指差しのよすが

マイナスドライバー1本分の幸福

36

「ストレス性の亜鉛欠乏症だね。薬処方しておくから欠かさず飲んで、なるべく栄養のあるものたくさん食べるようにしてね」
「はい……」
「採血の結果だけど、亜鉛の他にも必要な栄養素がかなり不足してるみたいなんだよね。昔無理なダイエットとかしてた?」
「…………はい………………」
「ならなおさら体にいいもの食べて、まずは体力をつけようか。ストレス性ってことで必要ならカウンセリング紹介するけどどうする?」
「いえ、そのあたりは大体解決してるんで……」
「そう。それとその傷跡と痣も、既に手当てされてるみたいだから今回は特に何もしなかったけど、もし今後必要になったら通院の時に言ってね。じゃあお大事に」
「はい……ありがとうございました…………」


 診察や採血や検査と病院内を散々連れ回されやっと医師の診断を告げられた後、茜はげっそりとした表情でロビーの椅子に座っていた。それからまもなくして、飲み物を買いに行っていたらしいジュンが茜に水を手渡して隣に腰掛ける。ESビルにいた頃よりも表情はほぐれ、多少は落ち着きを取り戻したようだった。


「お疲れさんです。見たところ、お医者さんにこってり絞られてきたみたいっすねぇ」
「お医者さんどころか会う看護師さんみんなにチクチク刺されてきたよぉ……」


 ペットボトルの蓋を回しながらしゅんと項垂れる茜だったが、検査の数値が示す茜の体は不健康極まりないものでしかなかったので医療従事者ならばどれも当然の反応だ。加えて診察の過程で茜が交際相手から受けていた暴力についても明るみに出てしまった。全て治療済みであり新しい傷も見当たらないので今回は特に処置を施されなかったが、経過観察で今後暫くの通院は余儀なくされるのだからこれ以上咎められる前に医師の指示には従った方が断然いい。

 ロビーには他の受診者がまばらにいたが微睡むような静寂が流れており、オルゴールの控えめな音楽だけが微かに聞こえてくる。ジュンと茜も隣に座っているが二人とも顔を合わせることなく、特に変わることのない風景をただじっと眺めていた。


「……味なんて感じなくても何不自由ないのに」


 茜の吐露にジュンは静かに反応する。


「んなわけねえでしょうが。味がわからないせいで腐ったもんでも気づかず食べちまったらどうするんです」
「……あ〜あ、ジュンまでチクチクし出しちゃった。これで私の味方は本格的にゼロかぁ」
「茜」
「冗談だよ。………………ごめんね、黙ってて」
「……何に対してっすか」
「……今君が思い浮かんでること全部?」


 ジュンはちらりと茜の横顔を盗み見た。伏し目がちな、憂いを宿した顔だった。


(……結局、オレも佐賀美陣あいつと同じかよ)


 彼女を責めたいわけでも、追い詰めたいわけでもない。まして、そんな顔をさせたいわけでもなかった。けれど、いつも自分は間違ってしまうらしい、とジュンはくしゃりと前髪を潰す。そこに居るだけで不安を払拭してしまう日和のようにはなかなかいかないようだ。


「……オレは、ただ。あんたがまた一人でかっこつけてるように見えて、それで……」
「……」
「ああクソ、ほんとはこんなこと言いたいわけじゃねぇんすよ。上手くまとまらねぇ……とにかく、悩んでることとか困ってることとか、きちんと周りに話してください。もしかしたら、オレなんかあんたの“周り”ですらないのかもしれねぇけど……」


 それでも、あんたの力になりたいんです。

 あんたに受けた恩を返したいんです。

 そう真っ直ぐに訴えかけるジュンの眼差しに押され、茜は反論を取りやめるしかなかった。再び訪れた静けさが肌に沁みるように痛い。もじもじと人差し指同士を擦り合わせる茜の視線は、ジュンの顔と病院の床の間を忙しなく往復していた。


「ジュ、ジュンは…………」


 やがて茜が口を開くと、歯切れの悪さにもどかしさを覚えながらもジュンは次の言葉に耳を傾ける。


「ジュンは、さ…………私が急にお姉ちゃんになったら、どう思う?」
「……………………………………はっ?」


 茜から飛び出た疑問は、ジュンの予想の斜め上を通過し爆発していった。急速にジュンの世界から音が消え、ぎんぎんと不快な耳鳴りが思考を阻み始める。当の茜は不安と興味が入り交じったような顔で、ジュンの顔面を穴が空きそうなほど見つめていた。

 茜が自身の姉になる。喜ばしいことじゃないか、とジュンは反射的に思った。世の中は兄弟姉妹への愚痴で満ちているが、それまで他人だった意中の相手が突然家族になるのはジュンが稀に嗜むラブコメディ漫画の世界では鉄板ネタだ。朝起きたら家で顔を合わせ、洗面所には見慣れないスキンケアが増え、宅配の宛名には『漣茜』もしくは『来栖ジュン』の文字。多少の戸惑いと浮かれに挟まれながら同じ屋根の下で眠る生活を、何年も、何年も。彼女が卒業する時も一緒の写真に写り、進学してもいってらっしゃいと笑顔で送り出せる。

 その末に、彼女は見知らぬ誰かと人生を共にして。純白に飾り立てた彼女の晴れ姿を家族席の後方から眺めるのだろう。ジュンよりもよほど短い付き合いの、どこの誰だか知れない人間にも祝福を飛ばすのだろう。ジュンの心臓に根付いた花が終ぞ日の目を浴びることがないまま枯れるのを感じながら。

 かつてないほどの速度で駆け回った脳内シュミレーションは、恐ろしいことに結末を迎えるまでほんの僅かな時間しかなかった。

 その間、およそ二秒。


「えっ…………い、嫌です……!」
「そっ………………そ、そっか……即答、かあ…………」
「あ、や、違いますよ! 別にあんたが嫌いとかそういうのを言ってるんじゃなくて…………!」


 やってしまった、とジュンは思いがけず口から出た言葉を慌てて補足する。


「……やっぱ、あんまり想像できねぇっすよ。嫌ではねぇけど、嬉しいかっつーとそれはちょっと軽すぎるような気がして……」


 ふと、茜の顔を見る。ぎゅっと口を結んだ彼女は瑠璃色の目を難しく細め思い悩んでいるようだった。


「……もしかして、茨のことですか?」


 そう控えめに尋ねながらも、ジュンはほぼ確信を持っていた。図星を突かれた茜は一瞬固まるが、観念したのかしどろもどろに声を発する。


「さっ、七種がどうとかは別に関係ないけど……! でも一応、私がお姉ちゃんみたいだし……姉弟っぽいことをしてみるのもやぶさかではないわけだけど、でも、あいつは一体どう思ってるんだろうって…………」
「………………ふはっ」
「ちょっと! 相談しろって言っておきながら笑うのはないんじゃない!?」


 茜に咎められながら、ジュンは抑えきれない笑いで肩を震わせていた。すいませんと口だけで謝るが、茜の頬や耳はみるみるうちに赤く染まっていく。とうとう拗ねた彼女がぷいっと顔を背けた頃、ジュンはようやく呼吸を落ち着かせた。


「もうジュンには相談しない」
「すんません、なんかおかしかったっつーか、安心したみてぇでつい。あんたもほんと、そういう真面目なところは変わってねぇんですねぇ〜」
「笑われるくらいクソ真面目に生きてきたつもりはないんだけどぉ?」
「わかってますよぉ。何もクソ真面目とまでは言いませんって」


 ジュンだって、四角四面という言葉が彼女に似合わないことはよく理解している。だが親しい人間に行動パターンを読まれやすいのも、以前茨が「思っていたよりも律儀」と述べていたことも含め、基本的に彼女は謹厳実直な人柄だった。それを、彼女本人だけが認められずにいる。あまりこの話題をつついても彼女の機嫌を損ねるだけなので、ジュンはほどよいところで切り上げたが。

 軽く咳ばらいをすると、ジュンは顎に手を添えて考え始めた。


「茨のことですけど、そこまで難しく考えなくてもいいと思いますけどねぇ〜? 古今東西全ての兄弟姉妹が仲良しこよしってわけじゃないでしょう。あいつが笑顔で『姉さん……!』とか言ってるの、想像できねぇし」
「それは……確かに……」
「自然体でいいんすよ。茨は悪い奴……になったりすることもありますけど、信用……できるかできないかで言うとわりとできる場面も最近は多いですし」
「君は七種を擁護したいの? 貶したいの?」


 じっとりと見定めるような茜の視線をまあまあと軽くいなす。茨の為人を月並みの言葉で美化するのはジュンではやや量不足だが、かといって変に誤魔化すのも性分ではない。

 だが、茜にはそれが効いたようだった。じっくりと咀嚼するようにジュンの話を飲み込み、完全にではないがどこか腑に落ちた表情を浮かべている。熟考する目がやはり茨と似ていると感じるのは、自分が彼女らと血の繋がりのない赤の他人だからだろうか、とジュンは思った。

 そう考えると、つい口からぽろりと出てしまった。


「あんた、そういうところ結構かわいいっすよね」
「え」
「あ」


 ジュンも茜もぽかんと口を開けたまま顔を見合わせる。刹那、全身の血が逆流しているような感覚に見舞われた。ロビーに流れるオルゴールの音楽も、今のジュンにはデスメタルの雄たけびのように聞こえる。ばくんばくんと暴れまわる心臓を悟られる前に、ジュンは勢いよく立ち上がった。


「……あ〜〜っと、オレ実はこの後おひいさんと撮影入ってて! 最後まで居てやれなくてすんませんこの辺で失礼します交通費後で事務所が出してくれるって茨が言ってたんで帰りはタクシー使ってくださいそんじゃ!」
「え、え、ジュ、ジュン!?」


 鍛えた肺活量を存分に使い早口でまくし立てると、ジュンは逃げるように病院のエントランスを出てしまった。背後で茜に呼び止められていたが、なりふり構わず自動ドアを通り抜けた瞬間熱を持った頬に風が当たる。タクシー乗り場を素通りして五、六歩ほど大股で歩き、偶然近くにあった自動販売機にもたれかかった。

 まる膨らんだ風船からしゅるしゅると空気が抜けるように、ジュンの口から深い溜息がこぼれる。穴があったら埋まってしまいたい。


「………………やっちまった……………………」


 実のところ、日和との撮影にはまだ余裕がある。が、この茹蛸のような顔で撮影現場に行くわけにはいかなかった。そんなことをすれば日和に何と言われるか。

 だが一瞬で茹だった頬の熱を下げようにも、同じように真っ赤になって動揺していた茜を思い出してはまた紅潮しての繰り返しだった。その反応にもしかして、と淡い期待を抱いてしまった自身に嫌悪感も滲ませながら。


「〜〜〜〜〜っ! GODDAMN…………!」


 こんなはずじゃなかったのに、オレの馬鹿野郎!









 茜が会計を済ませ病院を出た頃にはぽつぽつと小雨が降り始めていた。どんよりと濁る鈍色の空を見上げ傘を持ってきていないことに気付いたが、交通費は事務所側が出してくれるというジュンの言伝を思い出し安堵の息を吐く。タクシー乗り場の先頭に停まる車に近寄ると、車は茜を待っていたかのようにすんなりとドアを開けて招き入れた。

 行先にESビルと伝えると運転手はああとすぐに納得したようで、場所を調べることもなくすぐに車を発進させた。流れる景色と窓にまだらに増えていく雨粒を眺めながら、茜は脳内でジュンとの一連の会話をしつこいくらいに反芻する。

 かわいい。かわいいだって。あのジュンが。

 茜自身、すました顔で平静を保てていると自分では思っていた。しかし髪の先端を弄る指先は絶えず動き続け、すらりと組んだ足は何度も忙しなく組み直されている。そわそわと気が気じゃない空気を感じ取ったのか、運転手が先ほどからバックミラー越しにちらちらと茜に視線を向けていた。


「お客さん、なんだか楽しそうですね。何か良いことでも?」


 運転手の男が尋ねると、茜ははっと我に返り髪を弄っていた手を下ろす。まさか話しかけられるとは思いもよらなかったため、咄嗟の返答が遅れてしまった。


「あ、ああ……まあ、ちょっとだけ」
「いいですねぇ。僕タクシーの運転手になってからまだそんなに経ってないんですけど、この辺なんて病院くらいしかないでしょう? だから乗る人はみんな暗い顔ばっかりで。お客さんは病院から出てきたのにちょっと嬉しそうだったから、よほど良いことがあったんだろうなって思ったんですよ」
「はぁ…………」


 つらつらと流れるように語る運転手に、茜は若干辟易としていた。鬱陶しいとまでは言わないが、今はジュンとの記憶に浸っていたい気分だった。

 ところが運転手はそんな茜の意に反し、さらに質問を重ねてくる。


「一体今日はどんな御用で病院に? お風邪ですか?」
「そうですねぇ、少しばかり不摂生が祟っちゃって」
「ああ、そんな無理しちゃ駄目ですよ。最近は若いうちに頑張りすぎて身体壊しちゃう人も多いんですから」


 やたらと口数の多い運転手に茜が不快感を示し始めた頃だった。信号が赤に変わり、車体がゆっくりと減速する。雨音とワイパーの作動音だけの空間で、運転手は陽気に言い放った。


「そういえば、足の調子はどうですか?」
「え――――――」


 ぞわり、と。茜の背筋に霜が降りた。

 足と言われて思い当たるのは例の引退時の事故だ。けれど茜が足に傷を抱えているなんて、目の前の運転手には一言も話していない。完治済みなのだから見ただけで分かるはずもない。だとすれば、それを把握しているこの男は一体何者なのだろう。狼狽する茜を冷笑するかのように、男は運転席から顔を覗かせて振り向いた。

 その温度の感じない瞳を、茜は知っていた。


「久しぶり、茜ちゃん。引退以来だから僕のこと忘れちゃったかな……?」
「……!」


 マネージャー、と茜の唇が動いた。発せられなかった息を汲み取り、男はふっとやわらかく目を細める。


「いやぁ、結局あの後事務所には解雇されちゃってね。担当してたアイドルが事務所の意向に背いたのが結構評価に響いたみたいで、年末あたりにその辺も掘り返されたんだ。でも茜ちゃんは元気そうでよかったよ――一人だけでも安全地帯に逃げ込めて、本当によかったね」


 茜の脆い場所を狙い、一本一本丁寧に杭を打ち込むような物言いに何も言い返せなかった。ただ、眠らせていたアイドルであった頃の記憶が目の前に引っ張り出されるのを感じる。同時に、自分はこんなにもあの頃を苦いものと認識していたのかと改めて痛感した。

 かつて茜のマネージャーであったこの男に特別な感情はない。良い印象もなければ悪い印象もなく、周囲の加速する動きに置いていかれる不憫な人間だと思っていたが、それだけ。こうして再開するまで存在すら茜の頭から消えていたくらいだ。

 なのに、どうしようもないほど悪寒が止まらないのはなぜだろう。


「…………………………へぇ、そう。そっちも元気そうでよかったじゃん。転職おめでとう、って言った方がいい?」
「そんなそんな。茜ちゃんも、今は夢ノ咲の普通科だったよね。アイドルじゃない学校では上手くやれてる?」
「…………」


 茜が現在通う学校まで把握されている。じわじわと上り詰める吐き気を、それくらいなら調べればすぐに分かることだと必死に抑えていた。そうしている間も、凍りついたように動けない茜を嘲るかの如く男はくすくすと笑う。


「ごめんね、怖がらせたかったわけじゃないんだ。君はまだ学生で若いんだし、これからの人生いくらでも修正できるよ」


 男がすっと前を向く。信号が赤から青に変わった。


「でも――君に狂わされた僕の人生は、もう取り返しがつかない」


 ぐんっ、と急発進した車体の慣性により、茜は後頭部を椅子の背に強打した。車は茜の鈍い痛みなど気にかける様子もなく、けたたましいエンジン音を鳴らして道路を走行する。窓を流れる景色は先程とは段違いに速く、速度超過であることはメーターを見るまでもなく明らかだった。


「ちょっと、これスピード違、」
「実は僕も玲明の卒業生だったんだ。アイドルを目指してた。だけど僕がステージに立てた回数は両手の指にも満たない。だから卒業後もアイドルにはなれなくて、それでも芸能界に入る夢を諦めきれず、縋るようにマネージャーとして働き始めたんだ……そして、君の担当になった」


 一方的につらつらと語る男の話を、茜は拒否したくとも黙って聞き入れるしかなかった。両手でドアポケットを掴んでいなければ姿勢を維持することもできない。仮に急ブレーキを踏まれたら、いかにシートベルトをしていても危険は皆無ではない。


「君は見事なくらいに売れたよ。なのにまさか、あんな無茶苦茶な方法で辞めちゃうなんて思わなかったなぁ。周囲も僕も散々振り回されて、挙句仕事も失って今はタクシーの運転手さ。君の………………君みたいな、ガキ一人のせいで」


 男の声色から徐々に棘が顔を出していることに茜はとっくに気づいていた。けれど、疾走する狭い車内で茜ができることなど無いに等しい。せめて男の動向を見逃すなと集中する顔に冷や汗が伝う。

 彼は長年塞き止めていた感情が流れ出すように、激昂の淵をさ迷い歩いていた。


「僕と君の何が違う? 同じ玲明にいたのに、同じく落ちぶれたのに、僕はアイドル業界からすらも摘み出され、君は今ものうのうとその総本山に向かってるじゃないか。……茜ちゃんも僕と同じく苦しむべきじゃないか」
「あんたの言いたいことはわかったよ。で、同じ苦しみって? 私もESから出ていけば、それで満――」
「僕の話を勝手に遮らないでくれるかなぁ。車のハンドルを握っているのは僕だってことを忘れていない? もう一度“事故”で幕引きなんてしたくないだろう?」


 その瞬間、車体が左右にぐらりと揺れた。おそらくは男の故意によるものだ。ドアポケットを掴んで支えていた茜は反対側に投げ出され、隣の座席に手をついて倒れこんだ。

 根拠こそないが、茜は悟ってしまった。きっとこれば、冗談の類ではない。この勢いのままどこかの壁にでも突っ込んで茜と共に心中してもよいと、半分以上本気で思っているのだ。

 何のためにと問われれば、それはもちろん復讐のためだ。茜が事務所もマネージャーも無視した暴挙に出なければ、彼は今でもまだコズプロで働けていただろう。夢を叶えることはなくとも、夢を枯らすことはなかったはずだ。だが、それを彼の前で口に出してはならないと、今の行いで十分理解もしていた。

 しかし、バックミラー越しに見えた彼の目元は茜が想像していたよりも憎しみに染まってはいなかった。嫌悪を孕んではいるが、今にもやけを起こしてしまいそうなほど空虚に満ちた目だ。だからこそ、彼が何をするかわからない恐怖心が茜を縛り付ける。


「僕、これでも結構考えて調べたりしたんだよ。単に君を病院送りにするのも面白くないし……だから、君が最も嫌がることを考えて、やってみることにした」


 カチリと男が手元を弄ると、座席の後ろに取り付けられたモニターの映像が突然切り替わった。地元の飲食店やビジネス教材の広告が消え、人型のシルエットが映し出される。人型と言っても写実的とはほど遠く、円と楕円を簡単に組み合わせただけのアイコンでしかなかった。

 すると突然、車内スピーカーがプルルルと着信音を鳴らした。音と連動して画面上のアイコンも震え、その下には受話器のマークが出現する。


「茜ちゃんに二つ選択肢をあげる。その電話を取るか、そのまま僕とドライブを続けるか。でもできることなら、君には電話を取ってほしいなぁ」


 男は敵意などないとおどけてみせるようにそう言った。茜の心臓がばくばくと激しさを増す。着信音は絶えず鳴り響いていた。

 取ってはいけない。そう茜の第六感は叫んでいた。取ってしまえば、後戻りできない線を一歩踏み越えてしまうと。中途半端に伸ばした人差し指がそこに触れるまで、数センチもなかった。

 ――でもこれ以上、あんたが一人で暗い方に逃げていっちまうのなんて見てられません。オレが見たくないんです。

 ジュンの声が聞こえる。だが何度目を擦っても車内には茜と男の二人しかおらず、これは茜の願望が作り出した幻聴だった。

 ――悩んでることとか困ってることとか、きちんと周りに話してください。もしかしたら、オレなんかあんたの“周り”ですらないのかもしれねぇけど……。


「電話を取るんだ、茜ちゃん」


 男の突き放すような物言いに引き戻される。

 震える指がそっと画面に触れた。まるで氷のように冷たい液晶が、実は冷たいのは自分の手だということに気づいたのは数秒後のことだった。

 着信音が、止む。


『――こんにちは、茜ちゃん。今は夢ノ咲と、ESにいるんですってね?』
「―――――――――――――――」


 通話越しでも声を聴くのは数か月ぶりだった。忘れたくても忘れられない。だが茜には懐かしむような余裕も、それを感じるためも思い出もなかった。ただ、足元にぽっかりと大穴が開いたような気分に落とされる。


「いん、ちょ、先生…………………………」
『私のことは覚えてるのね、嬉しいわ。家出なんかして、昔と変わらず悪い子なんだから』
「…………………………」


 事情を知らなければきっと慈母のように聞こえるのだろう。けれど茜は、己が院長と呼ぶ女が慈悲とは縁遠い人間であることをよく理解していた。だからこそ、居場所を補足されないように今まで逃げ回っていたのに。


「……そういう、こと。あんた、復讐代わりに私を売ったんだ」
「僕ができることなんてせいぜいこの程度だからね。喜んでもらえたかな」
「誇っていいんじゃない? あんた、嫌がらせの才能だけは天下一品だよ」


 茜は運転席をきっと睨んだのち、一言も交わさずに通話を切ろうとした。しかし茜の指先が再び画面に触れる前に、スピーカーは院長の声を途切れることなく流し始める。


『茜ちゃん、私怒ってるのよ。折角玲明に入れたのに勝手にアイドルを辞めたりなんかして。一体私がどれだけあなたに手をかけたと思ってるの?』
「おかしいな。アイドル活動で先生からの支援を受けた記憶は一切ないんだけど」
『そりゃあ、茜ちゃんには分からないでしょうね。特待生として入るのに何が必要だったかなんて』


 特待生というワードに無条件で体が反応する。すでに玲明学園の生徒の肩書を捨てた身だが、その響きは茜の血潮にしっかりと刻まれていた。


『実力で特待生になったと思った?ならごめんなさいね。まともに音楽の勉強もレッスンも受けていない子供が特待生として入学できるほど、玲明の入試は簡単じゃないの。でもね、そんな堅牢な砦でも、たった一つの情報で崩れ落ちるものよ。私はただ、選考役の一人に言えばいいの――今度入試を受ける女の子は、あのゴッドファーザーの子孫だって』
「…………何が言いたいの」
『分かっているくせに。業界を築いた神様の血が流れてるのよ。実力がどうであれ、非特待生として入学させるわけにはいかないでしょう?』


 GFの直系というポテンシャルは施設育ちという欠点を差し引いても余りある。つまるところ彼女が言うには、茜が玲明の入試を受けた段階で特待生として入学することは内定していたらしい。その時点で、誰も茜の歌に耳を傾けてなどいなかった。才能も、努力も、舞台に上がってすらいなかった。

 それがどうしたと茜は鼻で笑う。なぜなら、自分はもうアイドルではない。一般社会では血筋など何のアドバンテージにもならないのだ。


「もしかして、"私の努力が全部お膳立てされたものだったなんて〜"って泣いてほしいの? んな些細なことにいちいち執着すると思う? 私が? ……いい加減うぜぇよ」
『口が悪いこと。だけど残念。あなたはあなた自身のことじゃ揺さぶれないって私も理解しているわ。だって私、あなたのですものね』
「ああ、ごめんね行儀が悪くって。先生を反面教師にしてたらこうなってたみたい。で、いつまで前置きを続けるつもり? あんたの話が終わるのと、この車のガソリンが切れるの、一体どっちが先になることやら」
『本当に口が減らない子。なら手っ取り早く、結論から言いましょう――あなたと、七種茨くんとのDNA鑑定書をこちらに渡してちょうだい。もう姉弟だって確認はとったのよね?』


 返そうと思い準備していた雑言はただの息となって茜の口から漏れた。見えない画面の向こうで院長がほくそ笑んだ気がした。


「なんで、それを……」
『こう見えて結構顔が広いから、情報を仕入れるのに事欠かないのよ。鑑定書をひとつ送るくらい、簡単なことでしょう?』


 いくら茜が機械に不慣れでもデータをひとつ送る程度ならば容易くできる。けれど現状、それは別の理由で不可能だった。


「……どうやって知ったかはあえて聞かないでおくけど。あんたの怪しい頼みを簡単に引き受けると思う?」
『思うわ』
「どうして」
『茜ちゃんは他人の痛みに敏感な子だから』


 知ったような口をきくな、と茜は眉間の奥がむず痒くなる。あくまで親のような態度に徹し続ける彼女に神経が張り裂けそうだった。


「冗談が下手になったね、院長先生」
『冗談のつもりはなかったのだけど。でも茜ちゃんは私の言うことを聞くわ。だってこの取引の最大の被害者は、茜ちゃんではなくコズプロと七種くんだから』
「あいつが?」
『知ってる? 七種くんにとって茜ちゃんはいつ爆発するかわからない大きな爆弾なの。そして、アキレスの踵でもある。ゴッドファーザーの血筋、アイドル時代の炎上沙汰、それに付随する事務所側から茜ちゃんへの不遇の扱い、さらにはたった一人の肉親……これらが全部表沙汰になって、一番損をするのは誰?』


 言わずとも知れたことだ。茜とコズプロの対立に当時の茨は関わっていなくとも、今の副所長は茨だ。過去の不祥事の責任は今の茨に降りかかる。ES設立という新体制、上層部の入れ替わりという過渡期に痛手を負わずに処理できる余力は、正直なところ今のコズプロにはない。


『茜ちゃん、コズプロに復讐する気はない? あなたをこんな目に遭わせた奴らに一矢報いたくはない? 先生ならその手助けができるわ』


 きっと、甘露な誘いなのだろう。茜だって、微塵も興味を惹かれないわけではない。コズプロを、玲明の特待生制度を恨めしく思う気持ちは未だこの身にこびり付いている。この苔を落とせる日はおそらく遠い未来になるだろうことも察している。

 院長の手を取るか否か。だが実のところ、この選択は茜にとって何の問いですらないのだ。


「断るよ。コズプロに潰れてもらっちゃ私も困る」
『……ああ、勤め先でもあるものね。でも住居と仕事くらい、私が用意してあげることもできるわ』
「じゃあなんで玲明を辞めてから今までしてくれなかったの。親を名乗りながら親らしいこと一つもしてくれなかったくせに、信用なんてできるわけねぇだろ」
『話し合いもせずに施設を出て行ったのはあなたの方よ。……はあ、こういう口論で話題を逸らす魂胆ね。危なく乗ってしまうところだったわ』


 策略があっさりと見抜かれ茜は内心舌打ちをした。しかし相手が彼女ならばこの程度は想像できたことだ。気を取り直し、ポーカーフェイスを維持する。


『もしかして、七種くんのことを本当に弟だと思っているの? 茜ちゃんも肉親が相手だと良心が病むのね』
「違うっての。ドラマの見過ぎなんじゃない?」
『なら、コズプロの中に大切な人がいるとか』
「………………」


 そう言われて心に浮かぶのは一人だけだ。今だけは出てこないで、と必死に念じる。


『昔茜ちゃんと交流があったのは巴日和くんよね。ああ、HiMERUくんもそうだわ。風早巽くんは休止してから情報が掴めていないのだけど……でもコズプロには玲明出身のアイドルが多いから、絞り込むのは少し難しいわね。あなたは、何か知ってる?』


 それを問われたのは自分ではないと茜は悟った。しばらくして、静観を貫いていた運転席の男がどこか楽しそうに口を開く。


「そういえば、茜ちゃんが来る少し前に焦った様子で病院から出てくる男の子を見たなぁ。とても元気いっぱいで健康そうに見えたから、誰かの付き添いだったのかも。濃い青色の髪と金色の目をした男の子で――もしかして彼、Edenの」
「黙って」


 男の言葉を遮った瞬間、茜はしまったと全身から血の気が引くのを感じた。これでは肯定したのも同じだ。だけどどうしても、この場の誰からも彼の名前を聞きたくなかったのだ。


(……まずい)


 運転席の男は笑っていた。おそらく通話の向こうの彼女も。愚かな兎が一匹、自ら罠に飛び込んできたと。


『Edenはコズプロアイドルの中でも特に手を出すのが難しいの。事務所の副所長と巴財団の御曹司、何よりゴッドファーザーの養い子が同じユニットなんて、若い子風に言えばチートみたいなものだし。でも一人だけ、違う子が混ざっているわよね』
「…………………………」
『二世アイドルなんて障害にすらならないわ。ねえ、茜ちゃん。去年夢ノ咲で行われたリバースライブを見たことはある?』
「…………ない、けど」
『見たらきっとわかるわ。……彼の頑張りを、無駄にしたくはないでしょう?』


 Eve、そしてEdenが何度か夢ノ咲を訪れていたのは知っていた。そのライブに一度だって、足を運んだことはなかったけれど。

 はっきりと、茜は彼女らに急所を晒してしまった。茨にとってのアキレスの踵が茜ならば、茜にとってのそれはジュンだ。茜を揺さぶるならば茜自身ではなくジュンだと、彼女に気付かせてしまった。

 険しい表情で窓を流れる景色を見る。

 茜が持つ天秤に乗せられているのは茨とジュンだ。

 その重さは、茜にとっては同等ではない。


「……………………鑑定書を持ってるのは七種だけ。私が送ることはできない」


 重い口を開く。握った拳は手汗に濡れていた。


『でもあなたにも関係のある大事な書類でしょう? コピーを取っていなかったの?』
「興味なかったし。その後八つ当たりみたいに出てきちゃったから」
『……茜ちゃんのその物事への関心のなさは、いつか身を滅ぼしそうで怖いわね。まあいいわ。なら、その鑑定書の入手からやってもらうことにしましょうか』


 すると運転席の男は、助手席のボックスから何かを取り出して茜に差し出した。茜が恐る恐る手を出すとと、手のひらにUSBメモリがひとつ乗せられる。広く普及されているものよりも一回り小さく、親指に乗る程度のそれは知らずに乗せられても気づかないと思うほどに軽量だった。


『そのメモリを、七種くんが鑑定書を保存している端末に挿してデータをコピーして。挿すだけでいいわ。あとは勝手に、すでにメモリに入っているプログラムがやってくれるから』


 院長の指示を聞き、茜は改めて手元のメモリに目を落とす。容易く握り潰せそうな機械の中によくもまあ大層な毒薬を仕込んだと感心すらした。毒蛇と呼ばれる彼に、まさか自分が毒を盛る日が来ようとは。

 ぐっと眉を顰め茜は尋ねた。


「先生は……コズプロが憎いの?」


 電話口の彼女は、顔こそ見えなかったが「まさか」と言って微笑んだ。


『だって、尻尾が見えていたんだもの。一噛みしたくなるのは、仕方ないでしょう?』









 茜が降りると、車は何事もなかったようにさっと走り去っていった。法定速度をきっちり守った安全運転で遠くなる車体を横目に、茜はポケットに忍ばせたUSBメモリの存在を確かめる。

 使うタイミングはこちらに任せるとのことだった。つまり、鑑定書が保存されているタブレットをいつ盗み出すかは完全に茜の采配に委ねられている。

 だが、できるのか。自分に。


(異母弟……異母弟ねえ)


 ――自然体でいいんすよ。茨は悪い奴……になったりすることもありますけど、信用……できるかできないかで言うとわりとできる場面も最近は多いですし。


(自然体って、どんな感じだったっけ)


 ジュンの前にいる自分。アイドルであった頃の自分。

 気持ちを騙って寄生場所を転々としていた自分。八方美人で集団に溶け込んだ自分。

 どれも自然かと問われれば素直に頷きかねる。玲明に入る前の自分が一体どうであったかなどとうに忘れてしまった。きっと、玲明学園で過ごした日々は自分の中のパーツを一つだけ入れ替えてしまったのだろう。それが何なのかは言葉にし難いが、なんとなく玲明に入学する前に戻ることはできないと分かっていた。

 そして、今手に持っているメモリこれもまた、ひとつのトリガーであろうことも。


「……………………」
「あ、いたいた! 全くもう、ぼくからの電話を無視するなんて悪い日和! いったいどこで寄り道ちてたんだろうねこの子は!」
「……巴、さん」


 暗雲を打ち払うような快活な発声が響く。茜が横に目を向けると、いつからいたのだろうか日和は腰に手を当ててむっと口をへの字に曲げていた。どうやら茜に腹を立てているのは違いない。


「あ、え、えーと電話? ……あ、本当だ着信来てた。ごめんなさ〜いタクシー乗ってて気づかなくて」
「逆に車に乗っていたら気づくものじゃないの? タクシーの運転手さんと仲良くおしゃべりでもして、」
「病院から出された処方箋確認してたんですよ。そういえばあとで薬貰いにいかないと。巴さん、この辺にある薬局とか知りません?」


 茜が無理やりに近い形で遮ると、日和は特に何も言わずに「ふうん……?」と目を細めた。同時に彼が洞察力に優れていることを思い出し、心臓がぎゅんと縮む。

 しかし茜の懸念していたようなことは起こらず、日和はぱっと笑顔を取り戻すとまた唇を尖らせて言い放った。


「まあ、薬局の場所なんてあとでジュンくんに探させておけばいいね! それよりもそう! そのジュンくん! あの子ったら帰ってきてからずっと茹ダコみたいにぼーっとしちゃって、ぼくへの返事も雑なんだよね! ジュンくんのくせに! 茜ちゃんからも何か言ってやってほしいね!」
「仲良しでいいじゃん」
「ひとつもよくないね! 悪い日和!」


 まるで台風が訪れたようにぎゃんぎゃんと騒がしい日和の訴えは聞き流し、茜はポケットのメモリを爪で叩いた。カチカチとぶつかる音は日和の声にかき消され完全に消えている。

 茜がコズプロに雇われてから、日和はやたらと茜に声をかけるようになった。以前も入院中に見舞いに来たり夢ノ咲への転入を手伝ったりと、何かにつけては世話を焼いているような節はあったが。当初は夢ノ咲時代に遊び歩いていた女性の延長に使われているとばかり思っていたが、ある時期からは茜も認識を改めている。


「巴さんさ、思ったよりジュンのこと気に入ってますよね」


 茜が告げると、日和は急に嵐が止んだように言葉を切った。彼は一瞬口を開いたまま唖然としたかと思うと、木漏れ日のような微笑みを茜に向ける。


「変なことを言うね、この子は。それにそれは、茜ちゃんにこそ相応しい表現だと思うけどね」
「私がどうとかの話ではなく。昔のあなたはこう……あんまりアイドルに熱心になるタイプには見えなかったので。ジュンの影響かな」
「ぼくがジュンくんの影響を受けたんじゃなくて、ジュンくんがぼくの影響を受けたと言ってほしいね! ぼくたちには、ぼくたちに期待を寄せてくれるファンがいる。汗臭い努力とかはぼくは御免だけど、その期待を裏切るくらいならできるかぎりの力を尽くしたいだけだね」


 そう自信ありげに胸を張った日和に、「やっぱりちょっと影響受けてるじゃん」とは言わなかった。おそらく彼は意地でも認めようとしないので、指摘したところで水掛け論にしかならない。


「……というか、てっきりきみも同じようなことを考えていると思ったんだけどね」
「……」


 茜の天色の瞳に影が落ちる。

 茜が持つ天秤に乗せられているのは茨とジュン。

 その重さは、茜にとっては同等ではない。


「いや……間違いではないですよ。目的があるなら……私も、最善を尽くします」


 そう、何だってやってやると。メモリを握る指に力を込めた。
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