マイナスドライバー1本分の幸福
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茨のタブレット端末にメモリを挿すだけの簡単な作業。だが茜はその簡単なはずの作業を、桜が散り葉が青々と茂る季節になっても未だ完了できずにいた。ひとえに、茨に隙が無さすぎたのだ。
(マジで片時も手放さねえじゃんあいつ……)
レスティングルームの片隅で茜はスマホを見つめる目を不満げに細めた。表示されているのはここ数ヵ月間定期的に送られてくる院長からのメッセージだ。
茜が見る七種茨という男は常に働き詰めだった。それはもう、馬車馬も白けるほどに。コズプロの副所長業とプロデューサー業を両立させながらEdenやAdamとして出演し、裏でのトレーニングも一切手を抜いていない。その上で個人として会社経営も行っているのだから、彼の皮を一枚剥げば中から燃料で動くロボットが出てくるのではと思った回数は一度や二度ではなかった。
そしてそれは、茜を焦らせるには十分すぎる状況だった。何しろ、思案投首のまま依然として何の結果も出せていないのだから。
忙しなく働き続ける彼だが、仕事道具のタブレットだけは片時も手放そうとはしなかった。撮影などで管理が不可能な場合は茜も他のコズプロスタッフも知らないうちにどこかへしまい込んでしまう。まるで常在戦場という言葉が服を着て歩いているか、あるいは末期のタブレット依存者のどちらかだ。そんなにタブレットがいいならタブレットと結婚してしまえ、とつい茜が投げ出してしまいたくなるほどに。
(どうにか撮影中にうっかり置き忘れてくれないかな……あいつも人間だし、心的負荷をかければ多少はガード緩むはずでしょ……)
言葉にするのは簡単だが、あの茨の動揺を誘えるような出来事を起こせるイメージが少しも湧いてこない。以前日和は「毒蛇の扱いは意外と簡単で単純」と述べていたが、彼の評価には腑に落ちない点ばかりだ。
急かすような内容のメッセージを閉じ、茜はスマホから顔を上げる。すると、自動販売機の前で二人の男女が困り果てたように立ち尽くしているのが視界に映った。女の方が投入口に千円札を入れるが、金額がボタンに反映されることなくすぐに排出されてしまう。それから何度も札を入れ替えたり裏返したりと試行錯誤をしたが、結果はいつも変わらず手元に戻ってきていた。
「……その自販機、お札の読み取り部分が故障してるみたいですよ」
おろおろと慌てふためく姿を見ていられなかった茜はとうとう近づいて声をかけた。二人が振り返ったことで首から下げた社員証が見え、同じコズプロのスタッフだと認識する。
「そこの隣と、ちょっと行った先のところは普通に稼働してるみたいなんで、そっち行ったら――」
「いえ、いいんで」
「あの、私たちもう行きますから」
茜が言い終わらないうちに、二人は茜の顔を見るなりそそくさとまるで逃げるような足取りで去ってしまった。
彼らのような反応をされるのはこれが初めてではない。茜の現役時代からコズプロに身を置いていた者の中には、茜が戻ってきたことを快く思わない人間もいるだろう。それはそれで理解はできるが、決して気分の良いものとは言えなかった。残された茜は自販機と彼らを見比べながら、むっと眉を寄せる。
「なんだよ、熊でも見たような顔しちゃって」
「だよなァ、熊はひでェよなァ? 奴さんらからすりゃツチノコくらいが妥当じゃねェの?」
「あ〜? 誰がツチノコだってこの」
茜はその声の主を見ていなかったが、誰が話しかけてきたかは瞬時に理解していた。茜の神経を逆撫でするような物言いをする人物は複数名心当たりがあるが、彼はその中でも特に掴みどころのない人間だ。――個人的な嫌悪感というのも多少はあるが。
軽蔑を孕んだ鋭い視線を向けると、天城燐音はさも思ってもいない様子で「怖ェ怖ェ」と肩をすくめた。
「ぎゃはは、実際そう外れてもいねェっしょ? 噂に聞く幻の存在がその辺平然と闊歩してたら“普通”の奴らはビビッて逃げ出すもンだしなァ。ツチノコ側はそういう奴らと同じように、ただ息して歩いてただけだってのに」
「ただの落ちた枝をツチノコなんて仰々しく法螺を吹いて伝聞するのもよほど悪質だと思うけど。茶化したいだけなら帰ってくれるぅ?」
「え〜燐音くんただ自販機に飲み物買いに来ただけなんですけど〜。それとも何か? コズプロアイドルの先輩様は、古巣で散々好き放題やってくれたCrazy:Bには水も与えてやらねェってか?」
「まさかまさか、ご自由にどうぞ? あ、支払いは千円札がおすすめです〜」
茜はわざとらしさを隠そうともしない笑顔を貼り付けて場所を譲る。燐音は軽やかにスマホをタップし――おそらくESアイドル間のみで使われる
煽り合いの末に一向に進まない会話を先に転がしたのは燐音の方だった。
「事実、似たように思ってるやつらは多いと思うぜェ? ある日突然、あの副所長が昔売れっ子だったアイドルを連れ戻してきただけでも驚きだってのに、噂によると現役時代コズプロに苛め抜かれただの、玲明を裏で牛耳ってただの尾鰭のついた話が掘れば掘るほど出てきやがる。腹に一物抱えた奴らか、逆にひっそり平和に生きたい奴らはそりゃ慎重にもなるっしょ。スタッフもアイドルも……特に玲明出身が多いコズプロではなァ」
「わざわざ言われなくても分かってるよ。ほんと、コズプロってめんどくさい奴らの集まりなんだから。情報集め目的だか知らないけど、事あるごとに人の地雷つついてくる誰かさんも含めて」
じっとりと咎めるような茜の視線を正面から受けても、燐音はぎゃははと声を上げて笑うだけでまるで気にする素振りは見せなかった。茜も彼がそこまで殊勝な性格ではないと、以前彼が所属するCrazy:Bを巡って起こったらしい一連の騒動を小耳に挟んでから覚悟はしていたので、半ば諦めてはいるが。
「あんたそのノリHiMERUにもやってんの? やめたげなよ、あいつああ見えて繊細なんだよ?」
「お、元カノマウント?」
「殺すぞ。一応、玲明時代からの友…………うーん、知り合い、だし……」
HiMERUについては茜も触れにくい部分があった。例の講堂で起きた事件について、漠然と口を開いてはいけないという意識が茜の中に刻まれている。療養のため活動休止までせざるを得なかった当事者の二人が、今は何事もなかったようにALKALOIDとCrazy:Bとしてステージに立っているのに、わざわざ古傷を抉るような真似はできない。HiMERUへの些細な違和感に、“きっと復帰のためのキャラ変だろう”という理由をこじ付けながら。
「ふぅん……? まぁ、茜ちゃんの謎のメルメル推しはいいとして――おっ、今日の俺っちはツイてる! 来いよォ、茜ちゃん。俺っちが奢ってやるっしょ」
突然、燐音が指先をちょいちょいと動かし茜を呼んだ。先ほどまでディスプレイで回っていたルーレットが停止し、“当たり”の文字を大きく表示させながら紙吹雪を散らしている。
「当たりのもう一本を果たして奢りにカウントしてもいいものか……それ受け取ったら最後、変な脅しがくっついてきたりしない? 大丈夫そ?」
「好意を素直に受け取っとくのは世渡りの基本だぜェ? 蛇ちゃんはともかく、茜ちゃんはそこまで戦闘民族ってタチじゃねェだろ」
「……………………」
そこで茨を引き合いに出すのは極論だと茜は思ったが、彼の言う通り茜も積極的に誰かと衝突したいわけではない。もちろん、向こうから投げられてきたのならもれなく全て打ち返す所存ではあるものの。
「お〜い、そんなに悩んでたら時間切れになっちまうんだけどォ? おら、じゅ〜う、きゅ〜う、は〜ち、な〜な……」
「……」
「よ〜ん、さ〜ん……」
「六と五どこいった!? ……ア、アイスココア!」
茜が追い立てられるように述べると、燐音は間を置かず自動販売機の下段のボタンを押した。取り出し口に落ちてきた缶を拾い上げ、ほらよと茜に手渡す――直前で、彼はすっと缶を高く持ち上げる。てっきり貰えるものだと思っていた茜の手は掲げられたまま静止し、眉間に深い皺を作った。
「……おい、好意は素直に受け取れっつってたのは誰だよ」
「言ったは言ったが、俺っちは別に脅さないとは言ってねェぜ」
「こ、この……………………これだから私、酒カスパチカスって大っきらい!」
ぎゅっと拳を作った茜に燐音はけらけらと笑う。思わずこの拳を顔面に叩きつけてやりたくなったが、不愉快とは言え所属アイドルの顔に傷をつけるわけにはいかないので脳内の想像だけに留めて下ろすことにした。不完全燃焼になってしまった怒りが腹の奥底でぐつぐつと煮えたぎっている。
「気に食わねェ奴らをカスで括ってあれこれ結び付けンのも相当暴力的だぜェ、茜ちゃんよォ。パチンコ帰りの奴が道端で猫を助けてもそいつは悪人のままで、逆に茜ちゃん好みの品行方正な奴……メルメルやジュンジュンが浴びるまで酒飲んだらそいつはロクデナシか?」
「ジュッ……漣くんとHiMERUは酒飲まないしパチ行かないし煙草もしないし夜遊びも火遊びも女遊びもしないからっ!!」
「いつにも増して強火っしょ。あと俺っちも別にそこまでは言ってない」
「ナイトクラブに未成年連れ込んだ奴が何言ってんだ!」
湯沸し器のように一瞬でヒートアップした茜がこめかみに薄く血管を浮き出させて反論した。正確には“連れ込んだ”だとやや語弊はあるものの、重箱の隅を楊枝でほじくるように反論していては終わりが見えないため「話を戻すけどよォ」と燐音がうなじを掻く。
「ここは穏便に取引と行こうじゃねェの。このアイスココアの命が惜しけりゃ、茜ちゃんの持ってる副所長の情報を俺っちに寄越しな」
「やだよ。たった百六十円分奢ってもらうためになんでそんなめんどくさい真似しなきゃいけないの」
「物は考えようじゃねェの? 日頃からパシられ続けてそろそろ恨みつらみ鬱憤が溜まってくる頃っしょ。ここらでいっちょぎゃふんと言わせて、あの澄まし顔の副所長に一泡吹かせてやりたくねェか?」
「……………………………………」
へらりと企みを隠さない顔に別の人物を重ねた。
――あなたをこんな目に遭わせた奴らに一矢報いたくはない?
(あいつ、どんだけ恨み買ってんの…………?)
突撃侵略制覇と、とかく争いを好む男なので相応の反感を浴びているだろうと思ってはいたが。まさかここまで、自分に共謀を持ち掛ける人物が揃いも揃って茨への報復を餌にしてくるとは。
しかし茜にとって、それらの提案が何の魅力にもならないことは既に明確だった。茨の人使いの荒さと好戦的な性格に辟易とすることはあれど、彼自身に向ける怨恨や反抗心の類は茜にはこれぽっちもないからだ。なので燐音の誘いは取り付く島もなく拒否されるだろう――通常ならば。
燐音の謀に一切興味はないが、ちょっとしたトリガーにはなるかもしれない。すなわち、茨を揺さぶり――彼のタブレット端末を奪う隙が生まれる可能性がある。そこまで期待をしているわけではないが、今は少しでもきっかけが欲しい頃合いだった。
「……で? 茨の何の話が聞きたいの?」
「お、乗る気になった? んじゃまず前提なンだが……茜ちゃんは“ボギータイム”って知ってるゥ?」
その名称に聞き覚えはある。確かここ数日EdenとRa*bitsが収録中のバラエティ番組のはずだ。
「なんか……なんか知らないけど七種がこてんぱんにやられてるやつ」
「そうそう、それそれ。毎日事務所ごとに指令を出さなきゃならねェンだが、その順番がCrazy:Bにも回ってきてなァ。せっかくのバラエティでありきたりな内容ってのもつまらねェし、情報集めに東奔西走してたところなンだよ」
さすがは悪事に妥協を許さない男だ。自分たちが出演するわけでもないのだから本来片手間で済むものを、まさか下調べまで行っているとは。茜は呆れを通り越して感心していた。
「ん〜〜バラエティ向きの七種の弱点かぁ。バラエティ自体がすでにあいつの弱点って感じだけど。フードファイトとかは? あいつの燃料ほぼささみとブロッコリーだけだからEdenの中じゃ一番不利だし、ついでに漣くんが有利になって一石二鳥……!」
「あ〜悪くねェけど、それたぶんニキがやるわ」
「ぐ……ユニット内で企画被りは良くないか……あっ、百匹の子犬がいる中で座禅組ませるのは? あいつ追い込まれてる時の集中力だいぶ下がるから!」
「おっ、良いこと聞いた。予算内に収まるかどうかは別として、副所長が動物に囲まれてンのはバラエティ的には美味しいっしょ」
「あとはファストフード店のレジで“スマイルください”してもらうとか……」
「……なァ、もしかして、俺っちより茜ちゃんの方が楽しんでねェ?」
ふと燐音に聞かれ、茜ははたと動きを止めた。必要以上にぺらぺらと動いていた口元を手で隠し、視線を右往左往させる。
僅か数分の行いを振り返ってみる。どう考えても柄にもなく喋りすぎだ。
こほん、とわざとらしく咳払いをし、茜は緩んでいた表情をむっと引き締めた。
「……はい、百六十円分は喋ったでしょ。報酬は?」
「うんうん、充分すぎるほどっしょ。つーわけでほら、お約束の品だぜェ」
くいくいと催促する茜の手のひらに、今後こそアイスココアの缶が乗せられた。冷えた感触を待ち望んでいたかと問われればそうでもないので、特にこれといった満足感は得られなかったが。
「つーか俺っちが言うことでもねェけど、雇い主の情報簡単に明かしていいのかよ? ご主人様からの信用下がっちまうんじゃねェの?」
燐音はここからはただの世間話だと言わんばかりに話を切り出す。
「私と七種に信頼関係とかないし。それにどうせ私は日陰育ちの蝙蝠女だしね。その場その場で勝算がありそうな方に味方してんの」
昨日の敵を今日の友にすることは容易い。その逆も然りだ。必要に応じて己の立ち位置を変えることにひとかけらの躊躇いもない。
そう自嘲混じりに述べた茜を見下ろす燐音の感情は何とも表現できなかった。憐れむようでもなければ、軽蔑するようでもない。かと言って感心するわけでもない。ただ「ふーん……」と目を細めていた。
「生きやすそうな生き方なのに、生きにくそうに生きてんなァ。難儀な性格に生まれちまったもんだ」
「はぁ?」
「けど、生き方なんて個人の自由だ。神様だろうとお釈迦様だろうとそいつだけは縛れねェわけだし。俺っちは割と応援してるぜェ」
「意味わかんねー……」
そうひらひらと手を振られても、彼の理論はさっぱり茜の頭に入ってきていなかった。そもそもこれは理論ではなく、彼の感想だけをつらつらと並べられているだけなので茜が理解できないのも当然だが。
「まァあれだ。もし隠れ蓑が必要な時はナイトクラブ紹介してやンよ」
「ありがとう。舌引っこ抜かれても絶対行かない」