サンクチュアリは流転より
33
以来、漣ジュンは悩んでいた。「わあ、見て見てジュン! このソファ、フットレストが電動で動くんだって! 向こうのはL字にもなってる!」
「――だから、ソファなら昨日注文して二週間後に届く予定になってるんですって!」
大型ショッピングモール内に広く構えられた家具屋で目を輝かせる少女が一人。その数歩後ろを、右手に会計済みの荷物、左手に五、六枚の商品カードを持つ少年が追いかけている。すれ違う親子連れや老夫婦がくすくすと微笑んでいく様子に遭遇した回数は既に片手の指を超えていた。新婚とも主従とも見える彼女らの光景は、家具屋の各エリアをあれがいいこれがいいと吟味しながら巡り続けてもうじき二時間が経過しようとしている。
茜が茨の提案に乗ったその翌日には、驚くことに茨はほぼ八割の準備を終えてしまった。以前からジュンと並行して動いていたせいもあるが、茜の雇用契約から賃貸の確保まで、まさに流れるような手際の速さだった。聞けば茨が茜の住居として用意したマンションの一室は元々彼が所持していた不動産のひとつだそうで、特にその辺りの融通が効きやすいらしい。さすがに電気や水道などの生活インフラまでは一日や二日で整えられないので、あと一週間ほどはホテル泊まりを余儀なくされるが。
その実質的な入居日に向けて、現在茜は家具類を始めとした生活用品の買い出しの真っ最中だ。それにジュンは昨日から連日で付き合い続けていた。
すると、粗方ソファエリアを見終わりベッドエリアに足を踏み入れた茜があっと声をあげる。
「あのベッドでか〜! クイーン? クイーンサイズじゃない? 私人生で一度はクイーンベッドで寝てみたいんだよね」
「あんたの部屋の間取りでクイーンサイズなんて買おうもんなら折角の1LDKがただの1DKになっちまいますよ……」
肩を落とすジュンとは反対に、茜は単身者には過剰な大きさの寝具を興味津々と眺めている。
こうした彼女の行動は今に始まったことではない。やれ大画面のテレビモニターが欲しい、やれ天井まで届くシェルフが欲しいなど、これから一人暮らしを始めるにしてはやや現実味の薄い理想ばかりを昨日から語っていた。
この手の自由奔放さにはジュンは覚えがある。日和だ。あのお気楽貴公子の我儘に通ずるものがある。案外日和と茜は気が合うのかもしれない、とぽすんと展示品のベッドに腰かける茜を見てぼんやり考えた。
(……そういや、茜は完全に一人の生活はこれが初めてなんだ)
思考を裏付けるように過去の記憶がじわじわと蘇ってくる。彼女は施設では大部屋暮らしだったと聞いた。常に同年代の子供に囲まれプライバシーは度外視。玲明に入っても特待生の部屋には非特待生が頻繁に出入りする生活が待っている。夢ノ咲に行ってからの住居にはあえて触れないが、おおよその察しはついた。
ならば彼女の浮き足立った様子も納得だ。まるで初めて自分の部屋を貰った子供のように無邪気で、可愛くすら感じる。思えば自分も、崩壊気味の家庭から離れ玲明寮に入れると分かった時は少なからず胸のつかえが下りたものだ。当時のジュンはその感情を素直に受け入れることができないまま、非特待生という洗礼を受けて萎んでしまったのだが。
けれど、軌道修正は必要だ。あのまま全てのショッピングを茜一人の自由にさせていては、あっという間に予算を超え茨に余計な借金を作りかねない。
(それは絶対ぇだめなやつだ……オレが何とかしねえと……!)
茨の考えなどジュンには半分も理解できていないが、策謀家を名乗る彼のことだ。茜に対しての貸しは作れるだけ作っておきたいだろう。悪どい笑顔が目に浮かぶようだった。
(……茨と言えば、結局茨が色々動いてたのって茜と姉弟だったからってことなんすよねぇ)
あの後改めて茨から聞いたが、茜がジュンに語ったこと以上の情報はなかった。だが本人が何と言おうと、彼が茜のために生活の基盤を整えるべく奔走している事実は変わらない。
そこでふと、ジュンはあることに気づいた。
(……もしかしてオレ、結局茨にケツ拭かれただけで終わってねぇか?)
もしも茨が来てくれていなければ、自分はどうしていただろうか。悩める人間が一人から二人に増えていただけだ。過去に転校した人間、まして異性である彼女を寮に匿う訳にもいかない。いずれにせよ、茜と同じ壁にぶつかるだけだった。その壁をあっさりを打ち壊したのは、自分ではなく茨だ。悶着はあれど最終的に茜を救ったのは茨なのだ。
(……何がだせぇって思ってただよ。…………だせぇのは、オレだ)
どうにか彼女を引き止めたくて口から滑り落ちてしまった言葉を今からでも拾ってゴミ箱に押し込んでやりたい。それか自分が穴に埋まってやりたい。
考えてはいけないと頭では分かっている。だが足元からじわじわと蛆が這い上るような不快感と共に、ジュンの思考は暗い方へと傾いていく。自分がしていたことは無駄だったのではないか。たとえジュンが何もしなくとも、全て茨に任せていれば勝手に解決していたのではないか。
だとしたら。
『――コズプロに、来てくれませんか。オレと一緒に』
あれはいよいよ何の薬にもならない、ジュン一人が悦に入るだけの呪いの言葉でしかなかった。だが吐いた唾は呑めず、今さらどれだけ悔やんだところで後戻りはできない。
自分が彼女を檻に繋いだのだ。きっとこの先、一生忘れることはないだろう。
「……ジュン? ジュ〜ン〜? どしたの黙って」
現実に引き戻されたジュンの目の前で茜が彼の顔を覗き込む。茨と同じ瑠璃色を眺め、やはり姉弟なんだと頭の片隅で実感した。
だが雰囲気までは似ないのか、茜は閃いたようにぱっと陽気に笑った。
「あ、もしかしてジュンも気になってる? クイーンサイズ」
「いや、オレは別に……」
否定しようとして、ジュンは早々に言葉を切った。仮に詮索された場合、上手く誤魔化しきれる自信がない。かえって彼女に余計な心配をかけてしまう可能性の方が高かった。
「……まあ、気にならないこともないっすねぇ。シングル以外で寝たことありませんし」
「じゃあジュンも試してみなよ! ほら、荷物私が持つからさ」
「え」
茜にずいと背中を押され、ジュンは彼女が堪能していたマットレスの前に歩みを進める。ジュンが持っていた紙袋と商品カードも奪い取った彼女は有無を言わさない満面の笑みで微笑んでいた。
持つも何も、それらは全て茜の荷物だという言葉はジュンの口からは出てこなかった。代わりに軽く肩を竦め、仕方なしに言われた通り展示のベッドに横になる。彼女が寝ていた時の体温が微かに残っていた。
「どう?」
「……………………」
どうと聞かれても、普通のベッドだ。腕を真横に広げても手が外に放り出されないだけで、寝心地自体は寮の二段ベットと変わらない。そもそも満足な睡眠が取れるのならマットレスでも敷布団でも気にしない質だった。どこかの誰かのように枕が変わるだけで寝られないと喚くほど繊細でもないので、寝具の善し悪しなど初めから分かるはずもない。
だが、期待に満ちた様子でジュンを覗き込むその目が、どうにも落ち着かなかった。ダウンライトを逆光に瞬く視線がジュンの顔面にぐさぐさと刺さる。
ただ、決して不快ではない。
「……結構いい、かも………………」
「でしょ? ね? ね?」
ジュンがそう呟くと、茜は分かりやすく喜んだ。おそらくなんだかんだと理由をつけてこのまま購入に持ち込みたいのだろう。「そんなに欲しいのならもう買ってもよいのでは?」という思いすら湧いてくる。
しかし、ジュンには心を鬼にする必要があった。後で決済額と間取りを見比べて彼女が後悔しないように。これは彼女のための行いなのだとしつこく自分に言い聞かせた。
「でも買うのはだめです」
「え〜」
「え〜じゃありませんよぉ、ったくも〜。あんた、一人暮らしだってことほんとに忘れちまってんじゃないですよねぇ〜? そんなにでけぇベッドで寝たいならせめてセミダブルくらいにしときましょうよ」
ジュンの説得にも、茜はなかなか首を縦に振らなかった。今回はやけに粘るなと思いつつ、ジュンはベッドから上体を起こす。
「セミダブルじゃちょっと狭いし……」
「一人なら十分でしょうよ。オレでもちょっとスペース余りますよ」
すると、茜が途端に目を逸らして言う。
「…………………………泊まった時、とか」
「は? 誰が?」
自分で思っているよりも強い口調になったことにジュンは気づかなかった。考えるよりも先に口から飛び出た言葉は棘だらけで、それを真正面から浴びた茜の表情が瞬時に凍る。
両者沈黙。落ち着いた店内BGMのみが流れる。
けれど数秒と経たず、茜はじゅわりと熟れた苺のように真っ赤な顔をぐるんと背け、ジュンを置いてずかずかと歩き出した。
「ば〜か! ジュンのば〜〜〜か!!」
「はぁ〜〜!? ちょ、何なんすか、茜〜〜〜!?」
慌ててベッドから降りて追いかける。ジュンに比べ歩幅の小さい彼女に追いつくことはもちろん容易かったが、その後は商品カードを会計に通すまで口をきいてもらえず、荷物も返ってこなかった。
そして当然のように、これらは茜の荷物なのだからそれで正常などと指摘する人物も誰もいなかった。
Edenとしての活動が増えてから、ジュンを抜いた三名での打ち合わせはめっきり頻度を落としていた。けれどEveもAdamも解散や完全合併の予定はなく、継続している仕事も複数抱えているため日和と凪砂のみが茨の元に集まる機会も少なくはない。
少なくはない、のだが。ESが設立しホールハンズでの連絡が頻繁になった今では、顔を突き合わせる必要は以前に比べだいぶ薄まった。だというのに、二人がわざわざこうして積極的に足を運ぶ時は大抵、仕事以外で話したい事柄がある時だ。
「まあ、ぼくからすればほとんど予想通りの結末だね! ちょ〜っとジュンくんの気持ちが沈んでるように見えなくもないのは、少し気になるところではあるのだけど」
共有スペースのソファに座る日和が満足そうな表情で頷いた。隣には薄く微笑んで日和を見つめる凪砂、正面にはいつものようにノートPCを忙しなく動かす茨がローテーブルを挟んで腰を下ろしている。
今Edenを最も騒がせている話題は、もっぱらユニットメンバーのジュンと来栖茜関係だ。茨の介入により一時は荒れていた茜だったが、新生活準備に奔走している様を傍から眺める限りではどうやら無事落ち着きを取り戻せたらしく、本日も元気に夢ノ咲学院から下校したのちジュンを連れてショッピングに出かけてしまった。その役目は昨年まで日和の十八番のはずだったのだが、当の日和はさして気にするどころかむしろ積極的にジュンを煽っている節があった。
これまで口を閉じていた凪砂はそんな日和から視線を移し、眼鏡にブルーライトを反射させた茨の方を向く。
「……私は少し意外だったかな」
「おやぁ? 自分、閣下にご心配をかけるような手を打ったつもりはないのですが」
「ううん、そこはきちんと理解してるから大丈夫。ただ、茨がすごく優しかったなって」
さらりと淀みなく発せられた凪砂の言葉に、日和も茨も同時に目を見開いた。しかし日和はすぐになるほどねと瞼を下ろすと、妖艶にも見える口元が弧を描く。直後、一足遅れて茨が軽快に笑った。
「あっはっは、ご冗談を。自分は特別誰かに優しくしたつもりも、逆に厳しくしたつもりもありませんよ。適切な相手に適切な対応をしたまでです」
「確かに、茨の言う通り適切ではあると思うよ。彼女もまた父の血縁だから、父を取り巻く人たちの争いの種になる可能性もある。そうなる前にコズプロに取り込んでしまうのは、決して間違いじゃない」
だけど、と凪砂は一度言葉を切った。同時に茨もキーボードを打つ指を止める。
「茨のあれは、言い換えれば“保護”に近いものだった」
澄んだ空気が二人の間に流れた。
来栖茜がコズプロで働く代わりに彼女が独り立ちするまでの生活をコズプロが保障する、というのが茜と茨、そしてコズプロとの契約内容だ。それを、彼女はコズプロへの隷属契約と受け取ったようだが。
だが監獄は時として囚人を守る強固な砦にもなる。裏を返せば、茨は彼女をコズプロに匿うことで有象無象の亡霊らから彼女を守ったのだ。
「彼女一人の力でも関係を断てる程度の、ただの業界人ならいい。だけど父に因縁のある人たちの中には、極端な例だと極道や海外マフィアと呼ばれる人も少なくないから。そういった世界に、彼女には行ってほしくなかったんだよね」
さも自分は全てを知っていると言うように凪砂は述べた。だが茨は否定はしなかった。ぴくりと一瞬眉を動かしただけで、茨は視線をPCの画面に戻す。
「……あのまま平凡な一般人として社会に溶け込んでいくというのなら、自分だって何もしませんでしたよ」
アイドル業界の裏側、そして裏社会を根城とする人物らも、さすがに堅気には手を出せないだろう。そうした陰の事情など露知らず、一人で日常に帰っていくのなら茨も黙って見送った。己と彼女の関係を示す唯一の鑑定結果も削除し、墓場まで持っていく秘密とする気でいた。
アイドルを辞める人間は何人も見てきた。その中でコズプロに残る者もいれば、コズプロを去る人間もいた。彼女も初めは後者だった。茨にとっては烏合の衆の一人でしかない。
けれど七種茨は、茜に対しある種、敬意のような感情を抱いていた。
施設に捨てられ過酷な幼少期を過ごした。アイドルの道を選び灰色の青春を送った。自分と同じ呪われた血を、我が子を簡単に手放すような人間を親に持ちながら、彼女は屍の山を這い上がって軍旗を手にした。例えそれが一瞬のことだったとしても。
だから、彼女が全てを投げ出して逃げる背中を、茨は一度見逃したのだ。あの狂言自殺のようなライブを玲明学園の校舎から眺めた時に。それをもって、彼女への最初で最後の施しにするつもりだった。
そのはず、だった。
「ですが、その彼女が自ら裏社会に踏み込みかけているのなら話は別です。それをジュン経由で知ったというのはさすがに予想外でしたが、まあ経緯がどうであれ結果オーライというやつですよ」
施設に帰らず、何処の馬の骨とも知れない男の家を転々とする不良娘。今は単なる家出少女でも、その先は分からない。ただ一つ明確なのは、あのまま放置していれば間違いなく表社会での居場所を失っていた。そうやって少しずつ、本人の意思とは無関係に裏の世界に足を踏み入れてしまう人間を茨は見たことがある。
そうなる前に塞き止めたかった。茨の考えはそれだけだった。ついでにジュンの不安も解消され不調も治るのであれば、まさに棚から牡丹餅といったところだ。
日和はそう淡々と語る茨に向け、やや眉を曲げながら口を開く。
「でも、きみにしてはやけに動くのが早かったね。そんなに大急ぎで取り掛からないといけないようなことでもなかったと思うけど」
「確かに急いては事を仕損じるとも言いますが、急ぐでしょう、今回のような場合は。彼女にとっては生活がかかっていることですし」
「そりゃあ彼女にとっては一大事だし、一人の人間が苦しい暮らしをしているのなら胸を痛めて当然だけどね。でも毒蛇らしくはないね。経営者としての自分を削ってまで必要なことだった?」
茨が網のように緻密に並べた言葉の隙間を日和は簡単にすり抜けた。その様子では、アイドルの仕事と茜の手続きを両立させるためにここ数日寝不足であることも知っているのだろう。
「…………理由なら既にお話しした通りですが。強いて、他にあげるとすれば……」
茨は観念したように溜息を吐いた。
「メディア向けのインタビューなら社会貢献とか答えるべきなんでしょうけどね。――身内の恥でしょう、あれは」
そう述べた茨に、日和も凪砂も虚をつかれたように押し黙った。しかし何がおかしかったのか、すぐにふっと笑いをこぼす。
「身内……身内か」
あの茨が。おそらく二人の脳にはそう浮かんだことだろう。それについて、無意味に追求する気もないのだが。
「まあ、その辺りをつつく気は微塵も起きないけどね! 茜ちゃんは普通の生活にありつけて、ジュンくんもここ一年くらいの心残りを解決できて万々歳なことだし。毒蛇にしては結構上手くやったんじゃない?」
「おお……殿下にそう仰っていただけるとは汗顔の至り! 尽力の甲斐があったというものですな! 正直、なぜこの件にジュンが深く関わっているのか未だに疑問は残っているのですが」
「えぇ……それ、一番分かりやすい部分だよね!?」
日和は大袈裟とも言えるほど驚愕したのち、満面の笑みで告げた。
「そんなの、二人が愛し合ってるからに決まってるよね! しかも二年前からずっと!」
「……………………………………はぁ、なるほどなるほどジュンが………………」
静かに、茨は貼り付けた笑顔を崩さないままノートPCを閉じた。居るだけでけたたましいとジュンにも揶揄される日和が目の前に座っているとは思えないほどの静寂が流れる。
そしてゆったりと拳を作ったかと思えば、ローテーブルにダン!と音がするほど勢いよく叩きつけ、忌々しく唸った。
「あの野郎………………!」
「茨…………」
それを見た日和は、大層憐れむような目を彼に向けた。
「きみ、本っ当にそういうの鈍いんだね…………」