指差しのよすが

マイナスドライバー1本分の幸福

38

 その日は丁度休日で、午前出勤の日だった。どこかで祭りでも行われていたのか交通が混雑しており、各地で渋滞が発生していた。

 茜がESビルに向かうために乗っていたバスもそれに巻き込まれた内のひとつだ。

 晩夏の蒸し暑さと満員の車内との相乗で上がった熱気がじわじわと気力体力を蝕んでいる。茜は顔に張りつく髪を指でよけ、動かないバスとは裏腹に刻一刻と進むスマホのデジタル時計を見つめていた。やっとのことで渋滞を抜けESビルに到着したのは、出勤時間の僅か一分前のことだった。

 そのため、その時コズプロ事務所内で何が行われているかなど確認もせず足を踏み入れてしまったのだ。


「うわギリギリ! お疲れ様で〜……………………す」
「……………………………………………………」


 ばちりと、茜と全く同じ色の瞳と視線がかち合う。それだけならば日常の光景だ。だがその人物は、茜のよく知る顔をしていながら茜の記憶とは似ても似つかない装いをしていた。

 昨日まで襟足が少し伸びた程度の長さだったルビーレッドの髪は、背に流すまでのロングにまで変化している。筋肉と骨感の浮き出る部分をカバーした絶妙なコーディネートはスタイリストの手腕によるものだろう。仕上げにあしらわれた華美すぎないアクセサリーとネイルが、目の前の見事なガールスタイルを作り上げていた。


「え……え? さ、七種……だよね…………? 何してんの…………?」
「…………………………色々ありまして」
「あっ、説明めんどくさくなってやめたやつ!」


 どういうわけか女性と見紛う衣装に身を包んだ茨は、苦虫を噛み潰したような顔で茜から目を逸らした。横を向くとすっと通った鼻筋と子鹿のような睫毛が存在感を増し、まさか男であるとは夢にも思わない眉目秀麗な容姿に感嘆を通り越していっそ怒りすら湧いてくる。


「……七種、あんた知らない間にまつエク行った?」
「いいえ。いたって基本の化粧のみですが」
「じゃあなんでそんなに長いんだよ……遺伝子当たりくじ引きやがって〜……!」


 客観的に見て茜も悔しがる必要はない外見をしているのだが、相手が茨で一応同じ血が流れているらしいことが余計な対抗心を生み出していた。きっと女装をしていたのが日和や凪砂ならばここまでではなかっただろうと客観的視点で分析をした後、軽い咳払いをして話題を変える。


「で、何その格好? 仕事? Edenは仕事選ぶユニットだったと思うんだけど」
「そのはずなんですがね。ただ、バラエティの罰ゲームに好き嫌いであれこれ事務所NGを出しまくっても番組が成立しませんから。……ところで、ボギータイムではCrazy:Bの指令考案には来栖氏も一役買っていたそうで! いやはや、随分と仕事熱心なご様子で自分、感服しました……!」
「い、嫌味くせ〜……!」


 その時、事務所の奥から一人の女性スタッフが姿を現した。茜も顔馴染みの人物で、手には試着用の服が何着かハンガーでかけられていたことからおそらく衣装選びの最中であったと伺える。


「あ、茜ちゃんお疲れ様。そうだ、茜ちゃんの意見も聞いていい? 副所長すっごく似合ってるでしょう!」


 似合っていると言われ大変不服そうな茨の横で、スタッフは有頂天外にはしゃいでいた。あれよあれよと言う間に周囲が勝手に進めていく疎外感は同情できるものの、深慮遠謀で知られる茨がバラエティとはいえまさか女装という安直な笑いに走るとは思いもよらず愉快さが上回る。つむじからつま先まで舐めまわすようにじろじろと見たのち、茜はふんと鼻で笑った。


「………………まあ、いいんじゃない?面白いし。あ、アイシャドウもうちょっとピンク寄りにしても可愛んじゃないかな。あと写真撮っていい?」
「遊ぶな」


 茨が機能を失った表情筋で返すが、茜は対して取り合うこともなくチークやリップなど次々と茨の顔面に指をさしていく。
 その途中で、茜の提案を聞いていたスタッフがあっと声を上げた。


「茜ちゃん、ちょっと副所長の隣に並んでみてくれる?」


 急になんだという疑問はあったが、茜は言われるがまますっと移動し茨の隣に並び立つ。スタッフは身長の違う二つの顔を何度か見比べると、「ほらね、やっぱり〜!」と手を叩いて喜んだ。


「副所長と茜ちゃん、こうして見ると顔がそっくり! 生き別れの姉妹みたい〜!」
「……………………………………」
「……………………………………」


 惜しい。生き別れの姉弟だ。









 ボギータイムの罰ゲームとやらの撮影は数日に及んだ。他事務所と合同での企画のためスケジュールの都合もあるのだろう。例の女装姿で撮影スタッフに囲まれている愉快な光景は、しばしばES付近で見かけられた。

 だが、茜がESビルで接するアイドルはなにも彼一人ではない。


「よ、茜ちゃん。ど〜もど〜も、燐音くんで〜す」
「うげぇ、天城燐音だ……」


 事務所内の曲がり角からひょっこりと現れた燐音は、以前と変わらず上機嫌な顔で茜を見下ろした。対して茜が眉間に皺を寄せることも通常運転で、もはやお決まりの挨拶になりつつある。


「スタッフさんから聞いたけど、蛇ちゃんのメイク、茜ちゃん監修なンだって? 案外茜ちゃんも乗り気じゃねェの」
「その後散々本人に嫌味言われましたけどぉ〜? 私があれならCrazy:Bは二時間くらい説教されてたんじゃないの」
「いや、俺っちたちは特になかったけど」
「最悪! GODDAMN! GODDAMN〜!」


 茜は今すぐに地団駄を踏みたい気持ちでいっぱいだった。特に意識もせずにするりと出てきたジュンの口癖を吐き出し、顔をより一層くしゃりと歪ませる。その様子を燐音は特に笑うでもなく品定めするように目を細め、変わらない表情で飄々と述べた。


「ま、それはそれとして。副所長殿がお呼びみたいだぜェ。第四会議室に来い――だとよォ」
「? なんでわざわざ伝言? 普通にスマホで呼べばよくない?」
「さぁなァ? 俺っちも詳しくは知らねェし。けど、記録に残っちゃまずいことも世の中にはあんじゃねェの? デジタル技術が進んだ現代社会で、アナログ管理に勝る最強のセキュリティはねェってな」
「言ってることがよくわかんないけど、その理屈だとアナログに直接関わった人間がセキュリティの一番の穴になるんじゃないの?」
「そうそう。で、秘密を知っちまった使いっ走りは人知れず闇夜に紛れてばっさりと――みたいな話、時代劇じゃあるあるっしょ」
「くだらな〜」


 彼の話はいつまで経っても終わりが見えない、と茜ははっきりと切り捨てた。こうして徐々に自身の独壇場に引き込むのが彼なりの処世術なのかもしれないが、それに最後まで付き合っていられるほどの暇はない。茨に顎で使われるのは大変不本意だが、まだ雇用主に牙を剥くタイミングではないことは重々理解していた。

 燐音に告げられた会議室へ足を進めると、背後から「行ってら〜」と軽薄な声で送られる。一度立ち止まってちらりと目だけで振り返ってみると、燐音はにやりとした含みのありそうな笑みでひらひらと手を振っていた。が、返事をする気は茜には毛頭なく、ふっと鼻を鳴らしてその場を後にした。

 やがて茜が曲がり角の奥に隠れると、燐音はゆったりと瞼を下ろし首の後ろで手を組む。


「――“説教は”、なかっただけなンだけどなァ」
 









 鍵のかかっていない扉を三回叩く。応答はない。数秒待ってみても一向に変化はなかったため、茜は思い切って扉を開けてみた。


「七種? いないの――――?」


 中に足を踏み入れても、呼び出したはずの茨の姿はない。正面、それから左右へ動かそうとしていた視線はふと、ある一点に釘付けとなった。

 備品の可動式テーブル。その端にぽつんと、一台のタブレットが忘れられたように鎮座していた。飾りのないシンプルな色や形状から間違いなく、茨のものだった。

 その瞬間、茜の全身の血液がわっと沸騰したように騒ぎ出した。


(……………………今ならたぶん、いける)


 ポケットから例のUSBメモリを取り出し、右手でぎゅっと握る。尋常ではないほど滲む手汗で一瞬メモリを落としそうになってしまった。

 会議室の外はしんと静まり、足音ひとつ聞こえてこない。何度も確認してみるが、やはり室内にも廊下にも茨の姿は見えなかった。

 今なら。いや、今しかない。ばくんばくんと警告のように跳ねる心臓を無視し、茜はゆっくりとテーブルに近づく。タブレットを覗き、側面の電源ボタンを押した。数秒も経たないうちに、おそらく初期設定から変えていないであろうロック画面が表示される。

 院長の話では、このままメモリをポートに挿すだけでよいとのことだった。無理に暗証番号などを解く必要はないと。

 茜は迷わずメモリを挿した。一瞬、メモリに取り付けられたランプが緑に点灯したかと思うと、すぐに光は消える。あとは内部のプログラムが侵入し、勝手に目的のデータを盗み出すだろう。


(…………はやく、終われ……………………!)


 カチコチと壁にかけられた時計の秒針が一定のリズムを刻む。たったの十数秒間が、茜には数十分にも数時間にも感じられた。

 だが、それでもまだプログラムは作動している。一度ランプが点灯し、その後点滅すれば完了の合図だと教えられたが、固唾を呑んで見守る茜を笑うようにメモリは一向に沈黙したままだった。


(……………………………………)


 ランプは未だに光らない。

 十秒ほど待つ。変化はない。焦りが苛立ちを呼び、茜の指先がトントンとテーブルを叩く。

 さらに十秒待つ。無意識に瞬きの減った眼球が乾燥を訴え始めた。

 さらに十秒待つ。

 光った。

 茜の目が確かに、緑色の発光を捉えた。

 ――ガチャリ、と背後で音が鳴ったのは、それとほとんど同時だった。


「おや、すでにおられていたとは。呼び出しておいて申し訳ありません、急な連絡が入ってしまったもので」
「…………っ、さ、七種」


 瞬時にメモリを引き抜く。ほんの一秒にも満たない時間で動いた自身の反射神経に茜は内心拍手を送った。

 けれど、それで一安心とは決してならない。背中にぶわりと冷や汗が噴き出すのを感じる。まるで心臓に刃物を当てられたように全身が凍った。

 拳で覆ったメモリを後ろ手に隠しつつポケットに入れ、茜は不自然にならない程度にゆっくりと振り返る。

 一言も発さない茜を茨は口角を上げながらもどこか怪訝な目で見つめていた。だが彼が何も言わないところを見ると、どうやら茜が彼のデータを盗み出そうとしていたことに気づいてはいないらしい。それだけで茜の緊張は微かに緩まった。

 しかし、ここで何も話さなければ疑いを生むだろう。茜は懸命に、何と返すべきかを熟考した。


「……ほ、ほんと。呼び出しておいて放置はなくない? タブレット放置してるのもリテラシー的にどうなの?」
「ええ、ええ。自分としたことが面目ない。すぐに戻れると思いうっかりしてしまいました」


 茨はそう言うと、特に何もなかったようにすっとタブレットを回収した。その間も、茜の手に隠されたメモリに気づいたそぶりはない。鋭い彼が些細な異変を嗅ぎつける前に、と茜は早速本題に入ることにした。


「で? 今度は何の用事? いつもなら仕事の指示はスマホで連絡してくるはずじゃない?」
「……そうですね。少々、プライベートな話になってしまいますが……その前に茜さんは、ボギータイムの概要について粗方ご存じですよね?」


 茨はすっと笑顔を消して尋ねる。


「……最近はその話ばっかりだなぁ。あれでしょ、EdenとRa*bitsが共演してあんたが女装したバラエティ番組」
「…………まあ、その解釈で間違いはありませんが。今回は番組内容の裏側、製作陣についての話です。いわゆる大人の事情とぼかされる部分ですね。詳細は省きますが、先日ボギータイムなどの番組を管理していた人間が業界から姿を消しまして。その際、ある人物の日記が偶然見つかったんです」
「ある人物?」


 茜が聞き返すと、茨は持っていた厚い手帳を茜に手渡した。


「貴女もご存知の筈ですよ。ゴードファーザー、と言えばわかるでしょう」


 茜は自分の胸が先程とは別の意味でざわつくのを感じた。死後なおも墓標となって業界の中心に鎮座する名前。血縁という薄い繋がりながらも、一生無関係ではいられない。それは茜にとっても、茨にとっても同じだった。


「……貴女にも、それを読む権利はあるでしょうから」


 その人物の手記が、今茜の手にあるそれだという。こうして渡されたのだから、中を見てもよいのだろう。茜はごくりと唾を飲むと、ゆっくりとその表紙に指をかけた。


「………………」


 つらつらと、紙をめくる度に人の名前が流れていく。おそらくは彼が生きていた当時活動していたアイドルたちの名だ。だが紙をめくる度大半の名前には斜線が引かれ、別のワードへと矢印で結ばれていく。その先に続く、『ボギータイム』のワード。


「どうやら彼の中では、ボギータイムはアイドルの生け贄儀式だったようですね。まあ、この辺りの話も今は割愛しますが……笑ってしまうでしょう? そうまでして愛するアイドルと、愛するアイドルに捧げる供物については事細かに記しているにも関わらず――彼が血を分けた家族は誰も、誰一人として、彼の手記に名前を刻むことすらできなかったんですよ」


 そう言いつつも、彼の顔は無表情そのものだった。瞳は若干の落胆と失意を孕んだ陰りが薄く濁っている。

 正直なところ、茜はそんな様子の彼を見たのはこれが初めてだったため、どうすればよいのかさっぱり分からなかった。けれど、一度聞いてみたかった問いがふと頭に浮かぶ。これは同情なんかよりも、好奇心に近いのかもしれない。


「……あんたって、…………父親に、会ったことあんの? その、私らの」


 予想外の質問だったのか、茨は数回瞬いた後片眉を上げて答える。


「いいえ。自分も赤子の頃に施設に捨てられた身なのでもう顔も覚えていません。ついでに、判明しているのは血縁関係のみで、貴女の母親との関係も結局分からず仕舞いです。前妻だったのか、あるいは不貞を働いていたのか……こればかりは本人が現れない限り真相は闇の中ですね」
「………………あんたも、施設に捨てられたの?」


 ひんやりと、茜は足先が冷えていくのを感じた。同時に、USBメモリを入れたポケットがずしりと重くなったような気がした。


「ええ。ですが、『俺』は施設よりもその後に送られた民間軍事会社の方に長くいたんですが。貴女のいた施設とは比較できませんが、地雷除去も銃の組み立ても今となっては良い経験……とは口が裂けても言えない程度の環境でした」


 茨は自分を表に晒すことのない人間だ。ポーカーフェイスの鎧を纏いおべっかの槍で敵を突き刺す姿を茜は何度も見てきた。しかし、その度にある疑問を抱いていたのだ。そんな重装備でしか人と関われない彼が、なぜ自分自身の人生を切り売りするアイドルという職に就いているのか。

 理由は単純だ。誰だって、青空が見たいものだ。


「……なるほど〜? 納得した。道理でがめついわけだよ、あんた。上から見物客気取りで見降ろされるのは、確かにむかつくけどね。同情……とかは、しない方がいい?」
「はい。自分も別に不幸自慢をしたいわけではありませんし、薄っぺらい同情が一番神経に障ります。……は、今のところ気づいていない様子ですが」
「?」
「こちらの話です」


 後半の内容は茜には理解が及ばなかったが、詳細を話さず、かつ茜に隠そうとしていない時点でそこまで重要なものではないのだろう。深掘りすることは可能だが、それで本題から外れてしまっては本末転倒だったので一旦思考の隅に追いやる。

 途端に、茜には目の前の野心にまみれた青年が年端も行かない少年のように見えた。机の上に並べられたチョコレートを、いつか自分のものにしてやると静かに闘志を滾らせる子どものように。

 それは深く青い、茜と同じ色の目をしていた。


「……私は、正直ゴッドファーザーのことなんてどうでもいい。彼が何をしたとか、何を考えてたとか、それ自体に価値なんてないよ。大事なのは、彼が遺したもの」


 茜は手記を閉じ、茨に返す。彼は何も言葉を発さず、じっと手記の表紙を眺めていた。茜の指先がすいと、宙を指した。


「ところで、私は何か行動に移すとき、指針を一個決めてるの。今は『ジュンのためになるか、ならないか』なんだけど」


 見上げた指針だ、と茨は思った。ここまで一人の人間に傾倒することなど人生の中で一度あれば十分おつりが来るほどだ。ただ、茨の同輩である彼の一体どこにクレオパトラや楊貴妃並の魅力を茜が見出したのか、茨はさっぱり解せなかったが。


「あんたの指針は何?」


 そう聞かれて、茨は考える。けれどこの答えは、そう時間をかけることなくするりと茨の口から出てきた。


「貴女の言い方に則るなら、それはもちろん、『Edenのためになるか、ならないか』でしょうな」


 答えに満足したのか、茜はにっと歯を見せて笑った。


「なんだ。じゃあ私ら、案外良い友達になれるんじゃない?」
「何を今さら! 自分と貴女は、この世で唯一血を分けたきょうだいではありませんか! こうしてお会いできたのもまさに巡り合わせ、運命というものでしょう! 姉上とお呼びしても?」
「あ、待ってやっぱ無理そうそれは気持ち悪い鳥肌立った。……………………共闘関係! これで行こう」


 茜がぱちんと指を鳴らすと、茨ははてと目を見開く。その顔は、ほんの少し楽しんでいるようにも見えた。


「おや。どなたか倒したい相手でもいるので?」
「そ。私が相続しちゃった負の遺産――を、ちょっとね」
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