マイナスドライバー1本分の幸福
39
ふつふつと、言い表しがたい苛立ちがジュンの中で募っていくのを自覚していた。意味もないのに握っていたボールペンのノックを押そうと無意識に親指をかけては、直前で踏みとどまり長い溜息を吐くを繰り返す。手元の資料に印刷された文章は半分も頭に入ってこず、文字列を追う視線は行を進める度に決まってとある一方に向けられる。「――というわけなので、専門家のご意見も賜りたいと思いまして」
「専門家専門家って、あんまり持ち上げられると逆に煽られてるように聞こえるんだけど〜? ただのSNS運用に専門もクソもある?」
「とんでもない! 現役時代、茜さんの人気の火付け役となったのもまさにSNS! ソーシャルメディアの扱い……特に十代女性がメインターゲット層の情報戦となると、茜さんの右に出る者はいませんとも!」
「あ〜あ〜出たよ茨のよく回る舌。コズプロの役職って舌が長い順に決まったりするの?」
事務所での打ち合わせ中に偶然通りがかった茜が茨に呼び止められてから数分、テーブルを挟んでジュンの対角では相変わらず火花を散らせる二人の姿があった。
けれど、以前とはどことなく空気が違う。
「………………………………」
気になる。気になって気になって、目が焼けてしまいそうだ。
放っておけばそのうち電気でも発しそうなジュンの雰囲気に、いい加減日和と凪砂も気づいた頃だった。
「ジュンくん? どうしたの、ただでさえ悪い目つきをそんなに怖くしちゃって」
「目つきが悪くてすいませんねぇ〜? いや、ただ………………っ、なんでもねぇっすよ」
けれど、口にするのはなんとなく躊躇われて、ジュンはふいと視線を逸らした。嫉妬深い子どものようで情けない、と自分でもそう思う。都合が悪くなると口を閉ざすその行為こそが子どものようだと指摘されてしまえば、ジュンには反論の余地もないのだが。
そうして年上の二人とジュンが議論から離れつつあることを、茜と茨の両名は即座に感じ取った。諍い寸前だった空気は一瞬で消し去り、意識をジュンに向ける。
「ジュン。言いたいことがあるのならはっきりと言ってください。Edenにとってはそれなりに大きな舞台になる予定ですし、こちらとしても後顧の憂いはなるべく早い段階で断ち切っておきたいので」
「ジュン〜。逆に言えばはっきり伝えとかないと後回しにするつもり満々だよこいつ。副所長の茨様は忙しいんだから」
――あ、まただ。
ジュンがぱちりと瞬く間も、どうやら二人は一切気に留めてもいないらしい。
「……………………い、いや。打合せ内容とは全く関係ない話なんで……」
「…………………………」
「…………えっと……………………本当に大したことじゃないんですけど…………」
ジュンの童のような意地は、突き刺さる視線を前にあっけなく散った。虚勢も覚悟も丸呑みするようにごくりと唾を飲み込み、しどろもどろに息を吐き出す。
「茨と茜、なんだか仲良くなってません?」
発言者がデビューしたばかりの気弱な新人アイドルであれば、おそらくは今頃顔面蒼白になっていたことだろう。一瞬で静まった場の空気が実際に重量を感じられそうなほどに重い。
雷が落ちたような衝撃で言葉を失っている茜と、真意不明だがひたすら顔を顰めている茨。いつもなら間に割って入ってきそうな日和も、今は目を丸くしながら事の行く末を見守っている。凪砂が静観を貫いているのはジュンの予想通りだったが。
最初に無言を打ち破ったのは茜だった。
「わ、私と茨が? 冗談、」
「名前で呼んでる…………」
「……………………………………」
一瞬のカウンターパンチを避けきれなかったらしい茜は再び沈黙に沈んでいった。新人アイドルなら泣き出す空間の再来だ。仕事の打ち合わせが収束しかけていたことは頭から完全に消え、この淀みをどう取り除くかだけが共通の問題として残っている。
茨がようやく口火を切ったのは、時計の秒針が半周した頃だった。
「――――では、疑問点などないようでしたら本日は以上であります。次回の打ち合わせは日程が決まり次第ホールハンズに送りますので各自確認を。以上、解散!」
「えっ? 茨?」
「お疲れジュン! じゃ、またあとで!」
「茜ーー!?」
(ぜってえ何かあった! ぜってえ何かあった時の反応でしたよあれ!!)
絡み付いた靄を払うためにとトレーニングルームのランニングマシンでひたすら汗を流してきたはいいが、一向に心が晴れる様子はなかった。シャワーを浴び星奏館に帰ってきてもなお、ジュンの心の奥底では不快感と羨望がぐつぐつと煮詰まっている。
別に、全てが全て悪いというわけではない。日和でさえ口を挟むのを躊躇うほど険悪だった茜と茨の関係が少しでも改善されたのなら、両者と関わりの深いジュンにとっては喜ばしい傾向だ。なのだが。
それを、手放しで歓迎できないのは。
「………………………………」
星奏館を行くあてもなく歩いていたジュンがふらりと立ち寄ったのはブックルームだ。これといって用があるわけではないが、気分転換に普段触れることのない本に囲まれてみるのもいいとふと思い立った。
しかしこの日、ジュンが書物を手に取ることは一度もなかった。
「…………あれ、ナギ先輩?」
見慣れた後ろ姿に声をかけると、彼はゆったりと振り返りマリーゴールドの瞳をジュンに向けた。共用の椅子に腰掛けた彼の前のテーブルには、色も形も多彩な石が十数個ほど広げられている。彼と関わりの薄い人間は皆首を傾げる光景だが、ジュンはひと目見ただけで「ああ」と理解した。
「もしかして、採ってきた石を見てるんです?」
「……当たり。本当は自分の寮部屋でやるべきなのだけど、ブックルームの資料も見ながら整理したかったんだ」
そう言いながら、凪砂は並べられた石の中からひとつをつまみ上げた。およそ三センチほどの鉱石は研磨前の原石の状態で、石本来の鮮やかな色はほとんどくすんでしまっている。おそらく発掘時からあまり手を加えずに保管していたのだろう。
「少し前、海外に行った時に持ち帰ったんだ。これはアメジストで、こっちはメノウじゃないかな」
「へぇ〜。オレは石のことはさっぱりですけど、これを磨いて綺麗なアクセサリーにできるっつーのは未だに不思議な感じがしますねぇ〜」
ジュンが知っている宝石とは専門店のショーケースに埃ひとつ被らず丁寧に仕舞われライトアップされたジュエリーばかりで、凪砂と出会うまでは原石など目にする機会もなかった。何度見せられたところで、それがただの石ころなのか、はたまたいずれ宝石と呼ばれる逸品なのかジュンには全く判別できないが。
その時、ジュンの視線はテーブルのある一点で止まった。
「ナギ先輩。その小さいのもそうなんすか?」
ジュンが指さしたのは、人差し指に乗る程度しかない極小さな鉱石だった。今しがた紹介したアメジストやメノウよりは、大衆イメージの天然石に近い姿をしている。凪砂はジュンに応えるようにそれを手に取ると、そっとつまんでジュンに見せた。
「……何だと思う?」
そう問いかける凪砂は心なしか楽しそうに見えた。けれど、そう聞かれてもジュンの鉱石知識は素人よりもさらに疎い。じっと見つめてみるが、自身が正体を当てられないことは半ば確信していた。
半透明のべっ甲色で、光の加減ではうっすらとグレーが混ざっているようにも見える。ジュンの審美眼で読み取れる情報がこれが限界だった。あとは薄っぺらい脳内辞書をパラパラとめくり、似たような石の名前を必死に探し出す。
「う〜〜〜ん…………あ、琥珀じゃないっすかぁ? 前にナギ先輩が見せてくれた」
「ふふ、似ているけど残念。これはね、ダイヤモンドなんだ」
「………………えっ!? ダイヤモンド!?」
予想外の答えにジュンはまるで耳元で爆竹を鳴らされたように驚いた。
ダイヤモンドとは無色透明で、光を反射するとギラギラと周囲に輝きを撒き散らし時には虹までも映し出す、そういう宝石であるのがジュンの中での常識だった。それに対し凪砂がダイヤモンドだと断言した石は、輝くどころか光を吸収してしまいそうなほどの飴色が沈殿して濁っている。これを磨いてジュエリーショップの看板商品にするのは相当骨が折れるだろう。
仮にダイヤモンドとのみ聞かされて実際に目の前の石が届いたとしても。
(詐欺だと思っちまうよなぁ……)
混乱するジュンに、それもそのはずだと凪砂は薄く微笑んだ。
「ダイヤモンドは採掘量のうち、装飾品になるのは全体の約二割程度と言われている。残りの八割は大半が工業製品の素材として使われるんだ。この石は、その八割の中のひとつ」
「ええと、つまりはアクセサリーにならない工業用ってことですか?」
「うん。まあ、最近はこういったブラウンダイヤも装飾品として使用するケースは増えているみたいだけど。でも、やっぱりその中でも低品質に分類されてしまうのは間違いないかな」
そう言って視線を落とす凪砂の目は憂いを孕んでいるように見えた。
「人間の価値基準で粗悪品と測られても、その石の価値自体が消えるわけではないのにね」
「粗悪品……」
非特待生、の一言がジュンの脳に一瞬よぎる。劣等生だからとショーケースに飾られないまま、文字通り身を粉にして特待生に尽くす者たち。
または、その逆。翻弄されるまま身を削って、かがやきを失ってしまった特待生たち。
「あ、あの、……ナギ先輩。このダイヤも、きちんと磨けば光るんですよねぇ?」
凪砂は一瞬驚きを露わにしつつ、こくりと頷く。
「だったらこれ、オレらで磨けませんか? せっかく土の中から見つけてもらったのに一度も輝けずに工業用の粉にされるなんて、そんなの――そんなの、あんまりっすよ」
凪砂はジュンの視線がダイヤモンドに向けられながらも、別の人物を思い浮かべているのをはっきりとわかっていた。その金色の瞳に映っているのが誰であるかも。
けれど、ジュンの純新無垢な期待はばっさりと切り捨てられた。
「…………残念だけど、原石価値がなくても一応はダイヤモンドだから、磨くには相応の設備が必要になる。頑張れば不可能ではないけれど、あまり現実的とは言えないね」
「そ……そうっすよねぇ……思えば、ダイヤを削るのなんて一苦労っすもんね……」
ジュンの頬にかっと熱が集まる。ダイヤモンドが地球上で最も硬い石と呼ばれていることなど、たとえクイズ番組惨敗の歴史を持つジュンであっても忘れることのない常識だった。穴があったら入りたいと切に願ってしまう。
「だから、この石はジュンにあげるね」
「……………………はい?」
ぱちくり。ジュンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で瞬く。対して凪砂はくすりと微笑むと、小さなダイヤモンドをまだ状況が読み込めないジュンの手のひらに乗せる。
「きっと、私よりもジュンが持っていた方がいいと思うから」
ダイヤモンドがころりとジュンの肌を転がる。重みは一切感じられず、硬度十の孤独なまでの硬さを手に伝えるのみだった。
――茜ちゃん、今どこにいるの? 場所を送ったから、二十分で来てほしいね!
――今事務所でお仕事中なのでどこへ行くにも時間がかかります。無理です。
――来てくれたらお茶をご馳走するね。
茜と日和からそのような旨のメッセージを交わしてから二十五分が経過した頃。細い通りに面した喫茶店の扉がからんと開いた。
「もう、遅いね茜ちゃん! 待ちくたびれてす〜っかり紅茶が冷めちゃったね! ジュンくんなら十五分で来るところだね!」
「ジュンみたいな体力自慢の人と一緒にしないでくれます〜!? 五分遅刻なら私も頑張った方でしょ……!?」
茨の許可を取り途中まで進んでいたデータ整理を中断し急いでタクシーに飛び込んできたのだから、褒められはすれど文句を言われる筋合いはない、と茜はぐっと眉を寄せた。なんで私? という疑問はさておき、もちろんタクシー代は経費として申請しておくとして。
日和の座るボックス席につかつかと足を進め、正面に向かい合って腰を下ろした。軽く見渡したところ日和と茜以外の客はいないようで、店内は閑散としている。毎日がこれでは店の経営が心配になるが、そんな杞憂を塗り替えるように日和がぺらぺらと語った。
「約束通り、ここはぼくがご馳走してあげるね。何がいい? ぼくのおすすめはオレンジチョコパンケーキだね! 紅茶も九種類から選べて……」
「え〜っと、私はよくわからないので、巴さんのおすすめでお願いします」
「そう? それならこのパンケーキと、ブレンドティーのセットにしようね」
日和はそう言うと、茜が口を挟む間もなくてきぱきと注文を済ませてしまった。食に一切のこだわりが無い茜にとっては楽なことこの上ないが、ちらりと視界に映ったメニュー表の価格を見て若干の後ろめたさに苛まれる。かつての茜が三ヶ月は我慢しなければ食べられないような代物を、食べさせ甲斐のない舌に味わわせることになるなんて。
「さて、ご用件はなんです? わざわざ呼び出すってことは何かお話があるんでしょう?」
「うん? 別に用はないね。ただ一人でお茶をするのも寂しいし、ジュンくんは今は別件で忙しいだろうから茜ちゃんに声をかけただけだね」
「えぇ〜……?」
ようは、都合のいいおしゃべり相手として茜に白羽の矢が立っただけだった。
(時給が発生する休憩時間だと思えばまあ……いいか……?)
所属アイドルの急な呼び出しに応えるのもスタッフの業務の一環として押し通すことにした。そう、これは一般企業で言うところの接待だ。ビジネスマンのことはよく分からないが、そういうものだろう。頭の片隅でイマジナリー七種茨が「通常、接待は労働時間に含まれませんが」と訂正しようとしてきたが、訴えは全て棄却した。
音を立てずにことりと置かれたティーセットを眺めて、茜は息を吐く。
「そうは言っても、貴方が満足するような面白い話は期待しないでくださいよ。話のネタなんてちっともありませんから」
「……ふふ。きみとジュンくんは本当によく似ているね」
そう言って、日和は眩しいものを見るように目を細めた。意表を突かれた茜はぎょっとたじろぎ、僅かに上擦った声で「そ、そんなに?」と動揺を隠せずにいる。
「前にジュンくんを呼び出した時、そっくり同じことを言われたね。悪いことではないんじゃない? ぶつかって、踏みつけて、敵も味方も分からないほど削り合うよりはよっぽど」
「……どうかなぁ? 確かに私は茨みたいに好戦的じゃないし、どちらかというと平和主義者だけど。似てるって思うから、似ている部分だけが目につくだけじゃないですか? 確証バイアスってやつですよ。貴方、私とジュンを同じくくりに入れてるでしょう?」
日和は答えなかった。にこにこと、上機嫌な笑みを浮かべて冷え切ったティーカップに口をつける。
――だって、その通りだ。気まぐれで餌をあげた野良の子犬が、別の腹を空かせた野良犬を連れてきたら誰だって同じように見てしまう。
「……まあ、別にそれはいいや。茨と似てるって言われたら癪だったけど」
「茨と似てるなんて最大級の罵りをぼくが言うわけがないね!? そんなことを言う人間は人じゃないね! 人でなしだね! 英智くんだね!」
「ツッコみづらい」
茜が真顔になったところで、頼んでいたパンケーキが運ばれてきた。ふっくらと焼き上がったパンケーキの上になめらかなチョコレートソースがふんだんにかけられ、さらには生クリームやナッツ、一番上にはジュエリーのようなカットオレンジがトッピングされている。
焼きたての芳ばしい香りとチョコレートのあまい香りが鼻腔をくすぐる――の、だろう。本来ならば。
(もったいないなぁ。こんなに美味しそうなのに、よりによって私に食べられる食材もさぞ無念だろうなぁ)
せっかくならば美味しく味わってくれる人物の元へ行きたかったろうに。味覚が狂っている身ではそれを叶えてやるのも難しい。
カトラリーで切り分け、口に運ぶ。案の定、多少改善はされているものの水で何十倍にも薄めたような味しか感じられなかった。
「お味はどう? チョコレートにオレンジピールが入っているから、香りもフルーティですっきりした甘さだよね」
そしてこちらも予想通り、日和が感想を求めてくる。自分の好物に共感してもらいたい、というよりは、他に目的があるような目をしていた。
「そう……ですね? オレンジの香りが結構強い……かも?」
「…………ふぅん。そう……」
羨むほど優雅な動作で日和がティーカップを置く。長い指先がテーブルの上で組まれた。
「……きみのことだから心配はないと思うけど。あんまりジュンくんを心配させる悪い子にはならないようにね」
「え?」
「そのパンケーキ、実は前に凪砂くんと食べたことがあるね。……その料理の中でオレンジが使われているのは上のトッピングだけ。チョコレートの中にオレンジピールなんて入っていなかったね。やっぱりきみ、味が…………」
「………………鋭いな……巴さんは…………」
たらりと冷や汗が茜の頬筋を流れる。不快感を隠しもしない表情で声のトーンを下げる。
途端に、体温がすっと引いていくのを感じた。
「……もしかして、私をここに呼び出したのもこうやって嵌めるのが目的なんですか? 弱味を握れば都合のいい駒として使えるとでも?」
「茜ちゃん」
「純粋無垢なお姫様なんて言われてますけど、結局は貴方も計算で動くタイプですもんね。他人に踊らされる人間はさぞ滑稽で見応えがあるでしょう。憐れんで、悦に浸るのはさぞ気持ちいいんでしょう」
「……茜ちゃん」
「勝手に同情しないで……!」
握った拳をテーブルに叩きつけ、カトラリーをガチャンと揺らした。茜と日和以外に客のいない店内で、店員の視線がちらりと向けらてすぐに外される。
ライトパープルの双眸は臆することなくまっすぐ茜を見つめていた。茜にはそれが何よりも憎らしかった。
そんな目で見るな。まして、可哀想だなんて。
何も間違っていなかったはずだ。最初にアイドルを志したのも、ステージから飛び降りたのも、望んでESに来たのも、何一つ間違っていない。
――私は、後悔なんかしていない!
感情が一瞬にして濁流のように流れ込む。今この瞬間、茜は確実に自分自身に溺れていた。火花を散らし空回りする車輪のように歯止めが効かず、熱は増す一方だ。
「そうじゃ、なきゃ……! だって……!」
「……そうじゃなきゃ、君を信じて使い潰された子たちが浮かばれないから?」
茜の動きがはた、と止まる。爪の痕が残るほどぎゅっと握りしめていた拳が自然と解けた。
「きみの影響でアイドルの道を諦めざるを得なかった子はたしかに存在していたね。きみを恨んでいる人は少なくない。そのきみが後悔するということは、“きみたちは無駄なことのために夢を使い果たした可哀想な人たちです!”って宣言することと一緒だからね」
だから、茜は振り返ることができない。過去を悔やむことなどもってのほか。既に犠牲は出ている。
学園を出た彼女たちは考えるだろう。誰が悪い。誰が玲明学園女子部をこんなふうにした。私たちがアイドルになれなかったのは誰のせい。
先の見えない未来が不安だった。目の前に石を投げてもいい磔があるとほっとした。磔刑に処されているのが恵まれない一般市民だと薄々勘づいていても知らないふりをした。
反省も懺悔も改心も不要だった。
ただ、磔刑がなるべく長く続いて欲しかった。
だから、最後に望みを叶えてやった。彼女たちが望む通り、己の所業を恥じもしない札付きの悪して。
「きみは、きみが思っている以上にやさしくて、生真面目で、誠実な子だね。本当は、望めば悲劇のヒロインにだってなれたのに、安上がりなヴィランを引き受けたんだね」
「………………」
そう述べた日和の表情は慈愛を孕んでいた。柔らかな絹のような棘が茜に突き刺さり、ズキズキと胸の奥が痛む。
「そんなに美談じゃないよ。これは、利害の一致。……昔から、可哀想って言われるのは大嫌いだったし」
ぽつりと茜が呟く。
「物語の主人公みたいに過大評価されるのはもうごめん。だけど皆で憐れむべき不憫な子って思われるのも、私の全部を否定されるみたいで腹が立つ。それならいっそ、徹頭徹尾悪い奴になった方が、まだマシ」
「ふうん? まあ、半分くらいはそれもあるのかな? あくまで悪役ぶりたいって言うなら、ぼくは止めないね。あまりに向いてない役目だから、おすすめはできないけど」
「ほっとけ」
そう言い捨てて茜は紅茶を喉に流し込んだ。随分と質の良い食器類を使っているようで、ここまで話し込んでいても紅茶が冷めることはなく舌に軽い火傷を残してしまった。味も香りも分からないのに痛みだけ感じるのは不服だ――と苦い顔でカップを置くと、日和はふっと笑いをこぼす。
「で、話を元に戻すとね。ここ最近、ジュンくんがず〜っとぼんやりしちゃって全く使いものにならないから、茜ちゃんにはきちんと病院にかかってほしいんだよね。きっとジュンくんにも言われているだろうから、わざわざぼくが釘を刺すほどでもないと思ったけど……釘は釘だし、いくらあったって困らないよね」
「…………え? つまり、たったそれだけ言うためだけに人をあんだけ煽ったの!?」
日和の主張は一言だった。心と体の不調はお近くの医療機関へ。
はああぁぁ、と茜は長い長い溜息を吐いた。緊張が一気に解れ、爪を食い込ませるまで握っていた手も、自暴自棄の結果負った舌の火傷も、全てが馬鹿らしくなる。
「はいはい、全部ジュンのためですね。回りくどいなぁ」
「あ、変な勘違いはしないでほしいね。最近のジュンくんは音程は狂うしダンスの移動はずれるしで見ていられなかったからね! あとは、ジュンくんが毎日買ってきてくれるアイスが五回連続でぼくの好みを外していたから、ちゃんとぼくのお口に合うアイスを買ってきてくれるよう調子を戻してほしいだけだね」
「ま、毎朝アイスを……!? ………………わ、私より仲良しじゃん……」
ふーん、と茜の顔が引き攣る。EveやEdenでの活動はもちろんのこと、二人が玲明学園の寮で同室だったことは知っている。どうやらこの一年あまりは二人が仲を深めるのに充分すぎるほどの時間だったらしい。
ぐぬ、と面白くなさそうに不貞腐れた茜を見て、日和は「そこまで心配する必要はないね」と返した。
「確かにジュンくんのおひいさんはぼくだけだけど――ジュンくんを王子様にしてあげられるのは、茜ちゃんだけだからね」
そう言って日和はステージの上で見せるような、とびきりのウインクをした。まるで、Edemの二枚看板“巴日和”ここに在りと知らしめるみたいに。
日和と共にESに戻りすっかり日も落ちた頃、茜は街灯がぽつぽつと佇む帰路についた。本来ならバスを使っていたところだが、いつもの便は同じコズプロ所属のスタッフと軽い立ち話をしている間に逃してしまっていた。
仕事上がりが遅くなると小言が飛び出すのは茜ではなく茨の方だった。深夜に出歩いてうっかり補導でもされたら面倒なことになると口を酸っぱくして言われており、 茜自身も全面的に同意であるためその点において逆らう気は一切ない。そのため、次のバスを待つよりも乗り換えは発生するが別路線のバスを使ったほうが早いと判断した。
歩道橋を上り指先で軽く前髪を弄りながら考える。
児童養護施設との関係は変わらず凍結状態にあり、茜が家出同然に飛び出してきても音沙汰はない。が、一度でも警察機関に身元を探られてしまえばすぐに施設に戻されるだろう。あれでも一応は公的に認められた福祉施設だ。世間的には茜の方が勝手に施設を抜け出した厄介者になる。
とっとと成人してしまいたい。それか、大学生と見紛うような大人びた容姿になるか。
(メイク、濃くしようかな……?)
そう思いながら歩道橋を渡り、下り階段へ足を踏み出したとき。
トン、と軽い衝撃が背中に伝った。胸から腰、腰から足へと体が前に傾く。視界がぐるんと回転し、下り階段を見ていたはずがなぜか視界には曇り空が映っていた。
揺れる視線と背筋が凍るような浮遊感の中、どうにか自身が立っていた歩道橋を捉える。
階段のまさに一番上には、見覚えのない女が両手を前に突き出したまま固まっていた。