サンクチュアリは流転より
25
「今カレ」という言葉を何度も調べてみた。どれだけ検索しても「その女性の現在の恋人の男性・彼氏」としか表示されなかった。
その度にジュンは、胃がねじ切られそうな思いを味わった。
「………………なんですか、あのジュンの抜け殻は」
ESビル内のトレーニングルームでベンチに座るジュンを同じくトレーニングルームから眺めていた茨は、思わずうわ、と口をへの字に曲げた。茨の隣には日和、凪砂とジュン以外のEdenメンバーが勢揃いしており、三人ともジュンと一定の距離をとって彼の様子を観察している。
ジュンはユニットメンバーに注目されていることなどまるで目に入っていない様子で、魂が抜けたように呆然としていた。一応トレーニングのためにとハンドグリップを握ってはいるのだが、ギシギシと開閉している間も常に意識は上の空だ。
「この前ぼくとメアリと一緒にロケに行ってからずっとあんな感じだね! まったくもう、悪い日和! 収録から何日経ったと思ってるの!?」
「ああ、夢ノ咲学院近くでEveのお二人が収録されたあの。確か収録自体は何も問題はなかったと聞きましたが?」
「そのはずだね。少なくとも夕方にジュンくんがメアリの散歩に行くまではいつも通りだったよね」
散歩に行く前は収録が成功した喜び半分、日和の我儘に怒り半分で出て行ったというのに、帰ってきた彼は死神にでも会ったかのような顔色をしていた。子供ではないのだからと日和も当初は様子見することにしたのだが、翌日には元通りになっているかと思いきや翌々日もそのまた翌日も同じような顔で彼はESにやってきたので、いよいよ茨と凪砂に相談する他なかった。
そこまで来れば二人もジュンの様子がおかしいことに嫌でも気づく。なので彼の後をつけてこっそりとトレーニングルームにまで足を運んでみたはいいが、結果は今の通りだ。
「でも、どんな時でも真面目なのはジュンの美徳だと私は思うよ。トレーニングだけは欠かしていないみたい」
「いえ閣下、よく見てください。ジュンのハンドグリップ、完全に負荷かけるの忘れてますよ。たぶん五キロもないでしょう、あれ。一体あれで何を鍛えるっていうんです」
「筋トレ好きのジュンくんなら絶対にしないような凡ミスだね」
せいぜい手のひらの開閉運動にしかなっていない彼のトレーニングを見て、Edenの三名はここ数日のジュンの奇行についてひそひそと小声で会話を続けた。
ESビルから近場の桜が見頃になっているのを見て「オレ、桜は散ってる時が一番綺麗だなって思います」とコメントした時は、ジュンの癖に何を侘び寂びのあることをと笑い飛ばせたものだが。その後自動販売機でホットとアイスを間違えて買う、何もない場所で躓く、エレベーターで上に昇るはずが下に降りていくと連続で続けば笑いも失せるようなミスが幾回。「マ*オが壊してるブロックあるじゃないですか。あれってク*パの魔法で姿を変えられた人間って知ってしました? 知らない方がよかったことって結構あって、なんか怖いすよね」と何の脈絡もなしに言い出した時はそろそろ何か手を打たなければと慄いた。正直なところ、茨はク*パなんかよりもその時のジュンの方が怖かった。
以前とある一件で日和が気を落としていた時はジュンが好物のキッシュを作ったと聞き、ならば彼の好物を差し入れしてみるかと高級苺を取り寄せてみたが効果は今一つ見られず。「さすがにパックのままは駄目だったんじゃない?」との日和の指摘により、今度は苺を使用した評判の良いスイーツを渡してみたがそれでも改善の兆しは見られなかった。
アイドルの意地なのか仕事に影響は出さないのは不幸中の幸いだったが、それもいつまで持つかは分からない。不安材料は早々に取り除いておくのが吉だ。
こうなったら直接聞くしかないと、代表して茨がジュンに歩み寄ることとなった。Edenのプロデュースを受け持っている身なのだから当然の責務であり、ジュンだって悩み事は先輩二人よりも同輩の方が話しやすいだろうという細やかな気遣いだ。
「……ジュン」
「…………あ、茨。お疲れさんです。茨も来てたんですねぇ。全く気づきませんでしたよ」
それは今のジュンがあまりに鈍すぎるせいだとはあえて言わなかった。代わりにやれやれと呆れたように腰に手を当て、「ついさっき来たばかりなので」と流れるように嘘を吐いた。
「それはそうとジュン。体調が悪いなら寮に戻ってはどうです。今日は仕事もレッスンも入っていないことですし」
「え、オレそんなに具合悪そうに見えます?」
「鏡、持ってきましょうか?」
茨の皮肉を聞いても「そんなにっすか……」とあまりピンときていない返事をするジュンは確実に頭が回っていなかった。
ちなみに今現在ジュンの前にいるのは茨のみだが、裏のパーテーションの陰には日和と凪砂が堂々と潜んでおり、会話は筒抜けとなっている。
「すんません、気を遣わせちまって」
「そう思うならなるべく早くに直してください。……Edenの活動に関わることなら調整はしますし、収録現場で何かあったのなら対応します。こういうのは自分の役目なので別に気に病むことはありませんし、必要なことがあれば言ってください。そうじゃないと分からないこともあるでしょう」
「……茨、今日はやけにやさし〜っすねぇ。なんかいいことありました?」
悪いことがあったのはお前だろ。そう言いたい気持ちを奥底に押し込んで、茨は黙って眉頭を寄せる。
ジュンは暫く黙り込んでいたが、やがてぽつぽつと語り出す。
「た、例えばっすよ。例えば昔すげぇ仲良かった異性の知り……いや、友……や、やっぱ知り合いがいたとして」
「ジュンにそういう知人がいたとは初耳ですね」
「あ、いや、これはオレの知り合いの話なんですけど」
「はぁ……」
「その知り合いが知り合いと数年ぶりに会ったら知り合いの知らないところでこっ、恋人を作ってたとしたら、この知り合いって知り合いのことどう思ってたんだと思います……?」
「はぁ……?」
同じ言葉が頻出しすぎて理解に苦しむが、茨は冷静に考えた。要は登場人物に仮名を与えればいいのだ。
設問。ジュンが知り合いと語るAという人物がいるとする。そしてそのAの異性の知人Bもいる。AとBは男女でありながらとても良好な関係を築いていた。ところが二人が数年ぶりに再会した時、Bには別の恋人ができていた。この場合、BはAのことをどう思っていたのか。
「………………何とも思ってなかったんじゃないですか?」
「うっ……………………!」
ズバリと茨は言い放った。まさに名前のごとく、棘しかない言いようだった。
「多少なりとも男女の情があったのならまず別の恋人を作る発想なんて生まれないでしょう。その時点でAに脈がないことは確定では?」
「ぐっ……」
「そもそも二人は本当に良好な関係だったんですか? これ、前提条件にAの主観が入ってません?」
「うぅっ…………」
「友人だと思っていたのはAの方だけでは?」
「ぐぅっ………………!」
ジュンは撃沈した。
だが茨にとっては悪いことをしたという気はさらさらなく、単純に意見を求められたから自分の意見を提示したまでのことだ。なぜジュンがこうも苦しそうに呻いているのかわけがわからなかった。
――以上の流れをパーテーション裏で聞いていた日和は全ての点が線で繋がり、一人頭を抱えた。
相談内容と相談相手が致命的に噛み合っていない。ジュンが幼少期からアイドルの教育を受けた影響で異性との関わりが薄いように、茨だって算盤を叩く青春を送ったせいでこの世の男女関係というものがまるでわかっていないのだ。どれだけ優秀な脳を持っていたって、彼の頭からは計算式のようなそれしか出てこない。
であれば、ジュンは日和に相談すべきだったのか。だとしても、日和は彼の期待に答えられる自信はなかった。
(それで答えられるのなら、ぼくだってジュンくんと茜ちゃんの関係に首を突っ込んだりしなかったね……!)
日和の女性関係については茨も知っているだろうが、ほとんどタブーのような扱いをされている。恋愛ごっこはしていても後が面倒だからと恋愛に持ち込んだことは一度もない。ちょっと人には言えないような、日和自身も半分黒歴史と思い込んでいるビターな人付き合いをしていた頃に、茜と出会って、ジュンを知った。自分とはかけ離れた、二人のそういうところに魅力を感じていたのだ。
だからジュンの悩む、レモンスカッシュのような清涼な恋など知らない。答えられない。荷が重すぎる。
では凪砂はどうか。もちろん論外だ。
(ジュンくん……可哀想に……)
日和はほろりと涙を流した。どうやらこのEdenという楽園に、ジュンの救済者となる人物はいないらしい。
するとジュンは思い立ったようにはっと顔を上げ、まだ持ち札があるとでも言うように茨に問いを投げかけた。
「でっ、でもその知り合い、知り合いの曲……あっ、この知り合いは実は音楽活動をしてて、その曲をずっと聞いてたんですよ! しかもデビュー当時から! これで何とも思ってないってことはなくないです!?」
「人として好意を持っていることとその人物の音楽を聴くことは全くの無関係では? ジュンだって発言や思想が自分と合わない漫画家の作品を読むこともあるでしょう」
「ぐうぅっ――――――!」
今度こそジュンは撃沈した。居た堪れなくなった日和はパーテーションから顔を覗かせ、必死に首を横に振った。
「毒蛇! どーくーじゃ!」
それ以上はいけない。オーバーキル、死体蹴りの域だ。
茨は納得していない様子だったが、日和の差し迫った様子に押され大人しく口を閉ざした。
突然パーテーションの陰から現れた日和と、さらにその後ろからひょっこりと現れた凪砂にジュンはひどく驚いていたが、ジュンが何かを言うよりも早く日和は彼の正面に回り込む。
「ジュンくん」
「は、はい」
「その知り合いと、知り合いの知り合いについてぼくはよくは知らないけどね。断片的な情報だけを切り取って悲観的な結論を出すのはよくないとぼくは思うね!」
「あ、会話全部聞いてたんすね……」
ジュンにしてみればかなり小っ恥ずかしい状況だ。誤魔化すためにあえて知り合いという言葉を使ったが、その知り合いこそが紛れもない自分なのだから、ジュンはたった今自分の失恋話をユニットメンバー全員に暴露してしまったことになる。穴があったら迷わず飛び込んで大岩で塞いでやりたい。ジュンは半ばヤケになって日和に尋ねた。
「じゃあ、おひいさんはどう思うっていうんです」
「何が?」
「その知り合いの話っすよぉ」
少しばかり不貞腐れたように唇を尖らすジュンを見て、日和は考えた。
ジュンと茜の関係はおおまかに把握している。正直なところ来栖茜という人物像を踏まえてもジュン以外に特別な誰かを作るとは考えにくいのだが、仮に本当ならそこまでの相手と出会えたということだ。狂言自殺まがいの行いを行ってまで守りたかったジュンの、さらに上を行く相手がいたのだ。
どうしよう、全然脈がない。
「ジュンくん」
「はい」
「……彼女がもしフラれた時のために、二番手をキープしておくのはどう?」
「は、発想が最悪だ……!」
誠実な人付き合いを好むジュンにとっては赤点にしかならない回答だ。人間関係においてキープは、ジュンの世界では言語道断だった。そもそも略奪愛なんて昼ドラチックなことを筋肉が恋人のジュンにできるはずもないと日和も分かっていたが、これしか頭に浮かばなかったのだ。
幸いにも、ジュンがわざわざ知り合いと濁したにも関わらずジュン本人のこととして述べた矛盾には茨も凪砂も気づく様子はない。両名とも深く考え込む気質であるようで、揃ってジュンと茜、もとい知人ABについて思考を巡らせている。
そして次に口を開いたのは、以外にも凪砂の方だった。
「……私も、日和くんの意見に賛成」
「ナギ先輩!?」
「人づての話だけじゃ分からない部分が多いから。人間関係というものは特にそうだと思う」
「ああ、そっちか……」
Edenは半数が略奪愛を推奨するユニットなのかとジュンは一瞬不安に駆られたが、どうやら杞憂に終わったようだ。最愛の凪砂と意見が一致したことで日和は上機嫌な様子だった。
「もしジュンがはっきりさせたいのなら、本人に直接確かめるのが一番の近道だと思う」
「そうだねジュンくん。連絡先とか持ってないの?」
「それが、聞こうと思ったんすけど逃げられちまって……」
「………………」
「……今、“こりゃダメだ”って思ったでしょう」
「少しね」
「GODDAMN!」
ギュ、とジュンが叫びと共に限界までハンドグリップを握る。負荷をかけていないのでグリップ同士を触れさせるのは容易かったが、今の握力ならば普段のトレーニングだったしてもそう難しくはないだろう。
一方、先陣を切ったはずがなぜか蚊帳の外に立たされた茨は日和の落ち着かない様子に引っ掛かりを覚えていた。
ジュンの事情にこれだけ日和が介入しているのなら、件の人物は彼らの共通の知人なのだろうか。だが、果たして彼らにそのような人物などいただろうか。EveとEden共にプロデュースを行ってきた身からすれば、彼らがそこまで肩入れする知り合いとやらに心当たりはない。それこそ、昨年相対した夢ノ咲のTricksterでもなければ。仕事上の付き合いであれば茨の介入する余地もあったが、ジュンのプライベートにまでむやみやたらと首を突っ込む気はなかった。
「……まあ、どうやら殿下の方がお詳しいようなのでそこは殿下にお任せするとして。ジュンが何に悩んでいるのかは知りませんが、仕事に支障をきたし始める前に本調子に戻っていただかなければ困ります。あなたもそれは分かっているでしょう」
「はい……でも、なんとかなると思いますよ。ようはオレの気持ちの持ちようなんで」
ハンドグリップを緩めたジュンは、口元だけでうっすらと微笑む。
「オレが浮かれてただけなんです。むしろ茨にバッサリきられて助かりましたよぉ。やっと踏ん切りがつきそうです」
ジュンはそう言っているが、それが本心でないことは明らかだった。
あまり眠れていないのだろう。目の下には微かに隈が浮かんでいる。それでも気丈に振舞おうというジュンの心意気を考えると、三人はどんな言葉をかけたらよいのか分からなかった。
ジュンくん、と日和が名前を呼ぼうとしたその時、ジュンのスマホからポロンと着信音が聞こえた。仕事上の連絡かもしれないのでとジュンは会話を中断し、その場で画面を開く。着信音から薄々感づいていたが、やはりESアイドル専用のホールハンズではなく外部のメッセージアプリからだった。
『お久しぶりです! この前茜と一緒にいたんですけど、覚えてますか?』
送り主は先日茜と一緒にいた彼女の友人だった。
茜に逃げられた者同士でその後軽く話したが、その際に連絡先を交換したのだ。あれから何の音沙汰もなかったので、すっかりそれきりだと思っていた。
『実は一度どうしてもお話がしたくって、連絡しちゃいました』
『今度お時間空いてたりしませんか?』
「えっ」
「ん!?」
「あ」
そしてジュンは失念していた。
この場でスマホを開いてしまえば、立ち位置的に日和には内容を見られてしまうことに。
「ジュンッくん、きみっ、おばか! どういうこと!? ぼくはきみをそんな子に育てたつもりはないね!?」
「はっ!? いや、違っ……つか、どうしておひいさんがそんなに怒ってるんです?」
「最低だねジュンくん! ぼくなりに気を使ってそっとしておいてあげたけど、その必要はなかったみたいだね! これからはもう、包み隠さず全部話してもらうからね!」
「GODDAMN! 違えぇぇ! なんかとんでもねえ誤解が発生してる気がする!」
耐え切れなくなった日和がジュンの肩を揺さぶる。ジュンの鍛え抜かれた体幹によってそこまで大きな振動にはならなかったが、不意だったこともありジュンの手からぽろりとスマホが滑り落ちた。スマホはジュンの腿の上を一度バウンドすると、ベンチの端に画面が上になる形で着地する。ちょうど、茨の立つすぐ真横だった。
なぜか破局寸前のカップルのような問答を繰り広げてしまったEveの二人は放っておき、茨はジュンのスマホを拾いあげた。一体日和は何を見たというのだろう。ジュンの私生活に踏み込むのはあまり気乗りしなかったが、日和が憤慨するような内容であればさわりだけでも確認しておきたいという、プロデューサーとしての判断だった。
その送られてきたメッセージを見て、茨は一人目を見開いた。
『茜のことで相談したいんです』
『茜を助けてあげてください』
「……“茜”………………?」
まるで死人が生き返ったかのような驚きを孕んだ茨の眼光を、凪砂は見逃さなかった。