サンクチュアリは流転より
31
ぴと、と冷たい感触がジュンの耳に伝わる。会議室の扉の前でべっとりと聞き耳を立てるジュンの格好はさながら不審者のそれだったが、今は恥も外聞も気にしてはいられない。自分でも趣味の悪い行いをしている自覚はあったが、ESビル内、さらにはコズプロ事務所内でのちょっとした盗み聞きなど、他の奇妙奇天烈なアイドルたちと比べればまだ可愛いものだった。だが、さすがはセキュリティ意識の高いESの設備だ。会議室の防音性能は抜群で、こうして耳をすませても微かに人の声が聞こえる程度しか分からない。
(GODDAMN。よく聞こえねぇ……何だかんだ理由つけて追い出されちまいましたけど、一体二人で何喋ってんですかねぇ〜?)
茨に連れられ茜と共にコズプロ事務所に来たはいいが、肝心の茨の提案とやらにジュンは関わらせてもらえなかった。会議室の中に彼らのみが残り、おそらく今頃は茨が得意の弁舌でペラペラと言葉の雨を降らせているのだろう。
ジュンの心境は不安が半分を占めていた。七種茨という男の人となりはこの一年間でそれなりに分かってきた思う。彼は信用に足る人物だ。常にEdenを最優先し、自分らの利を追求するコズプロ自慢の策謀家。
だがそれはEden、ひいてはコズプロにのみ向けられる彼の一面であって。茜はコズプロの外の人間だ。茨という蛇が持つ毒の対象内。そして彼の術策が抱く攻撃性を、ジュンはこの一年でよく理解している。
茨のことは信じている。だがもし、その牙が茜に襲いかかるようなことがあれば、自分が間に入らなければ。
(つっても、こんだけ何も聞こえないんじゃ間に入るも何も……)
「ジュンくん? そんなところで何してるの?」
「わっ! お、おひいさん」
ここ最近、彼に驚かされることが多いなと思いつつ、ジュンは扉から耳を離し振り返った。不可解な面持ちで腰に手を当てる日和、そして相変わらず感情の読みにくい凪砂と目が合う。日和は焦るジュンと“会議室”と書かれたプレートを交互に見て、その顔つきをさらに険しくさせた。
「ジュンくん! きみがこんな卑しい真似をするような子だとは思わなかったね! ぼくの荷物持ちを断っておきながら――むぐっ!?」
「おひいさん! 声がでけぇっすから!」
ジュンに手のひらで口を押さえられ、日和は仰天すると共にその骨ばった手をバンバンと力強く叩いた。咄嗟の行動だったようですぐに離れたジュンがすみませんと小さく謝る。
日和にとって、いくら反射的とはいえジュンが自分に対し手荒な真似に出るのは少し予想外だった。前例がないわけではないが、玲明できっちりと上下関係を叩き込まれたせいか彼から手が出てくることは滅多にない。蝶よ花よと扱えと再三口にしていた日和には特に。おそらく、ジュン本人も平静を装っているがその実、脳内は混乱の真っ只中なのだろう。他人のそういう部分に鋭い日和はすぐに察した。
「……もしかして、茜ちゃんが中にいるの?」
「……はい。茨と二人で話してて」
日和がすばりと述べると、ジュンは分かりやすく肩を揺らした。対して、凪砂はあまり状況を理解できていない様子で小首を傾げる。
「……茜? それって、茨が前に言っていた来栖茜さんのこと? 昔玲明でアイドルをしていたっていう」
「茨が? そうだっけ? まあそれはともかく、その茜ちゃんで間違いないね」
茜の話は凪砂の耳にも届いていた。というより、凪砂の耳に届けたのが茨本人だ。
だが凪砂が知っているのはあくまで大衆に知られている表面上の情報のみだ。元玲明学園でコズプロ所属だった、女性アイドル界の期待のエース。そして学園でのライブ中にステージから転落し、引退を余儀なくされた悲劇のアイドル。それ以上は凪砂の興味にすら引っかからなかった。
けれど、あの茨がわざわざコズプロに連れ戻してまで二人で話し合っているというのは、凪砂にとっても小石を踏んでしまったような違和感がある。人払いをしてまで他人に聞かれたくないような話を、これまで散々放置していた元アイドルにいきなりするだろうか。
「……少し、気になるな。茨と茜さんの接点はあまりないように思えるけど」
「ジュンくんがここにいるってことは、たぶんジュンくん絡みだとは思うけどね。うちのジュンに手を出すな〜みたいなことだったりして」
「そんな親みたいな……」
「もしかして、ジュンは彼女と知り合い?」
「まあ、茜が玲明にいた頃に少し」
「結構仲が良かったんだよね。まあ、ぼくと凪砂くんほどではないけど」
「なんでそこ念押すんすか」
Eveの二人の会話をよそに凪砂は少し考えて、ふと扉の前まで足を進めた。ぺたぺたと指先でドアに触れ、そして何を思ったのかジュンと同様にそっと耳を寄せる。
「ナ、ナギ先輩!?」
「少し気になることがあって。私、耳がいいから多少は聞こえると思う」
そう言って、凪砂は聴覚を研ぎ澄ませるため瞼をおろしてしまった。ジュンと日和は唖然としたまま顔を見合わせ、唐突に聞き耳を立て始めた凪砂に何も声をかけられずにいる。
ジュンは葛藤の中にあった。Edenのリーダーに、尊敬する先輩に、盗み聞きなんて真似をさせてしまってもいいのだろうか。だが彼の耳がジュンよりも優れているというのは紛れもない事実だ。おそらくジュン一人だけでは扉の前でうんうん唸るばかりで何の収穫も得られないだろう。
「………………やっぱナギ先輩だけにさせられません! オレもやってやりますよぉ……!」
「ジュンくん!? ……もう! ぼくだけ仲間はずれなんてずるいね! 悪い日和……!」
凪砂に続き、Eveの二人もまた扉の前に並んだ。高潔が売りのEdenが禁断の果実に手をつけるアダムとイヴ、もとい蜜に誘われた夏のカブトムシのようにべったりとドアに張り付く様子は珍妙さを極める。
だがしかし、普段ならばそれを諌める役目が生憎と今はそのドアの向こう側にいるので、周囲の反応と言えば退勤途中のスタッフが三度見をしながら去っていくのみだった。
「――つまるところ、スカウトだと思ってくださって構いません。来栖氏がスタッフとしてコズプロで働く代わりに、貴方の衣食住を全てコズプロ側で負担します」
ぺらぺらと言いたいことだけを一方的に語った茨は、笑顔の仮面を絶やさずに茜の返事を待った。テーブルを挟み向かい合って座る両者の間に沈黙が流れる。座り心地の良いデスクチェアで堂々と足を組み、茜は彼の意図を探った。
彼の持ちかけてきた提案は先の言葉がほぼ全てだった。茜を所属アイドルではなく裏方のスタッフとして迎え入れ、代わりに茜の生活を支援する。未成年である茜の代わりに住居やライフラインの確保を保障し、学生の間はアルバイトとして、卒業後は他のスタッフと同様に正規の雇用契約を結ぶ。
一見すると、茜の現時点での最大の問題となる“基本的な生活の確保”を全てクリアできる好条件だ。けれど、だからといってすぐに飛びつくにはあまりに胡散臭さが拭えない。
「なんか遊女の前借金みたいだな……」
「前借金とは人聞きの悪い。こちらはあくまで正当な賃金としての支援です。よく卒業後に提携企業で働くことと引き換えに学費を無償化する大学があるでしょう。あれと似たようなものだと思っていただければ」
茜は悩む振りをして机に視線を落とし、ちらりと茨の表情を伺う。変わらず、彼はおそらく接待用であろう笑顔を続けていた。
「……二つ、質問があるんだけど」
「ええ、なんでしょう」
「一つは、私みたいな一度捨てた爆弾をもう一度抱えるメリットがコズプロ側に見られないこと。もう一つは、なんで今なのかってこと」
この提案を持ちかける時期はいつでもよかったはずだ。それこそ、茜をアイドルの舞台から下ろす交渉材料としても使える。
しかしコズプロはそれを無視した。そして一年も茜を放置したのち、今さら思い出したように呼び戻す理由が分からない。
「順番にお答えしましょう。まず一つ目ですが、もちろんメリットはあります。アイドル業界は相変わらず男性が主流ですが、決して女性アイドルと関わる機会がないわけではない上、おそらくそうした場は今後増えていくと予想されます。が、現状両者の溝は開く一方です。そうした時に、元女性アイドルとして栄華を極めた貴方がこちら側にいてくださるだけで、あらゆる衝突を回避できます」
端的に言えば牽制だ。あの来栖茜が未だコズプロにいるという情報だけで他の弱小事務所は下手に手出しをすることができない。牽制と言えばまだ綺麗な聞こえ方だが、あえて汚い表現をすれば、家の出入口に害虫の死骸を置くようなものだった。それだけで同じ種の虫はその家を危険なエリアだと判断し、侵入をやめる。一種の晒し首とも表現できた。
「そして二つ目ですが、準備が整ったから、と言う他ありませんね。二年前に貴方と対立していたコズプロの経営陣は、昨年度のSSの不祥事でほぼ全員コズプロを去っています。自分が副所長に就任して人事に口を出せる立場になったのがつい最近のこととはいえ、所属アイドルだった貴方に今の今までなんのアフターフォローもできなかったというのは不徳の致すところです」
そう言って茨は申し訳なさそうに眉を下げたが、おそらくこれも接待用だろう。
のらりくらりと障りのない言葉を並べて相手のコントロールを図るやり方に茜は覚えがある。中学の頃、遺産相続の話をしにやってきた彼らと院長にそっくりだった。
「……政治的な牽制に使うには私じゃ箔が足りないと思うけどね。私のアイドルとしての活動期間は実質一年にも満たないわけだし」
「ご謙遜を。貴方が活動された時期の女子部の活動実績数が前年度を大きく上回っているというのは、数字で見ても明らかですよ」
「その仕事の量を調節してたのは全部コズプロ側でしょ。どのアイドルにどれだけ仕事を振るかはそっち側でコントロールできる。所属アイドルの心身の保護を名目にね。……そういえば、一時期おかしいくらい仕事が舞い込んだことがあったっけ。もしかして、気に入らないアイドルにわざと仕事を振って潰すことも可能だったりするの?」
「さて。自分、所属アイドルのプロデュースにはあまり口を出せる立場ではなかったもので。生憎そのあたりのクレームは直接貴方のマネージャーに言っていただくしかありませんねぇ。取り次ぎましょうか?」
「へぇ。人事に関われずプロデュースもできない。なのにいきなり副所長なんて、コズプロのトップ張ってるだけあってEdenはとんだ治外法権みたい」
「自分が副所長の椅子に座っているのは単にそういう運だったというだけですよ。Edenの業績については、主に閣下と殿下のご活躍の賜物ですが。ああ、あと貴方がご執心のジュンも。いやぁ、まさかあの来栖氏とジュンに面識があったとは、自分もまだまだ勉強不足でありますな! ぜひ経緯などをお聞きしても?」
「さあ、なんだったかな。仕事で男子部に行った時に偶然足元に転がってきただけだったかも」
「ふふふ、それはそれは」
「ははは」
両者の間に一杯の水を置いたとしたら、即座にコップごと凍てつくことだろう。冷戦の勝敗は着地点を見失い、押すも引くもできない状況が続いている。出入り口を隔てた向こう側で今まさにジュンらが聞き耳を立てていることも知らずに。
これ以上相手の出方を伺っていてもキリがない。そう判断した茜は、はっきりと主張を口にした。
「取引の答えはノー。どんなに手を尽くしても、私がコズプロ嫌いなのは変わらないし。むしろその程度の安い煽てでいい気になられたと思われちゃ癪なんだけど」
「……なるほど。まあ、そう言われるのも想定内でしたが」
すると、茨はそれまで続けていた作り笑いを突然消した。話す内容に一瞬の迷いを見せながらも、眼鏡の奥で茜と同じ甘色の双眸が光る。
「……ゴッドファーザーという名に、聞き覚えは?」
「……………………」
「あるはずですよ。中学の頃、多額の遺産相続を放棄した貴方には」
瞬間、茜はキッと眉を寄せて茨を見た。彼はなおも涼しい顔で、二人の視線が正面でぶつかり合う。
「かつて、たった一人でアイドル業界の全てを築いたドン、ゴッドファーザー。その死後には多額の遺産が残され、子孫らに分配されました。つまり、貴方がかの傑物の血を引いているということは論を俟たないわけです」
「……それで?」
「自分も同じです。中学の頃、貴方と同じように遺産相続の話を受け、実際に遺産の一部と会社をいくつか相続しました」
「! ああ、あれを。たしか、裏にかなりの借金も隠されてたって聞いたけど」
「ええ。おかげで苦労しましたよ。まあ、それらは無事精算しきれたので今こうしてこの場にいるんですが」
目の前の男が
「で? まさか親戚のよしみで言う事を聞け〜とか言わないよね。お祖父ちゃんだか曾お祖父ちゃんだか知らない奴が同じだったからって、ほぼほぼ無関係でしょ。特に私は相続放棄した時点で縁なんて切れてるんだから」
「…………祖父が同じ、程度ならまだ良かったんですけどね」
そう言うと、茨は手元のタブレットをすいすいと動かし始めた。プライベート用にパスワードをかけたフォルダを開き、この一年間で一度も開くことのなかったデータを表示させ、茜に差し出す。
「貴方のことは二年前に調べさせていただきました。それから失礼を承知の上で、過去にDNA鑑定の依頼も出しています。その結果が、こちらです」
数枚の書類が繋がったデータをスクロールする。
その最後の欄に、たった二行で記されていた言葉。
『DNA鑑定結果報告書』
『異母姉と思われる来栖茜さんは七種茨さんの生物学的なきょうだいとして排除されません』
「自分と貴方は、父親が同じなんですよ。もっともその父親が不在の中で行われた鑑定なので、法的なきょうだい関係が認められるものではありませんが」
「――――――――――」
ぐわん、と頭を強く揺さぶられたような気がした。
半ば奪うように茨からタブレットを受け取り、茜は電子データの上から下までくまなく目を走らせた。ばちばちと絶え間なく瞳を瞬かせながら、書類の一字一句見逃さず全ての文字を読み込む。
けれど、最後の二行が変わることはない。書類に記された日付も、データが作成された日付も一致している。どれだけ調べても改ざんされた痕跡はなかった。
異母姉弟。彼が、茜の腹違いの弟。
「ほん、とうに……? あなたが……?」
「どういう因果か、そのようですね。なのでこの際はっきり言います――できるだけ速やかに、表の世界から姿を消していただけませんか」
茨の針のような言葉は、茜の背筋に霜を下ろすのに十分だった。あくまで冷静に、一切の情というものを切り捨てた声色で話を続ける。
「何分、敵の多い身でして。GFの子孫とコズプロの副所長という立場が重なると多方面から恨みを買いまくまるんですよ。自分にはこれまで縁がありませんでしたが、例えばこれから先、親類縁者を盾に脅されるようなことも考えられます。貴方が血縁者であることは調べればすぐにわかることですし、なるべく目立たず、ひっそりと暮らしていてくれると助かるんですよ」
事実、GFが秘密裏に囲っていた乱凪砂がAdamやEdenとして本格的に表に出始めてから業界の裏側が騒がしくなったのは否めない。アイドル業界はいつの時代も底辺は底なし沼の世界だ。
茜は確かにアイドルをやめた。だがその足首には、未だにアイドル業界と繋がる鎖が残っている。もしもその鎖を、裏からひっそりと掴む者がいたとして。血縁という、茨にとっては理不尽極まりない糸で自分まで引っ張られてはたまらない。
茜はアイドル業界の構造をよく理解している。だから、茨の言いたいこともきっちり理解できていた。
「………………………………ようは、その辺でフラフラしてる私が邪魔になったから、自分達の管理下に置きたいってことでしょ」
生かさず殺さず、コズプロの手の届く範囲に置いて徐々にフェードアウトしていってもらう。この取引の狙いはそれだった。
七種茨という男にとって、茜は何の存在価値もない。司法のない世界であれば物理的に心臓を止めるのが最も手っ取り早いと思える程度の存在だ。すとんと胸に落ちた事実に、茜の目頭が熱を帯びる。
「私、クソみたいな児童養護施設に拾われたんだよ。何やるにも雁字搦めの監視社会で、自由なんてほんの僅かしかなかった」
「ええ、存しています」
「そこを死に物狂いで出て、アイドルやって、やっとのことでアイドルからも玲明からも抜け出して。今度こそ真っ当に、普通の高校生ができると思ったんだよ」
それすらもできていなかっただろう、とは茨は言わなかった。事実がどうであれ、彼女が一般人を目指していたのは本当の事だ。
バンッ、と机を叩き、茜が立ち上がる。反動でデスクチェアが床を滑り、背後の壁に勢いよくぶつかった。
「ふざけんな! あんたの勝手な都合に、私の人生縛る権利なんてないッ!」
そう叫んだ茜の金切り声は、悲鳴にも、泣き声にもよく似ていた。
「…………そう。彼女も、父の」
扉から耳を離した凪砂は僅かに目を丸くし、まるで見透かすようにドアを見つめていた。けれどそれも束の間、「日和くん、ジュン、離れて」と唐突に二人の腕を掴み、数歩後ろに下がらせる。
凪砂の突飛な行動に驚く間もなく、日和とジュンが場所を空けた直後に扉は吹き飛びそうなほどの勢いで開いた。中から出てきたのは茜だ。
ジュンは彼女の顔を見ることも声をかけることもできなかった。そうする前に彼女は急ぎ足でバタバタと事務所の廊下を歩き、エレベーターへと消える。
まるで居ないもののように無視をされた三人の視線がどこへ向かったかは語るまでもない。
「……茨」
「あ〜はいはい、話ならあとでいくらでも。それよりジュン、追いかけなくてもいいんですか」
「どの口で……って言いたいところだけど。茨の尋問はぼくたちでやっておくから、ジュンくんは安心して行ってくるといいね」
「……そう、っすね。二人で何話してたのかは知らねぇっすけど、あとできっちり聞かせてもらいますからねぇ〜?」
続けてジュンも駆け足で立ち去り、彼の背中が完全にエレベーターの中に消えると、さて、と日和が会議室に踏み込む。いつも陽気に細めている菫の瞳がほのかに怒りに濡れているのを見て、茨は己の選択を間違えたかもしれないと溜息をついた。