指差しのよすが

サンクチュアリは流転より

32

 茜がエレベーターで下の階層に向かったところまでは見た。コズプロの事務所があるのは十八階で、それよりも下の階層で彼女が一人になれそうな場所は空中庭園か一階のロビーだ。だがESビルに初めて来た彼女が空中庭園のことを知っている可能性は低いので、ジュンはまず一階から探してみることにした。

 ふと腕時計を見ると、一般社員の定時はとっくに過ぎていた。静まり返ったロビーにはジュン以外には数人ほどしか見られず、彼らもこれから家へと帰る頃合いなのだろう。だがその中に茜の姿はなく、だとすればとジュンはホールを突っ切ってエントランスから外に出た。

 予想通り、彼女はそこにいた。花壇横の階段の端に座り、微動だにせず夜空を眺めている。


「……最近は暖かくなってきましたけど、まだ夜は寒いでしょう。風邪引きますよ」
「……うん。寒いね。でも冬ほどじゃないよ」


 夜風に当たったことでだいぶ落ち着きを取り戻したのだろう。茜の声色からは会議室を飛び出していった時の興奮は消えていた。

 ジュンが無言で茜の隣に腰を下ろしても、彼女の視線はなおも暗色の帳に向けられていた。つられてジュンも空を見上げるが、月も星も半分以上が雲に隠れており世辞にも星空鑑賞に適した夜とは言えない。


「……茨と、何話してたんすか?」


 二人の視線が交わることのないまま、ジュンが尋ねた。茜はしばらく黙っていたが、小さく口を動かして言葉を紡ぎ始める。


「…………コズプロで働かないかって。代わりに、私の衣食住をコズプロで面倒見てくれるみたい」
「え……」


 一瞬、いいことじゃないかとジュンは思った。だが直後に茜とコズプロの因縁にも似た関係を思い出し、喜びかけた口を閉じる。


「あんたは、なんて答えたんすか?」
「……保留中。答える前に出てきちゃった」


 茜が視線を下ろし、膝を抱える。その横顔を見る限り、おそらくその話を巡って茨と一悶着があったのだろう。ジュンにはほとんど聞こえていなかったが、最後の方で叫び声のようなものがしていたのは覚えている。茜が部屋を飛び出してきたのはそのすぐ後のことだ。

 どう言葉をかけるべきか、ジュンは迷っていた。良かったですねなんて言えない。だけどそれが彼女に差し伸べられた救いの手であるのもまた事実で、軽々しく蹴っちゃいましょうよとも言えなかった。

 ジュンが悩んでいるうちに、先に茜が口を開く。


「……私とあの七種って奴、姉弟なんだって」
「――――――は?」


 ぽかんと間抜けな顔を晒したジュンに、茜は「そりゃそうなるよね」と苦く笑った。

 茨の生い立ちをジュンは以前聞いたことがある。確か幼少期は施設で育ち、その後は民間軍事会社に引き取られたとか。両親がおらず施設に拾われたという点で茜と共通しており、その二人の親が同じだったとしても話に矛盾はない。とはいえ二人揃ってアイドル業界に足を踏み入れ、おまけにジュンの身近にいたなど奇跡的な確率だが。

 脳内で茨の顔を思い浮かべ、茜のかんばせと並べる。


「…………あ、あぁ〜、確か、に……? 似てるんじゃないっすかねぇ……? …………か、髪質とか」
「無理して似てるとこ捻り出さなくてもいいよ。異母姉弟だから共通遺伝子四分の一しかないし」
「異母姉弟……」


 だとすればあまり顔が似ていないのも納得がいく。男女の顔つきの違いというせいもあるかもしれないが、本人から言われてもなお彼女らが姉弟ということをジュンはいまいち信じきれなかった。茜を疑っているわけではないが、何かしらのドッキリ企画に巻き込まれているのではと思う気持ちもある。それも職業病だと指摘されれば否定はできないのだが。


「……私の育った施設、結構ひどいところでね。たぶん児童養護施設の中でも特に劣悪な方だったんじゃないかな。そこの院長は性格クソ。職員は院長の言いなりだから職員もクソ。腐りきった大人たちが蛆みたいにわらわらいた」
「………………」
「だから、利用できるものは何でも利用してやるって思った。アイドルやってたのだってその手段のうちのひとつ。……そのアイドルの居場所も、プライドと一緒に捨てたんだけど」
「茜、」
「だから、家族なんていらないってずっと思ってたのに」


 彼女の顔が苦虫を噛み潰したようにくしゃりと歪む。膝を抱える手に力がこもるのを見た。


「なのに私、自分に弟がいるって分かった瞬間、ちょっと安心した……!」


 ずっと一人なんだと思っていた。この彩色溢れるグラデーションの世界で、モノクロは自分ただ一人のみ。どこへ行こうと誰と混ざろうと色無しは必ず弾かれる。ジュンという美しい輝きを見つけたとしても、白が青に変われるわけではなかった。

 だから自分と同じ色無しがいると知り、心底ほっとした。歩んだ道のりは違うけれど、きっと彼なら自分を弾くことはないと、淡い期待を寄せてしまった。


「けど、その家族に否定された瞬間、一丁前に傷ついてる自分もいる! 馬っ鹿みたい! こんなの……こんなの、あいつらと一緒じゃん……!」


 救ってくれる。理解してくれる。この人ならきっと大丈夫と、あの玲明にいた女子生徒たちは皆茜にそう希望を託した。そして茜が沈んだ後で、裏切り者と罵ったのだ。茜にしてみれば冗談ではない。勝手に期待をして勝手に裏切られたと喚くなど迷惑千万だ。

 だけど茜が七種茨にしたのは、それと同じことだ。弟だから。家族だから。彼も相当な苦労をしてきただろう。だから自分の気持ちを理解して、これからはそれなりに仲良くやっていけるだろう。まるで、きょうだいみたいに。そんな自分勝手な理想を押し付けられることがどれほど難儀なことか、茜は身をもって実感していたにも関わらず。一瞬でも、夢を見たのだ。


「っ、拒否って、どういうことっすか。あんた、茨に何言われたんです!?」


 見過ごせない単語が混ざっていたことにジュンは即座に反応した。懸念していたことが現実に起こってしまったかもしれない。心臓がばくばくとうるさかった。

 思わずジュンが茜の肩を掴むと、彼女は瞳を揺らしながらぽつりぽつりと語る。


「あの七種って奴がゴッドファーザーの血を引いてるのは知ってる?」
「……知って、ます。そういえば、あんたも……」
「そう、私も子孫の一人。相続放棄してるから法的にどうなってるかは分からないんだけどね。……で、子孫に限らずGFの周辺人物っていうのはアイドル業界の内外問わずちょっと後暗い人達に睨まれやすいの。それに私は、あの七種の血縁者でしょ。つまり格好の餌食ってわけ」


 血とは呪いだ。少なくともジュンはそう思っている。人が空どころか宇宙を飛び、個人として全世界と繋がれる時代になってもなお、血と姓はその個人に簡単にレッテルを貼る。負け犬の子として実力なんてまともに見られることもなく非特待生に落とされたジュンは、かつて何度も己の血を憎んだ。父親の血と名前が、自分の全てではないはずなのに。


(……そっか)


 そこでふと、ジュンは気づいた。


(この人は、どこまでもオレと真逆なんだ)


 ジュンはGFのことなど噂程度にしか知らない。茜と茨の祖父だか曽祖父あたりの親戚で、凪砂の育ての父親で、自分が生まれるうんと前にアイドル業界に君臨していたすごい人。その王者にも似た人の血筋とは、一体どんなレッテルだろうか。

 ただなんとなくわかる。おそらく茜はこれから先も、いろいろな人から求められ続けるのだろう。GFの呪いを求める人々に。過去の彼女に縋る者らに。それは茨の警戒する人かもしれないし、茨ですら予期できないような未知の相手かもしれない。それらから茜を隠すとなると、それはもはや鳥籠に入れるようなものだ。


(……ん? だとしたら、茨って……)


 一瞬、彼の思考の切れ端を掴みかけたような気がしたが、隣の茜がばっと立ち上がったことでそのまま流れていってしまった。驚いてジュンが瞬いていると、彼女は二、三段ほど階段を降りてジュンの正面に回る。


「……なんかもう、全部どうでもよくなっちゃった。どっちに転んでも前途多難だし、この世はどこもかしこも敵だらけってね。……だったらもう、最後は神様に聞くしかないでしょ」


 月光が諦観に染まった茜の目を照らす。

 彼女が取り出したのは一枚の硬貨だった。特別なところは何もない、誰の財布にも入っているようなそれだ。


「コイントスして、表が出たら取引に応じる。裏が出たら白紙。Amen――いや、この場合はGODDAMNかな。どっちが出ても、神様のば〜か! って笑ってやるよ」
「待っ――」


 かつて巽が教えたジュンの口癖を使って、茜は薄く笑った。ジュンが止めるよりも早く、茜は硬貨を親指に乗せてピンと上に弾く。

 硬貨はジュンが思っていたよりも高く跳んだ。限界まで高く上がった時、月と重なってジュンの視界にハレーションを起こしかける。くるくると宙で自転するコインを見上げ、ジュンはその顔に焦りを滲ませた。

 どこまでも自由な彼女が好きだった。誰よりも幸せになってほしい人だった。

 だけど茨が茜に持ちかけた提案は、茜をコズプロという鳥籠に入れるものだ。それは、彼女からあらゆる未来と可能性を奪う。自殺紛いの行いをしてまで逃げたかった場所に、また縛り付けてしまう。

 ならばどうなるべきかは自明だ。裏が出てしまえばいい。


(でも、また茜に飛んでいかれるのか?)


 ジュン一人を残して。

 もしも、このコインが裏を出せば、茜はすぐにでもここを去るだろう。行き先も告げず、連絡にも応じず、今度こそジュンがどれだけ手を尽くしても届かない場所へふらりと消えてしまうかもしれない。まるで来栖茜など最初からいなかったように。ジュンのことなど振り返りもしないで、遠くへ、どこか遠くへと。


(――いやだ)


 吐きたくなるような雨と地下のにおい。扉の向こうへ消える彼女の後ろ姿。劇薬のような、指差しのファンサービス。

 ここは閑静な夜のESのなずなのに、まるでライブ会場のように耳鳴りがハウリングして聞こえた。ばくばくと動悸に急かされた呼吸が速くなる。

 硬貨はくるくると回転しながら高度を下げ、茜が構えた手のひらへと落下をしていく。彼女がキャッチするまで、もう数秒もない。あとほんの少しで、ジュンの意思に関係なく彼女の未来は変わってしまう。

 そう思ったら、ジュンの体は勝手に動いていた。


「!? ジュン……!?」


 気づいた時には、自由落下していたはずの硬貨はジュンの手の中にあった。落下途中のコインを突然奪い取られ、茜は一瞬何が起こったのか理解できずに目を丸くしてジュンを見上げる。


「………………………………茜」


 ジュンは硬貨を握る手をぎゅうと固く閉じたまま開かない。表も裏も不明な状態で、ジュンは金色の瞳を細める。

 言ってはいけない。そう頭では理解している。なぜなら、それは取り返しのつかないことだからだ。

 言うな。言うな。言うな。


「――コズプロに、来てくれませんか。オレと一緒に」


 茜はきょとんと瞬いたあと、困ったように眉を下げた。


「……ジュンに言われちゃ、断れないなぁ」


 その瞬間、まるで水の中に沈められたようにジュンの全身からさっと血の気が引いた。

 オレ、最低だ。
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