さよなら、ダイヤモンド
03
ぺらり、雑誌の記事を捲る。この日の昼休みもいつもと変わることなく、ジュンはタコ部屋に戻っては巽の作った料理を食べ、午前中歩き回った体を休ませるように布団にあぐらをかいて座っていた。足の上に乗せた雑誌に目を落とすジュンはまるで資格勉強をしているのではと思うほど静かで、巽もあえて声をかけようとしない。
しかしただ一人、空気を読めないことで周囲に知られている十条要はそんなジュンの作り出した話しかけるなオーラをものともせず、ずかずかとジュンの個人スペースに踏み込んだ。
「さざなみ、さざなみ。ぼくが聞いているのだから答えなさい。さっきから何を見ているのです?」
唯我独尊な物言いもジュンにとっては慣れたもので、BGMかSEのようにしか感じていなかった。一応反応はしているものの生返事しか返ってこない彼に痺れを切らした要は、ぐっとジュンの隣に座って自身も雑誌を覗き込む。
「……ああ、この人は知っています。今話題の女性アイドルですよね。名前は……たしか……」
「来栖茜な」
「そう、来栖茜」
記憶力にやや難のある要も茜のことは覚えていた。かつて一度だけ現場が一緒になったことがあるのだ。共演するモデルが怪我で来られなくなったとかで、急遽新人アイドルである彼女が呼ばれていた。アイドルと言えば男性が主流の時代でこうして現場に呼ばれる女性アイドルというのは極めて珍しく、アイドル史を頭に入れているほどその存在は大きく目立つ。
「これは、雑誌のインタビューですか? ええと……」
――好きな食べ物はなんですか?
――チョコレートケーキです。でも気を抜くとすぐ食べすぎちゃうので、ケーキ屋さんの近くを通る時は注意ですね。
「……それを知って、さざなみはどうするというのです?」
「別にどうも。時間潰しに読んでただけだしな〜?」
「そうなのですか? その割には真剣な顔でしたが……あっさざなみ! ページを戻してください! まだばくが読み切っていないでしょう!」
要のために買った雑誌ではないのだが、ぷんぷんと怒る様子を見て仕方なくジュンは捲ったページを戻した。
既に読み終えた文字列をもう一度目でなぞる。茜のファン以外も対象とした一般向けのインタビュー記事なだけあって、基本的に話しているのは当たり障りのないことだ。スイーツが好きだとか、犬より猫が好きだとか、強くてかっこいい人がタイプだとか、親しみやすい来栖茜のアイドル像を崩さない応答ばかり。きっと事務所でそう決められているのだろう。アイドルだから何もおかしなことはない。
その中でひとつ、ある質問がジュンの目に止まった。
――家族構成を教えてください。
――父と母です。私は一人っ子で。二人とも怒ると少し怖い人でしたが、私のことを一番に思ってくれる自慢の両親です。
そうだよな、とジュンは思った。
あんなにきらきら、星みたいに輝いてる人が、全身に泥水が流れてるような親から産まれてくるわけがない。さぞ恵まれた環境にいることだろう。
親から愛を正常に受け取った人間は、自分が満たされている分他人にも愛を与えられると聞く。来栖茜はきっとそういう部類なんだろう。玲明で初めて他人を蹴落とす環境に足を踏み込んだせいで出鼻をくじかれてしまっていたけれど、ひとたび脱却してしまえば見ての通りだ。
胸の奥がじくりと痛む。
彼女に人生初のファンサを送ったのはオレ。オレに人生初のファンサをくれたのは彼女。だから舞い上がっていたんだ。自分と茜は少しだけ特別な関係なのかもしれないんだって。だけど間違いだった。自分の隣の奴に向けられたファンサを、さも自分に向けてくれたと勘違いして大はしゃぎするみたいだ。
こんなの、全然釣り合いが取れてない。オレはごみ溜め産まれ路地裏育ちで、彼女は無菌室産まれ温室育ち。裕福だったのかは知らないし、オレの家も金だけ見れば金持ちだったけど。オレが涙と汗でべとべとになって、叱責を浴びて踊っている間、彼女は拍手を受け取って踊っていたのだろうか。少なくともこの記事からはそんな来栖茜の幼少期が読み取れる。
その時、紙面を読み終えたらしい要が顔を上げてジュンに視線を向ける。
「何をしているんです、さざなみ。早くページを捲りなさい」
「……あーもー、この雑誌、別にあんたに読ませるために買ったわけじゃないんだけどなぁ?」
要の催促に従うのは少し癪だったが、ようやくかとジュンは次のページに指をかけた。
その最初の質問を見た時、思考が止まった。
「………………………………は?」
――なぜアイドルを目指したんですか?
――佐賀美陣さんに憧れたからです。
まさかこんな場所で、その名前を目にすると思っていなかった。
佐賀美陣。かつてのスーパーアイドル。衰退するアイドル業界を繋ぎ止め、その代償に多くのアイドルを散らせた男。ジュンの父親も、その一人だった。
佐賀美陣のかませ犬として消えていったジュンの父は、佐賀美陣を超えるという夢をジュンに託した。彼のライブ映像は繰り返し見せられ、今では最初の一音を与えられたらその続きを完璧に歌唱できるほど記憶に刻まれている。
ジュンにとってこれ以上ないほど忌々しい名前。その名前を、彼女の口から聞きたくなかったのに。
その瞬間、寮室の扉がバンと震えるほどの力で開かれた。
「――うわあああん! 辞めてやるアイドルなんて!!」
長年修繕工事の入っていない扉が不快な音を立てる。これまで窓際で舞台の台本に目を通していた巽が何事かと立ち上がり、ジュンと要も個人スペースの仕切りから顔を出して様子を伺った。
その人物は、今まさにジュンと要が話題に出していた本人だった。
「――茜さん。どうしましたか、そんなに泣き腫らして。ああ、そんなに擦っては目を傷つけてしまいます。ハンカチをどうぞ」
「ううう、巽先輩〜……!」
相変わらずジュンや巽と同じジャージを着ていたが、あの背格好は間違いなく来栖茜だ。彼女の泣き顔を見たのはこれで二度目だったが、以前の押し殺すような声とは明らかに違っていた。
「あいつら、私が女の子だからって馬鹿にしやがって! 性転換でもしろってか! 男の娘にでもなれば満足かぁ!? カビの生えた英雄崇拝主義の老害共め! 地獄に落ちてもう一回死ね!」
初めてタコ部屋にやってきた時の要のようだ。特待生という理想郷から最下層の路地裏に叩き落とされて、理不尽に発狂していたあの要によく似ている。彼のように奇声を上げるのではなく言葉を話しているぶん、まだ茜の方が理性があると言える。その内容は清純派アイドルとは思えないほど攻撃的なものになっているが。
「……茜?」
気づけばジュンは雑誌を放り捨てて、茜の元に歩み寄っていた。巽に涙を拭われているのを見て少しだけ胃が縮まったような感覚になる。
「ジュン……」
兎みたいに真っ赤な双眸からは、底のない容器のように大粒の涙がとめどなく溢れ出ている。
「わあああん! ジュン! ジュン〜!」
「え――え、は、ぇえっ!? あの!?」
両手を広げて何をするかと思えば、突如あかねがジュンに抱きついた。全く予想していなかった展開にジュンの頭は軽いパニックを引き起こす。
走ってきたからか体温が高い。釣られてジュンの熱も上がり、泣いてもいないのに耳まで真っ赤だ。鳩尾のあたりの感触が嫌になるくらいやわらかかった。かっと見開いているはずの眼はまともに機能しておらず、自身の胸で泣く茜の姿をぐるぐると歪ませている。
これって抱きしめ返した方がいいのか。でもそれってセクハラにならないか? と悩む自分はきっととんでもなく情けない顔をしているだろう。できれば巽や要には見られたくなかった。でも憧れの推しアイドルが突然抱きしめてきたら誰だってこうなると信じたい。
石のように固まったジュンにまるで気づいていないのか、茜は背中に回していた手を離してガクガクと肩を揺さぶっている。
「ねえジュン! ジュンも何か言い返してよ! ジュンは私より口が悪いし目つき悪いし荒んでるから何かいい返し方思いつくでしょ!?」
「いや、今はオレよりあんたの方がよっぽどだと思いますけどねぇ!?」
確かに言葉遣いが悪い自覚はあるが、今の茜ほどではない。どこで誰が聞いていていつ難癖をつけられるか知れたものではないので、最近は慣れない敬語だって使うよう意識しているのだ。
すると、それまで静観に徹していた要がおもむろにジュンのスペースから出てきて、一方通行の抱擁をする二人に対し冷ややかな視線を向けた。
「さざなみを離しなさい、来栖茜。異性同士でそのようにくっついているのはアイドル的によくないとぼくは知っています。たぶん、誰かに知られたら排除されるのはさざなみの方です」
「それと、セクハラは男性から女性ではなく、女性から男性へも起こりえますからな。茜さんの親しみやすい性格は万人に好まれやすく長所でもありますが、少々気をつけた方がよいかと」
「………………」
棘のある正論と棘のない正論に諭された茜はヒートアップしていた思考を徐々に落ち着かせたのか、ぱっとジュンから一歩退いた。あ、と考える暇もなく離れてしまった体温にもの寂しさを感じてしまったのは否めない。
茜はしばらく目を伏せて考えると、今度は控えめに、上目づかいで聞いてきた。
「……ジュン。今の、セクハラだった?」
「……………………」
むしろ嬉しかった、なんて気持ち悪いことが言えるはずもない。まして、巽や要の目の前で。だけど真っ向から否定すれば茜を傷つけてしまうかもしれない。ジュンはこれまで以上に慎重に言葉を選んだ。
「……オレは、嫌ってわけじゃなかったですけど。あんまり人にやらない方がいいかもしれないっすねぇ。スキンシップ、苦手な人もいるかもしれないんで」
やらないでほしいというのは本心だった。もしも今後、テレビやネットで同じように彼女に抱きつかれている男を見たら、おそらく翌日の自分はこの前とは段違いで使いものにならない。
「わ……分かっ、た。ごめん、気をつけるよ」
少しだけ申し訳なさそうに目を逸らした彼女を見て、形状し難い罪悪感がジュンの胸に刺さった。もっと別の言い方があったかもしれないのに、オレの馬鹿!
ぎこちない空気を打ち払うように、「それで、茜さんは本日はどのような御用向きで?」と巽が間に入る。
「そうだ、巽先輩に聞きに来たの! どうやったらアイドル辞められるかって」
「えっ」
「ふむ……」
どき、とジュンの心臓が再び跳ねた。今度はサッと血の気が引くような感覚も一緒だ。
今、茜が引退を仄めかしたような気がする。そういえば部屋に飛び込んできた時も「辞めてやる!」と声高らかに叫んでいたが、あれは本心だったのか。推しアイドルが引退してこの世の終わりのような絶望を浮かべるファンを見たことがあるが、今のジュンはまさにそれに半分足を踏み入れかけていた。
ジュンが何も言葉を発せないままでいると、代わりに要が口を挟んできた。
「今、辞めると言いましたか? なぜです?」
「ん? よく見たらHiMERUもいる。最近見ないなと思ったら特待生から落ちてたんだ……じゃなくて、そりゃもう、アイドル業界の老害どもに猛烈に頭にきたからに決まってる!」
「ろう、がい?」
きょとん、とHiMERUはあまり理解しきれていない顔を浮かべたが、巽にはある程度心当たりがあるようだった。ジュンも、実際に見たり経験したことはないが、昔父親が酒を飲みながら恨み言をこぼしていたのを知っている。
アイドルに限ったことではないが、基本的に芸能界は縦社会だ。年功序列に従って偉い肩書きを持った重鎮が常に君臨していて、彼らの意向によって業界の空気が変わる。
今のアイドル業界において、来栖茜の存在は極めて異端だ。かつて一人の男が作り出したアイドル業界は、男性が主流のもの。女性アイドルがいないわけではないがその仕事の多くは地下でのライブ活動を占め、中には一度も日の目を浴びることがないままアイドル人生に幕を下ろす者もいる。玲明学園に所属する女子生徒も大半はそうだ。
だから、こうしてインターネットでもテレビでも少数ながら出演している茜は女性アイドル界からすれば英雄で、男性アイドル界からすれば癌のようなものだ。
まさに才能の原石。カリスマの天才。運と実力の全てを使い、たったの数ヶ月でアイドル界の期待のエースとなった女。――下手をすれば、原初のアイドル『ゴッドファーザー』のように自ら女性アイドル業界の礎を築き上げてしまうかもしれない。そうなればきっと、衰退する一方の男性アイドル界は食い散らかされ、パワーバランスはひっくり返る。
今はまだそんな域には到達していないけれど、年配の大御所はとにかく長い目で見たがる。その瞳には、来栖茜というアイドルは病巣にしか映っていなかった。茜の言う老害とは、そうした業界を担う重鎮のことを指しているのだろう。
「どの現場に行っても女、女、女! 女優とかモデルにならないかって誘ってくるならまだいい方だけど、女だからって制作に圧かけて仕事潰すのは大人気ってもんがないんじゃない!? そんなに辞めてほしけりゃ辞めてやるよクソ!」
「茜〜? 怒るのはごもっともですけど、あんたみたいなアイドルは“クソ“とか言っちゃ駄目なんじゃ……?」
「辞めるからいいもん!」
怒髪天に来ているらしい茜は、ジュンの言葉でも聞く気になれなかった。震える声でわあわあと泣く姿はまるで癇癪を起こした子供のようだ。
「そうですな……単純に仕事を取り消されただけでしたら、俺の仕事の中からいくつか分けてもいいのですが」
「……………………」
「その様子を見るに、それでは焼石に水のようですな。革命のようなことを起こさない限りは」
「革命…………」
巽の言葉に、茜の表情が目に見えて曇る。
「……でも、別にそれって茜がしなきゃいけないことじゃないでしょう?」
彼女らの間に壁を作るように、ジュンは静かにそう述べた。
巽の言うそれは、たった一人で、芸能界に対して喧嘩を売れと言っているようなものだ。銃弾の飛び交う戦場に丸裸で飛び込めと言われても、並の人間にはできない。おそらく、全身蜂の巣にされて放り出される。数ヶ月でトップアイドルにのぼり詰めた奇跡がそう何度も起きるとは限らないのだ。
どうか、そっち側に行かないでほしい。いつまでもステージの上で歌っていてほしい。面倒事に目を瞑って耳を塞いでいても、オレ達はきみを笑ったりしないから。有象無象にいるファンの願いは、おそらくジュンと同じだ。
「…………革命、は、できないと思う。私、皆が思うほどアイドル業界のこと大事に思ってないよ」
「……? どういう意味です? きみ、アイドルを目指して玲明に入ったのでしょう?」
要が不思議そうな顔で茜を見ると、茜はゆるゆるとかぶりを振って否定する。
「アイドルって、うまくいきゃ見入りがいいでしょ? 学もない小娘が成り上がるには丁度いいと思って」
がん、とジュンは頭を殴られたくらいの衝撃を受けた。
つまりは、金目当て。あんなに目を奪われていたのは、てっきり彼女がひたむきにアイドル活動を頑張っているからだと思っていたのに。
「……ちょ〜っと、待ってください? あんた、佐賀美陣に憧れたんじゃないんですか?」
「え? 佐賀美陣?」
「ほらこれ!」
心当たりのない茜に、ジュンは今の今まで夢中になって読んでいた雑誌を見せつけ、ばんと誌面を叩いた。アイドルを志した理由を聞かれ、佐賀美陣に憧れたと答えたインタビューがそのままはっきりと残っている。茜はまじまじと文字列を目でなぞると、やっと合点がいったようにああ、と声に出した。
「そういえばそう答えたこともあったね。でもあれ、本当は“強いて言えば佐賀美陣は参考にしました”程度のニュアンスだったんだよ。文字数の関係かそう載せた方が受けがいいからか、編集にちょっと手が入ってこんな感じになっちゃったみたいだけど」
正直に金目当てと答えるよりは、憧れの存在に近づきたいなどと答えた方が印象がいい。だから一昔前に大ブレイクした、誰でも知っているようなアイドルの名前を挙げただけだった。事実、茜も幼い頃は佐賀美陣の歌を聞いて育ったのだから真っ赤な嘘というわけではない。
「ジュン、アイドルのインタビュー内容あんまり鵜呑みにしない方がいいと思うよ? あんなの事務所のイメージ戦略で何とでも変わるんだから」
「ぐ……じゃあ、犬より猫が好きってのは?」
「間違ってないけど、より正確には“猫より犬が嫌い”だね」
「強くてかっこいい人が好きなのは?」
「強くてかっこいい人が嫌いな人なんていなくない?」
「チョコレートケーキが好きなのは?」
「それは本当。まあ思い入れがあるのはケーキじゃなくてチョコの方なんだけど」
「思い入れ……?」
「私をここまで来させてくれた片道チケット」
「?」
何を指して茜がそう言っているのか、ジュンには理解ができなかった。巽ならば知っているのかと彼を振り返ってみるが、どうやら巽との秘密のやりとり、というわけでもないらしい。ますます訳がわからなかった。
「まあ、ケーキなんて食レポ以外で食べたことないんだけどね」
きっと、言葉の通りなのだろう。近くで見れば不健康さすら伺える茜の体型を維持するためには、糖類の塊なんて不必要に口にできない。食事は厳しく管理されており、嗜好品は基本的に遠ざれられていた。芸能とは時に、人権を剥奪されるものだった。
「両親を自慢に思っているというのも?」
「…………」
要に何気なくそう聞かれ、茜は喉に異物が引っかかったような顔をした。けれどそれも一瞬のことで、すぐにメディアでよく見る笑顔を浮かべる。
「それも本当」
そう言った後も、異物は未だ飲み込めていなかった。