サンクチュアリは流転より
28
まずは茜本人ともう一度会わなければ。できれば茨には内緒にして。そう考えたジュンは、茜の友人らに再び連絡を取ってみた。おそらくそのまま会いにいっても前回同様逃げられるだけだろう。なので、ある提案をジュンの方から持ちかけた。
『その音楽プレーヤー、すっごく古そうなのに茜ってばずっと大事に持ってるんですよね』
『そういえば茜PC持ってないからってうちのPCで音楽入れてた記憶ある。確かにそれ見せたら問答無用で逃げるってことはなさそう』
グループチャットから各々メッセージが送られてくる。星奏館の共有スペースでスマホを眺めつつ、ジュンは反対の手に持った液晶の割れた音楽プレーヤーに視線を落とした。偶然にも再会したあの日、茜がバスに乗る直前で落としたものだ。
音楽なんて今はスマホ一つで事足りる時代だ。なのに未だに古びたプレーヤーを持っているということは、彼女にとってよほど重要なものなのだろう。そんな品を利用するようで心苦しいが、背に腹は代えられない。使えるものは何でも使っておけと茨だって言っていた。
『できれば直接本人に返したいんですけど、茜がいつも行く場所とか知ってたりしませんか?』
『茜、バイトいろいろ掛け持ちしてるからなぁ……』
『あ、でも今週末はカフェのバイトだって言ってましたよ! 私の友達も同じとこで働いてるから、頼めば茜のシフト教えてくれるかも!』
ちょっと待っててとのメッセージを最後に待つことおよそ五分。突然、グループチャットのメンバーに四人目が追加された。おそらくは茜と同じアルバイト先だという人物だろう。
『茜、今週末は午前から入ってるんで昼前くらいに来れば会えると思いますよ。これ詳しい時間と場所です』
追加された人物はそのメッセージに合わせて、茜のシフト表とカフェのマップ情報を添付していた。場所はESからも夢ノ咲学院からも少し離れてはいるが、行けない距離ではない。少なくともジュンが行ったことのない地域であることは確かだが。
『ありがとうございます。でもいいんですか? これ、職場に怒られるんじゃ……?』
『別に悪用したりしないならいいですよ。私が教えなくても調べれば出てくることですし。それにうちのスタッフもみんな、茜のことはなんとなく心配してたりするんで』
どうやら茜の状況は、アルバイト先の人間もおおよそだが把握していたらしい。茜が何も言わないから深く踏み込まないだけで、手助けをする機会をずっと伺っていたのだと言う。
『そこまで言うならいっそ週末休みにしてあげたりしないの? バイト終わるの夕方なら遊ぶ時間全然ないじゃん』
『別に遊びに行くわけじゃないから大丈夫っしょ。つかバイトないの分かったら茜家から出てこなくない?』
『おけ。ちょっと待って』
ジュンが何かを言う暇も与えず、彼女たちの間で怒涛のメッセージを送りあった後再びグループチャットに静寂が流れた。女子高生三人とジュン一人というグループはこの先一生目にしないだろう光景で、待っている間の気まずさといったらない。対面ではないのだから居心地の悪さを感じたところで無意味なのだが、ジュンは共有スペースのソファで一人顔をしかめていた。
それからさらに十分ほど経っただろうか。グループチャットの動きが再開する。
『今店にいたから店長と話してみた。とりま水道設備の不具合で臨休起こす方向で決まったわ』
『そんなことして大丈夫なんですか!?』
『別に本当に水道壊すわけじゃなくて、茜にはそう伝えるって話です。茜抜きのグループでいろいろ話して口裏合わせてもらって、茜がこっち来る途中で本人に伝えれば茜を家から出してバイトもなしにできるでしょ』
茜の今の住居とシフトから使う公共交通機関と時間を推察するのは案外簡単だそうで、彼女たちの間で時刻表を出したりしながら議論は進んでいく。やたらと白熱している彼女に少々置いて行かれ気味なジュンだったが、確かに成功すれば茜とゆっくり話す時間は確保できそうだ。
『巻き込んじまってすみません。本当にありがとうございます』
『全然全然。むしろ茜のそういう話今までなかったから超面白いし』
「やっぱちょっと面白がられてるんすね……」
「何が?」
「うわっ!」
突如真横から聞き慣れた声がして、ジュンは慌ててスマホを隠した。別にやましいことは何もしていないのだが、むやみに探られたりからかわれても困る。隣に座った人物の顔を見て、ジュンの脳は一瞬にして緊張状態に入った。
「おひいさん! びっくりさせないでくださいよ……!」
「ぼくが来たことに気づかずずっとスマホを見て百面相してたジュンくんが悪いね!」
不貞腐れたように唇を尖らせた日和は不機嫌さを隠すこともしなかった。だが待ち合わせをしていた相手に気づかなかったジュンにも非はあるので、一方的に理不尽を訴えることはできない。
けれど日和自身はあまり気にしていないようで、ジュンと彼のスマホを交互に見やるとコロリと表情を変えた。
「まあ、別にいいけどね。それでジュンくんは、何を見てそんなに百面相をしていたの? 教えてくれたら許してあげなくもないね」
「そんなに百面相してましたかねぇ!? ……あ、いや……えっと…………」
ジュンは正直に告げるか迷っていた。ここでジュンが茜のことを日和に打ち明けてしまえば、日和はそれを簡単に凪砂に話すだろう。そして凪砂はそれを簡単に茨に話す。自他の距離が近く口の軽い人間たちによる、最悪の伝言ゲームの完成だ。
だがジュンが考えあぐねている間に、日和はぱっと先に口を開いた。
「分かった! 茜ちゃんのことだね!」
「……っ、分かってんなら聞かないでくださいよぉ…………」
ばつが悪そうにジュンは視線を逸らす。
日和がにこにことした笑顔で茜の名前を出すたびに、ジュンは息が詰まりそうになった。茜がソロアイドル、日和がfineとして活動していた時期は重なっている。当時ジュンはまだ裏路地で日の光を浴びてもいなかったので、二人がどういう関係だったのかは知らない。知っていることといえば、二人が一度ドラマで共演していることと、二人が恋人役を演じたというジュンの脳から消し去りたい強烈な事実を残していることだけだ。
ちなみにあのドラマを初めて見た時、ジュンはHiMERUに心配されるレベルで放心した。動揺してこぼしたお茶で火傷をした指が今でも稀に疼いたりする。
だから、日和が茜のことを話すたびに腹の底でふつふつとした感情が湧いてくる。
オレの方が先に見つけていたのに。
くだらない嫉妬だ。そう思うたびに、ジュンは頭の中で自分の顔を殴りつけた。目を覚ませと。正気に戻れと。日和に引っ張り上げられていなければ、こうして茜のことで悩む権利すら与えられていなかったのに。ジュンは自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
火傷の痕もなくすっかり綺麗に治った指を無意識に触りながら、ジュンは日和に尋ねる。
「……前々から思ってたんですけど、おひいさん、茜と仲良いっすよね」
「うん? そう見える?」
ぽかんと口を開けた日和にジュンは頷く。すると、数秒考えたのち日和はふっと長い睫毛を伏せた。
「ジュンくんにはそう見えるのかもしれないけど、ぼくも茜ちゃんと会ってた期間はそこまで長くないんだよね。ドラマの共演の時と、せいぜい彼女が入院してた時にたまにお見舞いに行ったくらいで。退院してからは連絡もつかなくなっちゃったし」
「……お見舞い?」
「あ」
日和はつい口を滑らせてしまったようで、ぎこちなく口元を押さえている。だがそれを見逃すジュンではない。金色の瞳がギラリと鋭さを増す。
「おひいさん……? もしかしてレッスン後にたびたび出かけてたのって、茜の病院に行ってたんすか……?」
「…………………………」
「GODDAMN! なんで教えてくれなかったんすか!」
そう言って眉を吊り上げたジュンの表情が熱を宿す。飼い主に裏切られた犬がその手を噛む数秒前といった具合に。口論の幕が上がりそうなところを、日和はびしっとジュンの額を指差して押さえ込んだ。
「教えようにも、茜ちゃん本人から口止めされたらぼくだって無下にはできないね! 茜ちゃんが引退したすぐ後、彼女の周辺が一体どうなってたかジュンくんは知ってる?」
「………………荒れて、ました。風早先輩がいなくなった時か、それ以上に」
女子部の風早巽とまで呼ばれていたのだ。他のアイドルたちの期待を余すことなくその身に背負っていた。
そして、失墜した。数多の希望を乗せた宇宙船『茜号』はどこの星に辿り着くこともなく燃えて、灰になった。その散りゆく様を地上から見上げていた彼女たちはこう思っただろう。
なんだ、がっかりした。
あんなに尽くしたのに全部が無駄になった。一体どう責任を取ってくれるんだと。
責任を取れとまくし立てたところですでに茜はいない。これはだいぶ後になってジュンが教師から小耳に挟んだことだが、例の事故直後の茜の寮室はそれはもう酷い有様だったらしい。服は破られ、コスメは床に散乱し、テーブルから椅子まで全てがひっくり返された。私物という私物はくまなく破壊されつくした。あとでその部屋を綺麗にしなくてはならないのは自分たちであるのに、それすら厭わずに。たった一日にして、茜は学園中のヘイトをかっさらっていったのだ。
「
「……だからって、そんな…………」
「そんな中でぼくが一番警戒していたのは、茜ちゃんの入院する病院が露見すること。下手をすると厄介な客がこぞって押し寄せるからね。恨まれてる相手だけじゃなく、過激なファンも含めてね。……そして茜ちゃんが一番心配していたのは、茜ちゃんとジュンくんが親しい仲だって他のアイドルに知られること」
なぜなら負は連鎖するからだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うように、茜を憎く思う女子部の面々が特に理由のない恨みをジュンに向けるかもしれない。
ジュンが男子部という囲いの中で細々と生きるのなら、それでも大した害にはならなかっただろう。だがジュンはEveで、Edenだ。巴日和の相方だ。茜が見つけて日和が磨いたダイヤの原石だ。いずれ万来の喝采の中を歩む彼には、少しの曇りもあってはならなかった。
そう語る日和を前にして、ジュンは意気消沈した様子で瞳を揺らした。
「……結局、またオレだけ何にも知らねぇままだったってことっすか」
すぐ傍にいる日和にすら聞こえないほどの小声で呟く。
畢竟、ジュンは茜に守られていたのだ。世間が認知する漣ジュンという存在から、茜一人分のスペースをぽっかりと空けることによって。茜を恨む者と茜を慕う者。その両方とジュンが交わらないで済むように。
「だから、今でも茜ちゃんの扱いって実はすごく難しいんだよね。敵が多い上に、コズプロとは喧嘩別れみたいに縁を切っちゃったから、茨がこそこそ動いてるのもあんまり上手くいってないみたいだし」
「茨が……そういえば茨って、なんで茜のことであんなに躍起になってるんですかね?」
日和とジュンの脳内に同時に同じ人物が浮かび上がる。ジュンが茜の友人らとカフェで話して以来、茨はやけに茜の情報を集めたがっていた。彼がカフェを去る時も「来栖氏のことはこちらで対応します」と言っていたが、ジュンが余計なトラブルに首を突っ込むのを防止する以外にも何らかの目的があるように思える。
ジュンの純粋な疑問に、日和は本当に心当たりがないのか呆れたように首を横に振った。
「さぁね。茨の考えてることなんてどうせろくなことじゃないんだから、ぼくの知ったことじゃないね」
ニュアンスにやや偏りはあるものの、ジュンも大方日和と同意見だった。アイドルでありながらコズプロの副所長でもある彼には、ジュンや日和よりももっと多くのものが見えているのだろう。それをジュンが精一杯背伸びをして同じものを見ようとしたところでキリがない。胸に刺さった疑問は一度忘れることにして、ジュンが今考えるべき目下の課題は今週末をどう乗り切るかだ。
「……おひいさん。今週末荷物持ちするって話ですけど、なしにしてもらっていいですか」
「ええ!? ジュンくんのくせに生意気! ……って、言いたいところだけど」
日和は何かを悟ったように眉を下げた。
「どうしたいかは決まったみたいだね?」
「……とりあえずは、やれるだけやってみますよ」
「……入り待ちはお断りなんだけど」
「どっちかっつーと出待ちですけどね。てか、あんたはもうそういうの気にする立場じゃないでしょう」
カジュアルな私服に身を包んだ茜を見るのはこれが初めてで、ジュンは言葉を詰まらせないか不安だった。ジュンの記憶にはアイドルの衣装と、玲明の制服とジャージ、そしてつい最近の夢ノ咲の制服を着ている姿しかなかったからだ。
けれど、そんな考えは一瞬で吹き飛んだ。彼女の頬に当てられた湿布と、その下にあるのかもしれない痛々しい痣を想像して、ジュンは腸が煮え滾る。なんとか怒りを表に出さないよう表情を取り繕って、一歩一歩距離を縮めた。
「これ、返しに来たんです。大事なものなんでしょう」
そう言ってジュンは茜の落とした古い音楽プレーヤーを差し出した。もう中古ショップでしか売られていないようなそれを受け取り、彼女は目を丸くする。
「……ジュンが、持ってたの?」
「この間バス乗る前に落としてましたよぉ。たぶんその時に画面にヒビ入っちまいましたけど」
「いいの。このヒビは元々あったやつだから」
茜はどこか感慨にふけるようにするりと液晶を撫でた。色白で細い指は儚さすら醸し出している。
だがそれも束の間のことで、すぐに茜は踵を返そうと足を動かす。
「拾ってくれてありがとう。じゃあね」
「っ、待ってください!」
反射的にジュンが去りかける茜の左手首を掴んだ。
その瞬間、茜の体がびくんと跳ねる。
「痛っ……!」
「! すみません! オレ、つい……!」
痛みに顔を歪めた茜を見てジュンはすぐさま手を離した。そこまで強く掴んだつもりはないのだが、と心の奥にしこりが生まれるのを感じつつも、真っ青な顔色で彼女の様子を伺う。
茜は困ったようなはっきりしない表情で自身の左手を押さえていたが、次第にその目をジュンに向けた。
「ジュン。私玲明辞めたの」
「……そう、っすね」
「だから私とジュンはもう無関係。こっちのことに気回す必要、ある?」
「…………………………」
「自分のことを考えてよ。せっかくアイドルになれたんだから。それともまたタコ部屋に戻りたい?」
真冬の水のような冷たい眼差し。幾重にもオブラートに包まれた、これ以上ないほど明確な拒絶に呑まれそうになる。その言葉のひとつひとつが、ジュンが抱いていた僅かな望みを刺し貫いたのも嘘ではない。
だが同時に、一種の怒りにも似た小さな火がジュンの中で燻ぶる。
彼女をどこの馬の骨とも分からない男の部屋から連れ出せるのなら、自分はタコ部屋に押し込められたって構わないのに。
「ちゃんと考えてますよ。考えて、ここに来てるんです。何か、困ってるんじゃないですか」
「………………」
「…………オレには、言えないことですか」
茜は数秒沈黙して、
「それ、ジュンに言う必要あるかなぁ」
と嘲るように笑った。
(また、だ)
分厚い氷を割るようながつんとした衝撃が脳を襲う。刹那、灯火は大きな炎となって燃え盛った。
(また、あんたは何も言わねぇ!!)
ぎゅっと唇を噛む。
あのライブで飛び降りた時も。
音信不通のまま玲明を去った時も。
こうしてジュンを拒否している今も。
茜は、一番大事なことを絶対にジュンには教えない。
それほどジュンを大切に思っていると言えば聞こえはいいが、それはある意味での軽侮だ。ジュンを巻き込まないようにということは、それはつまり、ジュンにはどうにもできないと言っているようなものだった。
一言でいい。ちょっとだけ困ってるって。少し手を貸してほしいって、そう言えばいい。そうしたら、ジュンは自分が持っているものは何だって彼女に差し出した。
この熱は、全部彼女から始まったのだから。彼女の指先ひとつで動く奴隷になったって、いい。
それなのに、一体何故!
「オレ、そんなに頼りなく見えますか」
「頼りないとかそういうのじゃないよ。傘を持ってない時に雨に降られたら、確かに他の人の傘に入れてもらうこともできるけど、別に雨に濡れたって死ぬわけじゃないでしょ?」
そうぺらぺらと喋る彼女とジュンの視線が交わることはない。
それでも頑なに引く気のないジュンにとうとう嫌気がさしたのか、彼女は呆れたように眉を寄せた。
「……そんなに私を助けたいなら、お金でも払ってくれる?」
「…………は」
ジュンが見たことのない、挑発的な笑みだった。妖艶さすら上手く混ぜ込んで、彼女は言う。
「そういうの、やったことがないわけじゃないんだよ。もう清純派とか反吐が出そうな設定貫く必要なくなったんだし」
ジュンの頭に、カフェでの会話が蘇る。
『ひどい奴だと“金払えば誰でもヤレる”とか裏で色々言われてんの!』
「どうする? ジュン」
ジュンは崖っぷちに立たされたようだった。どちらを選んでもきっと最悪な気分になることは避けられない。本心に従うなら、そんな彼女を汚すようなこと、絶対にしたくない。
だけど。胸の内で暴れ回る憤りは、ジュンに進めと指を差している。
(GODDAMN! 舐めんじゃねえ!)
それくらいで、誰が引き下がってやるものか。
「――いいっすよ。なら、オレがあんたを今日一日買います」
ジュンがほとんど無理矢理に近い形で茜の手を握る。彼女の薄い掌が無骨なそれと重なると、彼女は虚を突かれたように目を見開いた。
野良犬のような金色はただ静かに凪いでいる。
「だから今日は、オレに付き合ってください」
途端に、めらめらと燃えていた炎は水をかけたように消えてしまって。灰の残ったジュンの内側をなぞるように春風が吹き抜けた。