サンクチュアリは流転より
27
※DV表現がありますひんやりと冷たいドアノブを捻り、重い扉を開ける。錆びた金具が不快な音を立てるのは築四十年だからという諦めですっかり耳に馴染んでしまった。
古いアパートの一室に足を踏み入れた茜を出迎えたのは静寂と暗闇だった。まだ夕方だというのにやけに暗い理由は、きっと奥の締め切ったカーテンが原因だろう。
狭い土間には茜よりもふた回り以上大きいスニーカーがバラバラに転がっている。茜は自身のローファーを脱いで玄関を上がると、ついでに点在するスニーカーを揃えてから居間へと向かった。
リビングとなる場所も当然のように暗かった。カーテンを開けるべく漏れる夕暮れを頼りに窓際へと足を進めたその時。
鈍く重い痛みが茜の右頬から首にかけてを襲った。
「ッ!!」
あまりの衝撃によろけ、畳の上に倒れる。手のひらと肘、尻を床に叩きつけた打撃が直接体に響いた。その振動だけで古い木造アパートの窓がカタカタと音を鳴らす。
茜が身を起こすよりも先に、続けて腹に衝撃が加えられる。
「ぁ、がっ……、っはぁ……ッ!」
一瞬息ができなくなり、咳き込むと同時に口の端から唾が伝った。ギリギリ嘔吐をしないまでに踏みとどまる。
なおも呼吸が安定しない茜のブレザーがぐっと引かれる。胸ぐらを掴まれてやっと上を向くこととなった茜の双眸は、一人の男の冷徹な眼差しを捉えた。
「遅せーよ。今日バイトないんじゃなかったのかよ」
「痛っ……!」
茜の腹の上を跨いだ男は、茜の左手首を足でギリギリと踏み押さえた。きっと夏であればやらなかったであろうことを、まだ長袖だから許されると言わんばかりに苛立ちを暴力にしてぶつける。
「バイトない日はすぐ帰ってこいって言ったよな? 彼氏の言うことはちゃんと聞けよ!」
「ぐ、っ」
「俺が住まわせてやってんだろ!? 俺の家だろここは! 誰のおかげで学校行けてると思ってんだ!?」
「…………」
額を押さえて勢いよく床に倒される。服で見えない腕や肩を殴られる。時折、頭に男の足が乗せられる。ヒステリックに喚き散らす彼の叫び声が絶え間なく降ってくる。茜の精神を鑢で削るような時間だった。
だが、それも長くは続かない。茜が苦痛を耐え忍ぶよう顔を歪めていると、僅か一分も経たないうちにそれらははたと止んだ。
それから、茜を殴ったばかりの手が降りてきた。反射でぎゅっと目を閉じて身を硬くするが、その手はふわりと茜の首裏に回される。
顔が引き寄せられて、茜の視界はピントが合わなくなった。ぼやけた世界の中で男の顔が自分のすぐ目の前にあることに気づいた時には、既に唇に何かが触れていた。
(…………あ)
かさついた肌の反発が伝わる。慰めのような、償いのような口付けだった。
瞬間、脳を過ぎったのは若葉色の髪の彼だ。
(……あーあ。ごめん、巴さん。せっかく気遣ってくれたのに)
彼が守ったはずのファーストキスはあっけなく散った。その場その場で適当に摘み上げただけの男に。茜が意外だったのは、自分がそれに何の感情も抱かなかったことだ。
男は唇を離すと、がばりと覆いかぶさって茜の体を抱きしめる。
「ごめ、俺、こんなひどいこと……! ごめんな、茜……全部、茜のためだったのに……!」
「……………………」
「帰りが遅かったから、茜が他の男のところ行っちゃったのかと思って、気が気じゃなくて……! ごめん、茜。俺ホント馬鹿で、最低な彼氏でごめん…………」
すると気狂いのようだった男が一変、今度はぼろぼろと涙を流し始めた。茜を抱きしめる手に力がこもり、天色の制服に皺が寄る。
男の嗚咽を聞いた茜は、ゆったりと右手を彼の肩に回した。
「……だぁいじょうぶだよ。ピのことはちゃんと分かってるもん」
「……」
「高校の委員会があって遅くなっちゃったの。連絡しなかった私が悪いね。ごめんね」
「茜…………」
まるで子供をあやすように、震える男の肩を茜は撫で続けた。殴られた頬が、蹴られた腹がじんじんと痛みを訴えているが、今は全て水に流した。
だって、今一番痛いのは茜ではなく、殴った彼の拳なのだから。
(――なぁんて、思ってるわけねえだろバーカ!)
茜は脳内で男に舌を出した。舌を出すどころか唾を吐き、中指を立て、八つ裂きにした。むかむかと収まらない苛立ちをぶつけたいのは茜の方だった。
(殴った後に優しくされるのももう五度目だもんね! そういう手口だってのは完全にバレてんだよ!)
いわゆるDVにおけるハネムーン期というやつだ。暴力と献身を交互に繰り返し、相手を依存させる常套手段。そのサイクルが切り替わっただけに過ぎない。そんな手にズブズブとハマってしまうような茜ではなかった。
けれど、こういう時は下手に刺激しない方がいい。折角安定期に入ってくれたのに、再び爆発されては困ってしまう。躾のされていない子供を宥めるようで辟易してしまうが、茜だって痛めつけられるのは嫌だ。
暫く無言の抱擁を続けていると、男はおもむろに茜の傍を離れ、ふらふらと自室へ戻ってしまった。やっと終わったか、と茜から肩の力が抜ける。彼は茜で鬱憤を晴らし、急に情緒不安定になったかと思うと、その後は自室に引きこもって自己嫌悪に陥る癖があるのだ。ああなってしまってはある程度時間が経つまで出てこないだろう。それはそれで、茜も束の間の安寧を得たということで好都合だった。
この平穏が一生だったらいいのに。
茜はいつも思う。どうして自分の人生は荒れ狂う波のようなのか。どうして湖水のように静かな鏡水でいてくれないのか。
自分だって、もう少しまともに生きてみたい。家があって、家族がいて、友達がいて。何の不安も抱えずに帰れる場所がほしい。誰かに守られる側にいたい。
だが、それもあともう少しの辛抱だ。
(……あと、一年)
あと一年耐えて、無事高校を卒業さえできれば、その後は自由だ。泊まる場所を探して他人の顔色を伺うことも、売り行為に近いことをしなくてもいい。施設を縁を切って働けるようになる。収入さえあれば部屋だって借りられる。自分の生活を他人に委ねなくとも良くなるのだ。まさに待ち望んでいたことだ。
(大丈夫大丈夫、私はあの玲明で一年もトップアイドルやってたんだし! 今の環境だって転校してから丸一年続けてるんだから、もう一年くらい誤差でしょ誤差!)
ただひとつ、悔いがあるとすれば。
(……普通の女の子には、なれそうにないけど)
自虐めいた乾いた笑いが漏れた。
憂鬱に浸るのもさておき、制服から着替えるため立ち上がろうとする。その直前、彼に踏まれた左手組が鋭い痛みを発した。呻こうにも声が出ず、再びバランスを崩してべしゃりと畳に倒れ込む。
その時床についた肘が、偶然にも落ちていたリモコンの電源ボタンを押した。
静寂だった居間にテレビの音声が流れる。
歌声が、聞こえた。
『先週発表の音楽アーティストチャート、アイドル部門第一位はコズミックプロダクション所属のEden! 昨年末のSSでは惜しくも準優勝という結果となりましたが、その力強いパフォーマンスと音楽性が評価され――……』
「――――――――――――――」
この歌は、聞きたくない。だって一度聞いてしまえば、涙が隠しきれなくなってしまう。茜がやっとの思いで作り上げた“どんな苦境にも耐えられる人間像”がボロボロと崩れ落ちてしまう。メッキが剥がれて、見たくなかった素顔が見えてしまう。
だから、大事にしまっておいたのだ。誰にも汚されないように、音楽プレーヤーの中で眠らせていたのに。
「……………………なんで、こういう時に出てきちゃうんだよぉ……」
液晶画面に触れる手は震えていた。目頭が熱くなるのをはっきりと感じる。瞳に透明な膜が張った。
野犬そのものだった目つきはほんの少しだけ丸みを帯びたが、それ以外は何も変わっていない。夜空のような髪も、そこに浮かぶ月のような金色の瞳も。彼の歌声がこんなにも美しく、伸びのあるものだと知ったのは玲明を去った後だったが。
漣ジュン。
茜からアイドルの熱を、目的を、感情を奪い去っていった彼は、今は無数のライトを浴びて歌い踊っている。まるであの頃の、来栖茜のような顔をして。
彼の歌が鼓膜を揺らす度に、茜は心臓が握り潰されそうな思いを味わった。
その度に思うのだ。
彼から離れて本当に良かったと。
ジュンが推したアイドル“来栖茜”は、あの玲明のライブで死んだのだ。そういうことにした。だから今、興味もない他人に愛を吐いて、害虫のようにこそこそと生きる茜は、来栖茜の出がらしだ。
そんな出がらしの身で偶然にも彼と再会してしまった時は、もうどうすればよいか分からなくなった。
だから、逃げた。必死に逃げて、全部なかったことにしたかった。
だけど一度歌声を聞いてしまえば、水底に沈めたはずの感情が大きな水しぶきをあげて舞い戻ってきてしまう。彼からもらった指差しも、上着のあたたかさも、背後から呼び止める声も、茜は何も忘れられていないのに。
(……私、こうなってから初めてわかったよ。頭を蹴られるのって、痛みより先に心が軋むんだ)
心臓は胸にあるので心はよく胸で表現されがちだが、人間とは頭でものを考える生き物だ。よって感情も脳の信号の一部に過ぎず、ともすれば心は頭蓋骨の中に詰まっていると言えなくもない。そんな大事な器官を、まるで缶蹴りの缶ように雑に扱われるのだ。玲明でジュンが受けていた屈辱を、茜は二年越しに体感した。初めて受けた時の無力感といったら、その日一日ずっと声が出なかったほどだ。
彼は玲明でそれを浴びていた。彼はずっと、何を思ってあれに耐えてきたのだろう。
(だから君はもう、こっちに来ちゃだめなんだよ)
やっと路地裏を抜け出せたのだ。楽園に辿り着いたのだ。茜の楽園は、茜自身の手で燃やして灰にしてしまったけれど。彼のそれは未だ木々茂り花咲き誇るサンクチュアリだ。
なのに、きっと優しい彼のことだ。茜の今の境遇を知れば、きっとそこを引き返して、戻ってきてしまうだろう。
忘れてしまえ、昔のことなんて。
忘れてしまえ、私のことなんて。
トップアイドル“漣ジュン“には、綺麗な状態の来栖茜が肖像としてだけ残っていればそれでいい。
ガラリと引き戸を開ける。扉自体は教室のそれと大差ないが部屋の内部には教室のような机と椅子はなく、広いデスクと備品棚、それから仕切りのついたベッドが三つ並んでいた。つまるところ保健室だ。
茜が入り口付近に立ったままでいると、デスクチェアの背もたれにだらりと寄りかかった白衣の男が視線を向ける。
「お〜不良娘め。今日は何しに来たんだ?」
「寝に」
「とうとう仮病すら使わなくなったな……」
無精髭を生やした黒髪の男、佐賀美陣は、茜が来ることをわかっていたかのようにあくび混じりに迎えた。門前払いはされないと踏んだ茜はずかずかと保健室に立ち入ると、保険医に診てもらうこともせずに「ベッド空いてるなら使っていいですか?」と毛布に手を伸ばす。
「あ〜待て待て。一応保健室使った生徒のことは他の先生たちにも報告しなきゃいけないんだよ。この際嘘でもいいから頭が痛いとか言ってくれ」
「頭が痛い」
「よしよし、ちゃんと口裏合わせてくれよ〜?」
彼はそう言うと、デスクに立てかけていたファイルを開いて中に何やら書き込み始めた。おそらく普通科の教員に向けた報告書のようなものだろう。茜の体調不良が真っ赤な嘘であることは分かりきっているので、記入する姿勢もいい加減そのものだった。
「それと、その頬どうしたんだ?」
彼はファイルから目を外さないまま、ボールペンを走らせて尋ねる。
「転んだんです。学校でできた怪我じゃないから佐賀美先生が手当てするようなものじゃないですよ」
茜は無意識に、昨日同居している男にぶたれた頬に指先を当てた。派手な変色とまではいかないが、あれからろくに処置を行わなかったせいでうっすらと腫れてしまっている。
養護教諭であればそれが転んでできるような怪我ではないことくらい一目でわかるだろう。だが彼は「……そうか」と一言発するだけで、これと言って追求するようなことはしなかった。
「んじゃ、それはさっき保健室に入る時にできた怪我だな〜。頭痛で足元がふらついたら保健室の扉に激突して腫れちゃいました、と」
「ちょっと。それだと私がかなり鈍臭い人間みたいになっちゃうでしょう」
「こんなの形式上だから誰もまともに見ちゃいないよ。しかしお前も真面目だな〜、学校でできたって嘘つけば治療費浮かせられるのに。ほら、ここ座れ」
陣はボールペンを置くと、デスク横の丸椅子を指差した。その間に備品棚へと向かい、戸を開けて備蓄分の湿布を取り出す。
最初は躊躇していた茜だったが、陣に再度促され渋々椅子に腰掛けた。
「どうせ湿布買う金も惜しいクチだろ? なら変に気負わず保健室でもなんでも使っちまえ。湿布一枚くらい減ったところでたいして変わらないんだしさ」
「昨日金抜き取られてなきゃ湿布くらい私でも買ってましたよ。あの野郎、散々部屋に引きこもったかと思えば金パクりやがって……」
どうせ彼が向かった先は毎度の如くパチンコだろう。もしくは競馬場か。あの手のクズ男はなぜか往々にして賭博にハマりやすいのだ。反面倫理観に緩く、茜が短期間でしれっと寄生しやすいのでそういう人物を選んでいるという点は否定しづらいが。
陣は茜の頬に湿布を当て、ハサミで適当な大きさに切りながら彼女の愚痴を聞いていた。彼女が夢ノ咲に転校してきて以来、およそ月一ペースで行われる恒例行事となっている。
陣は本来アイドル科の養護教諭だ。茜のいる普通科に来るのは普通科担当の養護教諭が外す月に一度だけで、それ以外はアイドル科の保健室か、今年度新設されたESにいることが多い。
そして茜は、その月に一度を狙って仮病を使う。目的は日々の睡眠不足をまとめて補うためだ。放課後はアルバイト、帰宅後は恋人の機嫌取りと、常に睡眠不足の体だった。
「また大学生のクズ彼氏かぁ? 若者の交際事情に口出すのは野暮ってもんだけど、お前はそろそろいい人見つけて幸せになるべきだと年長者は思うぞ〜」
「およそ高校生に言うセリフじゃないと思いますけどねそれ。あと一ヶ月もしたら別れてやりますよ、あんな蛆虫にも劣るゲス」
「そしてまた同じような男に引っかかると」
「わざと、引っかかってやってんです。家出高校生を警察に引き渡さないどころか家に上げる倫理観の持ち主なんて頭イカれてる野郎しかいないんですから。あと一年の辛抱ですよ」
処置が終わると、茜は立ち上がって今度こそベッドに向かった。腫れた頬には薄い湿布が貼られ、ひんやりとした感触が肌に付き纏う。
「けど、正直誰だって心配するだろ。そのうち事件にでも巻き込まれたりするんじゃないかってな。俺もあんまり怪我した子供は見たくないしなぁ」
「保健室の先生なんだから子供の怪我くらい見慣れたものじゃないんですか?」
「スポーツとか日常生活でできるぶんはな。けど……あ〜、まあ、さっちゃんのこと思うとどうもなぁ」
「? さっちゃんって誰」
「別に。オッサンの個人的な知り合いだよ」
陣はそれ以上語る気はないようで、残ったフィルムとハサミをいそいそと片付け始めた。茜は何を言われるまでもなく、さも当然のように空いている端のベッドに移動して横になる。
久しく顔を見ていなかった睡魔は驚くほど簡単にやってきた。保健室の硬いベッドの上でうつらうつらと微睡む。身を丸くして、胎児のような姿勢で瞼を下ろすと、そっと体に毛布がかけられた。
やがて、保健室に一人の寝息がすうすうと聞こえ始めた。
「…………アイドルの末路としても、もう見たくなかったんだけどな」
すっかり夢の中へ旅立ってしまった茜を見下ろして、陣はぽつりと呟いた。
華の高校生の土曜休みといえども、茜のそれは一日中アルバイトで埋め尽くされている。居間のソファで目覚めた段階で恋人の姿はすでになく、どうせ朝からパチンコにでも行ったのだろうとほとんど諦めのようなため息をついた。
この部屋にある茜の所持品と言えば、通学用のスクールバッグと私物を詰め込んだキャスター付きのキャリーケースがひとつだけだ。洗濯などの場合を除いて、茜は自分の私物をケースの外に出すことはなかった。二ヶ月ほどで住居を転々とするには私物は少なくまとまっていた方がいい。その方が、出て行く時に余計なトラブルを起こすことなく即座に出ていける。まるで旅行者のような装いだが、定住できる場所がないのなら狭い範囲での旅人とも呼べるだろう。
茜はのろりとソファから立ち上がり、キャリーケースから私服を見繕った。どうせアルバイト先のカフェでは制服に着替えるのだから移動中の服装は適当で構わない。とりわけ茜はアイドルとして成功できる程度には端正なかんばせをしていたので、大抵の衣服は違和感なく着こなせた。
茜がスマホを開いたのは、アパートを出てアルバイト先のカフェ近くへ行くバスに乗り込んだ後のことだった。
(げ、臨時休業……?)
アルバイト先のグループチャットで店長が事の経緯を長文で送ってきていた。要約すると、今朝方店内の水道設備に欠陥が生じたため業者の修理が終わるまでの期間は臨時休業するとのことだった。
(マッ……ジかぁ〜〜〜今月どうすっかなぁ……)
窓を流れる景色を眺めながら、茜は脳内で電卓を叩いた。
当然手当は出るだろうが全額とまではいかないだろう。平日の放課後をすべてアルバイトに注ぎ込んで、そこから自分の食費と教材費、同居先の恋人に使う出費諸々を引いて手元に僅かに残る程度だった茜にとってはまさに経済的危機といえる。
特に恋人の酒代やパチンコ代は少しでも減額すればまた不機嫌になるので欠かすことはできない。この生活を始めた当初こそ茜も鬱憤を溜め込んでいたが、今となっては家賃や水道光熱費と同様の感覚で金食い虫の口に餌を突っ込んでいた。
嘆いていても金は増えないので、今月は毎食カップラーメンで凌ぐしかない。節約食材の定番といえばもやしだが、今の時代は下手にもやしを調理するよりもインスタント食品の方がコストパフォーマンスに優れている。代償に栄養価を失うが。
(でも味とかわかんないし、別にいいか)
二年前に鈍りきった味覚は今もなお戻っていない。添加物たっぷりのインスタントラーメンも醤油に漬けたもやしもなんとなくしょっぱいなあと思うだけで、そこに美味も不味もない。せいぜい食感の差を感じるのが関の山だ。
そう思案しているうちに、茜が目的としていたバス停に到着した。これ以上乗っていても乗車料金がかかるだけなので一応降りはしたが、肝心のアルバイト先は臨時休業なので向かうこともできない。どうしようかとおもむろに歩き出したその時。
「お、来た来た。仕事熱心なとこはほんと変わってないんすねぇ」
数歩先のビルの壁に背を預けて寄りかかる人物は余裕綽々といった声色で茜を呼び止めた。蜂蜜の瞳はまるで昨日の友人に会うような色を宿している。
「……入り待ちはお断りなんだけど」
「どっちかっつーと出待ちですけどね。てか、あんたはもうそういうの気にする立場じゃないでしょう」
そう言って少し苦そうに笑うジュンを見て、茜の胸も警鐘を鳴らすようにじくりと痛んだ。