指差しのよすが

サンクチュアリは流転より

29

 辺りに充満するあまい香り。光差す窓辺で向き合って座る男女。

 両者の間には、山盛りの苺パフェとチョコレートケーキ。


「なんか思ってたのと違ったなぁ」
「ん? なんか言いました?」
「てっきり……いや、何でもないよ。ジュンはそのままでいよっか……」


 以前から目をつけていた喫茶店のパフェを前にしたジュンは真紅の宝石たちに目を奪われつつ、ちらりと茜の顔を伺う。

 彼女はテーブルに頬杖をついて、どこかおさまりが悪そうに窓の外を眺めていた。手元のチョコレートケーキには一切手がつけられていない。


「……もしかして、甘いもの苦手でした?」
「そうじゃないよ。ただ、苺が好きって本当だったんだなぁって」
「そりゃ、タコ部屋にいた頃は苺なんてそうそう食べられませんでしたからねぇ」


 非特待生がありつける食事なんてたかが知れている。巽がタコ部屋から去り日和に拾われるまでの間は下手なりの自炊か、もしくはカップラーメンで空腹を満たすしかなかった。特待生用の学食を食べられるようになり、デザートに果物がついてくると知った時は驚いたものだ。


「茜だって好きって言ってたでしょう。チョコレート」
「……まあ…………」


 煮え切らない態度の茜にジュンは疑念を抱く。だが茜からすると、すぐに肯定できないのも無理はない。チョコレートの味なんてもう忘れてしまった。手元のケーキも、ジュンのパフェも、茜には似たようなものにしか思えない。世間一般的にはそれを好きとは呼べないだろう。

 重要な機能が一つ欠落した舌のことは伏せ、茜は「それより」と話題を変える。


「さっきも言ったけど、自由に出て歩けるのは本当ならバイトがあった時間の間だけだよ。それをこんな使い方しちゃっていいの?」
「それこそさっきも言いましたけど、オレがあんたの時間を買ったんですからどう使おうとオレの自由でしょうがよ。ここの店、前から来たかったけど一人じゃ入りづらかったんです」
「確かに女性客とカップルばかりだもんね」


 ジュンが茜を――正確には茜と共に過ごす権利を買うと言い出し、取引をしてから真っ先に向かったのは通り沿いの喫茶店だった。

 茜が目だけで周囲の席を見渡すと、ジュンもつられてそちらに目を向けた。彼女の言う通り、ジュンと茜以外の客席はほとんどが女性で埋まっている。中には男性も数人ほど混ざっているがいずれも女性とペアで来ているようで、ともすればジュンたちもそのうちの一組にすぎない。

 もしかすると他の客や店員には自分たちもカップルに見えているのかもしれない。そう思った瞬間込み上げてきた羞恥を流すように、ジュンは大きめの苺をひとつ口に運んだ。甘酸っぱい風味が鼻腔に広がる。

 そうしてジュンがパフェを堪能する間にも、茜のケーキは一向に減る気配がなかった。だが何度も食べないのかと聞くのは、卑しくも自分がそれを欲しがっているか、もしくは彼女との時間に自分が不満を感じていると思われそうで躊躇われる。けれど、もしも具合が悪くて食べられないと言うのならそれ以前の問題だ。金銭の授受が発生するたった数時間の間だが、ジュンは彼女に無理をさせたい訳ではない。

 どうしたものかと考えていると、ジュンの視線に気づいた茜が悪戯をする子供のように細まった。


「あ、もしかしてジュンもケーキ食べたかった?」
「え? いや、違……」
「いいよ。一口くらいなら分けたげる。ほら」
「え」


 茜はそう言うと、一口分をフォークで切り分けてジュンに差し出した。フォークの持ち手は茜が掴んだまま、ケーキだけがジュンの口に突き出されるような形で。


「!? っ、!?」
「早く食べてよ。クリーム落ちちゃう」


 目をかっ開いて焦るジュンとは対称に茜は落ち着き払っていた。口を半開きにしたまま動かないジュンに若干むっとした表情を浮かべている。

 急激にぐるぐると回り出した視界でジュンは必死に考えた。こんな小っ恥ずかしいこと、耐えられるか。しかも相手が茜なんて、そんな自分にとって都合が良すぎること。

 すると、ジュンの脳内にふわふわと二匹の天使と悪魔が降りてきた。天使と悪魔はどちらも日和の顔をしていた。日和の姿をした天使が「ジュンくんジュンくん! 断ったら茜ちゃんが可哀想だね!」とハートの矢をつがえる。続けて悪魔の姿をした日和が言う。「ジュンく〜ん! 今日一日なら何しても正当な対価だね!」


(GODDAMN! どっちも悪魔じゃねえか!)
「あ」
「!」


 目の前でケーキの上に乗ったクリームがずり落ちた。ジュンの体に緊張が走る。ばくばくと暴れる心臓に突き動かされるように、どうにでもなれと体を前に倒した。

 小さなデザートフォークに見合わない大口で、ばくんっと落ちかけたクリームごと口に含む。それまでジュンが感じていた苺の甘酸っぱさは一瞬にしてチョコレートに塗り替えられた。


「どう? 美味しい?」
「……? …………? た、たぶん…………?」


 美味しいのだろう、とは思う。だがこの時、ジュンはチョコレートの味もクリームの味もまともにわからなかった。直前の出来事があまりにも衝撃的すぎて、完全に舌が仕事を放棄していた。そんなことよりも顔があつくて仕方がない。

 そんなジュンをぽかんと見ていた茜は、顔を顰めて咀嚼するジュンにふっと吹き出してしまった。


「ははは、ふふ、あははは。たぶんって何? ジュンはわかるはずでしょ? 変なの……!」


 その笑った顔が、まるでジュンと茜が初めてタコ部屋で出会った時の顔に似ていて。ジュンは静かに瞠目した。ここからだと、白光に照らされて落ちる睫毛の影すらよく見える。ここがたとえ万人が息を呑む世界有数の絶景の前だったとしても、ジュンは今この瞬間を切り取って茜だけを見つめていたかった。彼女の発言に僅かに湧いた疑問なんて、彼女の美しさには完敗だった。

 だが幻想的にも思えた空気は、ジュンのポケットで震えたスマホの着信音で見事なまでに打ち壊される。画面を見ると、ES所属のアイドルなら皆知っているプロデューサーからの連絡だった。おそらくは仕事の関係だ。だとすれば当然無視するという選択肢はない。


「っと、すんません。少し外します」
「気にしないで。いってらっしゃい」


 ひとしきり笑い終わった茜は目尻の涙を指で拭ってジュンを見送った。もうその笑顔を見られないことに多少の名残惜しさを感じながら、ジュンは急足で喫茶店を出る。

 残された茜は手元のチョコレートケーキに目を落として、おもむろにフォークを手に取る。一口切り取って、自身の口に運んだ。やっぱりチョコレートの風味なんてわからなくて、舌が溶けそうなほどの甘みがあるだけだ。


「……おいしい」


 でもそのたった一口が、今まで食べたものの中で一番美味しいと心から思った。









 休日の昼間だというのに商店街の隅にあるゲームセンターは閑散としていた。近くに商業施設ができ、その中にある大手系列のゲームセンターに客足が流れていったのだろう。時代の流れを感じるようだが、無闇に人混みを歩くなと釘を刺されている今のジュンの身ではこうした小さな店が残っていることは有り難かった。

 クレーンゲームが大半を占める店内の一番目立つ台の前で茜はふと足を止めた。


「あ、ジュンだ」
「はい?」


 数歩先を進んでいたジュンは一瞬自分が呼び止められたのかと思い振り返る。だが茜の目はとあるクレーンゲームの中に留められているばかりで、戻ってジュンもクレーンゲームを覗き込むと、ああと合点がいったようだった。


「そういやプライズでマスコットが出るって話があったんすよ。ここも入荷してたんですねぇ」


 台の上には手のひらサイズの人形が積み上がっている。それぞれジュンが所属するEdenのメンバーを模したもので、その中には語るまでもなくジュンをデフォルメしたマスコットもあった。以前茨からサンプルを貰った記憶が蘇ったが、実際に景品として置かれているのを見るのはこれが初めてだった。そのうち実物を見に行こうとは思っていたが、ぬいぐるみを集める趣味もなかったのでサンプルだけで満足してしまっていたのだ。

 茜はというと、筐体のガラスに手を当ててとても物欲しそうだった。まるでクリスマスプレゼントを願う小さな子供みたいに。


「……いります?」
「え!」


 ジュンが聞くと、茜はぎくりと肩を揺らし彼を見上げた。少し声が裏返っていた。


「か、かわいいとは思ったけど、そんな欲しいとかは……」


 瞳を忙しなく動かしながらしどろもどろに茜が言う。それを見て誰がなんだそうだったのかと信じるだろうか。ジュンは胸がくすぐられるような気分だった。


「よ〜し、見ててくださいよぉ」
「だからそんなんじゃないって!」
「いいんすよぉ。オレも実物一回見てみたかったんで、ついでに貰ってやってください」


 そこまで言うジュンを無下にするのはさすがに憚られたのか、茜は上手く反論する言葉が浮かんでこなかったようだ。筐体の中のジュンの人形とジュン本人を交互に見比べた末、すごすごと場所を譲る。


「一番可愛い子狙って」
「いや、それはわかんねぇや……」


 どれを見たって同じ顔だ。全部自分なんだから。とりあえずは取りやすそうなやつでいいだろうと思い、適当に目星をつけて硬貨を入れる。

 しかし、ジュンも特別クレーンゲームが上手いわけではない。ゲーム好きの知人から何度かコツを聞いたことがあるくらいで、それを実践した試しはなかった。まして入荷したばかりなのでアームの設定も難しめになっているだろう。易々と取れないことは承知の上だった。


「だからってなんでそんなとこに引っかかるんすかぁ……!」
「あと少しなのにすごい引っかかり方してる。どうすりゃ落ちるんだろこれ」


 ジュンも茜もまじまじとガラス板に顔を寄せていた。

 当初狙っていたジュンのマスコットは何度か動かすうちにころころと山を転がり、仕切り板の部分に首が引っかかる形でその場に留まっている。自重で落ちてもよさそうなバランスだったが、運悪くそれも叶わないようだ。

 興味深そうに正面や横から眺めた茜は淡々と述べる。


「アームで持ち上げるより押した方が取れるんじゃない?」
「それ、オレの首の角度がやばいことになりそうですけどねぇ……」


 だが茜の言う通り、入手を優先するのならその方が効率がよさそうだ。引き続きジュンは筐体に硬貨を入れる。

 何度かやっていれば慣れたもので、狙った場所にアームを降ろすのも徐々に精度を増していった。じっと見守っていると、ジュンの思った通りの胴体部分にアームの爪が当たる。板の引っかかりとアームに引き伸ばされ、ジュンのマスコットの首は人体ならば即死も有り得る角度に曲がっていたが。


「絵面がひでえ……」
「あっでも落ちそう落ちそう!」


 茜の目論見通り、ジュンのマスコットはぽとんと簡単に落ちた。

 プチッという嫌な予感を漂わせる音と共に。


「あっ」


 落ちたマスコットをジュンが拾い上げる。

 ジュンの不安は的中した。元々縫製が甘い個体を引き当ててしまったのかもしれないが、ジュンのマスコットの首部分の縫い糸がプツンと切れていた。少し指で押すと中の白い綿が顔を覗かせる。

 なんとも可哀想な姿のぬいぐるみにジュンと、ジュンの手元を覗き込んだ茜は同時にああ〜……と眉を八の字にした。


「……待っててください。もう一個綺麗なの取るんで……!」
「別に私はこれでもいいけど」
「でも……」
「付加価値」


 再び硬貨を投入しようとするジュンに茜はストップをかける。すると彼の手からするりとマスコットを取り、自分の手にちょこんと乗せて顔の前に軽く掲げた。


「破れたところは自分で縫えばいいよ。ジュンが取って、ジュンが破ったジュンの人形だよ」


 愛おしそうに、キスすらできるくらいの距離に顔を寄せて彼女は微笑む。


「かわいいね」
「…………………………………………」


 言われているのは、人形のはずなのに。どうしてか恥ずかしさが勝って、ジュンは片手で顔を覆った。理由はとっくの昔に分かっていた。

 ちらりと彼女のかんばせを見ようとした時、とある箇所に目が止まる。


「……茜」
「ん?」


 茜のくりっとした大きな目がジュンを見上げる。化粧の施された下瞼がジュンの目に映った。


「……もう一箇所、行きたい場所があるんすけど」
「何? 勿体ぶって。別に許可なんていらないのに」


 どこが可笑しかったのか茜は屈託もなく笑う。それにジュンが返せたのは、簡単な愛想笑いだけだった。
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