指差しのよすが

マイナスドライバー1本分の幸福

35

 茜がESに来て以来、昼時に社員食堂を利用するのはこれが初めてだった。芸能事務所勤務という少々変わったアルバイトの身でも一般学生であることに変わりはない。日中の大半は夢ノ咲学院で過ごす茜にとって、昼は学院で友人らと食べるのが日常だった。

 だが初の土日勤務である今日は、ESビル内にあるという社員食堂を利用できるまたとない機会だ。正直なところ食事なんてものは三食ウィダーインゼリーと栄養バーを交互に胃に収めるだけで満足できる部類なのだが、夢ノ咲や玲明の学食とは何が違うのか、僅かながら好奇心に駆り立てられたのだ。

 感想としては、どれも大差ないという結論に落ち着いた。決していずれかが劣っているわけではない。ただ、私立校の玲明と夢ノ咲、そして今をときめくアイドル達を囲うESで提供される食事が半端であるはずがないという、少し考えれば想像がつきそうなものだっただけだ。

 多少の呆気なさを感じつつも、茜は健康面が考えられたバラエティ豊かなラインナップの中から、サラダと冷奴のみを選び取り席を探す。茜の誤算はここからだった。

 四つの事務所が入るビル。アイドル、社員共に利用可能な社食。そして昼食ピーク。そう、まさに大混雑の時間帯に当たったのだ。

 学食と社食の差が気になるとは言っても、茜は普段から夢ノ咲の学食を利用していたわけではない。金繰りに悩んでいた一時期は学生向けの定食ですらも出し渋るほどだったので、購買かスーパーの割引された総菜を詰め込んだだけの簡素な弁当を持参するのが関の山だ。

 つまるところ、昼時の社食はありえないほど混むという常識が茜にはまだ根付いていなかったのだ。

 ごく少量の食事のみが乗せられたトレーを持ち、茜は空いている席を探して辺りを見渡す。けれどそう都合よくはいかないもので、視界に入るテーブル席はどれも満員だった。

 その時、右往左往する茜を見かねてか後方から声がかけられた。


「お〜い不良娘。お困りか?」
「……佐賀美先生!」


 以前は夢ノ咲学院の保健室でのみ顔を合わせていた陣が、四人席の一角にぽつんと座っていた。ESではくたびれた白衣ではなく一応はスーツを着用しているようだが、ルーズな着こなしはこちらでも相変わらずだった。


ESこっちで会うのは初めてですね。この大混雑なのに四人用の席を一人で使うなんていい趣味してるじゃないですか」
「そう言うなよ。さっきまではあきやんも一緒だったのに急用が入ったとかで一人残されちゃってさ。けどこの混み具合でテーブル席一人ってのも居心地悪いし、そっちが良いなら相席してくれると助かるんだけどなぁ」
「……じゃ、そういうことなら遠慮なく。ありがとうございます、せんせ」


 茜はそう言うと言葉通り遠慮もなく、真っ先に陣の向かいの席にトレーを置いた。その太々しさといったら保健室での悪びれもしない仮病とよく似ていたので、思わず陣が苦笑する。教育とは何ら関わりのない場である筈だが、茜を見る眼差しはまるで教え子を見守る教師のようだった。


「今はコズプロのスタッフなんだっけ? まあ、うちの生徒が元気そうにやってるなら良かったよ」
「先生はアイドル科、私は普通科なので、厳密には私は佐賀美先生の生徒ってわけじゃないんですけどね」
「誤差だよ誤差。一応は夢ノ咲なんだし。……本当は、いよいよどうしようもなかったら事業部の方で似たようなことができないか打診してみるつもりだったんだけどな」
「え〜本当ですかぁ〜? ぶっちゃけ私はコズプロなんかよりそっちの方、が…………」


 そう軽い気持ちで口にした茜だったが、言葉は尻すぼみに消えていった。それから少々考えるようなそぶりを見せ、憂いに濡れた瞳が下を向く。


「いや………………もう少しは、七種の使いっぱしりになってやるべきかな……一応恩義はあるわけだし……」
「お、そうなのか? 俺はそっちの事情に詳しくないけど、あの副所長と仲がすこぶる悪いって噂だけは聞いてたもんだから、てっきり嫌々働いてる可能性もあるもんかと」
「まあ、コズプロのやり方は好きじゃないですよ、好きでは。でも、……あいつのことまで、憎いわけじゃないし」


 芸能の世界で口は禍の元だ。茜は現役時代それを徹底してきた。なのに口からぽろりと本音が出てしまったのは、引退してからの月日が禁を風化させてしまったからか、はたまた陣が茜の知り合いで唯一“無関係な大人”だからか。どちらにせよ茜にはこの一瞬が、保健室での出来事のように思ってしまったのだ。


「あいつの提案自体に不満はない。感謝もしてる。ただ、ただですよ。接し方……そう、接し方が全然わからないっていうか」


 七種茨。コズミックプロダクション副所長兼青年実業家兼ESビッグ3の“Eden”所属のアイドルと、肩書きの多さに笑いが出てしまうような人物が、信じがたいことに自分の弟であるらしい。

 だが茜は、弟というものをよく知らなかった。弟どころか家族というものにすら明確なイメージがつかない。世の一般的なきょうだいとは一体全体どのようなものか。邂逅すぐに大きな摩擦が生じてしまっているが、大多数のきょうだいとはこのようなものだろうか。茜には何もわからない。


「初日にあれだけ大口叩いちゃった上に関係性が、今日日なかなか見かけないくらいには特殊すぎるが故に手本にできる前例や目指すべきゴールが皆目見当も……ちょっと、その妙に不快な温かい目やめてください先生!」


 茜の深刻な悩みとは裏腹に、陣はそこまで重大には捉えていなかった。仮にこの場に好物の酒があれば、きっと茜の話を肴にして飲んでいたことだろう。だがきっと眉を吊り上げた茜にまいったのか、陣はぽりぽりと頭をかいて座り直す。


「あ〜、なんか既視感あると思ったらあれだな。お前、ちょっとあきやんに似てるんだよ。あとさっちゃんにも少し」
「だからあきやんとさっちゃんって誰」
「ようは根が真面目すぎるってこと。誠実さは美徳とされる世の中だけど、ガス抜きの仕方は覚えとかないと後々響いてくるぞ〜。もうちょっと楽な世界に生きても誰もお前を責めたりしないよ」
「……………………本当に、そうですかね…………」


 陣はてっきり、反論のようなものが飛んでくるのだとばかり思っていた。けれど予想外なことに、茜から返ってきたのは先程よりも一段と沈んだ疑問のみだった。


「私、アイドルをやめた時のことを後悔した日はないです。……でも私がアイドルをやってた間、一体どれほどの子が私の存在に踏み潰されていったんだろう」


 茜がアイドルとして駆け出した頃も、名が知れ渡った後も――その存在に終止符を打つ直前まで。無数のアイドルが茜の輝きにかき消され、無惨に散り、墓標を立てることも世間に名の一文字すら残すこともできずに斃れていった。

 当然、アイドルが競争社会であることは茜もよく理解している。自分が運よく生き残っていただけだということも。自分が打ち破った誰かの夢も背負って精一杯生きるというのも、小説やドキュメンタリー番組のような美談にはなるだろう――今もなお、アイドルとして立っているのならば。


「入院中にエゴサしてたら、“堕ちたアイドル”って見出しを見つけたんです。ライブステージから落ちたって意味もかかってて、私は結構上手いなって思いましたよ」


 茜は逃げた。抱えていた夢の残骸を全て打ち捨てて、期待された玉座から退いた。“漣ジュンのため”などと言えば聞こえはいいが、結局はただの私利私欲だった。自分ただ一人が無傷でいるために、無数の人々が縋る蜘蛛の糸を断ち切った。

 ステージ資材申請のために名前を借りた女子生徒は、あのライブの後どうなっただろう。茜に騙され、春を待たずに学園を去ることになった地下墳墓の彼らは無事家に戻れただろうか。茜に認知もされないまま消えていった名もなき彼女らは、今は何をしているのだろう。

 少し前の、キャリーケース一つでどこへでも彷徨っていた茜ならばこんなことは考えなかったかもしれない。だけど茨の手配で住む家がもらえて、他人の支配に耐え忍ぶ必要がなくなって、大好きな人と毎日顔を合わせることができるようになって。そうして私物がひとつひとつ増えていく部屋に帰る度に、思い出す。もう顔も名前も覚えていない、彼女達のことを。過去に痛めた体が、今になってようやく軋むように。


「きっと、私を恨んでる人はたくさんいる。あんなにたくさん、裏切ったのに。私だけ……私だけが、こんなに不自由ない生活ができてるなんて、理不尽で、不公平。そう思うと、なんだかこう……」


 続きは言葉にならなかった。茜の胸中でもまだはっきりと整理ができていないのだ。

 陣はそれを黙って聞きながら、自分の過去、そして夢ノ咲の教え子のことを思い返していた。

 アイドルを潰すものは何か。責任、期待、社会からの圧、そして罪悪感。それらは陣自身にも覚えがあるものだった。

 茜が玲明を辞めてから今までそれを感じていなかったのは、彼女自身にその余裕がなかったからだろう。緊張状態にある時、人の脳は思考に制限をかける。余計な事を考えて心を傷つけないよう、自分にとって都合の悪いことを忘れ去る一種の防衛本能だ。

 しかし生活が安定した途端、凍結していた彼女の思考は再び動き出した。これまでの長い時間を取り戻すように、急速に。

 だとすれば、本来ならば彼女はこの一年間ずっと――


「…………来栖。今日の昼、それだけか?」


 陣がサラダと冷奴のみの茜のトレーに視線を向ける。


「……今関係あります? それ」
「ある。大いにある。持ってきた時は少食な奴ならこんなもんかとは思ったけど……」


「――もしかしてお前、味感じてないんじゃないか」









 ジュンが社員食堂に足を踏み入れた時、あまりの人の混み具合に愕然としてしまった。普段はピーク時間に被らないよう避けているのだが、この日は偶然にもレッスンの時間がずれ込んでしまったのだ。

 社食は諦めて別の売店やカフェに行くことも考えたが、この様子ではおそらく同じことを考えている人物も多いだろう。レッスン後の、今にも背と腹がくっつきそうなほどの空腹状態でさらに昼食場所を探し歩く気にもなれなかった。

 いざ、とジュンは戦に行くかのような面持ちで一歩踏み出し、トレーを手に取る。気づけばずらりと並んだ料理の中からとにかくボリューミーなものばかりをぽんぽんと選んでいた。茶色ばかりで彩りのない、健康重視の茨に見られれば小言を言われかねないラインナップだった。

 一通り盛り付け終わり席を探す。どこも人でいっぱいだが、社食ならば回転率も早いので案外すぐに見つかるだろう。あまり乗り気ではないが、いよいよ見つからなければ相席をさせてもらうのも手だ。

 そうして辺りをきょろきょろと見回して――ある一箇所に目を向けた時、ジュンは危うく昼食をトレーごと全て落としそうになった。


(な、なんで佐賀美陣と茜が一緒に――!?)


 咄嗟に仕切り代わりに置かれた観葉植物の陰に隠れ、顔だけをこっそりと覗かせた。なぜ隠れる必要があるのかと自分でも疑問に思ったが、どういうわけか今はそうしなければならない気がしたのだ。主に、バクバクと脈打つ己の心臓を守るために。

 それにしても、なぜ茜が。よりによってあの佐賀美陣と。

 しかも二人きりで。


(まさか…………いやいや、早合点はよせ漣ジュン! 茜は今は夢ノ咲なんだから接点くらいいくらでもあるはずでしょう!)


 そうだ、夢ノ咲。ジュンは自分にしてはかなり説得力のある理屈だと思った。学院が同じなら知り合いだったとしてもおかしくはない。茜は普通科の生徒、陣はアイドル科の教師なのだから、日常的に顔を合わせるくらいは――


(GODDAMN! 学科違うんだからあるわけねえぇ〜〜!!)


 自分と茜が男女別学の状況下で出会ったことを棚に上げ、ジュンはトレーを持っていなければ両手で頭を抱えていたほどの頭痛に見舞われていた。

 ならば後は何がある。彼女がアイドル時代からの付き合いか? けれどそんな話は一度も聞いたことがない。既に陣が引退して何年も経っているので、仮に付き合いがあったとしても業界に片足しか浸かっていなかったジュンが知らなくて当然なのだが。

 その時ふと、古い記憶を思い出した。

 ――なぜアイドルを目指したんですか?

 ――佐賀美陣さんに憧れたからです。

 あのインタビューは、その後茜が直々に誇張表現だと訂正していたが。


(…………もしかして、本当に?)


 誰よりも茜が愛しかった。

 誰よりも佐賀美陣が憎らしかった。

 その茜が憧れたのが、もしもジュンの因縁たる佐賀美陣なのだとしたら。


(…………………………………………阿保くせぇ)


 それはもう、清算ができたはずだろうに。どろどろに混ざった感情の中から憎悪と憧憬を切り分けて、これでやっと前に進めると安堵したはずなのに。

 どうしてか、胸が痛い。体が内側から捻じられているみたいだ。その理由ははっきりとジュンの頭に思い浮かんだが、ジュンはすぐさまかぶりを振って打ち消した。

 それはしない。彼女にはもう何も要求しない。このエゴは自分の中で押し殺すと、そう決めただろう。

 ジュンは何も見なかったことにしてその場を立ち去ろうとした。しかし足は鉛のように重く、ほんの少し持ち上げるにも随分と時間がかかる。

 するとその一瞬の間に、ジュンの肩が指先でトントンと叩かれた。


「うわっ……! ゆ、遊木さん……!」
「ご、ごめんね。驚かせちゃったかな」


 驚いたのはジュンの方であるはずなのに、見知った顔は眼鏡の奥の瞳を真ん丸にして狼狽えていた。彼、遊木真もジュンと同じトレーを持っていたが、皿の上はどれも空だったのでおそらくこれから事務所に戻るところだったのだろう。


「いえ、こっちこそすんません。邪魔でしたよね」
「あ、ううん。そんなことないよ。漣くん、ずっと立ったままだったからもしかしたら席を探してるのかなって。ちょうど僕が使ってた席が空いてるから、もしよかったらって思ったんだけど」
「お、いいんですか? そんじゃあお言葉に甘えて」


 ジュンがやんわりと目を細めると、真はあっちだよとジュンが覗いていた方向とは逆を指さした。彼の言ったとおり、それほど離れていない場所のカウンター席が一箇所ぽつんと空いている。おまけに窓に面しているので景色も良さそうだ。

 思いもよらない幸運だとジュンは進んでカウンター席に向かおうとしていた。茜と陣の座るテーブルはあえて視界に入れないように、なんとか平静を取り繕う。

 しかしようやく動いたジュンの足を再び床に縫いつけるように、計らずも真がその名前を口にした。


「あ、あそこにいるのって佐賀美先生かな?」


 ぎくり、とジュンの体が揺れる。瞼が痙攣するのが自分でもよく分かった。


「あ〜、なんかあの人もいるみたいっすねぇ。まあこの混みようじゃ誰がいてもおかしくないですけど」
「向かいに座ってる女の子は誰だろう。どこかで見たような気はするんだけど……漣くん、知ってる?」


 いや知っているもなにも。

 ジュンは咄嗟に飛び出しかけた言葉を寸前で堪えた。茜がESへやって来てから、茨に口を酸っぱくして言われていたことが頭をよぎる。


「………………最近コズプロにスタッフで入った新人さんじゃないですかねぇ。事務所で見かけたことありますよ」


 つまるところ、ジュンと茜の関係については他言無用。悟られるような言動すらしてはいけない、というリスク管理の問題だった。なのでジュンは一歩事務所の外に出れば、茜との玲明での出来事の全てを抹消して赤の他人として接しなければならない。もちろん、茜側も同様に。

 ジュンが白々しく小声で言うと、真は 「ああ、思い出した」と眉をはね上げた。


「去年玲明から夢ノ咲に転校してきた来栖茜さんだ!」
「……知ってるんすか?」
「うん。元トップアイドルで玲明学園からの転校生ってことで、当時は普通科がざわついてたから覚えてるよ。アイドル科とはあまり関わりがなかったけど、一応情報収集の一環で調べてたんだ」
「……へぇ……………………」


 その様子ならば、おそらく茜の引退理由も知っているだろう。あくまで表向きの面に限るが。

 茜が夢ノ咲に転校したらしい当時、ジュンは日和先導のレッスンについて行くのに精一杯で夢ノ咲のゆの字も頭になかったため、普通科の反応がどうだったかなど知る由もない。

 だが普通科が騒ぎになったというのも納得だ。あの来栖茜なのだ。良い意味でも悪い意味でも、人目を引く理由には事欠かない。以前茜の友人たちとカフェで話した時も随分と仲が良さげに見えた。

 もっともそれは、今のジュンには一切関係のないことだ。茜とは赤の他人。タコ部屋での邂逅も、ライブでの熱も、地下墳墓での後悔も、全てを己の胸の内に埋めてしまった。なかったことにした。

 けれど。


「……………………」
「…………ええっと、漣くん」
「……………………………………………………」
「……そんなに気になるなら、声をかけてきてもいいんじゃないかな?」


 見かねた真がおそるおそるといった具合に提案する。そこでジュンはようやく自分がぎゅっと眉間に皺を寄せて茜と陣の方向を凝視していたことに気づき、いたたまれなさに押し潰されそうになった。


「いやっ、これはその、佐賀美陣と同じ空間にいるのがまだ慣れないだけで、茜が一緒にいるのが気になったとかじゃ……」
「………………」
「な、なんです?」
「ううん、たいした事じゃないからあまり気にしないでほしいんだけど………………名前呼びなんだなぁって」
「……………………………………」


 この時、ジュンの四方八方は墓穴しか掘られていなかった。「GODDAMN!」と腹の底から叫びたいのをぐっと堪え、ジュンは今からでも間に合う言い訳を必死に探す。「あ〜」やら「う〜」やらと言葉にならない呻きが度々口から漏れていた。

 助けてください、脳内のおひいさんとナギ先輩。あんたら茨に詰められた時いつもどうやって回避してるんですか。

 脳内の日和は答える。そんなの無視に決まってるね。

 脳内の凪砂は答える。案外笑っていたら押し切れる。

 なるほど、ならばこちらも無理にでも押し通そう。元々下手な嘘を重ねるほど深みにはまってしまう性格なのだから、それでも誤魔化すというのであればいっそどんと構えていた方がいい。そう思って、ジュンはふと茜の横顔を眺めた。


(…………なんで、あんたはまだ………………)


 これで何度目だろう。彼女のそんな顔を見たのは。

 雨の中で準備中のステージを見上げていた夜のような、暗い失意の底に沈んだ横顔を見た。


「……………………っ、……すんません、遊木さん! オレ、ちょっと行ってきます!」


 ジュンはがばりと頭を下げると、その勢いに任せて真の返事も聞かずに足を動かした。茜と陣の座る席へずんずんと突き動かされるように進んでいく。ジュンの恨みのこもった視線は険しくなる一方で、元々鋭い目つきがさらに威嚇中の獣のそれに変わっていた。

 何だ。何を話している佐賀美陣。もしも茜に余計なことを吹き込んでいるのならただじゃおかない。

 自身の憤りに少しばかりの嫉妬が混ざっていることも知らずに、ジュンはその名を呼ぶべく口を開いた。


「茜、」
「――もしかしてお前、味感じてないんじゃないか」


 ガチャン!

 ジュンがテーブルに置いたトレーの上で食器類が跳ね、盛大に音を鳴らした。厳密には手が滑って落としかけたので、あと少し遅ければジュンの昼食は床の上で無惨にひっくり返っていたことだろう。

 茜も陣も、突然のジュンの登場にぎょっと目を丸くしていた。だがジュンはトレーをテーブルの上に置く体勢のまま身動きひとつせず、爪が白くなるまで握った両手に視線を落としていた。


「ジュ、ジュン」
「いつから」


 前髪の隙間から金色の瞳がぎろりと光る。


「いつから、そうなんですか」
「…………」
「茜」


 彼女は目を逸らす。この状況下でもジュンの前では笑顔を取り繕おうとしていたが、口角を無理やり引き上げただけで見るに堪えないものでしかなかった。


「……アイドルの仕事が忙しくなって、暫く経った後くらいだったかなぁ…………」
「っ、」


 つまり、玲明にいた頃から彼女は味覚障害を起こしていた。タコ部屋を訪れていた時期とも重なるだろう。ジュンと巽と、要も入れて四人で食事を囲んだこともあった。

 一体、彼女はどんな気持ちで食べていたのだろうか。巽の作った料理を呑気に平らげるジュンと要の隣で、一体どんな。

 言いたいことはたくさんあった。込み上がってくる言葉を無配慮に吐き出せたらどんなに楽になれるだろう。だがジュンは何とかそれらを飲み込んで、ぐっと赤い目をした顔を上げた。


「――――病院! 行きますよ!!」
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