち目はないと判断した彼らは、とうとうその場を逃げ出した。まさに脱兎の如く去る彼らの背に茜は脳内で唾を吐く。
ようやく足音が聞こえなくなったところで、茜はぐっと腹を押さえて地面に蹲るジュンに目を向けた。
リンチの様子を表すように、彼のジャージにはいくつもの靴の跡が残っている。咳き込むごとに髪からぱらりと砂が落ちた。口の端に滲む血が痛々しい。とてもアイドルとは呼べない姿に、茜はきゅうと心臓が締め付けられた。
(アイドルだって認められないとこうなるわけ? 玲明は)
女子部での扱いはまさに陰湿な虐めといった形だったが、男子部では随分と暴力的な手段に変わるらしい。けれどきっと、その根底にあるものは変わらないだろう。そんな状況を生み出したのが玲明学園だとすれば、茜はとても自分の通う学校を好きにはなれなかった。学園と事務所に担ぎ上げられ、茜の実績は自分たちの実績であると堂々と声を上げて宣伝する姿勢にも吐き気がする。その陰に、一体ジュンのような人間がどれほどいると思っている。巽がなぜ非特待生の救済にあれほど奔走しているのか、今なら理解できる気がした。
「……なんか、今日は前よりこっぴどくやられてるね」
ジュンの傍に歩み寄り、その頭に触れようとする。しかし、茜の指先が彼の髪に触れることはなかった。
「ん……――どわっ!?」
ジュンは茜を認識するなり途端に起き上がり、地面に尻をつけたまま一、二歩後退する。ぱくぱくと何度か口を開閉させたかと思うと、「あんた、スカート! 履いてんのわかってます!?」と言って目を逸らした。
「……………………」
しゃがんだまま自身の腿、そしていつもよりも一回多く折られたスカートに視線を落とす。つい、スカートを押さえるのを忘れてしまった。周囲に同性しかいない環境ではいちいちスカートを押さえるという発想が薄れてしまう、女子校育ちの悪癖だった。
見てませんと言うように顔を何もない空間に向け続けるジュンをきょとんと見つめ、ふいに笑いが口元が緩んだ。
やさしい子、だと思う。隙あらば茜の醜態をネットにばら撒こうとする人間がいる一方だというのに。茜の失態で彼の顔に泥を塗ってしまうのは可哀想だったので、少しの嘘を混ぜてフォローをすることにした。
「ああ、そっか。あっははは。だから飛び起きてくれたってことね。優しいねぇジュンは。でもこれ見せパンだから大丈夫だよ。……普段私のライブ映像とか見てるジュンなら分かると思うんだけど」
「えっ……は!? な、なんでそれを……」
面食らった様子のジュンと目が合う。
「HiMERUが教えてくれたよ。この前のやつも配信開始と同時に買ってくれたんだって? ありがとね」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
ぎゅっと口を結んで頬と額を手で覆った彼を見て、茜は満面の笑みだった。一人で百面相をする彼を見るのは面白くて、ついからかいたくなってしまう。
「あ、もしかしてガチのやつじゃなくて残念だった?」
「そうじゃねぇっつの!!」
敬語も忘れ、真っ赤な顔でジュンが叫ぶ。
彼と話すのは楽しい。「今までこんなに笑ったことなんてあったっけ?」と思ってしまうくらい。
きっと、なかったはずだ。あの施設で幸福は生まれない。学校は喜びを運んできてくれない。アイドルになって、売れ始めてからは多少満たされる部分はあったけれど。漣ジュンがくれる麻酔のような幸せには叶わない。
こんなにも心が弾むのは茜にとって初めての経験だった。同時に、アイドルとファンという夢が叶った途端、次から次へと欲が沸いてくる。
もっと君に近づきたい。
君の友達になりたい。
そんな罰当たりな、ジュンには絶対に見せられない黒い欲望が茜の中で蠢く。
「いいね、それ。君ってば最近同い年なのに敬語ばっかりだったからさ、ちょっと――」
「――来栖さん」
その時、美しい絵画にインクを飛ばすようにぴしゃりと第三者の声が響いた。茜は頬に冷や汗を伝わせながらくるりと声のする方を振り向く。
立っていたのは男子部の教師だった。マネージャーと共に顔を合わせたことがあるので間違いない。
「随分仲良く話しているようですが……もしや来栖さん。特待生の貴女が、非特待生の彼と交流が?」
電流と冷水と礫を一度に浴びせられたらこんな衝撃だろうか。先ほどまでの高揚感は嘘のように溶けて消え、指先から熱が逃げていった。
「あ、………………」
うまく口が回らない。ステージの上ではあんなに自在に動かせる喉が全く役に立たない。その間にも教師の怪訝な視線は強まる一方で、何か言い返さなければと思うが一体どの言葉を選べばよいかわからなくなった。
肯定すれば必ずいつ知り合ったのかを聞かれる。男女の特待生と非特待生が同じ現場になるなんてHiMERUのようなイレギュラーでもなければそうそうなく、仕事の関係でなどという最も理解を得られやすい方便は使えない。
いつだったかHiMERUが言っていたことを思い出す。茜とジュンに何かあれば、学園から処罰を受けるのはジュンの方。コズプロの稼ぎ頭の一角と名もなきアイドル候補生なら、後者の方が圧倒的に軽い命だからだ。校則を破って男子寮に忍び込んでいたのは茜の方だったのに。
「……ぅ、かれ……は…………」
「……別に、さっき初めて会って絡まれてただけっすよ」
「君には聞いていません。来栖さん、どうなんです」
言い訳を探している茜に助け舟を出そうとジュンが口を挟んだが、教師には非特待生の話を聞く気などさらさらない。彼の鋭い眼光に怯んだ茜はまさに顔面蒼白だった。
この場をやり過ごす方法は簡単だ。赤の他人だと、ジュンを蹴りつけてしまえばいい。彼を取り囲んでいた特待生らと同様に、無様な非特待生を笑っていただけだと言えばいい。特待生自身がそう言うのなら、教師もわざわざ自分の時間を割いてまで追及したりしないだろう。
簡単なはずだ。たった一言でいいのだから。
(――でも、それって、)
施設にいた他の子供たちと何が違うのだろう。
院長の目を欺くために茜のポケットにチョコレートを入れたあの子と、一体何が違うのだろう。
あんなやつらの仲間になりたくなくて、施設を出ようとアイドルを目指したはずだったのに。地位を手に入れて、強者よりも弱者の数が多くなった途端に、自分も同じことをしてしまう。
(いや、だ)
ジュンを傷つけたくない。
ジュンを汚したくない。
ジュンの前で、自分が醜くなりたくない。
息が苦しい。気を抜くと涙が出そうになる。他人に期待なんてしていないはずなのに、この状況から誰かが救ってくれることを祈ってしまう。
だけど、都合よく誰かが現れてくれるなんてことはないから、茜は自分一人でなんとかしなければいけない。これまでと同じように。
「……………………からかって、遊んでただけですよ。特待生に蹴られてたのが惨めで、面白かったから」
貧血の時のような眩暈を感じながらも茜は静かにそう述べた。無意識のうちにスカートの端を掴んでいた。
教師はあまり納得していない様子だった。だが、ジュンと茜に以前から交流があったという証拠があるわけでもない。「ほどほどにしてくださいね」とだけ告げて去る彼の姿が消えると、茜はカクンと全身から力が抜けた。
「っ、茜!?」と寄り添ってくれるジュンを見て、茜は今この場で死んでしまいたい気持ちになった。
「ち、ちがうの。わたし、こうなりたかったわけじゃ……」
ジュンに推される、ステージで輝くアイドルになりたかった。大好きな人を蹴落として進むような存在になりたかったわけじゃない。
だけど、同時に理解した。来栖茜が歌う限り、どうしたって誰かを傷つける。
アイドルになるというのは椅子取りゲームなのだ。自分はそれに目隠しの状態で参加して、偶然にも最後まで座っていられただけ。ひとたび目隠しを外せば、椅子に座れずもみくちゃにされて倒れた生徒が数多く目に飛び込んでくる。
茜を見上げる無数の屍は幼き日の茜の顔をして、虚ろな目を向けてくる。
嘘つき。この裏切り者。そうならないって決めたはずじゃなかったのと、一斉に茜を責め立てる。
誰よりも自分のファンでいてほしかった、ジュンの目の前で。
「……一応、言っときますけど。さっきのこと、全然気にする必要ないですからね。教師騙すための演技でいちいち傷つくようならとっくにこの学校辞めてますよ」
震える茜を慰めるようにジュンが言う。けれど、茜はそんな彼にかぶりを振って答えるしかできなかった。
「そうじゃ、なくて……ごめん、ジュン。ごめんね……」
ジュンを貶してしまったのを悔いているのではない。
自分が、世界一嫌いな人種と同じ括りになってしまったことを恥じている。
だからどうか。
「忘れて」
君の好きな、きれいなアイドルでいられなくなったことを。