指差しのよすが

サンクチュアリは流転より

26

 落ち着かない気分を表すように、ジュンはスマホで時刻を確認しては伏せるをこの十分で五回は繰り返していた。そうしてやることがなくなれば、頼んだアイスティーを一口飲む。そもそも自分は腕時計をしているのだからそちらを見ればよいのだが、その考えはすっぽりと抜け落ちていた。

 茨に紹介されたカフェは客足が多くも少なくもなく、ゆったりとしたBGMに合わせて時間の流れまで緩やかになったようだ。元々は日和が紹介した店だったようで、ともすればこの上品な空間にも頷ける。

だが雑然としたファーストフード店やフードコートに慣れ親しんでいたジュンにとっては、日和に付き従ったこの一年である程度慣れはしたものの、やはりリラックスできる環境とは言い難い。待ち合わせ相手もきっとそうだろうと踏んでいるが、この店を利用することこそが茨がジュンにできる最大の譲歩だった。


『会って話したい? ついこの間知り合ったばかりの一般人と? ジュン、あなた、世間に顔を晒している自覚があるんですか?』


 茜の友人の相談に乗りたいとジュンが茨に話した時、茨は即座にNOを突きつけた。おおよそ予想通りの反応だったため、あまり驚きはしなかった。


『活動し始めてからまだ何年も経っていないとはいえ、昨年のSS以来Edenの知名度は上昇している真っ最中なんですよ。そんな時に一人でのこのこ何処ぞの誰かと密会して、トラブルになりでもしようものならたまったもんじゃありません』
『そんな悪い人たちには見えませんでしたけど……』
『悪い人間が悪い顔をしているわけがないでしょう。仮に相手方が清廉潔白であったとしても、悪質な記者に写真を撮られでもしたら? ゴシップほど燃えやすいものはありませんよ』


 茨のその言葉を聞いて、ジュンの頭にはある一件が瞬時に浮かび上がった。来栖茜の事故だ。あの時の情報拡散速度は凄まじかった。コズプロが抑え込めない勢いでSNSが動き、最終的にネットニュースに載るまでに至ったのだから。

 しかし今のジュンがひとたび問題を起こせば、おそらく茜のそれとは比べ物にならない規模になるだろう。ただでさえESは発足したばかりで注目を集めているのだ。そこに所属している、しかもビッグ3の一角であるEdenのゴシップニュースなど、マスコミが喜んで喰らいつく。たとえ事実無根であったとしても、売上のために脚色を重ねた記事は事務所を揺さぶり、ファンを傷つけ、ジュンの精神を削る。茨はそれを最も危惧していた。

 ジュンだって彼の言いたいことは理解している。

 けれど、ジュンはどうしても引けなかった。


『それでも、お願いします、茨。――茜は、オレの友人なんです』


 直角に、深々と頭を下げる。


『何かに困ってるなら助けてやりたいんです。……オレだけ何にも気づかないままでいるなんて、もうたくさんです』


 もう二度と、彼女を地下墳墓の向こう側になんて行かせない。

 二年前に掴めなかった手を今度こそ掴めるかもしれないのだ。たとえ彼女がそれを望んでいなくても、ジュンがそうしてやりたい。彼女の助けになりたい。

 禁則事項には頑なな茨を暫し考えさせるほど、ジュンの訴えは真に迫っていた。


『……………………仕方、ありせん。自分としても、個人的に気になるところではありますし。今回のところは多めに見ましょう』
『茨……!』
『ただし、条件が二つあります。まず、場所はこちらから指定すること。そしてもう一つですが――』


 その場に茨自身も待機すること。

 そういう取引により、今現在ジュンが座る後ろのボックス席には茨、そして話を聞きつけてやってきた日和と凪砂が三人仲良くテーブルを囲んでいる。


「こんなに面白いことになってるのに、ぼくが来ないわけがないよね!」
「日和くんが楽しそうで私も嬉しい。ところで茨、このオレンジチョコパンケーキを食べてみたいのだけど。オレンジの入ったチョコなのか、チョコレートパンケーキにオレンジがトッピングされているのかとても気になる」
「構いませんがハーフサイズでお願いしますね」
「じゃあ、パンケーキはぼくと半分こしようね!」


 まるで上の子の参観日に下の子を連れて来ざるを得なかった親のようだ、と茨は思った。参観日に親が来た経験なんてないが、世間一般的にはこんな感じだろう。もっとも年齢を考慮すると日和と凪砂はジュンの上の子にあたるのだが。

 店内BGMと客の会話声があるとはいえ、隣接したボックス席同士だ。日和と凪砂の仲睦まじいやり取りはジュンの耳にしっかりと届いている。


「なんか、こうして背中合わせの席で喋るのって、スパイ漫画みたいでちょっとワクワクしちまいますよねぇ」
「今ここで帰ってもいいんですが」
「じょ、冗談っすよぉ!」


 思わずジュンが振り向きかけた時、出入口の扉がカランとベルを鳴らして開いた。


「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」
「はい。待ち合わせでお願いしてるんですけど……」


 来た。この場にいる四名の脳裏に同じ二文字が浮かぶ。

 ジュンは自身を落ち着かせるように一呼吸すると、すっと彼女らに視線を向けた。









「それで、相談ってなんでしょう? 茜についてって書いてましたけど……」


 挨拶もそこそこにジュンが本題を切り出す。それぞれコーヒーフロートとクリームソーダを堪能していた彼女たちはピタリと手を止め、互いにアイコンタクトを交わす。そのうち、クリームソーダを頼んだ方の少女が「実は……」としどろもどろに口火を切った。


「茜に彼氏がいるって前に言ったじゃないですか」
「…………そうっすね」
「実は、あんまり良い感じじゃなくて」
「……と言うと?」


 ジュンが意図をつかみかねた様子で聞き返す。

 すると、コーヒーフロートを堪能していた少女が忌々しそうに語り始めた。


「そいつ、茜のバイト代でパチやったりお酒買ったりばっかしてるんですよ。そのせいで茜はずっと生活カツカツ。茜のこと金稼ぎロボットみたいに扱ってるくせに、いっちょ前に所有物みたいに思っててさぁ」
「体育の着替えの時にちょっとだけ見えたんですけど、たぶんDVもされてると思います。変なとこに痣あったりしましたもん。本人は隠してるみたいですけど」


 無意識に、ジュンはテーブルの下で拳を作った。腸がむずむずと煮えるのが分かる。きっと今、自分はこの数ヶ月で一番険しい顔をしているだろう。


「……本人は、なんて言ってるんです?」
「ウチらがそんな男やめとけって言っても笑って“迷惑かける相手は選んでるから”って」
「しかもこういうの、これが初めてじゃないんです。茜が転校してきてからこれで五度目」
「五度目!?」


 茜のライブでの事故が一年の冬で、どれだけ早くても転校は二年の春だ。そして今はさらに一年が経った三年の春。最長一年の中で交際相手が五度も変わっている。単純計算で一人当たり二ヶ月強。あまり男女の交際に詳しくないジュンでも、これが一般的に頻繁の部類に入ることは分かる。


「どうしてそんな……その口ぶりだと、茜自身が望んでって感じではなさそうですよね?」
「う〜ん……それにも結構な理由があって……」
「茜の実家の話って、お兄さんは聞いてます?」


 彼女の実家と言えば、彼女が育った児童養護施設のことだろう。彼女がジュンに残した手紙の中にそのような話が書かれていたのをジュンははっきりと覚えている。「一応、大まかには……」と伝えると、じゃあ話しても大丈夫そうと安堵を孕んで返ってきた。


「端的に言えば、茜は今家がないんです」
「実家と勘当状態で、賃貸も契約してもらえないみたいで。だから一人暮らしの大学生とかを狙って彼氏にして、同棲って形でそこに住まわせてもらってるみたい」


 それを聞いてジュンは、ようやく茜の現状についての全貌が見えた。

 玲明と違い夢ノ咲は寮制ではない。学院側が住居を用意せず、施設にも住めないのであれば、通学可能な場所で賃貸を契約して一人暮らしをするしかない。

 だが茜は未成年の学生だ。法律上、彼女が不動産を借りることはできない。勘当に近い状態なのだから、おそらく賃貸契約においても施設は手を貸さなかったのだろう。そして同じく法律上、未成年だけでホテルに泊まることも、ネットカフェの個室を利用することも、深夜帯のカラオケを利用することも不可能だ。茜が満足に夜を明かすには誰かの家に泊めさせてもらうしかなかった。


「けどウチら下宿住みだから、あんまり長い間茜を泊まらせてあげることできなくって……」


 そうして目をつけたのが、その五人の彼氏とやらなのだろう。だが話を聞く限り、その中の誰とも良好な関係を築けなかったようだ。茜の側に愛はないのだから当然だ。本人からの話は何も聞いていないけれど、ジュンはそう断言できた。

 彼女の金でパチンコ? 酒? おまけにDV?

 ふざけるな。

 そんな人間が、あの来栖茜の好みであるものか。巽を慕い、HiMERUを可愛がっていた彼女の趣味ではない。

 来栖茜はもっと高潔だ。ジュンが触れるのも躊躇うほどに。

 目頭が熱くなるのを感じながらも、ジュンはある疑問を頭に浮かばせる。


「でも、DVまで振るわれてる疑いがあるなら、それって警察に相談するべきじゃないですか?」
「ウチらもそう言ったんです! でも茜がそれだけはやめてって……」
「警察沙汰になったら、ほぼ確で施設に戻されるっぽいんですよ。ほら茜、今住所不定だから。補導みたいなもんで。ウチらは施設の事情あんまり知らないんですけど、それだけは嫌だって必死で」
「逆にお兄さんは何か知りません? 茜のいた施設ってところ」
「…………、いや………………」


 ジュンは知らなかった。なぜなら茜の手紙には、彼女が児童養護施設出身であることしか書かれていなかったからだ。

 その施設が一体どのような場所だったのか、茜がどんな扱いを受けていたのかは一切書かれていない。手紙の中には不自然な消し跡がいくつかあったため、もしかするとその消し跡の中に隠されていたのかもしれないが。


「……すみません、オレも役に立ちそうなことは何も」
「そっか〜〜茜の言う“ジュン”くんなら何か知ってそうな気はしたんだけどな〜……」
「仕方ないよ。茜、仲良い人にはかえってなんでも秘密にしちゃうタイプだし」


 迷惑かける相手選んでるのもそうだし、と少女の一人がアイスの溶けたコーヒーフロートを飲む。

 その通りだとジュンは思った。

 茜は何も言わない。彼女が飛び降りて、あの手紙を書くまで、大事なことはジュンに何一つ言わなかった。転校先が夢ノ咲であることも告げないまま、一方的にお別れをされた。それがどんなにやるせなかったものか。


「……お二人は、茜と仲が良いんですね」
「ま〜茜が転校してきてからずっとつるんではいるよね」
「てか茜くらいなんですよ。私らと普通に付き合ってくれるの」


 少女の一人がスプーンでコーヒーフロートのアイスを掬う。じわりと溶けたアイスが液体となってステンレスの端から滲み、やがて滴となってコーヒーの表面にぽとりと落ちた。


「私ら音楽科の落ちこぼれでさぁ。やっていけなくなったから一般科に転学科したんだけど、ストレートに一般科入った奴らにはやっぱり一線引かれてる感じだったんです。……でも、茜は違ったんですよねぇ」


 一般科のコミュニティに馴染めず、移動教室の連絡が回ってこなかった彼女らに茜だけが声をかけた。

 茜の本質はきっと、夢ノ咲に行っても何も変わっていないのだろう、とジュンは思う。

 虐げられるジュンを庇いに入った彼女。失敗が続くHiMERUに手を差し伸べた彼女。摩耗していく巽を見て見ぬふりできなかった彼女。

 自分がもう、彼女の手の届く範囲にいないことが少し寂しくもある。だが嬉しくもあった。どうやら彼女は、ジュンの知らない場所でも何も変わっていないらしい。


「でも、彼氏の話がクラスでも噂になってから茜と浮き始めてて。ひどい奴だと“金払えば誰でもヤレる”とか裏で色々言われてんの!」
「私はまだ茜と友達になって一年くらいしか経ってないけど、ほんとに茜はいい奴なんです」


 二人は両手を膝に乗せ、姿勢を改めてジュンの瞳を見つめる。


「だからお願いします。茜を、助けてやってください」









 彼女たちが帰った後も、ジュンは黙って正面を眺めていた。空になったクリームソーダとコーヒーフロートのグラスとは反対に、ジュンのアイスティーは少しも減らないまま氷が溶けてしまっている。


「来栖氏のことはこちらで対応します。くれぐれもジュンは勝手に動かないようにしてくださいね」


 席を立った茨はジュンの席に並び立つと、目だけをジュンに向けてそう言い放った。


「……意外っすね。茨が人助けに乗り気なんて」
「……まあ、こちらにも少々事情がありまして。来栖氏もこうなることは夢ノ咲への転校を決めた時点で考慮していたでしょう。彼女は考えられるリスクを全て承知の上で選んだんです。それを外野が可哀想だと同情する方がよほど侮辱にあたります。個人的にも不愉快です」


 来栖茜に夢ノ咲を勧めたのは日和だが、あの様子では予期していなかったのだろう、と茨は席に座ったままの日和に意識を向ける。蝶よ花よと育てられた彼のことだ。賃貸の借り方も、ホテルの泊まり方も、ネットカフェやカラオケの入り方も知らないだろう。


「とにかく、ジュンはこの件には関わらずに大人しくしていてください。自分はまだ今日の業務があるのでこれで失礼します」


 茨はそう言うと、ジュンのテーブルに置かれた伝票をすっと取り去っていった。ジュンが何も言えないまま、日和と凪砂も揃って席を立つ。


「ジュンくん。茨はああ言っていたけど、ぼくはジュンくんのしたいようにしたらいいと思うね」
「茨は少し大袈裟に言うところがあるから。少しくらいなら大丈夫だと思うよ」


 日和も凪砂もそれ以上は何もいなかった。自分一人が残されたカフェでジュンは思案する。

 果たして、自分に何ができるだろう。アイドルという人とは少しだけ違う職業に就いているだけの、ただの高校生に。

 茜の代わりに家を用意してやることもできない。彼女が帰るべき場所を作ってやることもできない。根本的な解決が何もできない身で手を差し伸べたところで、それは自分が気持ちよくなるための独り善がりだ。ならば、いっそ茨に全て任せてしまった方がいい。


(……けど、…………)


 二年ぶりの邂逅を果たした日。

 躓きかけたジュンを振り返った彼女の顔が忘れられない。


(あれをさよならになんてしたくねぇ)


 具体的な方法はまだ思い浮かんではいなかった。だが、このまま何も聞かなかったことにする気もない。

 ジュンは味の薄まったアイスティーを一気に飲み干すと、ようやく自分も店を出た。
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