指差しのよすが

或るアイドルへの大難

19

 これは本当にだめだ、と茜は思った。

 体が動かない。ベッドから起き上がって撮影に行かなければならないのに、足が言う事をきかない。意識が覚醒してから軽く二時間は経っているが脳が押さえつけられたように回らない。そもそも睡眠だって推奨される時間の半分しかとれていなかった。

 理由は考えるまでもなく疲労だ。身体的なものもあれば精神的なものもある。目の下の隈がそれを顕著に表していた。

 あれから、茜の予想通り巽は入退院を繰り返すようになった。その分の仕事は他のアイドルたちに回り、主に茜とHiMERUで山分けのような形に収まっている。当然その分の負担は重くのしかかった。HiMERUは非特待生に落ちた影響でゼロからのスタ―トだったが、茜は以前から継続して受けていた仕事がすでにある状態だ。それらに影響を出さず、巽のこぼした仕事をHiMERUと共に淡々とこなすにも限界があった。少しおかしいくらい、仕事で手一杯な状態だ。

 ベッドで仰向けになり、自身の腕を目元にぽとりと落として光を遮断する。


(ジュンにあいたい)


 気付けば何ヶ月も会っていない。連絡先を交換してもいないから言葉を交わすこともできない。ジュンと、巽と、要の三人とタコ部屋で過ごしていた時間は、自分にとって相当な支えになっていたのだと気づいて自嘲した。


(けど、今の巽先輩とは会いたくないな)


 自覚しないうちに自分も“風早巽カンパニー”の一員になってしまうことが怖くて、彼に近づくことができなかった。そんなことをしているうちに、HiMERUは巽の仕事を吸収することで非特待生から特待生に返り咲いている。茜だけがどこにも行けず、何も成せないまま。

 こんなアイドルになりたかっただろうか。暇さえあればベッドに沈み、起きも眠れもしない時間が過ぎるのをただ待つようなこれは、果たしてアイドルと呼べるのか。

 ――そもそも、どうしてアイドルになりたかったんだっけ?

 睡眠障害の影響か、最近記憶がおぼろげになってきている。あんなにアイドルになることを望んでいたのに、それが一体どうしてだったのか思い出せない。ならば、今もアイドルを続けている意味は何だろう。なぜ、自分は未だにアイドルでいるのだろう。


「……たすけて、ジュン」


 タコ部屋に行けなくなってからずっと胸が苦しい。だけどこの苦痛の理由は分からない。彼に会いたいという気持ちはあるけれど、同時にこんな姿を見ないでほしいと思う気持ちもある。茜にはもう、自分の心の輪郭があやふやだった。まるで宇宙空間に放り込まれたようだ。


「茜さん」
「……………………」
「今日もこの後撮影があるんでしたよね? マネージャーさん、もう準備して待ってるそうですよ」


 時間通り起こしにやってきた非特待生が茜の肩を叩く。彼女にしてみれば軽くゆする程度の力だっただろうが、胸に劇薬を流し込んだような体調の茜には慈悲のない折檻のようにも思えた。


「……行きたくない」
「え?」
「撮影、行きたくないな……」


 非特待生の彼女と目も合わせず、枕に顔を埋めた状態で茜が呟く。

 初めてだった。こんなにも正直に胸の内を明かしたのは。彼女も何やら茜の様子がおかしいことには気づいたのだろう。多少狼狽えたように肩を叩く手を止めた。

 しかし、非特待生は所詮特待生のお世話係であり、マネージャーでもプロデューサーでもない。いくら体調不良に気づいていても、なら出なければいいんじゃないですかとドタキャンを勧める権利はなかった。


「そ、そんなこと言わないでください。もう少し頑張ってみましょうよ。もう少し耐えれば、きっとまた風早先輩が復帰して茜さんの負担も少しは減りますから!」


 もう少し頑張れ、と茜の周りの人間はいつも言う。茜はもはや怒りすら湧いてこなかった。もう少しだって、唱え続ければ永遠だ。その言葉に首を引っ張られ、ゴールテープの見えない暗闇を走り続けてどれほど経っただろうか。もう疲れたと足を止めようとしても、優しい言葉に見せかけた鞭を打たれてまた走らされる。


(悪徳企業コズミックプロダクション……一生ゆるさねえから覚悟しとけよ……!)


 顔に血管が浮き出そうなほど歯を食いしばった後、茜はのそりと起き上がった。自分一人ではなかなか動かせなかった体も、他人が近くにいるだけで案外動くものだ。

 とりあえず顔を洗おうとタオルを取りに向かったその時、あの、と非特待生が茜を呼び止めた。


「さっき、ジュンって言ってましたけど、誰かの名前ですか?」
「……さあ? そんなこと言ってた?」









「いつにも増してひどい顔をしていますね、来栖」
「あ?」


 スタジオの廊下でばったり顔を合わせたHiMERUに開口一番そう告げられ、茜は思わず眉頭を寄せた。見ようによっては不良のガン飛ばしに見えなくもないそれをHiMERUは平然と受け止める。


「アイドルがなんて顔をしているんです。スタッフが近寄りがたそうにしているでしょう」
「へっぽこHiMERUが偉そうに。特待生に戻れたついでに優等生らしく説教しようって? はいはい、どうせ私は事務所にも若干疎まれ気味の、いてもいなくても困る不良アイドルですよぉ」
「ぼくに当たられても困るのです。今のきみを見ていると、以前のさざなみを思い出します」


 茜の複雑怪奇な心理の奥底に根付いている名前を挙げられては、暴言の波を一旦止めるしかなかった。涼しい顔のHiMERUをほとんど睨むように見つめるが、それでも彼は顔色ひとつ変えない。


「きみ、もうずっと非特待生寮に行っていないんでしょう。会うたびにさざなみがうるさくてぼくもうんざりしているのです。なんとかしてください」
「なんとかしろって、私にいわれて、も……」


 苦言を呈すにも、それは丸々茜に帰ってくる言葉だった。不機嫌に任せてHiMERUに鬱憤をぶつけてしまったのは自分なのだから、彼に無理難題を押し付けられても文句は言えない。尻すぼみに声を落とした茜だったが、HiMERUは構わず話を続ける。


「巽先輩と何かあったと巽先輩本人から聞きましたが、さざなみは無関係でしょう。彼まで避ける理由はないはずです」
「う、確かにジュンは無関係だけどさぁ〜? でも、今はちょっと、巽先輩とギスってるところ見られたくないっていうか……そもそも私が男子部に行くのってがっつり校則違反なんだから、これで正しいっていうか……」
「今さら何を言っているんですかきみは」
「うるさいな! 分かってるよちくしょう!」


 でも、どうしたってできないものはできない。

 会えるものなら当然今すぐにでも会いに行きたい。漣ジュンという人間はアイドル“来栖茜”の心臓だ。彼と出会っていなければ、失意に身を任せてアイドルを辞めていた。彼に愛されようと似合わない努力をした。だけど今、茜の身は擦り切れて今にも崩れそうなほどボロボロになっている。化粧乗りは最悪で、目の下の隈は写真加工で消してもらっているほどに。

 そんな自分を見て、ステージで輝く茜を見ていたジュンは幻滅するだろうか。心臓が消えたら人は生きていけない。アイドルの茜が死ぬどころか、素の自分だって悲しい。何度も男子部に足を向けようとしたが、そう考えた途端恐怖が勝って引き返してしまった。


「……そのうち、会って話はするよ。巽先輩とも。このままお別れなんてしたくないしね」
「お別れ? まさかきみ、玲明をやめる気なんですか?」
「可能性の話だよ。それに、私のアイドル人生はそこまで長くないと思うから」


 雨上がりの静けさのように、淡々と事実を述べた茜にHiMERUは瞠目した。


「たぶんだけど、コズプロは私に長くアイドルでいさせる気はないんじゃないかな。私はわりと今まで好き勝手に活動してたから、経営陣が“こいつは危ないな”と思うきっかけと、正当性のありそうな理由が揃えばすぐにでも切ると思う。そうでなくても、女性アイドルは寿命が短い傾向にあるしね」


 女性アイドルは大半が日の目を浴びることはない。茜が例外中の例外であり、それを歓迎しない業界人も多くいる。なので結婚後も人気を落とすどころか増す一方のスーパーアイドル氷鷹誠矢のように長く活動をすることはできないと、アイドル業界の仕組みを授業で習い始めた頃には察していた。

 それでも構わないと思っていた。たっぷりと金を稼いでさっさとトンズラこいてしまうのが当時の目標だったから。イレギュラーだったのは漣ジュンとの出会いだ。


「HiMERU、君は長生きしなよ。少なくとも取引先と共演する芸能人の名前は忘れないようにしなよね」
「うるさいですよ。余計なお世話なのです。……とにかく、さざなみには絶対に会いなさい。ぼくの命令です」
「互いに特待生なんだから命令できる立場でもないでしょうに……そもそも、なんでそこまで頑なに私とジュンを会わせたいわけ?」
「? だってきみ、さざなみのことが好きでしょう」
「さっ……!」


 動揺して、つい声が大きくなってしまった。口元に変に力が入り、嬉しいわけでも可笑しいわけでもないのに口角が上がってしまう。

 目を白黒させる茜にHiMERUはふふんと胸を張ると、「ぼくもです」と微笑んだ。


「え!?」
「ぼくにも、愛するひとがいます。大切にしたいと思うひとがいます。ぼくとそのひとは簡単には会えませんが、きみとさざなみは簡単でしょう。地下墳墓を通り抜けるだけで、すぐに顔を見ることができるはずです」
「……あ、ああ。そういうこと」


 彼の言う愛する人が誰を指しているのかは茜は知らない。少なくとも彼が非特待生に落ちたばかりの頃はそんなそぶりを見せていなかったので、おそらく特待生に戻る前後でそういう人と出会えたのだろう。

 どきどきと鳴る鼓動を徐々に静めながら、茜はそうだねと声を絞り出した。


「まあ、HiMERUに言われたならそうするよ。巽先輩のスケジュールとか把握してない? あの人休止と復帰を頻繁に繰り返してるし、行動が読みづらいんだよね」
「なら、きみには特別に教えてあげます。明後日、ぼくと巽先輩で舞台に立つのですよ。場所は男子部に新設される講堂です。その時間なら、巽先輩と会うことなくさざなみのところへ行けるのです」
「……HiMERU〜! サイコ〜! 持つべきものは特待生様の友人ってね!」
「さっき、ぼくをへっぽこと呼んでいませんでしたか?」
「やだやだ怒らないでHiMERU、ちゃんと撤回するから!」


 そう軽口を言う茜は、素とはかけ離れたアイドルの来栖茜らしい無邪気さを孕んでいた。

 稀に、HiMERUは思う時がある。彼女は素の自分を育ちの悪い粗雑な人間だと述べるが、アイドルとして集団を照らす光である彼女は虚像などではなく、水面に映る彼女の側面でしかないのでは、と。おそらく彼女はそれに気づいていない上、何らかのプライドが邪魔をして認めたくないがゆえにアイドルの来栖茜を偽りだと語っているのだろうが。

 茜はHiMERUの肩をぽんと叩くと、収録よろしくねとだけ告げ上機嫌で去って行った。

 その途中で立ち止まり、一瞬くるりと振り返る。


「あ、HiMERUと巽先輩の舞台だっけ? 時間があったら見に行くよ」
「別にいいですけど、それでさざなみに会うのを忘れたりしたらゆるしませんからね」
「そんなヘマしないっての」


 HiMERUじゃないんだし、とは言わなかった。

 再び動かした足は驚くほど軽くて、今朝の倦怠感は何だったのかと思うほどだ。正直に言えばその倦怠感はまだ完全には抜けきっていないのだが、ここ最近の中では格段に調子が良い。

 時間があったら見に行くというのもあながち嘘ではなかった。尊敬する先輩と友人の初共演舞台だ。ジュンも大事だが、そちらにだって当然興味はある。ジュンと会った後にでも、新設されたという講堂の見学も兼ねてこっそり覗いてこようと考えていた。

 ――その選択が正解だったのか間違いだったのか、茜には判断がつかない。









 久しぶりに袖を通したジャージを葉っぱだらけにしながら、茜はがさりと茂みを抜けた。


(なんでいつもの出口にスーツ姿の男がうろうろしてるわけ!? 怖すぎでしょ……!?)


 男子寮と地下墳墓の一番近い出入り口はまるでバラエティで見かける鬼ごっこゲームよろしく、周囲を監視する黒スーツの成人男性が二、三人誰かを探すように歩きまわっていた。時折、誰かに連絡をしている動きも見せながら。敷地内にいる以上玲明の関係者であると思いたいが、校内であのような風貌の人間を見かけたことはなかったため茜としても警戒せざるを得ない。例え関係者であったとしても、茜が地下墳墓を利用して男子部に来ていることが発覚すれば今までの悩みも決心も全て水の泡だ。

 結局、いつも利用している出入口は諦めて、男子寮から遠い場所から外に出るしかなかった。地下墳墓はとにかく広いため、地上への道も複数存在している。その全てではないが、何カ所かは茜も把握していた。男子部の敷地のどこに出るのかは分からないが、地下墳墓関連は玲明からはタブー視されているようなのでいきなり校舎の真横に出ることはあるまい。

 予想通り、その日茜が出た場所は立ち入り禁止区域の林だった。男子寮からは遠ざかってしまったが、歩いていけない距離ではない。


(途中教師とスーツの人たちに見つかりませんように……! まあ、今はHiMERUと巽先輩の舞台の最中だからほとんどの人間はそっちに行ってるとは思うんだけど……)


 立ち入り禁止区域の外に出ると、茜は体中についた木の葉を手で払い落した。知らない景色だが、男子部内の地図は頭に叩き込んでいる。迷うことなくジュンにいるであろう寮に向かおうとして、ふと、足を止めた。


(……新設された講堂って、もしかしてここ?)


 見るからに新築の建物がぽつんと、茜の目の前に建っていた。周囲の建造物と見比べてみてもそれひとつだけが浮いて見え、聞き取りにくいが内部から何やら音が漏れている。

 少しだけ覗いてみよう、と茜の好奇心が働いた。夏の甘い香りに誘われる虫のように、寮へ向けていたはずの足が自然とそこに歩み出した。

 内部の廊下は不気味なほど静かで、茜以外の人影は皆無だった。舞台の最中なら誰か教師くらいは外に立っているものだが、もしかするとここがHiMERUの言っていた講堂というのは勘違いだったのではとすら思えてくる。

 だが耳をすませば、たしかに音はする。人の声だ。それに混ざって、別の形容しがたい音も漏れている。

 講堂出入口の重い扉をゆっくりと押し開く。


「――――え」


 その瞬間、ステージ上で鮮血が舞った。

 舞台に群がる玲明の制服を着た生徒たち。その中には特待生も非特待生も混在している。皆一心不乱に、取り憑かれたような顔をして中心にある何かを蹴り飛ばしていた。中には鉄パイプのようなものを叩きつけている者もいれば、狂ったように涎を垂らして泣き叫ぶ者もいる。想像していた舞台の華やかさとは似ても似つかず、茜は一瞬場所を間違えたのだと思った。

 だが、彼らの中心で横たわる人物が視界に映り、心臓が冷えた。

 肩に届かないスプレイグリーンの髪も、嫉妬するくらいさらさらなウォーターブルーも、どちらも茜がこの日一目見ようと探していたものだ。


「……たつみ、せんぱい? HiMERU……?」


 茜が呆然と立ち竦んでいる間も、彼らは生徒たちによって暴行を加えられていく。美しかった顔は埃で汚れ、制服は靴跡でまみれ、額からは血を流している。

 もうとっくに意識を失っているのか、それとも声を上げる体力すらないのか、彼らは苦痛の呻き声すら発さなかった。いつかのジュンが受けていた暴行とは比にならない。これはもはや死体蹴りの域だった。

 なぜこんな惨劇が起こっているのか茜は理解できなかった。現実ではないと、認めたくないと脳が状況整理を拒んでいる。

 鼓動が早まり、額に汗が滲んだ。眩暈も引き起こし、叫び声と蹴られたマイクのハウリングがホール中に響いてぐわんと脳を揺らす。

 だけど、これだけは分かった。止めなければ。今すぐ彼らを止めさせなければ、取り返しのつかないことになる。

 茜は震える声を張り上げようとした。


「巽先輩! HiME――」


 バチンッ!

 背中と腰の中間あたりに感じたこともない衝撃を受けて、茜は悲鳴もあげずに倒れた。自分で体を支えることもできなくなり、講堂の通路に打ち付けた頭がズキズキと痛む。

 背中を中心として全身を激痛が走っていた。講堂の床と座席の足だけが視界を埋め尽くし、今巽とHiMERUがどうなっているのかは見えない。顔を上げようにも痛みでそれどころではなかった。生徒たちの声に耳鳴りが重なって耳を塞ぎたいほどうるさかったが、その手は指先が微かに動く程度で持ちあげることは叶わない。

 その時、ある男の声が降ってきた。


「おおっと失礼。ですが、今あなたにあの場に乱入されてしまっては面倒なことになりますので、少々手荒ですが身柄を拘束させてもらいました」


 バチバチ、と流れた電流音で、茜はようやくスタンガンを使われたのだと理解できた。いっそ気絶できればこの激痛からも解放されただろうが、映画やドラマのようにはいかないらしい。

 すぐ傍で聞こえてくる若い男の声に茜は聞き覚えはない。だが視界には靴の端すら映らないよう立ち位置を調整していることから、どうやら茜に自身を認知させたくないことは察した。


「本当は講堂に来る前に押さえておきたかったんですが、どうやら抜け道を使われたご様子。いやはや、その機転と勘の良さには感服するばかりであります! さすが、女性アイドル業界に金字塔を打ち立てただけのことはありますな!」


 神経を逆撫でするような声色に唾を吐きたくなった。だけど冷静に、緊張状態によって異様なほど高速回転する頭で考える。

 彼は元より自分がこの場所に来ると踏んで手を打っていたらしい。だとすれば、いつも利用している地下墳墓の出入口で待機していた黒スーツの男たちは自分を探していたのであり、全てこの男の指示であった可能性が高い。


「心配せずとも、舞台にはそのうち上がれますよ。もしかすると、上がるのはステージではなく断頭台になっているかもしれませんが」
「……ぅ、あ…………」
「ああ、無理して動かない方がよいかと。死ぬような威力ではありませんがそれなりの電圧を流しましたので。もちろん、人体に影響が残らない範囲なのでご安心を」


 すると男は、床に伏せる茜の後頭部側に回って膝をついた。内緒話をするように、周りの生徒たちに聞こえない小声で語りかける。


「ところで、ひとつ雑学でもお教えしましょう。ダイヤモンドの歴史をご存じですか?」


 一見すると何の因果関係もない飛躍した話題に茜はぐっと閉じていた瞳を開いた。眼球を動かして可能な限り男を見ようとするが、彼はこちらの視野角もきっちりと計算して上で場所を選んでいるようで髪の毛一本も視界に入らない。まるで道化師のような所作で、彼はぺらぺらと一方的に言葉を紡いでいく。


「そう、ご想像通りの、そしてあなたの楽曲のタイトルにもなったあのダイヤモンドです。古代ローマ時代において、ダイヤモンドは宝石としての価値がそれはもう低かったそうですよ? 当時は今のような研磨技術がなく加工が難しかったからとされていますが、その結果、ダイヤモンドは宝石ではなく厄払いのお守り、あるいは薬のようなものとして使われたのだとか。一部では星の欠片とも呼ばれたそうです」
「当然、医学的根拠は皆無のただの迷信です。しかし当時は医学も未発達の時代。人々はダイヤモンドが自分達を守護し、万病を治し、苦しみから救ってくれると信じました」
「ですが、そんな時代はキリスト教の広まりと共に終了します」


 身分に関係なく全ての人々を救うというキリスト教の精神が、修道院での医療の発展に大きく関わった。その末にダイヤモンドは迷信として人々から追い払われ、貴族が胸に飾るただ美しいだけの装飾品へ成り果てたという――と、彼は悠々に語った。現在ステージの上で行われている惨劇などまるで見えていないかのように。


「しかし、仮に……その宗教が弾圧されたとしたら、大衆はどんな行動に出るでしょう?」
「…………」
「そう、ダイヤモンドの時代に逆戻りです! 一度はくだらない迷信だと切り捨てたものでも、危機が迫れば縋らずにはいられないのが人間のさがですねぇ! けれど――我々はそれを黙って許容する気はありません」


 茜の視界が徐々に霞んでいく。スタンガンで受けた痛みが和らいでいくと共に意識までが暗闇に落ちそうになる。

 まだ男から情報を引き出していない。それに、巽とHiMERUを助けなければ。まだ寝てはいけないと頭で叫んでも、男の声は遠ざかるばかりだった。


「あなたとは“そういう縁”もあるようなので、これが最初で最後の忠告です。手を打つならどうぞお早めに。ギロチンにかけられてから悔やんだところで、死人に口はありませんからねぇ」


 とうとう世界が明滅する。生徒たちの悲鳴と耳鳴り、そして男の“忠告”の最中で、いよいよ限界がやってきた。彼の話に僅かな引っ掛かりを感じたことを自覚しながらも。

 ぼきんっ、と何かが折れる音が遠くで鳴ると共に、茜の意識は泥沼に沈んだ。
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