指差しのよすが

マイナスドライバー1本分の幸福

34

 七種茨を苛立たせるもの。

 例えば売却直後の株価高騰。とりわけ赤字からの損切りをしたのならば逃がした利益分を考えると腹立たしくもなる。けれど資産運用は元来そういったリスクを孕んでいるものであり、長年続けていれば一度の株価変動で一喜一憂するような時期などすでに脱していた。

 他、コズプロ系列内での衝突。SSでの不祥事やリバースライブの件で上層部含め大方自浄はできたものの、全ての不穏因子を完璧に詰み取れたというわけではない。こちらは今後数年かけて適宜対処していく必要がある。

 他、乱凪砂の突発的発掘調査。これは最早何も言うことがない。アイドル活動に支障をきたさず怪我をしないで帰ってくるのであればそれでいい。

 そして最後。これは最近になって新たに追加されたものだ――いわゆる、漣ジュンの惚気話。


「……………………」


 会議室の机に頬杖をつき、ジュンは何やら物思いに耽っていた。アンニュイな視線は手元のカードキーに落とされ、時折何の意味を含んでいるのか分からない笑みをふっとこぼしたりもしている。茨も同じ空間にいるはずだが、それすらも目に入っていない。以前の生気の抜けた彼とは似ても似つかなかった。

 今からあの状態のジュンに話しかけなければならないのは堪らなく気が乗らないが、Edenの活動に必要な打ち合わせなのでやむを得ない。茨は腹を括ると、用意した資料ファイルをなるべく音が鳴るようにバンッとジュンの正面に置いた。


「……お待たせしました、ジュン! 閣下と殿下は移動で十分ほど遅れるそうですから、先に我々だけで目を通しておきましょうか!」
「お疲れさんです、茨。あ、そういや見てくださいよ、このカードキー、」
「あ〜はいはい来栖氏の自宅の合鍵ですよね! 入居の手伝いついでに来栖氏本人から直接貰ったんですよね! それで来栖氏がこの前自分用のを家に入れたまま締め出されたからってジュンが呼び出されたんですよね!」
「お、よく知ってますねぇ。茜から聞きました?」
「ええ、ええ! 聞くの四回目ですからね!」


 答えるのも煩わしいと顔を顰める茨とは反対に、ジュンはそうでしたっけと照れた様子でうなじを掻いた。そのでれでれと鼻の下を伸ばす顔もSNSに晒せば反響があるのだろうが、今はただ茨を苛つかせる要因でしかない。


「一人で浮かれるのはどうぞご勝手に。ですがそのスペアキー、管理者として自分も所持しているのをお忘れなく。あと他人に鍵がどうのと話すのは防犯上かなり危ないので、絶対に外でやらないでくださいね」
「わかってますよぉ。むしろ相手が茨だからこうして話せてるんですって」


 信頼されているのは結構だが、外で話せない分を取り戻すように聞きたくもない惚気話を集中投下されるのは勘弁してほしいところだ。茨がわざとらしく咳払いをすると、ようやくジュンも表情を切り替えカードキーを懐にしまった。

 ぺらりと資料を捲るジュンを見つめ、茨がそっと告げる。


「……上のお二人が来ないうちにこれだけは言っておきますが」
「ん? なんです?」
Edenうちは交際禁止です」
「っ!? な、どう、したんすか。藪から棒に」


 不意をつかれたジュンは目を大きく張って身を硬直させた。じわじわと彼の耳たぶが熱を持つたびに茨の視線は冷たさを増していくようだった。


「時代錯誤と言われたらそれまでですけどね。ああ、別に恋愛感情を持つなってわけじゃありません。思うだけなら個人の自由です。……ただ、交際だけはもうしばらく待っていただきたい。理由なら大体想像つくでしょう」
「………………………………」


 日が暮れ花が萎れるように、ジュンの瞳に影が差す。カードキーを入れたポケットが心做しかずっしりと重くなったような気がした。


「前も言いましたが、アイドル業界においてゴシップネタほど燃えやすいものはありません。ただでさえ、昨今はほんの少しの言葉の綾で大炎上を引き起こす時代ですし。……これは、ジュンとEdenを守るのと同時に、来栖氏を守る意味もあるんですよ」
「……ずりぃっすよぉ、茨。茜の名前出されたら、何も言えねぇじゃねぇっすか」
「ええ。そう思って敢えて出しました。ですが事実でしょう」


 ジュンはES所属のアイドルだ。たとえ物理的・社会的身の危険があっても優先的に守られる。炎上もある程度までは抑え切れる確証がある。

 だが茜は違う。コズプロスタッフの一人という名目である程度匿えても、所属アイドルと同じとまではいかない。過去に顔を名前を世間に出している身ならば、既に大量の個人情報がネットに流されているだろう。ひとたび炎上すればそれらがもう一度白日の下に晒される。そうなった時に、コズプロが一スタッフに過ぎない茜を守り切れるとは断言できなかった。


「ジュンと来栖氏の過去に何があろうと、ジュンが彼女をどう思っていようと詮索する気はありません。個人的には興味すらありません。なので、時期が来るまで交際は待ってください」
「……い、一応聞きますけど、その時期って……?」
「十……いや、十五…………二十年後くらいには」
「思ったより長っげぇ!? そんなに!?」
「はっはっは! 皆さん大変自主性に富んでおられるのでこれくらいじゃないと何の縛りにもなりませんからね! 文句があるなら他のアイドルの方々にどうぞ!」
「ぐっ………………」


 その茨の言葉で真っ先にジュンが思い浮かんだのは、己の相方でもある巴日和の存在だった。この場に到着していないはずの彼が「良い日和!」と高らかに笑う幻聴すら聞こえてくる。確かに彼ならば、茨の作った納得できない規則など些事だと一蹴し堂々と命令違反を重ねるだろう。もっとも彼に関してはつい先日のコンクエストの一件で多少は収まっているのだが。

 そうしたまさに自由奔放なアイドルは別に彼だけではない。茨の招集に来ない・間に合わない・そもそも物理的に来れる距離にいないの三拍子揃った人間がぞろぞろといる中で、茨が大真面目に適切な制限を設けるわけがなかった。その皺寄せを、招集には相応の事情がない限り無遅刻無欠席のジュンが受けているのはなんとも不憫と言わざるを得ない。

 だがジュンが悔しげに眉を寄せたのも僅かな間で、すぐにすっと表情を消した。茨がさすがに厳しくしすぎたかと思うのとほぼ同時に、ジュンは茨と視線を合わせて頬を緩める。


「……でも、安心してください。オレ、茜と付き合おうとかは全然思ってないんで。……あ、いや、一度も考えたことないっつったら嘘にはあるんですけど」
「は?」
「んな凄まないでくださいよぉ。単に…………フェアじゃねぇって話です」


 ジュンが口元だけで笑う。


「茜は結構なリスク背負ってコズプロに残ってくれたでしょう。……オレが、その背中を押しちまったんですけど。でもそれ、茜のためを思ってなんかじゃなくて、オレがオレのためにやったことなんすよ。だからこれ以上茜に何か要求するのは、貰いすぎてる感が拭えないんですよねぇ」


 そう憂いを帯びた彼にふと既視感を覚えて。

 先程、以前とは似ても似つかないと思ったことを茨は撤回した。


「…………以前、貰いすぎだと思ったのなら誰かに分け与えればいい、と日和殿下に言われたと聞きましたが?」
「ああ、確かにおひいさんにそう言われたこともありましたねぇ。オレも今ではそう思いますし、オレなりにやってきたつもりでもあるんですけど……」


 ジュンは再び目を伏せると、何かを懐かしむような表情を浮かべた。金色の瞳に、うっすらと一人の少女の背が映った気がした。


「あの人は、本当ならオレがいなくても一人で大丈夫な人ですから」


 現に、彼女がアイドルとして歩いてきた道がそう物語っている。初めは恵まれなくとも、己の技術を磨き上げトップアイドルにまで登り詰めた。その孤高の輝きに、いったいどれほどの人物が目を灼かれたことだろう。

 結局はジュンもその一人でしかなかった。深夜一時の薄い布団の中、あの輝きに縋っていた。彼女からの施しを画面越しに享受するしかできなかった。彼女の思惑に気づかないまま、ただ、呑気に。

 それなのに、どうして自分が彼女に何かを分け与えることができようか。


「……要するに。自分なんかが敬愛する彼女への恩を還元したところで、彼女にとっては何の足しにもならないだろう、と?」
「だいぶ語弊のありそうな要約をされた気がしますけど、まあ大体は……」
「はああぁぁぁ〜〜〜〜…………」


 茨は本日一番の溜息を堪えることなく吐き出した。こめかみをぐりぐりと押さえ、読みかけの資料を机上に放棄する。

 ――なんだこいつ。

 茨の頭に品格や教養の欠片もない一言が駆け巡った。


「自分もEdenをプロデュースする上であえて狙うことはありますが……身近な人間のそれを目の当たりにするのはなんと言いますか…………」
「ん? 何か言いました?」
「この腑抜け野郎め………………」
「そんなに貶されるほどのことでしたかねぇ!?」


 様子を見るにおそらくジュン本人に自覚はない。自覚がないのが一番始末が悪い。

 どうやら彼の頭の中にいる来栖茜という人物は、茨の思う彼女の印象とかなり乖離しているようだ。どちらがより彼女本人に近いのか、などこの際どうでもいい。

 言おうか言わないか一瞬迷った末、茨は押されるように口を開いた。本来なら他人の惚れた腫れたなどには死んでも首を突っ込みたくなかったが、とうとう耐えられなかったのだ。


「……ジュン、貴方変な新興宗教にハマったわけじゃないんですよね?」
「いきなり何言ってるんです?」
「こっちの台詞です。もし、本当に彼女のことを思うのなら、その盲目フィルターを早めに外すことをおすすめしますよ。―― は、彼女が最も嫌う行いでしょうに」


 茨は苦言を呈しながらも、心のどこかで納得していた。

 畢竟、ジュンは一切目の当たりにしていない。玲明という狭い箱庭の中で、一体何が来栖茜をライブステージから突き落としたのか。たとえ後の伝聞で知ったとしても、それはジュン本人の意識にまでは深く繋がらない。そうなるように、彼女が仕向けた。まるで真実からジュンの目を覆い隠すように。

 だからだろう。ジュンがこんなにも確固たる自信を持って、彼女を貴い人物だと思っているのは。

 その目が恋慕や敬愛ではなく、むしろ信仰に近い色をしているのは。


(つくづく、人の思い込みとはおそろしい)


 それを自在に操れていたとすれば、なるほど確かに来栖茜は真正のアイドルだろう。

 すると、二人のいる会議室の扉がコンコンと叩かれた。一瞬、凪砂と日和が到着したのかとジュンは思ったが、果たして後輩二人がいると分かりきっている部屋に日和がノックなどするだろうかと疑問が湧く。

 ジュンが動くよりも早く「どうぞ、開いてますよ」と茨が返すと、扉はゆったりと音を立てずに開いた。


「……あんたさぁ、両手塞がってる女の子のために扉開けてあげようとか、そういう心遣いはないわけ?」
「茜!」


 噂をすればと言うべきか、そこにいたのはたった今話題の中心にいた茜本人だった。彼女は両手で中身の詰まった段ボールを抱え、手が使えない代わりに肩で押すようにドアを開けて中へ入る。むっと唇を尖らせた顔は茨に向けたまま、遠慮もなくどさりと机に荷物を置いた。


「おや、配慮が足りず申し訳ない! ご苦労様です来栖氏」
「ほんとだよ。DVDとビデオテープって束になると案外重いんだから。ついでに再生機器も一緒に入れてあげた私に感謝して」
「すいません、出遅れちまって……言ってくれたら荷物運びくらいオレがしたのに」
「あ、ジュンには言ってないからね!? 悪いことはぜ〜んぶ、そっちの七種のせいにしちゃえばいいの」


 ジュンは茜につられて再び茨に視線を向けた。彼は何ひとつ悪びれる様子もなく、いつも通りやんわりと目を細めている。

 ああ、あれは外向きの顔だ。なんとなくジュンはそう思った。


「……で、これってなんです? DVDとビデオテープがたくさん入ってますけど」


 茜と茨の間に流れる緊張感を払拭するべく、ジュンは率先して話題を変えた。

 彼女が運んできた段ボールの中にはそれぞれ年月日がマジックで手書きされたDVDとビデオテープが並んでおり、その下にはポータブル再生機が積み重ねられている。ホールハンズなどの最新アプリが活用される現在に比べるとやや古い時代の機器だ。


「ああ、とあるチャリティー番組の過去の映像です。今年はEdenも出演することが決まったのでその説明に使いたいと思っていたのですが、生憎とES設立のドタバタで資料の整理が間に合っておらず……そこで急遽、来栖氏にお願いして資料室から探してきてもらいました」
「なるほど……」


 コズプロスタッフのアルバイト、という茜の役割はあまりに抽象的すぎていまいち想像できていなかったジュンだが、どうやら感覚的には雑用係に近いらしい。茨の言葉一つで動く私兵だ。何かと器用な彼女なので、それくらいの軽さが丁度良いのかもしれなかった。

 当時の映像がビデオテープの時代から保管されているのなら、おそらくそれなりに長い歴史を持つ番組なのだろう。ジュンは概要程度しか聞いていなかったため、それほどの大きな場にEdenとして立てることが少々感慨深い。


「じゃ、きっちり届けたからね。……あと、言われた通り指定の時間にメールで届いたファイルも印刷して一緒に入れといたから」
「ええ、ありがとうございます。助かりました」


 何事もないようにさらりと交わされた茜と茨のやりとりを、ジュンは小骨が喉に引っかかったような感覚に陥りながら隣で聞いていた。

 添付資料の印刷など、茨にしては随分とアナログな手段を用いるものだ。普段Eden内で情報共有をする際は、基本的にホールハンズで行うというのに。デジタルツールを積極的に利用する彼の姿勢とはやや相反しているように見えた。

 茜が打ち合わせが始まる前にと早めに退散しようとすると、ふと茨が呼び止める。


「そういえば、これは念のため確認ですが……この資料、中身は見ていませんよね?」


 ドアの取っ手に手をかけながら茜が振り返った。


「見るわけないでしょ。そこまで性悪じゃないっての」


 べ、と舌を出し、彼女は不愉快そうに去っていった。

 茜がコズプロに身を置いて以来、茨との関係はどう言葉を尽くしても最終的には不仲に行き着いていた。それに茨も呆れているのか、はたまた仕方ないと諦めきっているのか、彼がいちいち食ってかかることはないので今のところ大きな口論には発展していないが。時間の問題であることは、ジュンを含め周辺人物のほぼ全員が察していた。

 茜の足音が完全に遠のいてから、茨はやっと立ち上がり段ボールから一冊のファイルを取り出した。これが件の資料とやらなのだろう。おもむろに無地の表紙を開き、まるで遠くを見るように僅かに目を伏せた。


「……あの様子では、おそらく本当に中を見ていないんでしょうね。思っていたよりも律儀というか……」
「……もしかして茨、茜を試してました?」
「おや、ジュンにしては察しがいいですね。……まあ、こんなもので人間が測れるなら誰も苦労はしませんが……」


 ジュンは黙り込んだまま、ぎゅっと口を硬く結んだ。それにいち早く気づいた茨がばつが悪そうに目を逸らす。沈黙が場を支配する中、先に口を開いたのは茨だった。


「……意味がないことがたった今分かったのでもうしませんよ」
「頼みますよぉ? さすがに、コンクエストの時みてぇに身内同士でぴりつくのはもう勘弁です。それより、茜がそのファイルを見てないって分かるもんなんですか?」


 ジュンが茨のファイルを指さすと、険悪な空気も一瞬にして散った。資料には一覧表のようなものが記載されているが、ジュンの座る場所からでは詳細は読み取れない。


「ええ。……仮に彼女がこれを見ていれば、きっとあの程度の癇癪では済まなかったでしょうから」


 そう言うと、茨はぺらぺらとページを捲ってジュンにファイルごと手渡した。

 ジュンが軽く目を通したかぎり、表に並んでいるのは団体名だ。それも福祉施設や、それに準ずる団体と見られる名称が多い。


「それらは全て、今回のチャリティー番組に参加する団体の一覧です。その表の……そこ、下から六行目を見てください」


 茨に促されるまま、ジュンは指定の行を指でなぞる。


「…………児童ホーム橄欖かんらん院……?」


 ジュンがかすれ気味の声で呟くと、茨は面倒事を抱えてしまったと言わんばかりに息を吐きつつ頷いた。


「参加を表明している児童養護施設の一つです。それと――来栖氏の、出身施設でもあります」
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