指差しのよすが

或るアイドルへの大難

18

 パタン、と誰かが部屋に入ってくる音を茜は布団の中で聞いていた。

 特待生の寮部屋の管理は非特待生の役目のため、掃除や洗濯、荷物の運搬と非特待生が頻繁に出入りをする。茜の部屋として割り振られているはずだが、私室と呼べるほどプライバシーが守られているかは甚だ疑問だった。幸い金だけはあったので、本来は二人部屋のところを家賃を倍払って一人で使うことはできていたが。

 茜の部屋にやってきた非特待生は寝巻きのままベッドで惰眠を貪る茜を見て、呆れるでもなくただ持ってきた学食のサンドイッチをサイドテーブルに置いた。


「茜さん、頼まれてたサラダサンド買ってきましたよ。もうお昼なのに、まだ寝てるんですか?」


 つい数ヶ月前までなら皮肉として言われていたその言葉も、今ではすっかり棘が腐り落ちている。茜はもぞもぞと動いて布団から顔と腕を出すと、のったりとナマケモノのような動きでベッドに座ってサンドイッチに手を伸ばした。


「え、えっと、私なんかが聞いていいのか分からないんですけど……もしかしてお仕事で何かあったんですか? 新曲披露の番組では特にトラブルはなかったとは聞いたんですけど……」
「……別に〜? 番組は成功したし、来栖茜は変わらず絶好調。何か変わったところでもある?」
「……茜さん」
「何?」
「袋開けるの、逆です……」


 非特待生の彼女に指摘されて、初めて茜は自分の手元を見た。サンドイッチを包んだプラスチックの包装を開けようと先ほどから袋の端を引っ張っていたが、開けるための切り込みが入っているのはその反対側だ。わざわざ赤いラインが引かれているので落ち着いて確認すればまず迷うことはない。


「……クソ、こんなHiMERUみたいなミス…………」
「もう何日もずっとこんな調子ですし、そろそろ疲れが溜まってるんじゃないですか? 一度誰かに相談した方が……」
「必要ないし、聖人ぶった連中に分かり顔で頷かれる方が返って癪だから別にいい」


 施設のこともジュンのことも、誰にも理解されたくない。だからこうして、自分の中で燻っていく感情が惰眠と共に鎮まるのを待っている。

 改めてサンドイッチの袋を開けると、茜はそのままぱくりとかぶりついた。ベッドに座ったままとは行儀が悪いと最近めっきり共演の機会がなくなった夢ノ咲の某アイドルに怒られそうだったが、人前に出ていない時までいちいちマナーを気にしていたくない。

 あくまで他者を寄せ付けない態度に、茜も自分自身、これには呆れて人が去っていくだろうと思っていた。非特待生の彼女が早く部屋を出て行ってくれますようにと願いながら、さらにもう一口かぶりつく。

 が、返ってくるのは期待と反する言葉だった。


「聖人と言えば、男子部の風早先輩、お仕事復帰されたみたいですよね」
「……巽先輩が?」


 茜がつい反応して顔を上げると、非特待生の彼女は待っていたように目を輝かせた。


「そうなんですよ! 一時休止って聞いた時はどうしようかと思いましたけど、先日撮影を再開されたみたいで! 茜さんは聞いていませんか?」
「……私は特には。あの人とは一応繋がりはあるけど、言ってしまえばそれだけだし」
「えっ!?」


 突然、彼女は驚いたように声を上げた。何事かと目を丸くする茜だったが、興奮が抑えられないといった様子を目の当たりにして言葉を失う。

 すると彼女は一旦部屋の出入り口から顔を出して誰もいないことを確認すると、まるで袖の下を渡すかのようにそっと茜に耳打ちした。


「繋がりはあるって……もしかして、あの噂って本当なんですか? 風早先輩と茜さんが手を組んで、玲明の非特待生の救済制度を進めてるって」
「は、あ?」
「だって現に、風早先輩が出られなくなった分の仕事もいくつか茜さんが引き継いでいるでしょう?」


 ふざけないでほしい。根も歯もない噂話だ。それを信じる方がどうかしている。

 巽の考えは知らないが、茜は彼の地下墳墓とは全くの無関係だ。半ば逃避のようにジュンに会いにいく通り道には活用させてもらったが、そこに集った非特待生らとの交流もジャージを買い取った他には一切ない。

 女子部の非特待生が己に何を望んでいるのかは知っている。風早巽のように自分達を救ってくれ。ただそれ一つだ。勝手に願って、勝手に裏切られたと騒ぐくらいなら茜だって目を瞑った。そんなものは世の中にはありふれた話で、インターネット上の炎上やアンチからの攻撃も大半はそうだからだ。

 だけどまさか、風早巽と既に手を組んでいるとまで噂が一人歩きをしているなんて。自分にとって都合が良い方に認知を歪める集合認知の表れなのかもしれないが。

 否定するべきだ。風早巽とは無関係で、自分は非特待生のことなんてどうでもいいと思っていると。切り捨てても痛まないポーンや歩兵でしかないと。

 だけどその時――茜の脳裏に、特待生に蹴られて蹲るジュンの姿が過ぎった。


(ジュ、ン)


 目の前の非特待生に、君が夢見ている来栖茜は全て幻だったと伝えれば、きっと彼女を傷つけることになる。特待生がジュンにしていたことと同じことを彼女の心にしてしまう。一度そう思ってしまうと、声が出なかった。そんなの今更な偽善だと理解しているのに、そうして振り上げた拳がいつか、彼女たちを通り越してジュンに当たってしまうのではと思うと怖くてできなかった。


「っ、…………!」


 食べかけのサンドイッチをテーブルに置き、非特待生の彼女を通り越してクローゼットへと進む。ぴっしりとアイロンがけまで終わった衣服の中から乱雑にジャージを掴み取ると、一度ベッドに放り投げてその場で寝巻きを脱ぎ出した。


「え、茜さん? 突然どうされたんですか?」
「用事を思い出したからもう行く。そのサンドイッチ、余ったから食べていいよ」


 同性しかいない空間で茜は恥ずかしげもなく上下下着の状態になり、普段はステージ用の煌びやかな衣装に隠された肌が露わになる。嫉妬を向けられることもあるだろう豊満な胸と、病的なまでに痩せた四肢。カメラを通せば理想体型に見えるだろうが、実際に目で見るとアンバランスさが際立っている。施設での大部屋暮らしが長かったため、他人に見られて着替えをすることに抵抗感がなかった。

 非特待生の生徒がぽかんと茜の早着替えを見つめているうちに、サイズの合わないジャージに着替えた茜はさっさと部屋を出て行ってしまった。残された彼女はテーブルの上に鎮座するサラダサンドに目を向けると、まだ口の付けられていない方にぱくりとかぶりつく。


「!? に、苦……!?」


 つい口を押さえてパッケージを確認した。表には期間限定サラダサンドイッチとしか書かれていなかったが、裏の原材料名の中にゴーヤの三文字が主張を放っていた。


「茜さん、よく食べられましたね、これ……」









 立て付けの悪い扉がギシギシと三回ノックを鳴らした。椅子に座り本を眺めていた巽はぱたんと表紙を閉じると、ゆったりとした足取りで出入り口まで進み、ドアを開く。


「おや、茜さん。こうして顔を合わせるのはなんだか久しぶりのような気分になりますな。お元気でしたか?」
「気分じゃなくて実際久しぶりですしね。復帰おめでとうございます、巽先輩」


 己のものではないジャージを着てやってくる彼女は、巽が体調を崩す前からこのタコ部屋の常連客だった。変わらない様子の茜に巽は安堵したが、同時にその祝いの言葉が純度の高いものではないと察していた。怒りが滲んでいるわけではないが、笑顔でもない硬い表情の彼女を見下ろして巽は苦笑する。


「すみません、俺がいない間に迷惑をかけてしまったみたいで」
「本っ当です。巽先輩の穴埋め大変だったんですよぉ? ま〜、ほとんどHiMERUに持ってかれちゃいましたけど」
「ではHiMERUさんにもお礼を言わなければなりませんな。もちろん、茜さんにも。助かりました。俺に何か返せることがあればよいのですが」


 巽は流れるように茜をタコ部屋に招き入れる。この時間は非特待生の座学授業のため、巽と茜以外の生徒は誰一人いなかった。茜は中央の卓袱台の前に腰を下ろすと、巽が茶の用意をするためにキッチンに向かう。


「お茶なんて別にいいのに。とはいえ、私お茶なんて入れたことないので代わりにやりますとかも言いませんけどね?」
「気にしないでください。昔からの癖みたいなものなんですよ」
「癖?」
「教会では炊き出しも行っていたものですから」


 巽の実家はとある宗教系の教会だと聞いた。アイドルとしても牧師と呼ばれるその様子から、彼の立ち振る舞いの大半はその教会で身につけたものなのだろう。以前ジュンが「風早先輩の料理は美味い」と太鼓判を押していたのを思い出した。


「炊き出しって、どういう人が来るんです?」
「殆どはホームレスの方ですね。他は近隣の子供や、事情があって食に困っている方もいらっしゃいました」
「ふぅん…………」


 もしも、と茜は思う。

 あの施設の近くに巽の実家の教会があったら、空腹で虚しい日々を少しでも満たせただろうか。最小限の食事で虐待紛いの生活から抜け出すために、信じてなんかいない虚像の神様を崇めていたかもしれない。それはまるで、見返りだけを求めて地下墳墓に集う非特待生たちのようにも思える。世の中の信仰なんて案外そんなものなのかもしれなかった。

 その時、巽がふと茜を振り返って言う。


「そういえば、もうそろそろ昼休みですね。丁度昼食を作ろうと考えていたところだったのですが、よければ食べていかれませんか?」
「えっ」
「ああ、もちろん無理にとは言いませんが。今日はジュンさんもこちらで食べると仰っていましたし、せっかくならと思いまして」
「ジュッ……ジュン、がぁ…………?」


 一瞬で脳に麻薬を打たれたような感覚だった。ジュンの名前を聞いただけでどきんと心臓が跳ねる。


「ええ〜〜〜……? ど、どうしよっかなぁ……? ジュンが一緒とかは別に全然興味ないですけど、困るなぁ、私ダイエット中だしなぁ……?」


 不自然に泳ぐ目。発汗。頬の紅潮。これで信じろと言う方が無理があるが、茜は無理やりにでも押し通す気だった。

 すると、巽は茜の意図を汲んだかのように主張の方向を変える。


「……茜さんさえよければ、作るのを手伝っていただけると助かるのですが。生憎まだ病み上がりなものでして」
「……………………そっ……そういうことなら、まあ……構いませんけど……」


 巽の温かい目を見ないように顔を逸らす。それを受け入れてしまうと、なんとなく負けてしまう気がして。何と戦っているのかは自分でもよく分かっていないが。









「私に料理の才能はないんだなってのがよく分かりました」


 スクランブル状で固まった白身と黄身がまだらな卵。焦げたチキンライス。“卵とチキンライスのバケモノ”と銘を打って美術館に飾れば、ぎりぎり現代アートとして受け入れられそうな見た目の料理を見下ろして茜が呟く。


「巽先輩の教えは完璧だったし、調理法はきっちり覚えた。やっぱり味付けかな……?」
「………………」


 十中八九全てだろう、と巽は思ったが言葉にはしなかった。味付けに難があるというのもあながち間違いではないからだ。


「最初は誰でもこういうものですよ。幸い卵は多めに用意しているので、あと一回分なら失敗しても大丈夫ですがどうされます?」
「うっ……も、もう一回作ってもいいですか……? このまま終わるのはなんか癪……! 失敗分の材料費後で払うんで……!」
「はい、もちろんです。あと材料費は気にしなくても構いませんよ。全て頂き物なので」


 巽は微笑んで、冷蔵庫かは卵と玉ねぎを取り出してきた。茜はそれらを申し訳なさそうに受け取ると、よしと腕をまくってキッチンの作業台に向かう。

 相当な負けず嫌いだな、と巽は感じた。そうでもなければ、特待生の中でも底辺に近い立ち位置からトップに上り詰めることはできなかったのかもしれない。茜の邪魔にならないよう一歩分離れた位置に立ち、巽は彼女の調理風景を眺めた。


「……巽先輩、もうそろそろ気づいてるでしょう。“味付け”が悪いって」
 トントンとぎこちなく玉ねぎを切りながら茜が口を開く。
「…………もしや、とは思いましたが。ひょっとして味覚が……」
「そ〜そ、馬鹿になっちゃって。うっすらとしか感じられないんですよねぇ、何食べても」


 過度な食事制限と精神的ストレスの表れだ。何を食べても味の消えたガムのようにしか感じられず、甘いかしょっぱいかなどはおおよそ予想つくものの、風味など繊細な味覚はごっそりと抜け落ちている。不幸中の幸いか食レポなどの仕事は全て台本通りに進めるだけだったので仕事に影響は出ていないが、舌がそんなものだから食欲は減衰する一方だった。


「ジュンには言わないでくださいね」
「ジュンさんに、ですか?」
「知られたくないんです」


 これ以上、来栖茜の欠陥部分を彼に見せたくない。この身が宿すアイドルのたましいは、生まれてから死ぬまで一つの穢れもない完璧なものではくてはならない。そのためなら味くらい感じられなくなったところで構わなかった。元々施設にいた頃からろくなものを食べていない貧しい舌なのだから、この程度誤差の範囲でしかない。


「……茜さんの意思を尊重したいという思いはあります。ですがジュンさんに伝えなかったとしても、一度病院で診察を受けた方がよいのでは? 事務所の意向でダイエットをするというのはよくあることですが、身体に悪影響が出るまではいくらなんでもやりすぎの部類に入るかと」
「ええ……? それ巽先輩が言います……?」


 茜が苦笑すると、巽は痛いところを突かれたように眉を下げた。玉ねぎをみじん切りにし終えた茜はフライパンにバターをころりと転がす。


「……私、巽先輩が地下墳墓を解体するって言うなら手伝いますよ。貴方には恩がありますし……巽先輩が体調不良で休止した時、あいつら誰も巽先輩のこと助けなかったじゃないですか。あんな奴ら、体壊してまで大事に守ってあげる価値あるんです?」
「それは誤解です、茜さん。彼らには俺が手伝わないようにと頼んだんです」
「はあ!?」


 茜が声を荒げた拍子に、フライパンに投入した玉ねぎが勢い余って外に跳ねた。炒められることもない具材は溶けたバターのプールでじゅうじゅうと焼かれていく。


「なんで!? じゃあ巽先輩、一体何のために……!」
「――俺はね、茜さん。理想を現実にしたいんですよ」


 茜が顔を上げると、巽は茜の目をまっすぐに見つめていた。その顔は窓から差し込んだ逆光で見えづらかったが、やさしく微笑んでいることは分かる。


「身分や立場に囚われず、誰もが公平に機会を得て、平等に扱われる。そういう理想郷を、俺はこの玲明に作りたいんです」
「…………無理、ですよ。そんなの。だってそれは、扱われる側だって平等を望んでる場合でしか成り立たない」


 平等という言葉は、力のない人間にとっては甘美な響きに聞こえるだろう。ジュンのような、蜘蛛の糸にすら縋れない非特待生が平等な分配を求めて膝をつくのも頷ける。もっともジュンに限ってはそんな甘い誘惑をくだらないと一蹴し、たった一人で果てのない茨の道を歩んでいるのであり、そういうところを茜は好ましく思っているのだが。

 だがそれは、自分一人の足で歩ける人間の骨を砕くようなもので。例えば茜がその輪の中に入ったとして、泥を啜るような思いで取り返した曾祖父の遺産を“平等なのでそれを弱い立場の人に分け与えましょう”などと言われたら、きっと全力で抵抗する。ふざけるな。これは私だけの財産だと。あの監獄みたいな施設を抜け出した私の生きた証だと、喉元にナイフを突きつけたくなる。

 そうやって、平等を拒否する人間はきっと現れる。あるいは今まで働き蟻として動いていたが、惰眠を貪っても得られる恩恵に気づきキリギリスに転じるか。どちらになっても、平等の天秤は際限なく偏り続ける。それを今回のようにいちいち身を削って均衡を保っていては、巽自身がそう長くもたないだろう。


「巽先輩は性善説を信用しすぎですよ。どれだけ環境がよくても、人は人を出し抜きたがるし、平気で裏切るし、爪弾きにします。玲明の環境に限ったことじゃありません。先輩が馬鹿を見るのは、目に見えてるのに」
「……茜さんは優しいですな。すみません、心配をかけてしまったようで」


 優しいのは巽の方だ、という言葉を茜は喉の奥に押し込んだ。彼の場合は優しすぎる。


「ですが、これは俺の夢でもあるんです。この玲明で誰もがアイドルを夢見るように、俺も、俺の夢の為に革命を起こすんですよ」


 そう笑顔で語る巽に、茜は一瞬、恐怖に似た感情を覚えた。頬に冷や汗が伝う。話が通じない怖さ。思想が伝わらない難しさ。それに似たものを以前どこかで見たことがあると思って――ふと、一人の人物を思い出した。

 院長先生だ。巽の夢に陶酔する姿からはフライパンでバターが焦げる匂いに混ざって、かつての院長の笑顔の支配に似た香りがした。

 それがどうしようもなく得体の知れないもののように思えてしまい――その日から、茜は男子部に来ることをやめた。
ALICE+